潮風が木造の船の香りと混ざり合い、古い坂道を吹き抜けていく。港町ラインハイトの午後は、穏やかな活気に満ちていた。海鳥の声が遠く響く中、石畳の道を歩く一行があった。
フリーレンは相変わらず、道端の露店に並んだ「錆びた鍵の束」のような、お世辞にも実用的とは言えないガラクタに視線を奪われ、歩みを遅らせている。その後ろを、旅の荷物と買い出しの包みを両腕に抱えたフェルンが、小さくため息をつきながら歩いていた。さらに数歩後ろでは、シュタルクが大斧を背負い、退屈そうに首を回している。
「フリーレン様、あまり立ち止まらないでください。宿の主人が、夕食の時間は厳守だと言っていました。遅れたらスープが冷めてしまいます」
「大丈夫だよ、フェルン。まだ日は高いし、この鍵、何だかすごく古い魔法の匂いがするんだ。もしかしたら、どんな扉でも開けられる鍵かもしれない」
「ただの錆びたゴミです。置いていってしまいますよ」
ふくれっ面でそう告げ、フェルンはフリーレンを追い越そうと一歩を力強く踏み出した。しかし、そこは海からの湿気で薄く苔のむした、傾斜の急な石畳だった。
ぐにっ、と足元が滑る。
「あっ――」
短い悲鳴と共に、フェルンは抱えていた包みごと前方へ激しく転倒した。買い求めたばかりの丸い果実が、乾いた音を立てて坂道を転がっていく。
「フェルン!」
シュタルクが慌てて駆け寄ろうとした、その時だった。
転がっていく果実の一つを、革靴のつま先が優しく受け止めた。
品の良い仕立ての、しかしこの港町ではごくありふれた職人が着るような青い上着。その主はしなやかな動作で身をかがめると、転がった果実を一つ一つ、細く白い指先で丁寧に拾い集めた。
「おやおや、大丈夫ですか。酷い転び方でしたね」
響いたのは、チェロの低音を思わせる、極めて心地よく穏やかな男の声だった。
男は拾い集めた果実を抱え、地面に手をついて痛みに顔を顰めているフェルンの前に膝をついた。彫刻のように整った端正な顔立ち、涼やかな目元には同情と親切心がこれ以上ないほど自然に浮かんでいる。男は優しく微笑みながら、空いた片手をフェルンに向けて差し伸べた。
「立てますか? 擦り傷になっていなければ良いのですが」
その物腰は完璧な紳士のそれであり、旅の途中で出会う親切な町人そのものだった。
だが。
男の額の上、整えられた栗色の髪の隙間から、天に向かって不自然に突き出た「二本の黒い角」があった。
ねじくれ、硬質な光沢を放つその角は、装飾品などではない。彼の肉体から直接生え、脈打っている、紛れもない「魔族」の象徴だった。
フェルンは差し伸べられた手を見つめたまま、完全に氷結したように動けなくなった。
魔法使いとしての本能が、心臓を直接掴まれたかのような激しい警鐘を鳴らしている。これほど近くにいながら、その男からは「極めて自然な、綺麗に制御された魔力」しか感じられない。
「あ……、あ……」
フェルンは声を出せない。ただ、男の頭上にある角と、その穏やかな瞳を交互に見つめることしかできなかった。
「おい、フェルン! 大丈夫か!?」
後ろから駆け寄ろうとしたシュタルクが、男の姿を視界に収めた瞬間、その足をピタリと止めた。
戦士としての直感が、彼の全身の産毛を逆立たせる。シュタルクの背中に冷たい汗が伝い、無意識のうちに背中の大斧の柄へと手が伸びる。しかし、目の前の男には一切の敵意も、殺気すらも漂っていなかった。そのあまりのギャップに、シュタルクの身体は戸惑い、強張っていた。
「……」
一歩後ろで、フリーレンの目が細められた。
ガラクタへの興味は一瞬で消え去り、その瞳には凍てつくような冷徹さが宿る。彼女の手には、いつの間にか赤い杖が握られていた。
静寂が、港町の喧騒を塗りつぶしていく。
周囲の町人たちは、この「角のある男」がそこにいることを気にも留めていない様子で、平然と横を通り過ぎていく。まるで、彼がこの町の一部であるかのように。
