ザクッ! ザクッ!冷え切ったスーパーの厨房に、サンマの頭が切り落とされる鈍い音が響く。
「……ふぅ、ちょっど休むど」
鮮魚担当バイトをしている片瀬は包丁を置き、血のついたゴム手袋を外して大きくため息をついた。
「はぁ、あど百匹も頭を切らなきゃいけないど……」
辟易しながらズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、画面に目を落とす。
待ち受け画面に映し出されていたのは、ピカピカの赤いランドセルを背負い、校門の前で満面の笑みを浮かべてピースサインをしている小さな女の子の姿だった。
片瀬の目が、優しく細められる。
「よし。娘のためだど、あと百匹くらいサクッど片付けてやるど!」
片瀬は再び包丁を握り、重い腰を力強く叩いた。
……ところ変わって、うらぶれた居酒屋の片隅。
「おい! 営業成績万年最下位だったお前が、今月初めてトップを取ったんだ! 今日はめでたい、もっと飲め!」
同僚の声に背中を押され、うだつが上がらないはずだったサラリーマンの男は、ジョッキに並々と注がれたビールを一気に飲み干した。
プハァと息を吐き出す男に、同僚が純粋な疑問を投げかける。
「それにしてもさ、お前どうして急にそんながむしゃらに頑張れるようになったんだ? 何が変わったんだよ」
男は照れくさそうに鼻をこすりながら、スーツの胸ポケットからスマートフォンを取り出した。
列の液晶画面を同僚の目の前に差し出してみせる。
「……この娘のためならさ、俺はなんだってできるんだよ」
画面の中では、ピカピカのランドセルを背負った女の子が、まぶしい笑顔でピースサインをしていた。
「へえ、可愛いじゃん!」
「だろ? ああ、もう目に入れても痛くない、俺の自慢の娘だよ」
そう言って微笑む男の左手薬指には、結婚指輪の跡すらなかった。
しかし男は、まるですべてを手に入れた父親のような顔で、同僚たちに誇らしげにスマホの画面を見せびらかし続けた。
――パチンコ屋『ゴールド旗艦店』のカウンター横。
そこには、景品カウンターのきらびやかな照明に照らされた、一枚の大きな写真パネルが飾られていた。
満面の笑みを浮かべた小学生の女の子が、ピカピカのランドセルを背負ってピースをしている、あの写真だ。
そしてパネルの横には、小さな文字で、216名の人名が記載されているリストがあった。
そしてリスト横にはこう付け加えられていた。
【ゴールド会員カード・みらい育成サービス利用社様一覧】『総勢216名の方のお力により、この度無事にランドセルが購入できました。心より御礼申し上げます』
これこそが、新店長に就任した木村が考案し、強行した新サービスだった。
世間一般で言うところの「妻も子供もいない、うだつの上がらない弱者男性」に向けた、前代未聞の会員限定システム。
仕組みは至ってシンプルだった。特殊景品に交換する際、どうしても余ってしまう「端玉(余り玉)」を、そのまま店で働く未亡人のオペレーター社員の子供の養育費として寄付できるというものだ。
サービスを告知した当初は、「パチンコ屋が何をやっているんだ」「独身男性をバカにしているのか」とネットを中心にプチ炎上した。
だが、いざ蓋を開けてみると、サービスは木村の予想を遥かに超えてホール内で大好評となったのである。
会社で上司に詰められ、社会の荒波に揉まれて自己肯定感を失っていたサラリーマンたちには、これが劇薬のように刺さった。
みんなのスマートフォンの待ち受け画面は、今や全員が同じ「娘の〇〇ちゃん」の写真だった。
「俺がこの娘を育てているんだ」
それは、社会の底辺で「誰からも必要とされていない」と感じていた独身男性たちが、その人生で初めて知る、強烈で優しい「父親」という名の快感だった。
しかも、たまに景品交換カウンターへ行くと、あの未亡人オペレーターの女性が、「いつもありがとね♪」と微笑みながら、一瞬だけ優しく手をギュッと握って特殊景品を渡してくれるのだ。(……あるかもしれない。これ、ワンチャンあるかもしれない……!)
どこまでも都合の良い勘違いなのだ。久しぶりのずんだもんなのだ。
こうして弱弱男子たちは、底無しの沼へとおとなしく墜ちていくのだった。
そんな大盛況のサービスに、さらなる衝撃の「次のイベント」が飛び込んできた。
【特別告知:みんなでいこう! 〇〇ちゃんの授業参観イベント開催決定!】
あの〇〇ちゃんが小学校で成長した姿を、この生身の目で拝めるまたとない超巨大ビッグイベント。
カウンター前に設置されたその告知パネルを、ホールの壁際から遠巻きに見つめている二人の男がいた。一ノ瀬とタカシである。
いつものように他人の不幸を鼻で笑う一ノ瀬も、今回ばかりは馬鹿にすることなく、ただ静かにカウンターの熱気を見守っていた。
「……俺達には、あのサービスを利用する権利はねぇからな」
一ノ瀬の呟きに、タカシは自分の両方の手のひらをじっと見つめ、小さく肩をすくめた。
「そうっすね、兄貴。……僕たちの手は、色々と血塗られているっすもんね」
彼らは今、刑務所長を「仮釈放中」の身の上の犯罪者だった。
ゴールド会員規約の第14条「反社会的勢力、および前科・前歴・仮釈放中の者のサービス利用禁止」という鉄の条項にガッツリと抵触しているため、いくら端玉が余ろうとも、〇〇ちゃんの父親になることだけは絶対に許されないのである。
「しゃあねぇ、『カワバンガー』でも聴いて、心を癒すとするか……」
一ノ瀬は頬を少し緩めると、寂しそうなタカシを連れて、再び爆音が鳴り響くスロットの島へと歩き出すのだった。