プロンプトを捨て、システムを導入したらゲームにフルダイブしたお話 作:並木 新
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どこまでも深い、水底のような暗闇。はるか遠くの周波数からノイズを拾い上げたかのように、誰かの血みどろの絶叫が脳の深層に響いてくる。
『――――れて、――ッ!!』
その、世界を敵に回してでも己を貫く理不尽なまでの意地っぱりに。記憶のない空っぽの青年は、夢現の中で無意識のうちに微笑み、最大の賛辞をこぼした。
「……ん。……キミは、――」
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「……っ、痛ぇ……」
重い瞼を開け、体を起こそうとした瞬間、胃袋が内側から雑巾のように固く絞り上げられる感覚に襲われた。ただの空腹ではない、胃液が自らの粘膜を焼き切るようなヒリつく熱と、内臓そのものが鉛のように重く垂れ下がる生々しい激痛。
激しい鈍痛と、視界をチカチカと不規則に点滅させるような目眩。意識を取り戻した青年が最初に感じたのは、顔の半分にべっとりと張り付いた冷たくて生臭い「泥」の感触だった。泥に含まれるざらついた砂粒が皮膚をこすり、腐葉土と澱んだ水が混ざり合ったひどくリアルな腐敗臭が鼻腔を容赦なく突く。
這いつくばったまま薄く、ひび割れた唇を舐めながら目を開ける。
その瞬間だった。
――プツン。
突然、世界から『音』が消えた。
頬を撫でていた風の音も、草が擦れる微かなノイズも、自身の鼓膜を通る血流の音すらも。コンマ1秒にも満たない、絶対的な静寂。同時に、どこまでも続く青すぎる空の端が、ごくわずかに「四角く」切り取られてフリーズしたように見えた。
「……あ?」
青年が目を瞬きさせると、途端に「ザワァッ」と湿った草の匂いを運ぶ風の音が耳に流れ込んできた。
(……なんだ、今の。ただの立ちくらみか?)
極限の空腹による幻覚だろう。青年はそう結論づけ、重い首を巡らせた。
そこは、天を突くほど巨大な石造りの防壁に囲まれた街のすぐ外、「街外れの街道沿い」だった。荷馬車が何度も往復したであろう
自分が誰なのか、なぜこんな場所で
普通であれば、得体の知れない恐怖やパニックに陥る場面だろう。しかし、青年の精神は異様なほどに落ち着いていた。というよりも、形而上的な不安などという高尚な悩みは、今この肉体を支配している「暴力的なまでの生理現象」の前にあっけなく吹き飛んでいた。
ただ一つ確かなのは、強烈な空腹だけが限界を超えて腹を満たしているという、圧倒的で理不尽な現実だった。
「……腹、減ったな……」
ひどくかすれた声が漏れる。渇ききった喉がひゅっと鳴り、這いつくばって目の前にある泥をすすることすら厭わないほどの原始的な飢餓感が、手足から全ての力を急速に奪い取っていく。
青年は、自らの肉体を苛むその「不自由さ」を味わいながら、なぜか心の奥底でゾクゾクとするような微かな高揚感を覚えていた。
指先一つ動かすのにも苦労する重い肉体。満たされない胃袋。不快な泥の冷たさと、まとわりつくような湿気。それらすべてが、彼にとって「これ以上ないほどリアルで、泥臭い『生』の証明」のように感じられたからだ。まるで、長すぎる夢からようやく目覚め、重力という枷を初めて認識したかのような奇妙な充足感。
そんな極上の理不尽を地面に這いつくばって堪能していると、不意に街道の向こうから複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。カチャ、カチャと、硬い金属がすれ違う規則的な音。
「おい、大丈夫か!?」
ふらつく頭を必死に押さえていると、声の主たちが慌てた様子で駆け寄ってきた。泥だらけの視界に映ったのは、二人の人影。
一人は、巨大な鉄の盾を背負った体格の良い男。もう一人は、その後ろをオドオドとついてくるローブ姿の新米魔法使いらしき少女だった。身につけている武具の擦れ具合や、その堂々とした足取りからして、街へ帰還する途中の冒険者パーティなのだろう。
「おい、しっかりしろ! こんな街外れで倒れてるなんて、魔物にでも襲われたのか!?」
リーダーらしき男が、腰を下ろして青年の肩を力強く揺さぶった。屈強な体つきに、短く刈り込んだ茶色の髪。そして何より、その顔に張り付いている「屈託のない正義感に満ちた笑み」が印象的だった。
それはまるでおとぎ話に出てくる『正義の騎士』のような、あまりにも真っ直ぐで裏表のない顔だった。ほんの僅かな陰りすら設定されていないような、作り物じみた純白の善意。
「……あ、いや。魔物っていうか……」
青年は泥だらけの顔を上げ、焦点の定まらない目で男を見た。
「記憶が、ないみたいなんだ。自分が誰かも、なんでここにいるのかも、綺麗さっぱり」
「き、記憶がない!?」
男の後ろに隠れていた魔法使いの少女が、両手で口を覆い、小さな悲鳴を上げた。
「えっ、そ、それは大変です! ガルドさん、早く街の治療院に……っ!」