男は差し伸べた手を引っ込めることなく、ただ優しく、辛抱強くフェルンの返事を待ちながら、微笑みを浮かべ続けている。その瞳の奥にあるものは、温かさか、それとも底の知れない虚無か。
「あら、ルーク。喧嘩かい? 珍しいねえ」
買い物カゴを抱えた通りすがりの婦人が、足を止めて不思議そうにこちらを覗き込んだ。大斧に手をかけたまま硬直しているシュタルクと、地面にへたり込んだままのフェルンを見て、若者同士の小競り合いか何かだと思ったのだろう。
「やあ、エマおばさん。いや、彼女が転んでしまってね。果物を拾っていただけだよ」
ルークと呼ばれた魔族の男は、困ったように眉を下げて柔らかく微笑んだ。その声音にも表情にも、後ろ暗いところなど微塵も感じられない。
「そうかい。あんまりいじめちゃ駄目だよ」
今度は背の曲がった老人が、ゆっくりと歩み寄りながらルークの肩を叩く。
「ルーク、この間は屋根の修理をありがとう。おかげで雨漏りがすっかり直ったよ」
「どういたしまして、トーマスおじさん。また何か困ったことがあったら、いつでも言ってね」
角の男はそう言って、老人に人懐っこい笑顔を向けた。
その光景は、あまりにも平穏で、あまりにも異常だった。
(……どういう、ことだ……?)
シュタルクの額を冷たい汗が伝う。
目の前にいるのは、どう見ても魔族だ。頭に生えた2本の角は、帽子で隠されているわけでもない。町の人々は彼の正体を知りながら、ごく当たり前の「隣人」として接している。
フェルンは息を呑み、必死にルークの魔力を探ろうとした。
しかし、感じ取れる魔力は、この街のそこらにいる平庸な魔法使いと同程度。驚くほどに平穏で、淀みがない。魔族特有のあの研がれた牙のような禍々しさが、微塵も感じられない。
「……ねえ」
静かな声が、港町の空気をわずかに震わせた。
フリーレンが一歩、前に踏み出す。
その白いツインテールが海風に揺れ、無感情な瞳がルークをまっすぐに見据えた。
彼女の手にある赤い杖からは、まだ魔力は放出されていない。だが、その佇まいは、いつでも一撃で標的を葬り去ることができる、冷徹な「魔族殺し」のそれだった。
「お前、名前はルークって言うんだ」
フリーレンの問いかけに、ルークはフェルンから手を引っ込め、ゆっくりと立ち上がった。
その一連の動作は流麗で、不自然なほどに淀みが感じられない。
「はい。この街で便利屋の仕事をして暮らしています。あなたは……旅の魔法使いですね。僕の角が、そんなに珍しいですか?」
ルークは自らの頭上の角を細い指先で軽く叩き、困ったように笑ってみせた。
「珍しくはないよ。ただの魔族だもの」
淡々と、しかし決定的な断絶を込めてフリーレンは言う。
「魔族が人間の街で屋根の修理なんて、随分と気の利いた真似をするんだね」
「ただの親切ですよ。僕はこの街の人たちが好きなんです。彼らと共に生き、助け合いたい。それだけです。……信じては、もらえませんか?」
悲しげに目を細めるルーク。そのあまりにも人間らしい仕草に、周囲の町人たちはフリーレンの拒絶的な態度に対して、不審そうな視線を向け始めている。
緊迫した沈黙が、石畳の坂道に再び降り積もっていく。
「どうぞ、お嬢さん」
ルークは拾い集めた果実や散らばった荷物を、汚れ一つ残さぬよう丁寧にまとめると、両手で抱えてフェルンの前に差し出した。
「改めまして、僕はルーク。この街の便利屋として生活をしています。お察しの通り魔族ではありますが、人をとって喰ったりはしません。……皆さんのお名前を伺っても?」
その仕草は流れるように優美であり、傾きかけた陽光が彼の整った横顔を美しく縁取っていた。ただ荷物を手渡すという些細な挙動ですら、まるで宮廷の舞踏会の一幕を見ているかのような、人を惹きつける奇妙な魅力に満ちていた。人間の基準からしても極めて端正な容姿、そして何よりその双眸から注がれる温和な視線は、初対面の者を無条件に安心させるだけの魔力的な説得力を帯びている。
