あなたはそこにいますか?
「痛え……。痛え……!」
鏡の前で、一ノ瀬は口を極限まで大きく開けて中を覗き込んでいた。
ピンポイントでズキズキと脳を揺らすこの激痛。
懐中電灯で照らされた奥歯の奥には、素人目に見てもはっきりと分かる、禍々しい暗黒の「穴」が空いていた。
「こりゃあ虫歯だな……。完全に歯に穴が空いてやがる。しゃあねぇ、医者だ」
大妖怪を退治し、最高裁判長を泣かせ、刑務所長を脅迫して十日でシャバに戻ってきた無敵の蛮族・一ノ瀬も、歯の痛みという生物根源の理不尽には勝てなかった。
頑丈な足取りで、近くの歯科医院へと駆け込む。
「……ご予約は?」
受付の女性が、マニュアル通りの完璧な笑顔で尋ねてきた。
「歯が痛えんだよ」
一ノ瀬は頬を押さえ、鋭い眼光で訴える。
「……ご予約は?」
「歯が痛えんだよ」
「……ご予約は?」
「歯が痛えんだよ」
「……ご予約は?」
「歯が痛えっつってんだろ!!」
「……急患ですね。少々お待ちください」
別に一ノ瀬が狂っているわけでも、受付が壊れているわけでもない。令和の日本全国、どこの歯科医院でも日常的に見られる、ごく一般的な「受付との対話」の光景である。
しばらくして、診察室の椅子に座らされた一ノ瀬の元へ、初老の医師がやってきた。
ミラーを口に突っ込み、一ノ瀬の奥歯を覗き込んで一言。
「あらら」医師は眉をひそめ、すぐに憐れむような目になった。「これはひどいね。かなり痛そうだから、いっそ神経を抜いちゃいましょうか。その前に、まずはレントゲンね」
別室のレントゲン室へと案内される。
「じゃあ、そのままの姿勢で動かずに待っててくださいね」
機械がガガガと一ノ瀬の頭部をスキャンしていく。
最新のCT撮影だ。しかし、撮影が終わってからもしばらくその場に放置された。
一ノ瀬は固定された姿勢のまま、心の中で毒づく。
(遅えなぁ……。何をもたもたしてやがるんだ)
その頃、隣のモニタールームでは、撮影された立体画像を見た歯科助手の手が、恐怖でガタガタと震えていた。
「せ、先生……! この患者の、CT写真を見てください……!」
「ん? なんだね。ただの虫歯の穴だろ? どこか根管の形が変形でもして――」
「上です。もっと上を見てください!」
助手が真っ青な顔で指差した画面。
そこには、一ノ瀬の頭蓋骨のレントゲン写真が映し出されていた。だが、その中身が異常だった。
巨大な頭蓋骨の空洞の真ん中に、まるでピーナッツか梅干しのように小さな「脳みそ」が、ポツンと寂しそうに浮いていたのである。
「……ッ!? こ、この患者の年齢はいくつだ!?」
「しょう、小学生ではありません……! 立派な、大人の成人男性です……!」
医師は額に冷や汗をにじませ、画像を極限まで拡大した。
「信じられん……。この脳の小ささ。それでいて、快楽を司る『前頭葉』の部分だけが、腫瘍のように異常に肥大化している……なぜ言葉が話せるんだ!!」
「ど、どうしますか先生。予定通り神経を抜きますか?」
助手の問いに、医師は静かに首を振った。
その目には、医療従事者としての、あるいは一人の人間としての深い慈愛が満ちていた。
「いや……神経を抜くのは中止だ。虫歯の穴だけをふさぐ」
「えっ? でも、それじゃ痛みが残りますよ?」
「いいんだ。彼からこれ以上の神経を奪ってはいけない。人間としての『痛み』を感じられる器官は、これからの彼の人生のために、あえて残しておいてあげた方が患者の為だ。それが、彼が人間らしく生きるための最後のブレーキになる……」
…………
「はい、治療終わりましたよー。今回は神経を残して、穴だけ綺麗に塞いしておきましたからね」
歯科助手にそう見送られ、会計を済ませて外に出た一ノ瀬は、ズキズキとする頬を片手で押さえて悪態をついた。
「ちっ……。あのヤブ医者め、治療した癖にまだこれっぽっちも痛みが引いてやがらねぇ……」
だが、一ノ瀬にはこの激痛を紛らわすための、唯一無二の特効薬があった。
這うような足取りで、そのままいつものパチンコ屋へと向かう。
ホールに入ると、すでに出勤していたタカシが駆け寄ってきた。
「あ、兄貴! 治療おわったんすか!」
「……あぁ」
一ノ瀬は生返事をしながら、パチパチと爆音が鳴り響くホール内を見渡した。
いつもなら、この空間は一ノ瀬にとって最高の娯楽場であり、同時に周りを見下すための場所だった。
台のデータを凝視しながら、「今日も養分どもが群れてやがるぜ」
「うわ、あいつ1000ゲームもハマってやんの、ザマァ見やがれ!」
などと、他人の不幸を娯楽のスパイスにしていたはずだった。
しかし、今日は違った。
ズキズキと、脈打つように痛む頬を必死に押さえつけながら、液晶の光を浴びた客たちの顔をじっと見つめる。
ライトミドル機の前で、涙目でサンドに現金を投入しているシングルマザーがいた。
あの必死な形相――きっと、子供のランドセル代をすべてこの台に突っ込んでしまい、後戻りができなくなっているのだろう。その背中には、言葉にできない悲壮感が漂っていた。
さらにスロットコーナーへ目を向けると、天井まであと100ゲームという極限の状況で、何度も何度も腕時計を忙しなく確認しているサラリーマンがいた。
絶対に遅れてはいけない大事な約束の時間があるのだ。だがここで止めたら今までの投資が全て無駄になる。しかし、仮に当たったとしても、これまでの負け分を取り戻すには圧倒的に時間が足りない。
焦燥と絶望の狭間で、気が気でない状態でレバーを叩いている。いつもなら鼻で笑い飛ばしていたはずの、負け犬たちの光景。
だが、今の奥歯に強烈な激痛を抱える一ノ瀬の目には、彼らの姿が全く違って映った。
みんな、痛がっている。自分と同じように、目に見えない、しかし確実に心を抉る強烈な痛みに耐えながら、この光の島を彷徨っているのだ。
一ノ瀬は頬を押さえたまま、ぽつりと呟いた。
「……みんな、苦しくて辛いんだな」
その言葉には、いつものような嘲笑も、屁理屈も一切含まれていなかった。ただ純粋に、他者の痛みに共感した、優しく、どこか切ない響きがあった。
隣にいたタカシは、一ノ瀬のその横顔を見て、なんだか胸が熱くなるのを感じた。
(あれ……? 兄貴、なんだかいつもより目が濁ってないのか……)
人間の痛みを残された猿が、パチンコ屋の片隅で、ほんの少しだけ本物の「人間」に近づいた瞬間だった。