最高裁での大立ち回りの末、2ヶ月の懲役となった一ノ瀬とタカシ。
そんな二人が連行されたのは、灰色にそびえ立つ冷徹な刑務所だった。
しかし、彼らにはまだ強運が残っていた。案内された房は、奇跡的にも二人だけの相部屋だったのだ。
重々しい鉄格子が閉まった瞬間、一ノ瀬は安堵の息を漏らした。
「よし、第一関門クリアだ。大部屋なんかに入れられた日には、プライベートもクソもありゃしねぇからな」
「ケツの穴RTA回避っすね」
ひとまず最悪の事態を免れた二人だったが、翌日から始まった「刑務」は、彼らの精神をゴリゴリと削るに十分なものだった。
二人に与えられた日中の作業は、信じられないほど不条理なものだ。
広大なグラウンドの隅で、ただひたすらに地面に深い穴を掘り、それをそのまま土で埋め戻し、そしてまた同じ場所を掘り返す――。
何の意味も、生産性もない不毛な作業。それを延々とやらされ、定時刻になったらただ配給される食事を口にする。
そんな地獄のようなルーティンが続いた。作業三日目。
じりじりと照りつける太陽の下、スコップを地面に突き立てながら、タカシは額の汗をぐっと拭った。
そして、少し離れた場所から自分たちを冷酷に見下ろしている刑務官をチラリと盗み見ながら、一ノ瀬に声を潜めて話しかける。「兄貴……いつもみたいに、あいつを論破できないんすか? いつもなら目的(食事)と手段(穴掘り)を取り違えてるとか難癖つけて、上手いこと言いくるめて飯だけにありつけるじゃないっすか……!」
最高裁判長すら泣かせた一ノ瀬の口頭弁論なら、この不条理な刑務作業など一発でひっくり返せるはずだ。
タカシはそう期待を込めて兄貴分の顔を見たが、一ノ瀬の表情はいつになく真剣だった。
一ノ瀬は正面の地面を見つめたまま、低く呟いた。
「タカシよ……お前、あの刑務官の顔に見覚えはねぇのか?」
「え?」タカシは言われるがまま、もう一度その刑務官の顔をチラリと観察した。
ガタイが良く、無表情で、どことなく野獣のような威圧感を放っている男。その顔を記憶の奥底と照らし合わせた瞬間、タカシの脳裏に電撃が走った。
「あっ……!! 中学の時にいた、不良の広瀬ちあき先輩だ……!」
「そうだ」一ノ瀬は小さく頷き、忌々しい記憶を吐き出すように言葉を続けた。
「あの人はヤバい。昔、俺が呼び出された事があってよ。何て言われたと思う? 『流行りについていきたいから、ハリーポッターを音読しろ』って言われて、ひたすら読まされたんだ」
「……???」タカシの頭の上に、大量の疑問符が浮かぶ。呼び出してハリーポッターの音読をさせるとは、どんな奇妙な嫌がらせなのだろうか。
困惑するタカシの様子を察して、一ノ瀬はさらに声を潜め、恐ろしい真実を告げた。
「あの人、字が読めねぇんだよ。……もちろん、ひらがなすらもな。なぁタカシ、そんな『大きすぎる幼稚園児』が、今までどうやってこの狂った社会を生き抜いてきたと思う?」
一ノ瀬の言葉の意図を理解した瞬間、タカシの全身に鳥肌が立った。ゴクリと、乾いた生唾を飲み込む。
「暴力だよ。本物の、純粋な暴力だ。理論だの、知識だの、そんなものは一切通じねぇ。あーゆう人間はなぁ、脳みそじゃなく『感情』でコミュニケーションをとってくる。分類上はあの片瀬と同じタイプだが、系統が『強化系』に全振りされてるんだよ……!」
あの無敵の論客・一ノ瀬すらも警戒する、絶対的な理不尽の象徴。
「まあ、ファーストコンタクトはいつかとらないとな……」
と一ノ瀬が今後の対策を考え始めた、その時だった。別の場所で同じ作業をしていた新人受刑者が、ついに不条理な穴掘りに痺れを切らし、スコップを投げ捨てて広瀬先輩に詰め寄ったのだ。
「いい加減にしろ! これは明確な虐待だ! 囚人にも人権が――!」
まくしたてる新人受刑者の主張を、広瀬先輩は表情一つ変えずに聞いていた。そして、「確かに」と静かに頷く。
納得したのか、と新人受刑者が安堵の表情を浮かべた次の瞬間だった。
ドゴォッ!!!
