「その手は、なにのためにある?」
ドコ! バコ!静まり返ったシマに、鈍く重い打撃音が響き渡る。男は1000回転を超えてなお当たりを拒み続けるパチンコ台の液晶を、憎悪に満ちた目で睨みつけ、狂ったように拳を叩きつけていた。
その様子を、数メートル離れた通路から遠巻きに見つめている男がいた。ゴールド旗艦店の新米主任である。
(使えない……)
新米主任は、ポケットに隠された遠隔スイッチ――
通称「万発券」の発動ボタンに指をかけていた。
今日の分の使用回数は、あと一回残っている。しかし、彼の指は激しく震え、押すのを自制心でかろうじて抑え込んでいた。
台を殴り続けているあの男は、何を隠そう、新米主任の同級生だった。大人になり、いつしか疎遠になってしまったが、昔は毎日泥だらけになって一緒に遊んでいた仲だった。
友達といっていい存在の男のために、この禁断のボタンを使ってもいいのか。それはホールを管理する人間として、ただの私的な情による不正行為になるんじゃないのか。
ホールと客の双方が最大のメリットを活かせる瞬間こそが「万発券」の使い所であり、今の状況は決してそれではない。
ドカ! バキ!狂乱する同級生の姿を見ながら、新米主任の脳裏に、数ヶ月前にインスタグラムで流れてきた彼のストーリーが不意によぎった。
そこには、生まれたばかりの小さな赤ん坊を、両方の手のひらで壊れ物を扱うように優しく、本当に優しく抱き上げ、満面の笑みを浮かべている彼の姿があった。
幸せそのものの光景だった。それが、今はどうだ。
かつての端正なイケメンの顔はクシャクシャに醜く歪み、まるで鬼のような形相でパチンコ台を呪い、殴りまくっている。
あのとき、我が子をいとおしそうに包み込んでいた温かい手のひらは、いまや硬く握りしめられ冷たい凶器となって、パチンコ台を殴り続けている。
バキ! ドカ!
(チクチクする……僕の心が痛い……)
かつての友の変わり果てた姿に、新米主任の胸が激しく締め付けられる。
その時、背後から音もなく現れた店長の木村が、後輩の肩をポンと叩いた。
「……主任の通過儀礼だ」
木村はタバコをくわえたまま視線を落とした。
「だが、今日だけは見なかったことにしてやるから、押しな……」
それだけ言い残し、木村は何も言わずにその場を去っていった。
「っ……!」
新米主任はガタガタと手を震わせながら、もう一度ボタンに指を添えた。
その時、台を殴るのを一瞬止めた同級生の男が、液晶の反射越しに、こちらをチラチラと盗み見てくるのが分かった。
(……気がついてやがる)
あいつは、僕が役職者で、この店の『引き金』を握っているかもしれないと知っていて、無言で、哀れみを乞うように僕を見ている。
その瞬間、新米主任の心の中で何かがはじけ飛んだ。友を救いたいという情と、プロとしてのプライド、そして何より「万発券」をあてにされたという歪んだ関係性の現実に耐えきれなくなったのだ。
新米主任はその場に膝をつき、顔を覆ってボロボロと泣き崩れた。結局、彼は最後までボタンを押すことができなかった。
モニタールーム、監視カメラ越しに泣き崩れる部下の姿を見ていた木村は、紫煙をふーっと天井へ吐き出しながら、低く呟いた。
「合格だ……ついに至ったか」
木村はデスクの引き出しの奥から、店長用の『予備の万発券』を取り出すと、手で静かに押し込んだ。
キュイン!
ホールの奥から派手な確定音が鳴り響き、同級生の男の台がようやく大当りを引き当てた。台はそのまま猛烈な勢いで万発もの出玉を吐き出していく。
泣き止んだ主任は、通路の陰からそれを見つめながら、複雑な気持ちの混じった安堵の息を漏らした。
(よかった……なんとか自力で当ててくれて、あんなにたくさん出してくれたのか……)
自分の友が自力で壁を乗り越えたのだと、主任は本気で信じていた。
………数時間後、閉店後の換金所の路地裏。
街灯の届かない薄暗い闇の中で、一人の男と木村が静かに密会していた。
「奴は到達した……覚醒したよ」
木村はそう言って、すっと「謝礼」と書かれている茶封筒を差し出した。
同級生の男はそれを素早く受け取ると、すっと懐にしまい込んで不敵に微笑んだ。
「よかったー。友達の為なら、協力は惜しまないですよ」
二人は最初からグルだったのだ。新米主任を「本物の領域」へと引き上げるための、冷徹な仕掛け人たち。
「にしても、すげぇ演技力だったぜ」
木村が面白そうに目を細める。
その言葉に、男の心臓がドキリと跳ね上がった。
(ははは……危ねぇ、バレるとこだった。実は三枚目の一万円札を投入したあたりから、本気でブチ切れちまったからなぁ……)
男は引きつりそうな笑みを必死に誤魔化しながら、木村に一礼した。
「んじゃ、俺はこれで帰りますね。最近、寝付きの悪い赤ん坊をあやさないといけないんで」
そう言って翻した同級生の男の手のひらからは、昼間に台を本気で殴ったことによる傷口から、ポタポタと赤い血がしたたり落ちていた。
だが、その脳内はすでに別のギラついた欲望で満たされていた。
(よし……これで小遣いはできた。今夜は妻に内緒で、ラブホにデリヘルを呼ぶぞ!!)
木村はその血の跡を見つめながら、冷ややかに独り言ちた。
「その手で、誰を抱くのやら……。さて、店に戻るか」
木村が静まり返ったゴールド旗艦店の事務室に戻ると、そこにはまだ自分の無力さに意気消沈している後輩が座り込んでいた。
木村は無言で近づき、机の上にひとつのネームプレートをコト、と手渡した。
後輩主任が涙の跡が残る顔を上げ、怪訝そうに呟く。
「これは……?」
「主任最終試験、合格だ」
手渡されたのは、今までつけていた『新米主任』の文字が消え、ただ一言『主任』とだけ刻まれたピカピカの真新しいプレートだった。
それを見た瞬間、後輩主任の顔から意気消沈の色が瞬時に消え去った。彼は勢いよく立ち上がると、古いプレートを外して新しいものを胸にカチリと装着し、力強く手を握りしめガッツポーズを決めて宣言した。
「俺、これからもがんばります!!」
メラメラと、彼の背後から圧倒的なやる気の『オーラ』が燃え上がる。
それを見た木村は、フッと目を細め、かつて同じように熱意に燃えていた昔の自分と後輩の姿を重ね合わせていた。
(裏試験の存在すらまだ教えてねえってのに……すでにここまでのオーラを会得してやがるか……)
木村はタバコを携帯灰皿に揉み消すと、満足そうに部下の肩を叩いた。
「よし、閉店作業が終わったら飯喰いに行くぞ」
「はい!!」
覚醒した『主任』の元気な返声が、夜の静かな事務所に響き渡った。
裏の泥濘(ぬかるみ)を知らぬまま、真っ直ぐに光り輝く後輩の背中を、木村はどこか眩しそうに見つめるのだった。