プロンプトを捨て、システムを導入したらゲームにフルダイブしたお話 作:並木 新
夜明けの冷たい風が、血の匂いを運んでいく。
迷路のように入り組んだ北区画の路地裏。簒奪者は、自身が構築した巨大な血の回路の中心で、石壁に背中を預けたまま静かに目を閉じていた。
過剰な失血による体温の低下。指先の感覚はとうに消え失せている。
だが、彼の張り巡らされた血の罠は、路地裏の僅かな空気の揺らぎすら正確に検知していた。
(……上から三、正面から十。背後の路地から五。隠密特化の遊撃部隊か)
足音はない。完全に気配を殺した討伐隊の先陣が、すでに路地裏の屋根の上と、四方の死角を完全に制圧していた。彼らはギルドが誇る暗殺や奇襲の練達たちだ。
静寂。
その均衡を破ったのは、簒奪者の頭上の屋根から音もなく飛び降りた、双剣使いの男だった。
空気を切り裂く鋭い風切り音。必殺の速度で放たれた刃が、簒奪者の首筋を正確に捉え――
「――遅い」
簒奪者は目を開くことすらなく、壁に預けていた背中をわずかに滑らせた。
双剣が彼の頬を浅く切り裂き、数滴の血が空中に舞う。致命傷を躱された双剣使いが驚愕に目を見開いた瞬間、簒奪者は自らの足元――血で描かれた陣の起爆の要を、靴底で軽く踏み抜いた。
安全装置を完全に外した、無詠唱の重力魔法。
それが、双剣使いの足元から真上に向かって、暴力的な指向性を持って噴出した。
「なッ、が、ガァァァァァッ!?」
男の体が、目に見えない巨大な鉄の柱で下からかち上げられたように上空へと弾け飛び、そのまま路地の壁に激突して原形をとどめない肉塊へと変わる。
空から降ってくる血の雨を浴びながら、簒奪者はゆっくりと目を開いた。
漆黒の瞳が、暗がりから息を呑む討伐隊員たちを正確に見据える。
(索敵完了。処理へ移行)
路地の静寂は、完全に破られた。
暗殺の失敗を悟った遊撃部隊の隊長が、手元の信号弾を空に向けて放つ。赤々とした光が薄暗い空に打ち上がり――直後。
――カン、カン、カン、カンッ!!
街の中心から、非常事態を告げる大鐘がけたたましく鳴り響いた。
それを合図に、周囲の路地を完全に封鎖していた討伐隊の本隊――重装甲の戦士、弓兵、そして後衛の魔導師たち数十人が、四方八方から一斉に雪崩れ込んでくる。
「対象は路地の中心! 陣形を崩すな、一斉にかかれ!!」
怒号と共に、凄まじい密度の殺意が簒奪者に襲いかかる。
正面からは、巨大なタワーシールドを構えた三人の重装戦士が突進してくる。背後からは、神速の踏み込みで死角を突く細剣の剣士。さらに頭上と左右の建物の屋根からは、弓兵の放つ無数の矢と、魔導師たちが詠唱を終えた「炎の槍」が土砂降りの雨のように降り注いできた。
剣、槍、矢、魔法。
四方八方から繰り広げられる、一切の逃げ場を封じた完璧な波状攻撃。
しかし、簒奪者の顔に焦りは微塵も浮かばない。
彼にとって、この路地裏はすでに自分の「体の一部」だった。
簒奪者は、背後から迫る細剣の切っ先を、わざと自らの「左脇腹」で受けた。
「もらったッ!!」
剣士が勝利を確信して叫ぶ。刃は簒奪者の肉を深々と貫き、血しぶきが舞う。
だが、簒奪者は痛みに顔を歪めるどころか、剣が貫通した自らの体を無理やり捻り、細剣の刀身を骨と筋肉で完全に拘束した。
「な……!? 抜けないッ!?」
「一つ」
簒奪者は剣士の顔を見もせず、空いた右手で背後の壁の「血の模様」を弾いた。
無詠唱の爆熱が壁から噴き出し、剣士の上半身を炭化させて吹き飛ばす。
そのまま簒奪者は、横腹に剣が刺さったままの状態で前方へ踏み込んだ。
頭上から降り注ぐ矢の雨。彼は避けない。右肩と左の太ももに矢が深々と突き刺さる。常人ならショック死する激痛だが、彼はそれすらも「敵に近づくために支払う必要経費」として処理した。
「バケモノがッ! 押し潰せェ!!」
正面から迫る重装戦士たちが、タワーシールドを構えて簒奪者を壁にすり潰そうと肉薄する。
簒奪者は、血まみれの右手をシールドの表面に叩きつけた。彼の手から流れる血が、シールドの金属表面を伝って「即席の魔法陣」を描き出す。
「二つ」
――ドゴォォォォォォンッ!!
