パチンカス一ノ瀬 翔(いちのせ しかける)は、かつてないほどに焦っていた。
本当にかつてないほど焦っていた。
ジャブジャブとサンドに吸い込まれていった諭吉の群れ。
投資はすでにビッグイニングの10万円に達している。
パチンコ屋の冷房はガンガンに効いているはずなのに、額からは嫌な汗が止まらない。
明日は、親友であるタカシの親父の葬式だった。
本来なら、社会人のマナーとして包むべき香典。
だが、一ノ瀬の財布の中身は底を突き、ついに「葬式のために用意した香典代」という、
絶対に手をつけてはならない一線すらも超えて総動員していた。
このままだとタカシに金を借りて香典代にあてるしかない。
もしくは……
時計の針は残酷にも22時30分を回っている。
閉店まであと15分。普通に考えれば、もうこの時間から10万円の負けを「捲(まく)れる」状況にはなかった。
少しでも変動を速くするため、パチンコのカスタムはとうに『シンプルモード』へ変更してある。
過剰な煽りや無駄な演出を一切カットし、ただ効率よく大当りだけを察知するための、
パチンカス最後の足掻きだった。
それでも、時間が圧倒的に足りない。
「クソッ……仕方ねえ。アレをやるか」
翔は意を決し、座っていた椅子からドサリと降りた。
通路に立ち、両足を肩幅より広く開いて大股の仁王立ちになる。
その姿はまるで、パチンコ台の神に祈りを捧げる金剛力士像のようだった。
すかさず、自分が打っていた台の「隣の台」のサンドへ、残された最後の紙幣をぶち込む。
そして一ノ瀬は自らの左右の腕を大きく広げ、左手で左の台の、右手で右の台のハンドルを同時に握り、
回し始めた。バババババババッ!両方の台から、猛烈な勢いで玉が打ち出されていく。
その執念が実を結んだのか、シンプルモードの画面に激しいフラッシュが走り、奇跡の大当りを引き当てた。
そこからは怒涛のラッシュ。
閉店間際の超高速消化で、一ノ瀬は見事に10万円の負けを引っくり返し、
空の香典袋を置いていくという最悪の未来を回避したのだった。
◇深夜
ボロアパートに帰り着いた一ノ瀬は、安堵の息を吐きながら万札の束を机に広げた。
まずは香典として包む予定の3万円を取り分け、香典袋に入れようとした、その時だった。
「……あ?」翔の指が止まる。
手にした万札の端に、ボールペンで小さく「42」と数字が手書きされているのが目に入った。
「懐かしいな……」一ノ瀬の口元が、自然と緩んだ。
タカシの親父も、筋金入りのパチンカスだった。
あの人はよく、自分の万札にこうして番号を書き込んでいたのだ。
『こうしとけばよ、換金所で自分の万札が戻ってきたときに分かるだろ。ホールからきっちり取り返してやったぜって実感が湧くだろ?』
悪戯っぽく笑う親父の顔が、鮮明に脳裏に蘇る。
そう言えば、さっきホールで炸裂させた「椅子から降りての仁王立ち2台打ち」も、
昔タカシの親父から直々に伝授された秘技だった。
『一ノ瀬、お前はハンドルの握り方がいい。筋がいいな』そう言って、
パチンコ屋の裏口で頭をガシガシと撫でて褒めてくれたっけ。
思い出が溢れ、一ノ瀬の目から一筋の涙がほろりと頬を伝い、床に落ちた。
さらに、記憶はもっと遠い昔へと巻き戻っていく。
ガキの頃、内気で泣き虫だったタカシは、よく近所の悪ガキどもにいじめられていた。
そのたびに、一ノ瀬が「俺のツレに何すんだ!」と怒鳴り込んで、タカシを助け出していた。
ある日の放課後、いつものようにタカシの家に遊びに行ったとき、
居間にいたタカシの親父が、一ノ瀬の肩をぽんと叩いた。
『一ノ瀬。いつも頼りない息子を助けてくれて、ありがとな』
強面(こわもて)の親父が、その時ばかりは本当に優しそうに目を細めて、
冷蔵庫から3連パックのプリンを出してくれた。
あの時、三人で並んで食べたプリンの味は、今でも忘れられない。
「親父さん。あの時のに俺は産まれて初めてプリンを喰ったんだ、
片親パンじゃない本物のお菓子。甘くておいしかったなぁ」
一ノ瀬は、机の引き出しから「もうひとつ」の香典袋を取り出した。
そして、手元に残った残りの大金――7万円のすべてを、その袋へと滑り込ませる。
厚みの増した香典袋の表側に、一ノ瀬は力強い筆跡で、宛名としてこう書き記した。
『仇(かたき)は取りました』
パチンコで逝った親父の無念を、パチンコで晴らす。
それこそが、パチンカスである自分なりの、最高で最期の鎮魂歌(レクイエム)。
一ノ瀬はすっきりとした顔で、明日の葬儀に向けてタカシから借りたヨレヨレのスーツにアイロンをかけはじめた。