完全に調子に乗っているデブがいた。片瀬である。
ドンキホーテで仕入れた禁断のチカラ(和彫りのタトゥーシール)を手に入れてからというもの、彼の性格はガラリと変わってしまっていた。
黙っていればガチムチのストリートモンスターに見えるその外見に、ニセモノのハクが付いたことで、脳内の全能感が限界突破してしまったのだ。
「オデはよう、となり街店出禁になったから旗艦店にいぐど」
剥き出しにした極太の二の腕のシールをピクピクと躍らせながら、片瀬は一ノ瀬とタカシの後ろを大股でついてきていた。
いつもより異常なほど饒舌に喋りまくり、道行くあらゆるものに太い指で指しながら、昨晩スマートフォンで仕入れてきたばかりの浅薄なネット知識を大声で披露しだす。
「あそこのマルファードは残クレだど! 身の丈に合ってないど!」
「あの新築の家は4000万円っぽっちで、しがないリーマンが35年ローンで苦労して購入したみたいだげど、10年後に中古で売り出したら二束三文で値段がつかないゴミ物件だどー!」
周囲にヘイトをこれでもかとわめき散らし、自分の言葉の刃が社会を切り裂いていると完全に勘違いしている。
しまいには、前方から歩いてきたお腹の大きな若い妊婦を見つけるや否や、片瀬はその顔に指を突きつけて下品な言葉を連呼し始めた。
「かーっ! ゴム買う金すらなかっだのかよぉ! セックス! セックス!働かないで 社会に貢献でぎでねえ。まったく親としての責任感を持てど!!」
街中で響き渡る最悪の暴言。一ノ瀬とタカシは、そんな完全にブレーキの壊れた片瀬を数メートル後ろから遠巻きに見つめながら、静かに「責任の取り方」について議論を交わしていた。
「……タカシ。あのバケモノを産み出したのは、他でもない俺たちだ。俺たちの手できっちりケリをつけねぇとな」
一ノ瀬が静かに拳を握りしめると、タカシは心底嫌悪感をむき出しにした表情で呟いた。
「そうっすね、兄貴……。過去に戻れるなら、当時の産婆さんに頼み込んで、片瀬が産まれた瞬間に首をキュッてやってもらいたいっすよ」
「――よし、しゃあない。愛のムチだ」
一ノ瀬の合図と同時に、タカシの硬質な拳が片瀬の突き出た腹へと容赦なく叩き込まれた。
「ぶふぉっ!?」
カエルの潰れたような声をあげてうずくまる片瀬を、タカシが上からがっしりと押さえつける。
「な、何するだタカシ! 離せだ!」
「暴れるな片瀬! 観念しろ!」
身動きが取れなくなったデブの前に、一ノ瀬が冷徹な足取りで近づいていく。そして、極太の二の腕にがっしりと刻まれた「禁断のチカラ」に容赦なく爪を立てた。
一ノ瀬は問答無用で、借り物のチカラの返却を迫る。
カリカリ、ピリピリ……。乾燥した空気の中、片瀬の腕からどす黒いインクの膜が容赦なく剥ぎ取られていく。メッキが音を立てて剥がされていく。
「や、やめでくれぇええ!」
片瀬は子供のように身をよじり、涙と鼻水を撒き散らしながら絶叫した。
「これしかオデにはないんだ! これがなくなったらオデはただのデブに戻っちまうだ! 奪わないでぐれぇええ!!」
「うるせぇ! 自分のツラの皮と一緒に剥がれちまえバカヤロー!」
一ノ瀬の無慈悲な爪が、最後の和彫りシールをペリリと剥ぎ取った。
すべてのメッキが剥がされたあとに残ったのは、威圧感もクソもなくなり、心なしかいつもより一回り小さく見えた、ただのデブだった。
片瀬はその場に両膝をつき、極太の腕で顔を覆って大号泣を始めた。
ネット仕込みの全能感は完全に消え失せ、口から飛び出してきたのは、身をむしり取るような純度百パーセントの「嫉妬」と「羨望」の塊だった。
「オ、オデ……本当は免許持ってないから車に乗れないど……あんなカッコいい車に、本当は乗りたいどぉおお!」
しゃくり上げながら、社会の光に置いていかれた悲しい弱者男性の独白が続く。
「ピカピカの家に住んでみたいど! 雨漏りもしない快適な生活がしたいど……! でも、定職についでないオデなんか、ローンなんて絶対に審査通らないど……!! 妊婦さんだって、本当はめちゃくちゃかわいいど! オデは……オデは生まれてから一度も、エッチな事なんかしたことないどぉおお!! みんな、みんなオデが持ってないものばっかり持ってるど……! ずるいど! ずるいどぉおお!!」
和彫りシールの剥がれた跡が赤くなった腕を震わせ、地面に涙をこぼし続ける片瀬。
一ノ瀬はそんな片瀬の前にしゃがみ込むと、その肩をポンポンと、珍しく優しく叩いた。
「……おい。泣く前に、先ずはゴメンナサイだろ」
一ノ瀬とタカシは、泣きじゃくる片瀬の首根っこを掴んで引きずり、さっきの妊婦の後を追った。
そして三人で頭を下げて「すいませんでした」と謝罪する。妊婦は当然、恐ろしく怪訝な顔をして、逃げるように走り去っていった。
遠ざかる背中を見送りながら、一ノ瀬はぽつりと呟いた。
「謝ったとしても許されねぇか。……まあヒトとして最低限のマナーはクリアだ」
一ノ瀬は立ち上がり、呆然としている片瀬を見下ろして静かに諭すように言葉を紡いだ。
「いいか片瀬。俺達はパチンコ、スロットに出逢って、シャブ(脳汁)の味を覚えてやめられなくなったそのときから……もう、あっち側の『人間』には戻れねーんだよ」
重く、どこか達観したような一ノ瀬の言葉に、タカシも静かに聞き入る。
「俺はよぅ……昔、姉貴の財布から密かに金を抜いて、そのまま震える足でホールに打ちに行った時に覚悟を決めたよ」
「あぁ……」タカシが遠い目をして頷く。
「エバぁーのサトミさんも言ってたなぁ。
『辞めなさい!、人に戻れなくなる!』って」
一ノ瀬はポケットからタバコを抜き取り、火をつけた。
「流行りの曲も知らねぇ。今トレンドの服装が何かなんて興味もねぇ。必死こいて稼いだ金は、全てパチに突っ込む。私生活のクオリティなんてのは、二の次、三の次だ」
一ノ瀬は紫煙を細く吐き出し、パチンコ屋『ゴールド旗艦店』のネオンを見つめた。
「人じゃない俺達は何なんだ? 世間から見れば、ただの『気狂い』か、あいつら人間とは違うルールで生きてる猿だ。だからよ、満足に道具を使いこなせない猿が持てるもんが少ないのは当たり前なんだよ。車も、家も、可愛い嫁さんもな」
一ノ瀬のあまりにも辛辣で、しかしあまりにも純粋な真理(超理論)が、片瀬の涙をピタリと止めた。
「もう今世はな、ハナから詰んでんだよ。まともな幸せなんてのは来世にでも期待しとけ。俺達にできるのは、今はただ、ヒト(猿)として、目の前の台と語り合うだけだ」
「……しかけるぅうう!!」
片瀬は袖で涙と鼻水を豪快に拭うと、人間であることを完全に諦めた、清々しいまでのパチンカスの顔で力強く立ち上がった。
こうして追い詰められた人ではないナニかが爆音の鳴り響くゴールドの自動ドアへと、堂々たる足取りで吸い込まれていくのだった。