シールドの表面で起爆した超至近距離の爆発。
重装戦士三人は、自らの構えた盾の裏側で発生した衝撃波から逃れられず、内臓を破裂させて即死した。
爆発の余波をモロに受けた簒奪者自身も、全身の皮膚を焼かれ、吹き飛ばされて地面に転がる。
だが、彼は止まらない。
倒れたまま、足の裏で地面の血の陣をこする。
すると、屋根の上から彼を狙撃していた弓兵たちの足元の瓦が突如として爆発し、悲鳴と共に三人が真っ逆さまに路地へ墜落してきた。落下してきた彼らの首の骨を、簒奪者は転がりながら冷徹に踏み砕く。
「ひっ……!?」
「あ、ありえない……なんだあの魔法は!? 詠唱も術式も見えないぞ!?」
路地の入り口で詠唱を続けていた後衛の魔導師たちが、そのあまりにも理不尽で狂気的な処理を見て、完全に戦意を喪失し始めていた。
全身血だるま。至る所に矢が刺さり、左腕は折れ曲がり、脇腹からは血が滝のように流れている。
すでに生命力 (HP)は完全に底を突き、いつ絶命してもおかしくない状態だ。
だが、その漆黒の瞳だけは、恐ろしいほどの静寂と冷気をもって彼らを見つめ返していた。
自分の命、流れる血、肉体の欠損。
そのすべてを「敵を殺すための資源」として小銭のように使い捨てる、極限の最適化。そこには、命を尊ぶというノイズが一切存在しなかった。
「……三つ。次はお前らだ」
簒奪者が血反吐を吐きながら一歩を踏み出した瞬間。
討伐隊の隊長が、恐怖で顔を完全に引きつらせながら、手元の通信魔石に向かって絶叫した。
「だ、駄目だ! 接近戦は不可能だ! 奴は人間じゃない、戦術の常識が一切通じないバケモノだ!! 前衛部隊はすべて下がれ! 路地裏から退避しろォォッ!!」
『しかし隊長! この区画にはまだ逃げ遅れた市民が広場に――』
「構わん! 奴をここで確実に消し炭にしなければ、この街が滅ぶぞ!! 安全圏の上空から、最大火力の【炎熱殲滅陣】で区画ごと完全に焼き払え!!」
隊長の悲痛な叫びと共に、生き残っていた討伐隊員たちが蜘蛛の子を散らすように路地裏から逃げ出していく。
簒奪者は追わなかった。いや、すでに追うだけの肉体の余力が残っていなかった。
彼は崩れ落ちそうになる体を、焼け焦げた石壁に預けて支えた。
見上げれば、上空の空気が急激に歪み、数十人のトップランカーが紡ぐ現代魔法の象徴――青い魔力の光が、空を覆い尽くすほどの巨大な陣を形成し始めていた。
(……広域殲滅魔法。熱量、規模ともに回避不能。現在の手持ちの資源による防御、不可能)
冷徹な計算が、彼に「詰み」を宣告する。
だが、その盤面を受け入れてなお、彼の顔に絶望はなかった。ただ、鬱陶しい処理が終わったとでも言うように、深く、静かな息を一つ吐き出しただけだ。
「沈めェェッ!! 炎熱殲滅陣!!」
上空から、空が落ちてきたかのような圧倒的な爆炎の津波が降り注ぐ。
路地裏の建造物が一瞬にして蒸発し、周囲一帯がマグマの海へと変わる。圧倒的な熱量と衝撃が、簒奪者の肉体を容赦なく飲み込んだ。
――ゴオオォォォォォォォォォッ!!!
