プロンプトを捨て、システムを導入したらゲームにフルダイブしたお話 作:並木 新
頭の中でガンガンと鳴り響く、不快な鈍痛。
ひどい二日酔いで目を覚ました冒険者――たいらは、重い体を起こして小さく呻いた。
「……飲みすぎた。あのおっさん達、結局酒場に来ねぇから……頭痛ぇ」
(だが……悪くない)
全身を苛むような気だるさ。普通なら忌避すべき無駄な苦痛だが、たいらにとっては、自分が確かに「ここ」で泥臭く生きているという実感をくれる、心地よいノイズだった。
朝日が差し込む、安宿の薄暗い一室。
胸のあたりに妙な重みを感じて視線を落とすと、昨日ギルドで出会ったばかりの案内精霊・あいが、彼の脱ぎ捨てた服に丸まってスヤスヤと眠っていた。
普通なら「邪魔だ」と払いのけるか、あるいは希少な精霊様として畏れ敬うところだろう。
しかし、たいらは違った。彼はランクや種族といった見えないステータスに興味がない。ただ「目の前にいる対象」を、システム上のNPCではなく、自分と同列の一個の存在として扱うだけだ。
たいらは、ただの悪友か小動物でも扱うように、無防備に眠る彼女の小さな頭をぽんぽんと撫でた。
(……温かいな)
彼が精霊という「自然の象徴」を、何の打算もなく対等な命として受け入れた、その瞬間だった。
彼女の小さな体温を通じ、たいらの意識が、部屋の空気や木材の呼吸といった『自然の脈動』とシームレスに繋がり始めた。
「……ん?」
たいらはベッドから降り、あいがどいた後の「泥だらけで破れた服」を見下ろした。
自然と同期した彼の目には、服の破れやこびりついた泥汚れが、単なる物質ではなく『そこにあるというパラメータ』として映っていた。
それはまるで、複雑に絡み合った「いびつな知恵の輪」のようだ。どこに力を加えれば、この現象の結び目をほどけるのか、本能的に理解できる。
たいらは、空間に浮かび上がったように見える『泥の付着』と『繊維の破損』という見えない結び目を、指先でつまんだ。
――ジッ。
その瞬間。昨日、ギルドの適性水晶に触れた時と同じように、たいらの指先と服が触れたわずかな空間だけが、「四角いモザイク状」にバグったように歪んだ。
空間のポリゴンがカクカクと乱れ、世界の理そのものが、彼の干渉を処理しきれずに一瞬だけフリーズする。
たいらはそんな処理落ちを気にも留めず、知恵の輪をほどくように指先を軽く弾いた。
――パサッ。
微かな音と共に、泥は跡形もなく消え去った。
それだけではない。大猪の牙で削り取られていたはずの服の繊維が、『最初からそうであった』かのように初期データへとロールバックしたのだ。
「……お、すげぇ。綺麗になった。クリーニング代が浮いてラッキーだな」
たいらは自分の手のひらを見つめ、「精霊が近くにいるとこういう便利なこともできるのか」と一人で納得し、能天気に新品同様の服に袖を通した。
その気配で、あいが目を覚ます。
『ふぁ……あら? たいら、おはよう。……って、あれ!?』
あいは目を瞬かせ、たいらの姿を見て小さな羽を逆立てた。
『たいらの服、なんでピカピカになってるの!? 昨日あれだけ泥だらけだったのに!』
「ああ。あいと一緒に寝てたからか、なんか自然の空気?みたいなのが読めるようになってよ。泥の汚れをピッと弾いたら直ったわ。サンキューな、あい」
『えっ? 自然の空気を……? ピッと弾いた……?』
あいは不思議そうに首を傾げた。
傍から見れば、「精霊の力を借りて魔法を使った」という、ファンタジーの王道にして納得のいく展開に見えるだろう。
しかし――世界と直接リンクしている高位精霊であるあいの内心は、心臓が凍りつくような激しい動揺に襲われていた。
(……待って。おかしい。絶対におかしいわ)
あいは、無防備に服を着替えるたいらの背中を、ゴクリと息を飲んで見つめた。
(……魔力の『波』が、どこにも存在しない)
現代の魔法は、術者の魔力という代償を燃やして『一から結果を作り出す』ものだ。熱を生み、風を起こし、世界というキャンバスに新たな事象を書き足す行為。どれほど高位の魔法使いであろうと、そこには必ず「力が使われた」という激しい波紋が残る。
しかし、今の彼がやったのは違う。
彼は魔法を『使って』いない。既に『在る』事象の理を読み取り、ただ『入れ替えた』だけだ。
無詠唱、魔力消費ゼロ。あるのは圧倒的な静謐。
精霊である彼女の目から見ても、それは魔法などではなく、世界という「織物」の編み目を直接指先でつまみ、裏側から糸を引き抜いて模様を変えてしまったような、根源的な干渉だった。
あいは震える手で自身の口元を覆った。
(私と繋がったことで、彼自身の奥底に眠る『権限』を無意識に引き出している……? いや、違う。彼が『私を世界と繋ぐ端子として利用した』の?)
恐怖。しかし、彼の触れ方はとても優しく、限りなく対等だった。自然を支配しようとする傲慢さは一切なく、ただ「そこにあるもの」として受け入れる、赤子のように純粋な認知。
だからこそ、恐ろしいのだ。彼には一切の悪意がない。ただ呼吸をするのと同じように、無意識に世界のルールそのものを書き換えてしまう。
(この底抜けに明るくて、不器用な人の奥底には……世界を根底から定義し直す、途方もない深淵が眠っている)
昨日、酒場で彼が語っていた「バグの接着剤」という異常な着眼点。
彼という存在の途方もないスケールに、あいは精霊としての本能的な恐れと、そして何故か、ほんの少しの愛おしさを感じていた。
「おい、何ぼーっとしてんだ? 腹減ったから下の食堂に飯食いに行くぞ」
『あっ、ちょっと! 待ってよー!』
あいは自分の推測を口に出すことはせず、慌てて羽を羽ばたかせて彼の後を追う。
自分が世界の深淵に触れていることなど微塵も気づかず、たいらは「今日の朝飯は何だろうな」と能天気に笑いながら、木造の階段を降りていく。
その背中を追いかけながら、あいは(この規格外の人から、絶対に目を離してはいけない)と、静かに、しかし強く心に誓うのだった。
『……というわけでたいら、あなたには恐ろしい深淵が眠っているのよ』
「ふーん。で、今日の朝飯はベーコンエッグ定食でいいか?」
『いいけど! 深淵の話聞いてた!?』
「聞いてたぞ。目玉焼きは半熟で、醤油を垂らすんだろ」
『それは黄身の話!!』