ガルドと呼ばれたリーダーの男は、青年の言葉に一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにウンウンと大げさに頷き、同情に満ちた顔を作った。
「そうか……記憶がないのか。そいつは気の毒に。道中で盗賊か何かに襲われて、身ぐるみ剥がされちまったんだな……」
男は勝手に悲劇のストーリーを構築し、力強く自分の胸を叩いた。その響きは分厚い鎧の硬い音を伴っていた。
「安心しろ! 冒険者ギルドの掟は『互助』だ。困っている人間を見捨てるような真似はしない。街まで俺たちがしっかり護衛してやる!」
ガルドは、太陽を背にして迷いのない真っ直ぐな瞳で右手を差し伸べてきた。そのあまりにも出来すぎた善意と正義感の塊のような態度に、青年は無意識のうちに薄く笑っていた。
(……綺麗すぎるな。まるで絵本に出てくる『勇者』みたいだ)
記憶はないはずなのに、青年の魂の奥底にある何かが、この男の持つ「不自然なほどの真っ直ぐさ」を冷静に観察し、分析していた。まるで彼がそういう風に振る舞うよう、あらかじめプログラミングされているかのような違和感。
だが、そんな考察よりも今は優先すべきことがあった。青年は差し伸べられたガルドの手にすがる前に、泥まみれのままぐいっと顔を近づけた。
「街まで送ってくれるのはありがたいんだけど。……あの、何か『食べるもの』持ってないか?」
「は?」
「記憶より何より、今は腹が減りすぎて限界なんだ。干し肉でもパンの切れ端でもいい。頼む、恵んでくれないか」
悲壮感など欠片もない、あまりにも堂々とした物乞い。ガルドも魔法使いの少女も、記憶喪失という重い空気を一瞬でぶち壊す青年の図太さに、ポカンと口を開けて固まってしまった。
やがて。
「……ぶっ、はははははっ!!」
ガルドが、腹を抱えて豪快に笑い出した。
「お前、最高だな! 記憶も金もないってのに、自分の心配より先に『飯を寄越せ』ときたか! いや、気に入ったぜ!」
「笑い事じゃないんだよ、こっちは本気で命懸けなんだ」
「わかったわかった! 残念ながら道中で食料は尽きちまったんだが、街に入れば俺の奢りでいくらでも美味いもんを食わせてやる!」
ガルドは笑い涙を拭いながら、今度は青年の泥だらけの腕を掴み、力強く引っ張り上げた。足元がふらついた青年を、ガルドが巨大な盾を背負った広い背中でガッチリと支える。鉄の冷たさと男の体温が混ざり合った、確かな熱量がそこにあった。
「ほら、立てるか? 俺は『鉄壁のガルド』。で、こっちでオドオドしてるのが新米魔法使いのマリィだ」
「あ、あのっ、よろしくお願いします……!」
マリィがぺこりと深く頭を下げた。青年は、泥だらけの服をパンパンと払いながら、支えてくれたガルドを見上げた。
「俺を助けたって、一銭の得にもならないぞ。……本当にいいのか?」
「馬鹿野郎、損得で動くようなやつは、俺のパーティにはいねぇよ。お前みたいに面白いやつに飯を奢るのも、冒険の醍醐味ってやつだ!」
ガルドの言葉には、一片の嘘も打算もなかった。損得勘定を飛び越えた、純度100パーセントのお節介。それは、この過酷な世界において、ともすれば「自らの命を縮める弱点」にもなり得る危うさを孕んでいた。
しかし、青年はその泥臭い温かさを、不思議と嫌いになれなかった。予定調和の親切かもしれないが、それでも差し出された手のひらは温かかったからだ。
「……そっか。じゃあ、お言葉に甘えて奢ってもらうよ」
青年がニッと笑うと、ガルドも満足げに頷いた。
「よし、決まりだ! 早速、街へ向かおうぜ!」
歩き出そうとしたガルドが、ふと立ち止まり、背後を振り返って青年に尋ねた。
「そういえば……お前、名前はなんて言うんだ? 記憶がないって言ってたが、名前くらいは……」
青年の動きが止まる。彼は視線を宙に彷徨わせ、自らの内側にあるはずの引き出しを漁ってみたが、思い出そうとすればするほど、分厚い壁に思考が弾かれてしまう。青年は小さく肩をすくめ、あけすけな笑顔を浮かべた。
「……わからないな。綺麗さっぱり忘れたみたいだ」
その言葉に、マリィが困ったように眉を下げる。しかしガルドは、一切気にした様子もなく再び豪快に笑い飛ばした。
「ははは! ま、いいさ! 名前なんて、生きてりゃそのうち思い出すだろ。思い出せなかったら……」
ガルドは青年の肩をバンッと力強く叩いた。
「じゃあ、後で一緒に考えてやろうぜ! とりあえず、腹ごしらえが先だ!」
「違いない」
腹の虫を盛大に鳴らしながら、記憶のない青年は、お人好しな冒険者たちの背中を追って、巨大な防壁の門へと歩き出した。記憶も金も名前もないまま、青年は空っぽの手を持て余しながら歩き出した。
「あの……街に着く前に、せめて顔の泥だけでも落としませんか? 衛兵さんに不審者として捕まりますよ?」
「気にすんなマリィ! 泥臭いのは冒険者の勲章だ!」
「いや、あんたはよくても俺はただの遭難者なんだが。あと普通に臭い」