先日の感動的な和解(刑務作業からの解放)が、今度は別の深刻な問題を引き起こしていた。
それは、あまりにも容赦のない、純粋なる「パチンコ禁断症状」だった。
(打ちたい……!)
(あの爆音を、脳を揺らす重低音を今すぐ聴きたい……!)
(液晶から放たれる、失明せんばかりの虹色の光を全身に浴びたい……!)
出所まで、あと五十六日。冷たいコンクリートの房の中で、一ノ瀬は頭を抱えて狂ったように身悶えしていた。
「滅びちまう……。56日も待ってたら、人類が滅びちまうぞ……!!」
「いや、さすがに大袈裟ですよ、兄貴」
隣で壁に背中を預けているタカシが、呆れたように苦笑する。
「人類が滅びるなんて、そんなわけないじゃないっすか。ただパチンコが打てないってだけでしょう」
「あのな、タカシ」
一ノ瀬はギラギラとした、濁りきった目でタカシを睨みつけた。
「このままパチンコが打てないと、俺達の精神は確実に死ぬ。そして俺達の意識が完全に断絶したその瞬間、俺達は他の人間はおろか、世界そのものを知覚できなくなる。……自分が知覚できない世界など、存在しないも同義。つまりそれは、人類が滅びたのと完全に同義なんだよ!!」
「超理論がすぎる!!」
タカシの真っ当なツッコミなど、今の一ノ瀬の耳には届かない。どうにかして一刻も早くここから仮釈放されないか、脳細胞はフル回転を始めていた。
「こうなったら、プランA発動だ」
一ノ瀬のその一言で、二人は刑務所の片隅にある、薄暗い図書室へと向かった。
自由時間ということもあり、室内には生真面目な顔を腫らした囚人たちが数人、静かに本をめくっている。
独特の紙の匂いと静寂が満ちるその空間で、一ノ瀬の目的は本ではなかった。カウンターに座る、どこか陰のある司書係の男。
よく見ると、男の顔は誰かに思い切り殴られたかのように真っ赤に腫れ上がっていた。
一ノ瀬はその前に影を落とすように立った。
「……あんたが、頼めば何でも仕入れてくれるっていう『じょにー』で間違いないか?」
ジョニーと呼ばれた男は、腫れた顔を歪めながらゆっくりと視線を上げ、一ノ瀬たちを値踏みするように見つめた。
そして、掠れた声でささやく。
「ああ、そうだ。新入り。……何が欲しい? 外の甘いチョコレートか? それとも、冷たいアイスか?」
「手紙を出したい。ペンと紙をくれ」
一ノ瀬が直球で要求すると、ジョニーはニヤリと不敵に笑った。
「支払いはタバコ3本からだ」
「あいにく手持ちは無いんだ」
一ノ瀬は肩をすくめ、ジョニーの真っ赤に腫れた顔を見つめて不敵に笑い返した。
「代わりに……『広瀬から殴られない方法』でどうだ?」
その言葉が出た瞬間、ジョニーの目が文字通り飛び出さんばかりに見開かれた。顔の腫れの犯人は間違いなくその「広瀬」なのだろう。ジョニーはカウンターをバンと叩いて身を乗り出した。
「おー、Welcome(大歓迎)だ! 早くそれを教えろ!」
取引は成立した。無事に紙とペンを手に入れた一ノ瀬の後ろから、タカシが不思議そうに覗き込んでくる。
「兄貴、一体どこに手紙を出すんスカ?」
「親父の親父……爺ちゃん宛だよ。ちっと血筋がいい生まれでな。やりたくねーが、今回はあのクソジジイのチカラを借りる」
「はへー!」タカシは目を丸くして感心した。
「兄貴、もしかして大富豪とか豪族の出だったんすか?」
「いや、蛮族だよ」
一ノ瀬はサラサラとペンを走らせながら、冷たい声で吐き捨てた。