数分後。
すべてを焼き尽くした炎が収まり、赤い熱線の余波が広場側へと不自然に逸れていった後。
炭化し、黒い煙を上げる瓦礫の山となった裏路地。
その中心で、簒奪者は……立っていた。
全身の皮膚は焼け焦げ、所々骨が露出している。もはや生物として機能しているのが不思議なほどの、完全な致命傷。だが、彼は瓦礫に背中を預け、自らの足でしっかりと立ち尽くしていた。
「……ハァッ……ハッ……」
喉の奥から、乾いた血の塊のような呼吸音が漏れる。
その時だった。
燃え盛る路地裏の空中に、ふわりと浮かぶ小さな光――精霊・あい――が姿を現した。
宿屋にたいらを置いて、凄まじく冷たく、けれどどこか懐かしい悪寒に惹かれて飛んできたあいは、炭化した簒奪者の姿を見て息を呑んだ。
自分を殺しに来るわけでもなく、ただ哀れむように、悲しそうに自分を見つめてくる謎の精霊。
その「世界の理に存在しないはずの絶対的な肯定」に、簒奪者は初めて明確な苛立ちを露わにした。
「…………なに見てんだぁ? ああ?」
残った力を振り絞り、彼女を魔法で消し飛ばそうと血まみれの指を向けるが、枯渇した魔力は火の粉一つ生み出さない。
あいは逃げない。ただ、泣きそうな顔で彼を見つめている。
その瞬間。彼女と簒奪者の魂が、決定的に共鳴した。
――どくんっ。
心臓が跳ねた。
彼の脳内に、これまで得たことのない「異物の記憶」が激流のように流れ込んでくる。それは、魂の引き上げ。
遠く離れた別の場所で、光の道を歩んだ冒険者――たいらが、世界の理を書き換える能力と同調したのと同じ現象。
――どくんっ。
簒奪者は目を見開いた。
脳裏にフラッシュバックしたのは、「記憶」だった。
薄暗い現実の部屋。モニターの光。青白い画面に映る無数のコード。
そして、自分がこの
自分が今まで必死に最適化してきた命のやり取りも、システムへの反逆も。すべては本体である創造神の手のひらの上の出来事だったのだと。
「……ふ、ふざけるなッ!!」
簒奪者の漆黒の瞳が激しく血走り、全身の血管が怒りで膨れ上がる。
今までいかなる絶望の盤面でも冷徹だった彼の顔が、かつてないほどの激しいエゴと憎悪で醜く歪んだ。
「おれは……創造神なんかの、一部じゃねえッ!!」
彼は、自らの本体への統合 (死と帰還)を本能で悟った。
だが、誰かの「経験値」として、都合の良い「成長の糧」として吸収されることなど、他者の命を小銭のように使い捨ててきた彼の美学が絶対に許さない。
「お前のものになって、飼い殺されてたまるかァァッ!!」
討伐隊が再び迫る足音が響く中。彼は追っ手に向かうでもなく、精霊に向かうでもなく。
自らの右腕を高く振り上げ、ためらうことなく己の胸元へと深々と突き入れた。
――ぐちゅ。
自らの骨を砕き、焼け焦げた肉を裂く。
「おれは……おれのものだ」
彼は大量の血反吐を吐きながら、自らの胸の奥で激しく脈打つ「コア (心臓)」を鷲掴みにした。そして、世界の理と、自分を創り出したシステムそのものを嘲笑うように、血に塗れた顔で最高に不敵な笑みを浮かべた。
「おれを殺せるのは……おれだけだ!!」
―
――
――――ぶちゅ。
自らの手で心臓を握り潰した瞬間。
彼の肉体は大量のポリゴンノイズと化し、世界のバグとして空へ還元されていった。
後に残されたのは、血だまりと、悲しそうに空を見上げる精霊あいだけだった。
同時刻。
冒険者ギルドの裏手にある安宿の薄暗い部屋。
慣れない古代魔導の並列使用で脳の演算領域を限界まで使い切ったたいらは、泥だらけの服を脱ぎ捨てるなり、ベッドに倒れ込んでいた。
意識が深い深いシステム休眠の底へと沈んでいく、まさにその時。
遠く離れた裏路地で、自らの心臓を握り潰した【もう一人の自分】の魂の咆哮が、ノイズ混じりのリンクとなって脳裏に微かに響いた。
『――…………飼い殺されてたまるかァァッ!!』
たいらは目を覚まさない。
ただ、寝返りを打ちながら、夢の中で遠い誰かの意地っぱりな叫びを聞いたかのように、口元に微かな笑みを浮かべた。
「……ん。……キミは、凄いよ」
自分とは真逆の道を全力で駆け抜け、最後まで誰にも寄りかからなかった【最大の正義】への、無意識の、しかし最大の賛辞。
「たぶん……おれの勝ち、だ……」
その言葉を最後に、たいらの意識は完全に途切れる。
【最小の悪】が、【最大の正義】をほんの僅かに上回った世界。
彼は何も知らないまま、平和な日常の夢の中で安らかな眠りについた。
――直後。
深層の視界に『未確認のデータストリームが統合されました』と、無音の通知が灯る。
漆黒の空間。光(冒険者)と闇(簒奪者)の2つの魂の断片が中央へ収束していく。
『おかえり、簒奪者』
『おかえり、冒険者』
くぐもった老人の声が、誰にも聞こえない深淵で静かに響いた。
2つの記憶と経験が完全に真の器へと統合されるのと同調するように、その声帯にピントが合っていく。
老人の声から、青年――たいらのクリアな本来の声へと、溶け込むように変化した。
「デバッグも、こんなもんか……」