プロンプトを捨て、システムを導入したらゲームにフルダイブしたお話 作:並木 新
数分後。
冒険者ギルドの裏手にある安宿の一室。たいらは、軋む木製のベッドに倒れ込むように突っ伏していた。
「……寝る。俺はもう、限界だ……」
荒い呼吸と共に、掠れた声がシーツに吸い込まれる。
広場での『参照先の強制除外』という規格外のハッキング行為は、初心者の彼の脳に、致死量一歩手前という恐るべき演算負荷を強いていた。限界を超えた脳は熱を持ち、耳鳴りは止まず、自力で瞼を開けていることすらできない。
『……大バカ。いきなりあんな無茶して……っ』
あいは泣きそうな顔を歪めながら、ベッドに沈むたいらの枕元に降り立った。
いつものやかましい小言は一切ない。彼女はただ黙って、痛みに顔をしかめるたいらの額に、自分の小さな両手をそっと当てた。
淡い緑色の光――妖精である彼女自身の生命力とも言える精霊魔法の輝きがあふれ出す。
それは春の木漏れ日のような、どこまでも優しく温かい光だった。その緑色の波紋が、たいらの頭部を柔らかく包み込み、熱暴走して焼き切れそうになっていた彼の脳の熱と痛みを、献身的に冷やしていく。
(この人は、いざって時に自分の命の計算ができないんだから……私がしっかり見てなきゃ、本当にいつか死んじゃうわ)
あいは、額に当てた手から伝わる彼の微かな脈動を感じながら、祈るように光を送り続けた。
やがて、精霊の光に包まれていたたいらの強張った表情が緩み、その呼吸が静かで規則的なものへと変わっていく。
すっかり穏やかになった彼の寝顔を見て、あいはホッと安堵の息を吐き、額に当てていた小さな手をそっと離した。
その時だった。
ふと、あいは窓の外から微かな異変――風の音とは違う、何かが遠くで弾けるような気配を感じ取った。
『……ん? 今の、なに……?』
あいは不思議そうに呟き、たいらの寝顔をもう一度だけ振り返って確認すると、開け放たれた窓から夜の闇の中へと、ふわりと飛び出していった。
一方。一人ベッドに残され、泥のような深い眠りの底へと沈んでいったたいらの脳内では。
事象の書き換えによる極限の脳疲労。肉体の限界を迎えた彼の意識は、睡眠の底へと深く潜り……やがて無自覚に、この世界の根源たるOSの深淵とアクセスを繋ぎ、同調していた。
暗闇の中。
同調した周波数の先、世界の裏側のどこか遠くから、微かなノイズを受信した。
それは、まるで混線した古いラジオのように響いてくる、遠吠えのような咆哮だった。
『――――ッ!!』
『――飼い殺されて、たまるかァァッ!!』
声の主が誰なのか、たいらには分からない。
どこで、誰が、何と戦っているのか。その情報すら一切ない。
ただ、声に乗せられた「極限の生存への執着」だけが、ノイズ越しにびりびりと伝わってくる。
理不尽な世界のルールに抗い、命を小銭のように消費しながらも、己の美学のためだけに命を燃やし尽くした、凄まじい魂の叫び。
まったく別の場所で、まったく別の生き方をした誰かの終わり。
けれど、同じように「世界に対する最適解」を求め続けた存在の命の煌めきに、たいらの脳の奥底が、波紋のように静かに共鳴した。
微かな寝息を立てながら。
たいらは目を閉じたまま、ふっと口角を上げ、静かに寝言をこぼした。
「……ん。……キミは、凄いよ」
それは、自分とは真逆の道を全力で駆け抜け、最後まで誰にも寄りかからなかった何者かへの、無意識の、しかし最大の賛辞。
「たぶん……おれの勝ち、だ……」
その言葉を最後に、たいらの意識は完全にノイズから切り離された。
――直後。
彼の脳の深層で、誰にも気づかれないまま無音の通知が灯る。
(……おかえり、冒険者)
くぐもった、正体不明の老人の声が、深淵の底で一度だけ静かに響いた。
あいが飛び去り、静寂だけが残された部屋の中。すべてを終えたたいらは何も知らないまま、穏やかな寝息を立てて、深い安らぎへと落ちていくのだった。