「タカシ、お前は『瀬』の一族って知らねーか? 一ノ瀬、片瀬、広瀬。……名前に『瀬』がつく気狂いには絶対に近付くなって、昔は地元じゃ有名だったんだよ。あの狂った広瀬ですら、その一族の末端にすぎねぇ」
一ノ瀬の口から語られる、身の毛もよだつような血筋の秘密。タカシがガタガタと震えながら一ノ瀬の横顔を見つめる中、手紙はジョニーのルートを通じて秘密裏に外部の「爺ちゃん」の元へと発信された。
――そして数日後。
期待を胸に待っていた一ノ瀬の元に、爺ちゃんからの返信が届いた。破り取られたような紙切れに目を通したタカシが、ガッカリしたように声を落とす。
「……『自己責任』。ええっ!? これ一言だけっすか? 全然使えないじゃないですか、この手紙!」
「クソ爺め……」
一ノ瀬はチッと舌打ちをした。しかし、その目はすぐに妖しい光を取り戻す。
「まぁ、いい。この手紙だけでも、使い道はある」
「え?」
戸惑うタカシを従え、一ノ瀬は堂々たる足取りで、厳重にロックされた最高権力の部屋――所長室へと向かった。
ドン!!!「お邪魔するぞ」
ノックもそこそこに一ノ瀬がドアを蹴り開けると、豪華な革張りの椅子に座っていた刑務所長が飛び上がった。
「な、なんだね君たちは! 許可なく所長室に――」
「あんた宛に手紙を持ってきた」
一ノ瀬は机の上に、爺ちゃんから届いたあの紙切れを叩きつけた。
所長は不審そうに眉をひそめ、その紙を手に取る。
「ん? 差出人は……一ノ瀬……? ッ!? ――なっ、瀬の一族か!!」
所長の顔から一瞬にして血の気が引いた。ガタガタと震える手で手紙を凝視する。
「し、しかし……手紙には一言『自己責任』とだけ……。こ、これは一体どーゆうことだ!?」
パニックに陥る所長を、一ノ瀬は哀れみの目で見下ろした。
「あんた、裏で一体何をやらかしたんだ? まぁ、それはいい。俺達は真面目に刑期を務めて、出所まであと残り50日なんだわ。あんたの『自己責任』で、俺達に今すぐ仮釈放をくれないか?」
「はっ? 何を言ってるんだ! そんな勝手な理由で出せるわけ――」
拒絶しようとした所長の言葉は、最後まで続かなかった。
一ノ瀬は静かに歩み寄ると、ジョニーと同じように、なぜか顔をパンパンに腫らしている所長の耳元にそっと顔を寄せ、悪魔のように囁いたのだ。
「……『広瀬に殴られない方法』」
ビクっ!!!
所長の身体が、まるで電流が流れたかのように跳ね上がった。その目は恐怖に血走り、涙目で一ノ瀬の手をがっしりと握りしめる。
「ぜ、是非教えてくれ!! なんでもする、なんでもするからそれだけは教えてくれ!!!」
いつも広瀬にどれほどの地獄を見せられているのか、所長にはもう法の番人としてのプライドなど微塵も残っていなかった。
収監されてから、わずか十日目。
一ノ瀬とタカシの二人の「仮釈放」が電撃的に認められた。重厚な刑務所の正面入口が、ゆっくりと左右に開いていく。
一ノ瀬とタカシの二人は、燦々と降り注ぐシャバの太陽を全身に浴びながら、堂々と胸を張ってそこから歩み出ていった。
「よっしゃあ! 自由だ!」
「兄貴、腹減りました!ラーメン喰いに行きましょう!」
60日の刑期をわずか10日に縮め、全てを己の屁理屈と一族の悪名で解決した二人の蛮族。パチンコへの飽くなき執念が、またしても国家権力を完全論破した瞬間であった。
ちなみに余談だがタカシの名字は山瀬である。