プロンプトを捨て、システムを導入したらゲームにフルダイブしたお話 作:並木 新
見上げるほど巨大な防壁だった。視界を覆い尽くすほどの規格外のスケール。切り出された無骨な灰色の石材が、空の青を切り裂くように天高くそびえ立っている。
その圧倒的な質量を前にすると、人間の存在など道端の石ころのように小さく感じられた。だが、青年は同時に奇妙な違和感も覚えていた。石材の継ぎ目は不自然なほどに滑らかで、まるで『最初からそこにあった巨大な一つの塊』として完璧に切り出されているような、計算され尽くした異様さが漂っていたからだ。
土手を出発してから数十分。記憶のない青年は、ガルドとマリィという二人の冒険者と共に、街道を歩いてその巨大な門の前までたどり着いていた。
「止まれ。身分証の提示を」
門の入り口を固める屈強な門番たちが、鋭い視線と共に交差させた槍で道を塞いだ。ピタリと息の合った、感情の読めないひどく機械的な動作だった。
威圧的な門番の声に、青年はキョトンとした顔で首を傾げる。記憶もなければ、当然身分を証明するものなど何一つ持っていないからだ。そもそも「身分」や「属性」という概念すら、今の彼の空っぽのインデックスには存在していない。
しかし、すかさず青年の前に出たのは、分厚い鉄の盾を背負ったガルドだった。
「こいつは街外れで倒れていた遭難者だ。記憶も失ってて、名前すら覚えてないらしい。俺が身元を保証するから、明日にでもギルドで身分証を作らせてやってくれ」
「……ふむ。お前は『鉄壁のガルド』か。なるほど、お前がそこまで言うなら構わん。通れ」
門番はガルドの顔を見ると、警戒を解いてあっさりと槍を引いた。先ほどの冷徹な敵意が、まるで『何かのスイッチがカチリと切り替わった』かのように、嘘のように平坦な態度へと変わる。どうやらこのリーダーの男は、ただのお人好しというだけでなく、この街の警備兵からもそれなりに信頼されている冒険者らしい。
「すげぇな、顔パスかよ」
「ははっ! 伊達に毎日、泥水すすって迷宮に潜ってるわけじゃないからな。冒険者は信用が第一だ」
ガルドは自慢げに鼻をこすり、青年の背中をバンッと叩いて門の中へと促した。
重厚な鉄格子をくぐり、街の中へ足を踏み入れた、その瞬間。――空間の環境音が、コンマ数秒遅れて「唐突に」切り替わった。
グラデーションのように街の音が近づいてくるのではなく、見えない空間の膜を突き破ったかのように、突然押し寄せる音の奔流。喧騒、人々の活気、馬車の車輪が石畳を鳴らす音。そして何より――屋台から漂ってくる香ばしい「肉を焼く匂い」が、青年の鼻腔を暴力的に直撃した。
「……っ!!」
青年の胃袋が、悲鳴のような大きな音を立てる。違和感など吹き飛ばすほどの動物的な飢餓感が、再び脳髄を焼く。石畳の通りには無数の露店が並び、商人たちの威勢の良い声が飛び交っている。行き交う人々は皆、活気に満ちていた。
「ほら、約束通り俺の奢りだ。とりあえずこれで腹を満たせ」
ガルドが屋台で買った大ぶりの肉串を二本、青年の手に押し付けた。
「マジか……! ありがたくいただくわ!」
青年は泥にまみれた手も気にせず、肉串にかぶりついた。
溢れ出す熱い肉汁と、少し焦げた香辛料の匂い。繊維を引きちぎる生々しい歯ごたえ。ただの屋台の肉だというのに、極限まで空腹だった胃袋には、信じられないほどの美味として染み渡っていく。咀嚼音。嚥下する喉の動き。味覚という圧倒的な情報量が、浮遊していた青年の意識を、この世界という強固な肉体へと深く固定していく。
「うめぇ……。なんだこれ、めちゃくちゃ美味いぞ!」
「あはは、そんなに急いで食べたら喉に詰まりますよ」
目を輝かせて肉を貪る青年の横で、魔法使いのマリィがクスクスと笑いながら水筒を差し出してくれた。
「それにしてもガルドさん、本当に良かったんですか? 今日稼いだお金、ほとんど宿代とこのご飯代で飛んじゃいましたけど……」
