誰にでも、人生に一度は
「ビギナーズラック」というものが訪れるらしい。
俺にとってのそれは、18歳の誕生日の日だった。
小学校高学年になり、お袋がパートに働きに出てるようにり、いつの間にか家に帰ってこなくなってから、
家族は俺の誕生日を祝わなくなっていた。
だから、その日の朝に親父から
「おい、外出するぞ」とぶっきらぼうに誘われたとき、俺は状況がよく飲み込めなかった。
久々の親子の外出。
何か特別な飯でも奢ってくれるのだろうか。
そんな淡い期待は、連れて行かれた薄暗いパチンコ屋の看板を見た瞬間に消し飛んだ。
18歳になったばかりの俺は、パチンコのルールなんて1ミリも知らなかった。
親父に言われるがままに席に座らされ、お札が吸い込まれていくのを呆然と眺めていた。
「おい、そのハンドルをまわせ。で、この位置で固定しとけ」
親父の指がさす丸い物体を、おそるおそるねじる。
ただそれだけのはずだった。
しかし、そこから奇跡が始まった。
画面が激しくフラッシュし、派手な大当り音が店内に響き渡る。
何が起きているのか分からない俺を尻目に、台からは怒涛の勢いで玉が溢れ出し、足元にドル箱が次々と積み上がっていった。
終わらない連チャン。ビギナーズラックの炸裂だった。
気づけば、軽く4万発を超える大勝利を収めていた。
いつもは死んだ魚のような目をしている親父が、
その時ばかりは顔をくしゃくしゃにしてニッコリと笑っていた。
親父があんな風に笑ったのを、俺はそれまで見たことがなかった。
最終的に換金所の狭い窓口から親父が出てきたあと、
乱暴に1枚の五千円札を俺のポケットにねじ込んできた。
「ハッピーバースデー」
「す、すげぇ……ごっ、五千円……大金だ……!」
当時の俺は、自分の手で掴み取った16万円以上の価値も分からず、ただその五千円の重みに震えて感動していた。
その夜
勝ち金で買ってきたと思われる出来合いの惣菜で、静かな食事が始まった。
親父は上機嫌で酒を煽り、すぐに泥酔していった。
食後、俺は18歳になった自覚からか、少しでも役に立とうと自発的に片付けを始めた。
空いた食器を台所に運び、今度は食卓に残った佃煮(つくだに)のパックを手に取った。
それを冷蔵庫に入れようと、慎重に持ち上げたその時だった。
ドンッ!!!
ぐちゃ!!!
「がはっ……!?」
横から、酔っ払った親父の重い拳がいきなり俺の顔面に叩きつけられた。
激しい衝撃とともに視界が歪み、俺の身体は壁へ叩きつけられた。
手から離れたパックから、ドス黒い佃煮が床一面にベチャベチャと散乱する。
痛みにうずくまる俺を見下ろし、親父は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「ほら言わんこっちゃない! そんな持ち方すればこぼすだろうが!!」
理不尽でしかなかった。俺は何もこぼしていなかった。
注意される前に親父が殴ったから、佃煮は散らばったのだ(こぼれた)。
自分が殴っておいて、その結果を俺のせいにしている。卵が先か、ニワトリが先か…
あまりにも身勝手で、あまりにも救いようのない暴力だった。
床に散らばった佃煮の黒い塊が憎しみの感情のように畳に染み込んでいった。
……………。
あの黒い感情がダムの底に沈み込んだ日、あれから更に10年。
30手前になった今なら、あの日のすべての状況が、痛いほどよく分かる。
親父は俺の誕生日を祝うためにパチ屋へ連れて行ったんじゃない。
18歳になってパチ屋に入れるようになった俺の
「ビギナーズラック」という名の童貞を、自分のギャンブルの弾にするために都合よく利用し使い捨てただけだったのだ。
そしてあの佃煮の暴力は、大勝ちして気が大きくなった親父が、自分の無能さと歪んだ支配欲を俺にぶつけただけの、ただの排泄行為だった。
今なら、あの日のことをこう表現できる。
俺のビギナーズラックは――簡単にレイプされて、処女を散らした中学生みたいに、冷たいダムの底へと投げ捨てられたのだ。
あの五千円の喜びも、親父が見せた一瞬の笑顔も、すべてはあの理不尽な拳一つで、ドロドロの佃煮と一緒にゴミ箱へと葬り去られた。
「……クソ親父め」
今日も俺はパチ屋で丸い物体を握っている。
俺が今こうしてパチンカスとして底辺を這いずり回っているのは、あの日に魂を、運を、人としての尊厳、すべてを親父に強奪されたからに他ならない。
奪われたものは、パチンコで取り返す。
ダムの底に沈んだあの日の俺の処女を、俺はいつか、この右腕だけで引きずり上げてやる。