前科持ち動画配信者の生活 ~エミヤ、クー・フーリンと留置所で出会う~ 作:みそそ
神話レベルの熱狂、それによって得たはずの「健全な娯楽」という免罪符。だが、マナチューブの向こうの有象無象が求めているのは、どこまでいっても「安全な場所から消費するスリル」でしかなかった。
エミヤが過去の呪いを吐き出し、ランサーがそれを笑い飛ばした、まさにその配信の真っ最中。
ガサリ、とテントの背後の深い暗闇が揺れた。
焚き火の明かりが届く限界の境界線に、ぬっと現れたのは、体長二メートルを遥かに超える巨大なヒグマだった。どんな凶悪な半グレをも一撃で肉塊に変える、本物の野生の暴力。
クマの狙いは明確だった。エミヤが調味料や非常食をマニアックなまでに一グラム単位で完璧にパッキングし、テントの脇に置いていた『守護者のリュック』だ。クマはその不格好な前足で、リュックのストラップを器用に引っ張り、持ち去ろうとした。
「おい、コラ泥棒熊ッ!!」
次の瞬間、肉が弾ける凄まじい音が夜の山林に響き渡った。
パニックに陥るどころか、ランサーは配信のカメラを左手に保持したまま、右足の一閃で、クマの顔面を正面から強烈に蹴り飛ばしたのだ。骨の軋む戦士の一蹴。
巨躯を震わせて後退したクマだったが、その一撃で逆に脳に血が上り、エミヤのリュックを「絶対に譲らない己の獲物」とロックオンした。激しい咆哮を上げ、執拗に二人の命を狙って突撃を開始する。
「おい画面の前のリスナー見ろ! 後ろでガサガサ動いてるデカい影見える? あれいま俺らを全力で追っかけてるクマです! 前科一犯の二人が無事に民家に辿り着けるか、高評価とチャンネル登録よろしくな~!」
ランサーは完全に面白がり、満面の笑みでスマホを背後に向け、夜の山道を猛ダッシュしながら実況を続けた。
対するエミヤは、この誰とも共有できない恐怖と不条理を鉄のポーカーフェイスで完全に隠し、冷や汗を流しながら、脳内パニックの裏で必死に平常心を保つための作戦を述べ続けていた。
「ランサー、喋るな。風下に向かって走れ。私のリュックには高カロリーな保存食が詰まっている、奴が執着するのも当然だ。次の分岐点で私が囮になるから、君はカメラを捨てて一秒でも早く猟友会に連絡を……」
「あぁ? 何言ってんだお前、そんな真面目な作戦会議したら動画のテンポが悪くなるだろ!」
「テンポなどどうでもいい! 命がかかっているんだぞ!!」
深夜の山道を時速四十キロ近いスピードで、大爆笑のコメント欄と共に疾走する二人。だが、数キロに及ぶデッドヒートの末、ランサーは急につまらなさそうな顔をして足を止めた。
「あー、めんどくせえ! しつけえな!」
完全に飽きたのだ。ランサーはスマホのカメラを地面の草むらに放り投げると、夜の山林全体を激しく震わせるほどの、凄まじい「咆哮」を轟かせた。
ビビって一瞬硬直した巨大熊の懐に、ランサーは弾丸のようなスピードで潜り込む。そのままクマの胴体をガシッと抱え上げると、夜空をバックに、完璧なブリッジを描くジャーマンスープレックスを炸裂させた。
ドゴォォーーーン!! と地面が爆ぜるような衝撃音。
ノックアウトされたクマは、涙目で頭を押さえながら、一目散に山の奥へと逃げ帰っていった。
地面に落ちていたスマホを拾い上げ、カメラを覗き込むランサー。そのコメント欄は、またしても人間の身勝手な悪意と手のひら返しで大爆発を起こしていた。
『うおおお! クマにジャーマンとか兄貴マジ人間じゃねえwww』
『でもこれ、普通に野生動物虐待じゃね? クマが可哀想だわ』
『それな。殺してないからセーフとか言ってる奴アホ。自然への冒涜だろ』
『いや、普通に襲われてたんだから正当防衛だろ……』
画面をスクロールしながら、エミヤはついに、その場にへたり込んで腰を抜かした。