マリィが少し申し訳なさそうにガルドを見上げる。
「気にするな! 困った時はお互い様だ。それに、こいつを見てると不思議と放っておけなくてな」
ガルドは串肉を頬張る青年を見ながら、豪快に笑った。
「今日はとりあえず、俺たちの馴染みの宿屋を手配してやる。そこで泥を落として、ゆっくり休め。明日はお前の『初仕事』も兼ねて、俺たちの狩りに付いてきな! そこで素材でも稼いだら、ギルドに行って身分証を作ってやるよ」
「……至れり尽くせりだな。本当に、何から何まで悪いな」
肉を飲み込み、青年は心底不思議そうにガルドたちを見た。
「俺は自分が何者かもわからない、ただの不審者だぞ。裏切られるとか、騙されるとか……そういう警戒心はないのか?」
「裏切られたら、その時考えるさ! 少なくとも、そんな美味そうに肉を食う奴に、根っからの悪党はいねぇよ」
ガルドの言葉には、やはり一片の淀みもなかった。その真っ直ぐすぎる善意は、記憶のない青年にとって、ひどく眩しく、そして同時に「あまりにも脆いもの」のように感じられた。
(……良い奴らだ。本当に、作り物みたいに純粋で、良い奴らだ)
青年は、空になった串を見つめながら内心で呟く。悪意というパラメータが初期設定から削られているかのような、危ういほどの純真さ。
(でも……こういう真っ直ぐすぎる人間が、いつかひどく傷つくのを見てきたような……どうしてか、そんな気がしてならないんだ)
なぜそんな考えが浮かぶのかはわからない。だが、彼の内側にある空っぽの魂は、目の前にある「脆さ」に対して、無意識のアラートを鳴らしていた。まだ起きていない悲劇に対する、システムの事前警告のような微かな痛み。
◆
その日の夜。ガルドが手配してくれた安宿の一室で、青年は一人、水桶で顔と身体の泥を洗い落としていた。ボロボロだった服も、ガルドが予備のチュニックを貸してくれたおかげで、ようやく人並みの身なりを取り戻している。
「……ふぅ」
ベッドに腰掛け、青年は部屋の小さな窓から、夜の街を見下ろした。眼下には、オレンジ色の温かいランプの光が点々と灯り、遠くの酒場からは陽気な歌声が微かに聞こえてくる。泥臭く、活気に満ちた、あまりにもリアルで美しい世界だ。青年は窓枠に肘をつき、夜空に浮かぶ巨大な月を見上げた。
「俺は、誰なんだろうな」
ポツリとこぼした言葉は、誰に届くこともなく夜風に溶けていく。
――その時だった。遠くから聞こえていた酒場の陽気な歌声が、ふっ、と途切れた。風の音も、ランプの油が爆ぜる音も、すべてが漆黒の絵の具で塗りつぶされたように消失する。青年の目が、細められた。
絶対的な無音の中。夜空に浮かぶ丸い月、その輪郭のほんの一部が、
それは、ほんの瞬きほどの時間。ジッ、と微かな耳鳴りのようなノイズと共に、完璧な夜空の風景に生じた、極小の不協和音。脳のシナプスを直接撫でられたような、静電気にも似た奇妙な感覚。
「……ん?」
青年が目を瞬きさせると、再び遠くの酒場から「ワハハ!」と笑う酔っ払いたちの声が流れ込んできた。月はすでに元の丸く美しい姿を取り戻し、静かに街を照らしている。
気のせいだろうか。記憶のない頭が、ただの疲労で幻覚を見せただけかもしれない。それでも、青年の唇の端が、無意識のうちに吊り上がる。不安や恐怖ではなく、それは純粋な「好奇心」に近い笑みだった。堅牢な壁に、針の穴ほどの
「……ここは、どんな世界なんだろうな」
温かい人々の息づかいと、視界の端にチラつく奇妙な違和感。空っぽの手を持て余した青年は、明日訪れる「初めての戦闘」の予感を胸に、静かに夜の闇へと目を閉じた。
「いやぁ、あんなに美味そうに食ってくれると、奢った甲斐があったぜ!」
「ガルドさん……宿代とあの串肉代で、私たちの今月のパーティ資金が……」
「……なぁ。聞くのが怖いんだが、明日の朝飯はどうなるんだ?」
「「…………」」