プロンプトを捨て、システムを導入したらゲームにフルダイブしたお話 作:並木 新
高級宿の最上階。外界の喧騒が一切届かないスイートルームで、簒奪者は出前の肉をただの燃料として胃に流し込んだ。
味わうという行為はとうの昔に切り捨てている。肉体が発する空腹という警告が解除されたことを確認すると、彼は血のついた手も洗わず、最初の踏み台となった冒険者たちから奪い取っていた一冊の分厚い魔導書をテーブルに広げた。
それは、この世界における主流の力――『現代魔法』の基礎構造が記された教本だった。
ページをめくる彼の漆黒の瞳が、無機質な文字の羅列を冷徹に読み込んでいく。
『……現代魔法とは、術者の魔力を練り上げ、一から事象を創り出す青の理である。発動には三つの工程を要する。第一に、明確な事象のイメージ。第二に、そのイメージを外界へ出力するための呪文の詠唱。第三に、魔力を暴走させず対象へ誘導するための、霊木や鉱石を用いた杖の媒介である。
これらはいずれも省略してはならない。詠唱を省けば術式は崩壊し、杖を用いず生身から直接魔力を放出すれば、術者の血管と神経は内側から焼き切れ、自壊を招くことになる――』
数分で本を読み終えた簒奪者は、ひどく冷めた目で鼻を鳴らした。
彼が導き出した現代魔法への結論。それは、この大層な学問が「人間が自身の肉体の損壊を恐れるからこそ設けられた、無駄な安全装置の塊」でしかないという事実だった。
本来、出力に対して人間の肉体が耐えきれないからこそ、詠唱という時間的コストを払い、杖という外部の道具に魔力を分散させて身を守る。
ならば、肉体が自壊する痛みを完全に許容するなら、そんな安全装置は一切必要ない。システムが設けた制限は、肉体の損傷を前提とすることで、いかようにも強制的に上書きできる。
簒奪者は己の左手を虚空にかざした。
詠唱を切り捨て、魔法陣の構築を無視し、自身の血管を直接「魔力の導火線」として強引に酷使する。肉体の保護を目的としたあらゆる処理を意図的に焼き切り、行き場を失った過剰な魔力を左腕一本に集中させた。
――バチィッ!!
肉が焼け焦げる異臭と共に、彼の手のひらの皮膚が内側から弾け飛び、鮮血が噴き出した。
だが同時に、本来ならば数秒の詠唱と杖を必要とする中級の爆炎魔法が、わずか0.1秒という異常な速度で手のひらの上に生成されていた。
皮膚が裂け、血が滴る自らの左手を見つめ、簒奪者は瞬き一つしない。
激痛はある。だが、それがどうしたというのか。左手の皮膚と引き換えに、魔法の起動速度を限界まで短縮できるなら、それは彼にとって完璧に釣り合う取引だった。
さらに彼は、魔導書の『結界と罠』の項目に目を向ける。
教本には、魔法の罠を張るためには、粉砕した魔石を混ぜ込んだ高価な魔法インクと、正確な陣を描くための数時間の集中が必要だと記されていた。魔力は体外に出た瞬間から霧散していくため、それを定着させる特別なインクが不可欠なのだ。
簒奪者は、血の滴る自分の左手を見下ろした。
人間の血には、濃密な生命力と未処理の魔力が大量に含まれている。高価な魔法インクなど買わずとも、自身の体から流れる血に直接魔力を乗せて外界に刻み込めば、それは極めて揮発性が高く、凶悪な威力を秘めた即席の魔法陣となる。
他者の命も、己の命すらも、目的を達成するための使い捨ての資源でしかない。極限の効率と最適化を求める彼の美学が、魔法の常識を完全に凌駕した瞬間だった。
簒奪者は用済みとなった魔導書を無造作に放り投げた。ベッドの足元に転がる女たちや、ドアの外で震えるゴロツキたちには一瞥もくれず、窓枠に足をかける。
