壁のデータランプの数字は【19】を表示していた。
一ノ瀬 翔(いちのせ しかける)の手のひらは、ぐっしょりと汗で濡れていた。
ハンドルを握る指先が、微かに震える。
19連チャン。自己最高記録と並ぶ大記録だ。
だが、翔はまだその先にある「20連チャンの壁」を越えたことが一度もなかった。
パチンカスにとって、20連という数字は「ただの通過点」ではない。
選ばれた強運の持ち主だけが入ることを許される、神の領域の証明だった。
「次だ……次を当てれば、俺の歴史が変わる……!」
しかし、19連目を消化した後のST(回数限定の確変状態)は、
それまでのイケイケな挙動が嘘のように静まり返った。
10回転、30回転、50回転。何も起きない。
液晶はただ、無情に図柄をスクロールさせていくだけ。
先読み予告もなければ、派手な効果音すら鳴らない。
駆け抜けの恐怖が、じわじわと翔の首筋を締め上げていく。
ついに、STの表示は残り10回転を切った。
そして――液晶のカウンターが『ラスト1回転』を示した。
「クソッ、ここまで来て終わりかよ……!」
翔が諦めかけた、まさにその刹那。台のスピーカーから、鼓膜を突き破るような爆音が鳴り響いた。
ドックン……ドックン……画面が激しくクラッシュし、左右に停止したのは、紛れもない【8】の図柄。
「テンパイした……! ラスト一回転で8テンパイ!!」
絶望からの生還。まだ死んでいない。
液晶には、画面中央に巨大なボタンのグラフィックが浮かび上がり、赤く燃え盛る文字が出現した。
【期待度:95%・ボタンを連打して数字を破壊せよ!】
脳汁が頭のてっぺんから噴き出す。
勝てる。この演出の期待度は100パーセント。メーカーから言わせると大当たり濃厚ってやつだ。
実質的な勝利宣言(ウイニングラン)だ。
崩壊のカウントダウン演出のルールはシンプルだった。
左右に固定された【8】と【8】の間に、中央の図柄が「1」から順番にカウントアップして表示される。
それをボタン連打の衝撃波で1つずつ破壊していき、最後の数字を壊せば【8】が揃って大当り、という流れだ。
中央の液晶に「4」が現れる。「おおおおお!!!」翔は気合とともに、台の中央にあるボタンを叩いた。
ポン、ポン、ポン――ボゴォン!【4】が粉々に砕け散る。
続いて出現したのは「5」。ポン、ポン――ボゴォン!これも容易く破壊。
さらに「6」が迫る。ポン、ポン――ボゴォン!
ガラスの割れるような爽快な音とともに、【6】が画面から消え去った。
「よし! 次だ! 次の数字を壊せば、左右の8と繋がって大当りだ!!」
20連チャンへ王手。完璧なシナリオだった。
次に出てくる数字は、当然「7」。それを叩き壊せば、待望の【8】が降臨するはずだった。
液晶の中央に、真っ赤に燃え盛る巨大な【7】が出現した。
「オラァアアアア!!!」翔は右拳を振り上げ、ボタンに向けて渾身の力で振り下ろそうとした。
だが。振り下ろした翔の拳は、ボタンのわずか数センチ上で、ピタリと、完全に停止した。
まるで、見えない壁に阻まれたかのように。
「……っ!?」翔の脳内(ニューロン)に、パチンカスとして何万時間もの修羅場をくぐり抜けてきた
「本能」が、凄まじい速度で警告を叩き込んできた。
(待て。俺は今、何をしようとした?。あれは……何だ?)
目の前にあるのは、神々しいほどのオーラを放つ【7】の数字。
通常時であれば、それが出現しただけで脳が融解し、
全回転を確信する最高にして最強の「絶対的激アツ図柄」。
パチンコ界における神の象徴。富と栄光の約束すなわちアバロン。
パチンカスにとって、『7』とは崇め奉るべき対象であって、決して傷つけてはならない聖域。
(……破壊できるわけがねえ……!)
翔の思考が完全にフリーズした。
通常時にあれほど焦がれ、拝み倒してきた神の数字『7』を、自分の手で、ボタン連打で叩き壊す?
そんな不敬、そんな因果の冒涜、パチンカスのプライド(魂)が絶対に許さなかった。
壊せるはずがない。だって、7だぞ? 7がボタン連打ごときで壊れる世界線なんて、あってたまるか。
「あ、圧倒的激アツの7を……俺の手で破壊……?」躊躇。困惑。
そして、パチンコの神に対する本能的な恐怖。
翔の指先はガタガタと震え、どうしても、どうしてもボタンを押すことができなかった。
液晶の隅で、ラスト1回転のタイマーが非情にカウントダウンを刻んでいく。
『3』『2』『1』「あ……」――タイムアップ。
翔がボタンを押せないまま、演出の制限時間がゼロを迎えた。
次の瞬間、液晶の中央の『7』は破壊されることなく、
悠然と、その場に鎮座し続けた。左右の【8】と、中央の【7】。
画面に完成したのは、大当りでも何でもない、ただのありふれたハズレの出目だった。
「ST終了。左打ちに戻してください」
スピーカーからの機械的なアナウンスが、静まり返ったシマに虚しく響いた。
液晶画面は、何事もなかったかのように通常画面へと戻っていく。
翔は、振り上げたままの拳をゆっくりと下ろし、自分の手のひらを見つめた。
期待度100%。ボタンを押してさえいれば、間違いなく100%壊せていた。
そして翔は、前人未到の20連チャンを達成し、新しい人類の歴史を作っていたはずだった。
だが、彼は結局押せなかった。
『7は激アツ』という、脳の奥深くまで刷り込まれた絶対的なパチンコのパブロフの犬(条件反射)が、
彼の手の動きを完全に支配し、生存本能としてボタン入力を拒絶させたのだ。
「……ハハ。そうだよな」翔は力なく笑い、胸ポケットからタバコを取り出した。
「7を壊せるパチンカスなんて……いねえよ……」
自己最多タイの19連チャン。
新記録の手前で味わった、あまりにも美しく、あまりにも理不尽なパチンコの洗礼。
翔は上を向き、パチ屋の天井の監視カメラをを眩しそうに見上げながら、静かに手で十字をきった