プロンプトを捨て、システムを導入したらゲームにフルダイブしたお話 作:並木 新
――翌朝
「いいか? お前は武器の振り方もわからない素人だ。危なくなったら絶対に俺の背後に隠れろよ」
森へと続く街道を歩きながら、ガルドが何度も念を押す。青年の手には、ガルドから借りた護身用の短い鉄のナイフが握られていた。しかし、どう構えてもしっくりこない。鉄の冷たい重みだけが手のひらにあるが、それをどう対象へ突き立てるのかという筋肉の連動が、彼の中には全く組み込まれていないのだ。彼自身が言った通り、戦い方など綺麗さっぱり忘れている。
「わかってるよ。俺は後ろで大人しく見学させてもらう」
青年が苦笑しながら頷くと、後ろを歩いていたマリィがギュッと杖を握りしめた。
「わ、私も頑張ります! 今日はスライムか角ウサギをたくさん狩って、昨日のご飯代を取り返さないと……!」
「ははっ、頼もしいなマリィ! よし、まずは手頃な獲物を……」
ガルドが快活に笑い、森の茂みへと足を踏み入れようとした、その直後だった。
――ズズンッ、ズズンッ!!
突如、足元の地面を揺らすような重い地響きが鳴った。ただの足音ではない、内臓を直接揺さぶるような異常な音圧。
「な、なんだ!?」
ガルドが顔を強張らせ、背中の巨大な盾に手を伸ばす。嫌な音がした。森の奥から、太い木々が次々とへし折られ、凄まじい土埃が空高く舞い上がっている。湿った腐葉土と、獣のむせ返るような血の匂いが突風に乗って押し寄せた。『それ』は、圧倒的な質量を伴って茂みを突き破り、街道へと飛び出してきた。
「ウソだろ……っ! なんで『大猪』がこんな浅い階層に!?」
ガルドが悲痛な声を上げる。血走った眼球と、巨木すら容易く貫くであろう二本の凶悪な牙。それは全身に古い傷跡を刻み、怒り狂ったように鼻息を荒くしている、暴走した巨大な猪の魔物だった。その姿は、この平穏な初心者の森の景色から完全に浮いていた。まるでそこだけ、不条理な暴力の塊が強引に縫い付けられたかのような強烈な違和感。
本来なら、初心者パーティなど一瞬で蹂躙される低層のボス級モンスター。大猪は、街道に立ち尽くす三人を見つけると、狙いを定めるように地面を強く蹴り上げた。
「ヒッ……!」
マリィが恐怖で腰を抜かし、その場にへたり込む。大猪が、一直線に青年たちに向かって猛突進を開始した。巨大な岩の塊が、時速数十キロで迫ってくるに等しい絶望的な光景。
「マリィ、素人は下がっていろ!! 俺の巨大盾で完璧に受け止めてやる!」
悲鳴を上げる少女を庇うように、ガルドは一切の躊躇なく街道のど真ん中に立ち塞がり、背中の分厚い鉄盾を構えた。逃げるという選択肢は、彼の中にはない。仲間を守るために、自分が壁になる。それはあまりにも真っ直ぐで、悲しいほどに美しい「自己犠牲」の姿だった。
(……いや、ダメだ)
その瞬間、青年の脳裏で、ふっ……と風の音が遠のいた。視界に映るすべての動きが、泥水の中を泳ぐようにひどく緩慢になる。記憶はなくても、青年の魂の奥底には「事象の構造を読み解く力」が備わっている。彼には、はっきりと見えた。大猪の体重、突進の加速度、そして地面の摩擦係数。それがガルドの構える盾の一点に激突した際に生じる、無慈悲なまでの力の『数式』が、頭の中で弾き出される。ガルドの足は重烈な衝撃に耐えきれず地面を滑り、鉄の盾ごと両腕の骨が完全に砕け散る。そして、彼がたった一人で致命傷を負う未来が、ありありと脳裏に浮かんだのだ。
誰かが一人で犠牲になる正義。自分だけが傷つけばいいという、傲慢で綺麗な世界。青年の本能は、そんな「孤独な末端」を生み出す
「どけッ!!」
時間が元の速度を取り戻すと同時に、青年は動いた。彼は、咄嗟にガルドを背後から突き飛ばして庇う……などという「同じく綺麗な自己犠牲」は選ばなかった。彼は自ら、街道の横にある前日の雨で
「ぐわッ!? お前、何すんだバカ野郎!!」
「わっ、きゃあああ!?」
強引にバランスを崩され、足場を失ったガルドと青年は、二人まとめて泥まみれの斜面を無様に転げ落ちた。直後。大猪の凶悪な牙が、先ほどまでガルドが立っていた空間の空気を切り裂き、猛烈な風圧と共に空振りして通過した。ブレードのように鋭い真空波が、青年の前髪を無慈悲に刈り取っていく。