そのまま音もなく夜の街へと飛び降りた。向かうのは、北区画の最深部。入り組んだ迷路のような路地裏だ。
彼は知っていた。エリアボスを異常な速度で屠り、奴隷商を物理的に破壊した自分が、すでにこの街から排除すべき異物として認識されていることを。
数と練度で勝る正規の討伐隊が動くのは時間の問題だった。開けた場所では数の暴力に押し潰される。だが、狭く入り組んだ路地裏ならば、敵の数という強みを完全に無効化できる。さらに、魔法使いたちが誇る広範囲殲滅魔法も、建造物が密集する地形では味方を巻き込むため迂闊には撃てない。
深夜の北区画。
月明かりすら届かない路地裏に身を潜めた簒奪者は、ためらうことなく自身の右腕をナイフで深く切り裂いた。
ドクドクと溢れ出す赤黒い血。彼はその血に自身の魔力を強引に練り込み、指先を使って石壁や地面に幾何学的な模様を描き始めていく。
それはただの魔法陣ではない。
彼が先ほど解体した、安全装置を完全に外した暴走火力の術式群。それを、自身の血を導線として路地裏全体に這わせる作業だった。
彼の脳内には、獲物となる討伐隊の動きが手にとるように予測できていた。
路地の入り口には、警戒心の薄い斥候の足を吹き飛ばすための小型の地雷陣。
仲間が負傷し、援護に入ろうと慌てて踏み込んでくる前衛たちの着地点には、身動きを封じる強烈な『重力』の術式。
そして、後方から支援しようとする魔導師たちの立ち位置の壁面には、一切の詠唱音を立てずに真横から放たれる『炎熱』と『爆砕』の多重の罠。
炎熱、爆砕、重力。緻密な殺意の設計図を、彼は一切の感情を交えず、淡々と街の裏側に描き込んでいく。
石畳の冷たさに体温が奪われ、指の皮が擦り切れても構わない。出血量が増え、顔色が土気色になり、視界が白く明滅し始めても、作業の手が止まることはない。
描くたびに己の生命力が目減りしていくのが分かる。血の匂いが路地裏に充満し、むせ返るような鉄の匂いが鼻腔を突く。
彼にとって自分の血も命も、この敵を処理するための巨大な罠を完成させるための、単なる潤滑油に過ぎないのだ。
十字路、死角、壁の凹凸。あらゆる地形が、彼の手によって「侵入者を確実に殺すための確殺の領域」へと変貌していく。
罠の起爆タイミングは、魔力の残滓ではなく、彼自身の血の脈動とリンクさせている。敵がどこを踏んだか、どこに立っているか。すべての情報は、路地に這わせた血の脈絡を通じて、彼の脳へと直接伝達される仕組みだ。
数時間が経過し、空が白み始めた頃。
路地裏の交差点を中心に、半径数十メートルを巻き込む巨大な血の網目が完成した。
すべての起爆権限は、中央に立つ簒奪者の足元の一点に集約されている。
簒奪者は路地の奥の石壁に背中を預け、血まみれの腕をだらりと下げた。
限界を超えた失血による急激な体温低下。息を吸うたびに肺が軋み、立っていることすら困難な状態に陥っていた。
しかし、彼の漆黒の瞳には達成感も、死への恐怖も一切浮かんでいない。ただ、極低温の計算の論理だけが、淀みなく稼働を続けている。
自身の命を極限まで前借りして構築した、この悪魔のような防衛陣地。
後は、獲物がこの場所に踏み込んでくるのを待つだけだ。
夜明けの冷たい風が路地裏を吹き抜ける。
街が目を覚まし、やがて来るであろう喧騒と排除の号砲を前に。
限界を超えた肉体で無音の静寂の中に立ち尽くしていた簒奪者は、血に染まった口元を微かに歪め、ひどく冷めた声で呟いた。
「……準備は出来た」