珈琲カフェ
「お洒落でいかした、いんすたばえるする店にするぞ……!」
脱サラした加藤は、両拳を強く握りしめ、心の中で熱く誓った。
長年勤めた会社を辞め、退職金を全てつぎ込んだ。
泣きながら「お願いだから止めて!」と縋り付いてくる妻をベッドの上でアンアン一晩中説得し、ようやく貸ビルの一階に念願の珈琲カフェ店をオープンさせたのだ。
しかし、オープンして一週間。客足は完全に途絶えていた。
今日、家を出る時に妻が静かに荷物をまとめていた光景が脳裏をよぎる。やばい、本当にやばい。
加藤はカウンターの中で頭を抱えた。
「なぜだ……? 調査会社の話だと、ここは人口密集地って報告だったはずなのに……!」
その頃、カウンターの端では、オープニングスタッフとして雇われたバイトのタカシが、退屈そうにアクビをしていた。
「暇だなぁ……」
カランコロン、とドアのベルが鳴った。
一週間ぶりの客である。
「ようタカシ! 遊びに来たぞ」
入ってきたのは、ポケットに手を突っ込んだ一ノ瀬だった。
加藤の目が爛々と輝く。
(よし! バイト君の知り合いか。この客を絶対に繋ぎとめて、第一号の常連客にするんだ……!)
加藤はメニュー表をひったくるように持つと、一ノ瀬の前へと滑り込んだ。
「お客様! こちらがメニューです! 本日のオススメは、本場ブラジルから直輸入で仕入れた、最高級のカッカッオゥの豆を使ったこの『甘い珈琲(カーフィー)』がおすすめです!!」
一ノ瀬は加藤の熱圧に眉をひそめながら、渡されたお洒落なメニュー表を上から下まで一瞥した。そして、一言。
「……100円で飲めるコーヒーをくれ」
加藤の顔がプライドで引きつった。
「うちにそんな安物の珈琲(カーフィー)はありません!」
それを聞いた一ノ瀬は、心底ウザそうに鼻で笑った。
「ったく……クセーな。その、いかにもこだわってますって感じの『珈琲』って言い回しをやめろ」
「なっ……! 人の店を馬鹿にするのか!?」
激昂する加藤に、一ノ瀬は禁煙の看板を見てタバコをポケットに収めながら言い放った。
「お前、どうせ脱サラかなんかで、大したビジョンもなくこの店始めたろ?」
加藤の身体がビクッと大きく跳ね上がった。心臓を直接掴まれたような衝撃だった。
「底が浅すぎるんだよ。もう少し身の丈にあったことをしろ。調査会社の数字だけ見て安心したんだろうけどな、ここいらは近くのゴールド旗艦店に流れる『パチンコ客』しか通らねえんだよ。誰がお洒落なラテアート求めてここ歩くんだよ」
一ノ瀬の冷酷な正論が、加藤の薄いプライドを粉々に打ち砕いた。張り詰めていた糸が切れたように、加藤はその場に膝をつき、激しく泣き崩れた。
「もう……もう後がないんだ……! 妻も出ていっちまう……!」
あまりの切なさに慌てたサーヴァントのタカシが、慌てて一ノ瀬の袖を引っ張るとりなしに入る。
「あ、兄貴! ちょっと言い過ぎっすよ! マスターマジで人生かかってるんすから!」
泣きじゃくる中年男を見下ろし、一ノ瀬はハァと深い不精なため息をついた。
「……なら、アドバイスしてやる。まず紙巻きタバコを吸えるようにしろ。分煙なんてなしだぞ。全席バカスカ吸えるようにだ」
「え、全面喫煙……ですか?」
加藤が涙目で顔を上げる。
「そうだ。でもって営業時間をパチ屋に合わせろ。朝ならパチ屋開店一時間前に店を開けるんだ。朝イチ並びの奴らをここで囲うんだよ。そんでな、客から『端玉(はだま)レシート』を支払いの代わりに受け入れろ。ゴールド旗艦店の特殊景品は最低500円からだ。端玉は景品交換所じゃ現金にできないからお菓子とかに替えるしかねえが、あのホールはクソみたいな景品しか置いてねぇ」
一ノ瀬の言葉に、タカシがハッとして首を傾げた。
「でも兄貴、余った端玉って、あの『無敵の未亡人援助サービスに使われるんじゃ……」
「そいつは、昨日最終回を迎えた」
一ノ瀬が真顔で言い切る。
「……え?」
「あの未亡人、ゴールド旗艦店の新人主任と再婚しやがった! もう俺たちパチ客がワンチャン狙って端玉を貢ぐ理由はねーんだよ!」
「あらあら、こりゃまたひでぇ結末だ」
タカシが呆れたようにため息をつく。
話についていけない加藤が、混乱しながらも必死に問いかけた。
「あの、ワンチャンとか訳が分かりませんが……その端玉レシートを支払いの代わりに受け取ったとして、私はどうやってそれを現金化すればいいんですか……?」
一ノ瀬はニヤリと笑い、店の外を親指で指した。
「最近、近隣住民からパチ屋へのクレームが凄いらしいんだわ。駐車場入り口の解錠前の、朝イチの並びの集団がウルサイってな。だから、ゴールドの店長の木村に話をつけて、朝イチの客をこのコーヒー店にぶち込んで隔離する」
一ノ瀬は確信に満ちた目で加藤を見つめた。
「今から木村んとこに行って、『朝の客の隔離』を手札に、レシートの現金化とセットで交渉すりゃいいんだよ。あいつも住民対応に頭を抱えてるからな。必ず乗ってくる」
どん底だった加藤の目に、希望の光が宿り始めた。目の前の男が、まるで神様か、あるいは裏社会の凄腕コンサルタントのように見えた。
「……どうにかなるかもしれない。分かりました、『珈琲(豆)』もやめて、今日から『コーヒー(インスタント)』にします!」
一ノ瀬は満足そうに頷き、背中を向けた。
「そうだ! あとは、あんた次第だ!」
「ありがとうございます! 今から手土産を買って木村様のところに行ってきます!」
加藤は力強く立ち上がると、涙を拭って店の裏へと走り出した。カランコロンとベルが鳴り、一ノ瀬はさっそうと店を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、タカシは「これはまた、とんでもないマスターに引き当てられたものだ……」と呟き、さっそく灰皿の準備を始めるのだった。