一ノ瀬は、都会のビル群の隙間に埋もれるように佇む、錆びついたトタン壁の二階建てを見上げていた。
都会의裏通り、巨大な雑居ビルに左右から圧迫されたそのボロ屋は、時代の流れから完全に取り残されていた。
「おーい、片瀬! 来たぞー!」
チャイムなんてハイカラなものはこの家にはついていない。
一ノ瀬が引き戸を乱暴に叩くと、「おう、待だせたな」という声とともに、隣の雑居ビルの薄暗い非常階段から片瀬がのんびりと降りてきた。
「アレ、お前そこから出てくんの? 家、違うだろ」
タカシが指をさす。
片瀬はズボンのチャックを上げながら股間を擦った。
「あー、階段で小便しでだわ。マーキングだよ」
相変わらずの狂犬ぶりに引きつつ、三人は一階の土間へと入った。
足を踏み入れると、巨大な業務用冷蔵庫と、油が染み付いたカウンターが目を引く。
かつて片瀬の家が営んでいたホルモン焼き屋「ホルモン鬼豚(おにぶた)」の名残だった。
当時、ここに来る客といえば不法滞在の外国人か、その日暮らしの日雇い労働者。
逆に、この世で唯一ここに来なかったのは保健所くらいだった。
今は店を閉めて、その殺伐とした名残だけが漂っている。
一ノ瀬はカウンターの傷を見つめ、苦い思い出を回想していた。
「昔、ここに遊びに来たときさ……お前の親父が『ユージ(片瀬)の友達か、食っていけ』って、タダみたいな口調でホルモン焼いてくれたよな」
「あぁ、あっだな」と片瀬。
「あの後、しっかり一人5千円徴収されたの、俺は一生忘れねえからな。あの親父、ガチの詐欺師だったわ」
「ハハ、必要経費だど」片瀬は悪びれもせずに笑った。
「……で、あの親父さんが死んで、もう1年か」
一ノ瀬が声を落とした。
「おう。墓参り、しでぐか?」
片瀬の言葉に、タカシが首を傾げた。
「墓参り? チャリでどこか行くんですか?」
「タカシは知らないんだったか」
一ノ瀬がタバコに火をつける。
「片瀬は金が無いからさ、親父の骨を納骨せずに、家にずっと置いてあるんだよ」
「へー!」
「まあ、死亡届けは出してるがな。数少ない親戚には『親父は生きてる』ってことにしてるらしい。
なんでも実家の名義が親父の弟のモノになっていて、色々めんどくさいらしいんだわ」
「関係ねぇ叔父さんだ」片瀬はうそぶきながら、三人を急な階段から二階の居間へと促した。
畳の擦り切れた二階に上がり、三人は座椅子に座ってゲームを始めた。
ピコピコとコントローラーの音が響く中、襖が静かに開き、片瀬の年の離れた妹であるアリサちゃんがもぞもぞと部屋に入ってきた。
おかっぱ頭のアリサちゃんは、もぞもぞと体を動かしながら、三人が画面の中でゲームをしているのをじっと見つめている。
一ノ瀬が壁の時計を見上げた。
午前9時45分。ゴールドの抽選が終わった時間だ。
「おいタカシ」一ノ瀬が声を低くした。
「タカシよ、今日は激アツ日だからな……。俺と片瀬は今、見ての通り一銭も金がねぇ。だから、お前は俺たちの代わりに打ちにいっていいよ」
「えっ、マジすか!?」
タカシの目が輝く。
「いや、お断りしたいところですけど……」
そう言いつつも、パチンカスの本能には抗えず、タカシは最終的にパチ屋へと向かうことにした。
「俺の分まで勝てよ」一ノ瀬がタカシの背中を小突く。
「勝っでも負けでも、帰りに飯おごっでくれよな」片瀬も横から乗っかる。
「うっす! 万発出してきます!!」
タカシは今朝ATMから下ろしたばかりの現金2万円が詰まった財布をズボンの後ろポケットにねじ込み、最終的には物凄い勢いで部屋を飛び出していった。
――それから、わずか30分後。
ガチャリ、と力なく一階の戸が開き、タカシがゾンビのような足取りで二階へ戻ってきた。
顔は完全に土気色だ。
「……早いな。座れなかったのか?」
一ノ瀬が画面から目を離す。
「無いんです……」タカシは畳に両手をついた。
「財布の中身……2万が消えました」
「はぁ!? お前、金落としたのか?」
「いや、落としてないっす! 今朝は確実にあったんです! パチ屋のサンドの前で気づいて……」
タカシがパニックになる横で、一ノ瀬の濁りきった観察眼が、部屋の隅のアリサちゃんを捉えた。
アリサちゃんはさっきから、不自然なほど座布団の上に深く腰掛け、怪しい動きをしている。
「……アリサちゃん。今、何を隠したのかな?」