どれだけ真面目に作戦を立てても、どれだけ命を懸けて生き残ろうとしても、画面の向こうの有象無象は、それをただの「可哀想な動物への暴力」として叩き、消費する。
「……もう、どうでもいいな」
エミヤの口から、乾ききった呟きが漏れた。
ネットの「声」のあまりの適当さと無慈悲さ。それに対して、今まで世界の危機かのように悲壮な覚悟を抱いていた己の心が、本当にアホらしくなった。張り詰めていた狂気の糸が、プツンと切れた瞬間だった。
山を下り、夜を徹して歩き続ける二人は、かつてエミヤがマスクや米を配った地域にある、古びた平屋へと身を寄せていた。
お年寄りが敷いてくれた天日干しの布団。その上に座り込み、エミヤは手元のスマホに視線を落としていた。
巨大熊をバックドロップで沈めた神話級のサバイバル動画は、当然のようにトレンドの最上位を独占していた。しかし、限界突破した同時接続数の後に残されたコメント欄は、エミヤが恐れていた通り、最悪の方向に肥大化していた。
『っていうか、あの二人やっぱり付き合ってるだろ』
『獄中で愛が芽生えた説濃厚で草』
『実質夫婦チャンネルじゃん、一生推せるわ~!』
『出所してから距離近くない? ママ(エミヤ)が怒鳴ってるのただの痴話喧嘩じゃん』
画面を執拗に埋め尽くす、現代ネット特有の、無責任で生々しいBL的邪推。
エミヤはそれを見た瞬間、深いため息と共に、静かにスマホの画面を伏せた。額に手を当て、吐き捨てるように呟く。
「……駄目だこれ。ネットは、やはりアンリマユだ。人間の勝手な欲望と、悪意と、都合のいい妄想がドロドロに溶け合った泥の沼だ」
どれだけ真面目に生きようとしても、どれだけ命を懸けてサバイバルをしても、画面の向こうの大衆にとっては、ただ自分たちの性癖やストレス発散のために「消費されるおもちゃ」に過ぎない。
他者から生きる許可を貰うために縋った『ManaTube』の海は、ただ衛宮士郎という存在を歪めて肥大化させるだけの呪いでしかなかった。
「ランサー。私は、もうマナチューバーをやめようと思う。……ここを出たら、地道に農業をするか、地道にアルバイトでもして、ただ静かに生きる」
エミヤの告白に、隣で静かに胡坐をかいていた青い髪の男は、手元に置いた缶ビールを見つめたまま、つまらなさそうに鼻を鳴らした。
「そりゃいい。画面の向こうの、あんな底の浅い奴らに付き合ってやる義理はねえしな。……よし、じゃあ今消すか」
ランサーは驚くほど迷いのない手つきでスマホを操作すると、あれほど膨れ上がっていた自分のチャンネルのアカウントを、すんなりと削除した。
エミヤは思わず目を丸くする。
「……意外だな。君のことだ、ネットでのあのスリルやバズりを、心の底から楽しんでいるものとばかり思っていたが」
「ハッ」
ランサーは自嘲気味に笑い、部屋の窓の外、しんしんと冷える現代日本の夜の闇を見つめた。
「ネットのおもちゃにされて、イメージめちゃくちゃ悪くて、それでも楽しめる奴がいたらぜひ一度、面を拝んで話を聞いてみたいもんだな。……俺は、生まれる時代を間違っちまったのかもな」
いつもの豪快で破天荒な『兄貴』らしからぬ、どこか遠い目をした呟きだった。消費され、使い捨てられていく人間たちの哀愁にも似た、静かな告白。
彼は神話の戦士だ。一対一で命を懸け、互いの誇りをぶつけ合うスリルなら、いくらでも愛しただろう。だが、画面の向こうの無数の有象無象から、ただ安全な場所でゲテモノ食いや暴走運転を笑われ、消費されるだけの『スリル』は、彼の高潔な魂が求めたものではなかったのだ。
ランサーがそんな弱音のような言葉を漏らしたのは、きっと、今夜の夜が、あまりにも暗くて、静かで、寒かったからだろう。
エミヤは何も言わず、ただ、静かに自分のスマホのアカウント削除ボタンを押した。
一瞬で真っ暗になる画面。二人の「マナチューバー」としての配信業は、ここに完全な終わりを迎えた。