凄まじい破壊音と共に、広瀬先輩の硬質な拳が新人受刑者の顔面に炸裂した。受刑者の身体は面白いように吹き飛び、地面を転がって白目を剥く。
広瀬先輩は拳についた血を払いながら、倒れた男を冷酷に見下ろした。
「この支給された警棒で殴ったら、法的に『懲罰対象』になる。だがな……手で殴る分には、ただのコミュニケーションの範疇だ。よかったな、懲罰房行きにならなくて」
その狂った理屈を耳にした一ノ瀬は、思わず舌打ちを漏らす。
「ちっ、あのバカ、変に知識(法律の抜け道)も身につけやがったか……」
厄介極まりない進化を遂げたかつての先輩。しかし、一ノ瀬の目に宿る闘志は消えていなかった。一ノ瀬は不敵な笑みを浮かべると、おもむろに立ち上がり、その凶悪な刑務官に向かって真っ直ぐに歩み寄り、話しかけたのだった――。
※読者が抱くであろう「なぜ暴力の化身のような男が、刑務官という正義の側に立っているのか」という疑問。
その答えは、他でもない一ノ瀬の中学時代の、ある気まぐれな行動に隠されていた。
当時、定期的に呼び出されてはハリー・ポッターを音読させられていた一ノ瀬。ある日、彼はタカシから借りていたライトノベルの続きがどうしても読みたくなり、先輩に内緒で本をすり替え、ラノベを音読し始めたのだ。
いつもなら退屈そうにうたた寝しながら聞いていた広瀬先輩だったが、その日は違った。一ノ瀬の口から紡がれる熱い台詞に、先輩の目がかっと見開かれる。気づけば先輩は背筋を伸ばして正座し、食い入るように一ノ瀬の話に聞き入っていた。
喜びを隠しきれない見えない尻尾が、背後で左右にブンブンと激しく揺れている。
「『こっから先は一時停止だぁ』……『その妄想をぶち壊す』!」
一ノ瀬がキャラクターになりきって決め台詞を放った瞬間、広瀬先輩の目は、初めて目にする玩具に触れた幼稚園児のようにキラキラと輝いていた。
目覚めてしまったのだ――正義(オタク)に。
もしあのままハリー・ポッターを音読し続けていたら、彼のアライメントは完全に「悪」に傾き、裏社会の住人(ヤクザ)になっていたかもしれない。これこそが、彼の人生の最大の分岐点だった。
そんな過去を回想しながら、一ノ瀬は不敵な笑みを浮かべ、おもむろに刑務官に近づいて声をかけた。
「よぉ、ちあきさん」
ピクリと反応し、振り返った刑務官の目が一ノ瀬を捉える。
「ん? お前……一ノ瀬か?」
一ノ瀬は肩をすくめると大妖怪(遠隔)を倒して英雄になったはずの自分が、なぜこんな理不尽な経緯で刑務所に収監される羽目になったのかを、かいつまんで話して聞かせた。
んで最後に決め技をかましてやったんすよ!!
「灰は灰に 塵は塵に 吸血殺しのクレナイ十字!」
手で十字を切る仕草をする一ノ瀬。
話を聞き終えた広瀬先輩は、豪快にハハハと笑い、一ノ瀬の肩をバンバンと叩いた。
「よくやったな、一ノ瀬! よし、お前らはもう穴掘り作業なんかしなくていいぞ!」
オタクとしての魂を震わせた先輩は、一瞬にして「刑務官」から「中学時代の頼れる先輩」の顔へと切り替わった。そして、それまでの威圧的な態度が嘘のように、真摯な表情で一ノ瀬に向かって頭を下げた。
「……それから、お礼を言わせてくれ。お前のおかげで文字に興味が出てな。今じゃ『ひらがな』を使いこなせるようになったんだわ」
一ノ瀬の音読は無駄ではなかったようだ。