「そういえばあのクソ店の前を通るな…」
一ノ瀬は、地を幾重にも這うような低い声でそう呟いた。
事の始まりは、久しぶりにいつもの「ゴールド旗艦店」ではなく、隣町店へ遠征しようという話になったことだった。
いつもの三人――一ノ瀬、タカシ、片瀬は、隣町店に向かって歩いていた。道中、のんきに現在の状況を語り合う。
「オデ、そろそろ出禁も解除だど!」
片瀬が嬉しそうに鼻息を荒くすれば、タカシがサングラスの位置を直しながら頷く。
「まあ、さすがにもう大丈夫でしょ。あっちの店はどんな遠隔を注入してくるのかな♪」
そんな二人の会話を、一ノ瀬は仏頂面でスマホの時計を見つめながら遮った。
「……あと5分か。お前ら、口の中にツバを溜めておけ。」
「えっ?」
「りょーかいだど!」
わけも分からず、しかし兄貴分の命令には絶対服従の二人は、口を閉じて必死に唾液を溜め始めた。タカシの頬がリスのように丸く膨らむ。
それから歩くこと5分。目的地へ向かう途中、やたらと敷地だけは広い大手チェーンのドラッグストアの前にさしかかった。
その瞬間、一ノ瀬の鋭い号令が飛ぶ。
「いまだ!ファイエル!!」
「「ぺっ、びちゃ!!」」
三人の口から放たれた大量のツバが、ドラッグストアの広大なアスファルトの駐車場へと一斉に吐き捨てられた。
「ったく! タダ乗りのクソどもがよぉ!」
一ノ瀬はタバコを指に挟んだまま、親の仇でも見るかのような冷徹な眼差しで、ガラス張りのドラッグストアの店舗を睨みつけた。
タカシがおそるおそる尋ねる。
「兄貴……ドラッグストアに親でも殺されたんすか?」
一ノ瀬はドラッグストアを激しく憎んでいた。タカシの問いに答えるように、彼はフツフツと煮え繰り返る過去の怒りを語り出した。
「前にな、夜中にのたうち回るほどの激しい虫歯に襲われた時だ。痛み止めを買いにこの店へ駆け込んだら、店員がこうほざきやがった。『申し訳ありません、本日はもう薬剤師が不在ですので、そのお薬は販売できません』ってな」
ぺっ!ビチャッ!
追撃をかます一ノ瀬。
そして更に一ノ瀬の怒りは加速していく。
「ふざけるな!何のための夜間営業、何のための看板だ!我慢して次の日に買いに行っても、またしても『ただいま薬剤師が不在でして……』とぬかして、薬を売りやがらねぇ!」
もひとつおまけだ!
ぺっ!ビチャッ!
スイッチが完全に入った一ノ瀬の怒りは更に燃え上がる。
「そんで店員はいっちょまえに白衣なんか着て、いかにも薬剤師っぽく振る舞ってやがるが、結局ただのバイトじゃねーか! 胸の名札をよく見りゃ『タイミー』だぞ!!」
一ノ瀬の顔は般若のごとく歪んでいく。
「しかも店内を見渡してみろよ。並んでるのは利益率のいい、単価の高い化粧品やサプリメントばっかだ。そのくせスーパーの真似事をして、奥の棚に米や調味料を並べてやがる。生鮮食品? 奴らは生ものは一切扱わねえ。廃棄ロスを恐れてるんだよ、コノヤロー!」
到達した。ついに怒りの頂点100%だ。
「スーパーの真似事で米とか置いてるが、どれも賞味期限とはほど遠いアイテムばっかだ!何より一番気に入らねえのは立地だっ!スーパーが泥臭くリサーチを重ねて、客足が来ると見込んで出店した土地があるだろ? そのすぐ隣に、何も考えずに便乗して出店しやがるんだ。そんでスーパーの客の上澄みだけを掠め取っていきやがる!なんなんだ奴らはよぉ!!俺に殺されて死にてえのか!!!」
まだ先があったようだ120%!!
「やつらの頭にあるのはカネ!カネ!カネ! !一生懸命頑張って、生鮮の管理に追われながら地域と共に生きてこうと薄い利益をコツコツ積み重ねているスーパーを、少しは見習いやがれ!!」
ハァハァ、全てのヘイトを吐き出した。
一ノ瀬の怒涛の熱弁を聞いたタカシは、深く感銘を受けたようにウンウンと首を縦に振った。
「そりゃあ滅びたほうがいいですね。」
「そうだど!」と片瀬も拳を握る。
三人がそんな話をしながら、遠巻きに店の出入り口付近を見ていると、そこに異様な光景が広がっていた。
数人のベトナム人の集団が、ガッチリと肩を組み合い、円陣を作っているのだ。
その中心にいる、リーダー格とおぼしきベトナム人が、ガタガタと全身を震わせながら声を絞り出した。
『万引き! 不起訴! 怖くない!』
すると、彼を取り囲む周りのメンバーたちも、同じように震えながら一斉に復唱する。
『万引き! 不起訴! 怖くない!』
これから自分たちが行うのは、弁解の余地なきれっきとした犯罪だ。彼らは震える手を強く強く握りしめ、喉の奥から声を振り絞って自分自身を鼓舞していた。
自動ドアの向こうに見える高級サプリメントの棚を見つめる彼らの中の一人、リーダー格のベトナム人と、ふいに一ノ瀬の目がバチリと合った。
一ノ瀬は黙って、その震える男の目を見つめる。
(怖いのかグエン?)
男の瞳の奥が、歓喜の炎で激しく燃え上がった。視線が雄弁に語り返す。
(違う! 嬉しくて震えてるんだ! 命じてくれ! 今すぐ!)
ドラッグストアへの憎悪に燃える一ノ瀬の胸中で、暗い引き金が完全に引かれた。
一ノ瀬はもう言葉すら発しなかった。タバコに火をつけ、紫煙を吐き出しながら、最後に視線だけで深く許可をだす。
(俺が許す……殺せ(盗め的な意味で)!)
一ノ瀬のその強烈な眼光が脳裏に刺さった瞬間、すべてを察したベトナム人の集団は、震えを狂気的な歓喜へと変えて一斉に自動ドアへと突入していった。
店内から響き渡る怒号、そして悲鳴。
一ノ瀬は完全に背中で無視した。そしておもむろに踵を返し、何事もなかったかのように歩き出す。
「さて、行くぞ!」
「おうよ!」「出すどーー!」
混沌に包まれるドラッグストアを置き去りにし、一ノ瀬たちは軍資金を握りしめ、ギラギラとした欲望が渦巻く隣町店を目指して再び歩き出すのだった。