一ノ瀬の静かな声に、アリサちゃんはガタッと肩を震わせた。
「タカシ、無理やりその座布団からどかせ!」
タカシがアリサちゃんを強引に座布団からどかす。
「あっ!!!」二人の声が重なった。
座布団の下に、ピンと張り詰めた一万円札が2枚、きれいに重なって隠してあった。
「これ、タカシの2万円だよね?」
一ノ瀬がアリサちゃんを睨みつける。
アリサちゃんは顔を真っ赤にしながら、その2万円を自分の手元に引き寄せ、言い張った。
「違う! これ、アリサのお金だもん!」
「嘘つかないでよ!」タカシが半泣きで叫ぶ。
「知らない! 知らない!……う、頭痛い……」
アリサちゃんは急に両手で頭を押さえ、畳にゴロンと横に転がった。
「誤魔化すなよ。お前、俺たちがゲームに夢中になってる隙にタカシの後ろポケットから抜いただろ」
一ノ瀬が冷酷に詰め寄る。
「やめて! 頭痛いの! コレでGLAYのライブにいくの!!」
「GLAYのライブだと!?」
タカシは我慢の限界を迎えて片瀬に向き直り、絶叫した。
「おい片瀬!! どーなってんだよお前ん家は!!」
詰め寄られた片瀬は、股間をボリボリと掻きながら、気の抜けた声を漏らした。
「あー……。おいアリサ、部屋に戻っでなさい」
その言葉を聞いた瞬間、アリサちゃんはすっくと立ち上がった。
そして、悪びれる様子もなく、普通に2万円をぎゅっと握りしめたまま、トボトボと自分の部屋へと戻っていった。
頭痛はどこにいったのやら。
それを見届けた一ノ瀬は、冷めた目でコーラをすすりながら心の中で呟いた。
(……あぁ、そういや片瀬は、昔からこういうクズな奴だったな)
身内の犯行を完全に容認した片瀬は、壁の時計をチラリと見ると、上着を羽織って立ち上がった。
「んじゃ、バイトあるから出かけでくらぁ。戸締まり頼むわ」
それだけ言い残すと、片瀬は悪びれもせずに部屋を出て行ってしまった。
残された部屋。
タカシは顔を真っ赤にして「フーフー」と激しい荒い息を吐きながら、怒りで全身を震わせていた。
「な、なんなんすかあいつら……俺の2万、完全にネコババされたじゃないすか……!!」
一ノ瀬はタバコを揉み消し、タカシの肩をポンと叩いた。
「まあタカシ、落ち着け。時計の針は戻らねえがな、自らの手で進めることはできるんだよ」
「エバぁの事ですか……?」
「よく見ろ。今この部屋には、片瀬がd払い(後払い)で購入した最新のゲームソフトと、高級なPCパーツがたくさんあるわけだ。……持てるだけ持て」
「えっ、兄貴、これって……」
「等価交換(ハイエナ)だよ」
一ノ瀬とタカシは、棚や机からグラフィックボードやゲームソフトを容赦なくカバンにバサバサと詰め込み、片瀬のボロ家を後にした。
ところ変わって、都会の表通りにある大手中古リサイクルショップ。
店内には、いかにもやる気のなさそうな声が響いていた。
「……らっしゃいませー……」
カウンターの奥で、爪を噛みながら死んだ魚のような目で立っているのは、バイト中の片瀬だった。
そこへ、店の自動ドアが勢いよく開いた。
「よう片瀬!!!」「!!」片瀬が顔を上げると、そこには満面の濁りきった笑みを浮かべた一ノ瀬と、顔を真っ赤にしたタカシが立っていた。
二人はカウンターの前に立つなり、背負っていたカバンをひっくり返し、中身を豪快にぶちまけた。
バサバサバサッ!!!
カウンターの上に、見覚えがありすぎるグラフィックボードと、ついさっきまで二階の部屋にあったはずのゲームソフトの山が、不気味な音を立てて積み上がっていく。
片瀬は目を見開き、噛んでいた爪を離して絶叫しかけた。
「コ、コレ……オデのじゃねえか!! お前ら何して――」
バンッ!!!!
一ノ瀬がカウンターを壊れんばかりの勢いで激しく叩きつけた。
一ノ瀬は眉間に深い皺を刻み、地を把うような低い声で、片瀬の妹と全く同じセリフを言い放った。
「……頭痛えからはやく2万円で買い取れよ」
静まり返る中古ショップのカウンター。
自分がd払いでコツコツ集めた資産が、妹のネコババの代償として目の前で一瞬にして人質(インフラ)に変わっている。
片瀬は額に冷や汗を流しながら、片瀬一族の血筋が招いたあまりにも完璧な因果応報に、ただガタガタと震えながら買取のレジを開けるしか justice(正義)の道は残されていないのだった。