「……ッ!!」
完璧だった防御陣形は崩壊し、男たちは泥まみれ。勢い余った大猪は斜面の下を覗き込み、泥だらけの獲物を追撃しようと苛立たしげに前足を滑らせている。青年は顔にこびりついた泥を吐き捨て、斜面の上に一人残されて震えているマリィに向かって、腹の底から必死に叫んだ。
「おい、マリィ!! 俺は戦い方がわからん! だから今すぐ、あの猪の足元の『土ごと』水魔法で撃ち抜け!!」
「えっ、あ、はいっ!?」
「危ないから手を出さない」という安全地帯にいた魔法使いは、青年の強引な指示によって強制的に役割を与えられ、パニックになりながらも震える手で杖を振り下ろした。放たれた水魔法が、大猪の足元へ直撃する。しかしそれは、巨大な魔物に直接ダメージを与えるほどの威力はなかった。
――だが、青年の狙いはそこではない。ただでさえ昨日の雨で泥濘んでいた急斜面の土手に、マリィの大量の「水魔法」が注ぎ込まれたのだ。土と水が交わり、限界を超えた地盤が一気に崩壊する。局地的な『泥の土砂崩れ』という、予期せぬ物理現象が発生した。
「ブギィィィッ!?」
突如として足場を完全に失った大猪は、無様に斜面を転げ落ちた。そのまま大量の泥の重みに下半身を飲まれ、巨体が完全に身動きを取れなくなる。圧倒的な自然の質量の前では、どんな魔物も無力だ。
「い、今だガルドッ!!」
「うおおおおッ!!」
青年の声に応え、泥だらけになったガルドが雄叫びを上げながら跳躍した。身動きの取れない大猪の脳天へ向かって、落下の手助けを借りた重い鋼の盾を力任せに振り下ろす。凄まじい鈍音が響き、大猪は白目を剥いて完全に気絶した。頭蓋骨が陥没する生々しい音が、森の中に響き渡る。
戦闘終了。朝の冷たい空気の中、ガルドも青年も、全身泥だらけでゼェゼェと荒い息を切らしている。
「お前ッ……! 記憶喪失で素人のくせに、なんて無茶苦茶な真似を! 俺のガードがあれば防げたんだぞ!!」
我に返ったガルドが激高し、青年の胸ぐらを掴み上げた。しかし、次の瞬間。大猪の凄まじい突進によって大きく抉られ、めくれ上がった街道の石畳の跡を見て、ガルドは静かに息を飲んだ。
「……ッ」
(まともに受けていたら……俺の両腕は、吹き飛んでいた)
冷や汗を流しながら、男は静かにその事実に気づく。盾の装甲の厚さなど紙屑のように突き破る、理不尽なまでの暴力の痕跡。もし青年が足を引っ掛けていなければ、自分は確実に死んでいたか、二度と盾を持てない身体になっていた。青年は、顔についた泥を拭いもせず、掴まれたままゲラゲラと笑い出した。
「いやー、死ぬかと思った! でもさ、あんたが一人で骨を折るより、全員で泥被った方がマシだろ! マリィの魔法も、タイミング完璧だったぜ!」
斜面の上から恐る恐る覗き込んでいたマリィが、自分の杖を見て信じられないというように目を丸くしている。怒っていたはずのガルドも、青年の堂々とした「他力本願」と、底抜けに屈託のない笑顔に完全に毒気を抜かれてしまった。やがて、呆れたようにガルドが吹き出し、つられるようにマリィも笑い始める。
「ははっ……違いない。お前、本当に素人かよ。戦い方は知らねぇくせに、とんでもない悪知恵が働きやがる」
「結果的に被害は泥汚れだけで済んだだろ? だから今日のお礼も、夜の飯で手を打ってやるよ!」
「ふざけんな! 今日は大金星だ、俺の奢りで一番美味い酒を飲ませてやる!」
泥臭く、しかし誰も欠けることのない結末。全員で顔を見合わせて笑い合うその温かな光景は、間違いなくこの世界で最も美しいものの一つだった。ガルドは、泥まみれの青年の肩を力強く抱き寄せ、心底楽しそうに言った。
「お前、本当に面白いな!」
犠牲を出さず、全員で泥を被る「最小の悪」。それは、記憶も名前もない青年が、この世界で初めて手に入れた「確かな熱」だった。
「それにしてもお前、戦い方を知らないくせに、マリィへの指示は堂に入ってたな!」
「私、あんな風に怒鳴られて、魔物じゃなくて地面に向かって全力で魔法撃ったの、人生で初めてです……」
「結果オーライだ! よしマリィ、次からもガンガン地面を撃っていこうぜ!」
「いや、それ魔法使いとしてどうなんですか……!?」