フェルンは息を呑み、差し出された荷物を受け取る。指先が触れ合わないよう、細心の注意を払いながら。
「……ありがとう、ございます」
丁寧にお礼を言いつつも、フェルンの声は低く硬い。
幼い頃からハイターに育てられ、フリーレンの指導を受けてきた彼女の目は騙されなかった。目の前の「ルーク」は、完璧な人間の美男子を演じている。だが、その完璧さこそが、かえって生物としての歪さを引き立てているように思えてならなかった。フェルンは少し頬を硬く強張らせ、フリーレンの影に隠れるように半歩下がった。
「なあ、ルーク……って、本当に魔族なのか?」
シュタルクがようやく、やや掠れた声で口を開いた。大斧を握る手はまだ解かれていない。
「だって、お前、街の奴らと普通に……。それに魔族ってのは、もっとこう、凶悪で、隙あらば首を刎ねにくるような奴らだって、俺は……」
「シュタルク、静かに」
フリーレンの平坦な声が、シュタルクの困惑を遮った。
フリーレンは一歩前へ進み、ルークの顔をじっと見つめた。エルフの長い耳が風にわずかに揺れ、その透き通った瞳には彼の端正な顔立ちも、その美しさからくる魅力も、一切響いていないようだった。
「私はフリーレン。この子はフェルンで、そっちの頼りないのはシュタルク」
「フリーレン様、勝手に私の名前を教えないでください」
フェルンが小声で不満を漏らし、ふくれっ面になる。
「いいんだよ、フェルン。どうせ隠す意味なんてない。――ルーク。お前は、自分が魔族だってことを隠さずにこの街にいる。それは、そうした方が都合がいいから?」
フリーレンの問いは、刃のように鋭く、そして静かだった。
「魔族は嘘を吐く。言葉を使って人を欺く。お前がどれだけ美しくても、どれだけ屋根を直して人々に感謝されていても、それは自分が人間を効率よく捕食するための『擬態』の延長なんじゃないの?」
その言葉に、通りすがりの町人たちが数人、怪訝な顔をして足を止めた。ルークという「親切な隣人」を侮辱されたと感じたのか、フリーレンを見る住民たちの視線には、明らかな敵意が混ざり始めている。
緊迫した沈黙が坂道に満ちる中、ルークはただ静かに、その美しい瞳でフリーレンたちを見つめ返していた。
「うーん。擬態とは、手厳しいですね」
ルークは困ったように眉を八の字に曲げ、片手で頭の角のあたりをぽりぽりと掻いた。その仕草すら、まるで洗練された喜劇役者のように自然で、嫌味がなかった。
「これ以上ココで討論すると目立ちますし、せっかくの御縁です。ラインハイトの街をご案内しますよ。よろしくお願いします、フリーレンさん、フェルンさん、シュタルクさん」
そう言うとルークは、フリーレンが投げかけた「魔族の根源」に関わる問いへの返答を、あっさりと放棄した。これ以上言葉を重ねても無駄だと判断したのか、あるいは最初から議論など求めていなかったのか。彼は優雅に一礼すると、促すように手の平を先へと向けた。
「おい、フリーレン。どうするんだよ、これ……」
シュタルクが、冷や汗を拭いながら小声でフリーレンの耳元に囁いた。大斧からは手を離したものの、肩はガチガチに強張ったままだ。
「フリーレン様。いくら何でも、魔族の案内についていくなど、正気の沙汰とは思えません。ここで仕留めるべきです」
フェルンもまた、片手を木製の杖に添えたまま固まり、その瞳には、かつてないほどの警戒の色が宿っていた。
しかし、フリーレンは小さく首を横に振った。
「だめだよ、フェルン。周りを見て」
言われてフェルンが視線を巡らせると、すれ違う街の人々が、こちらを不審そうに、あるいは非難がましげに見ていることに気づいた。この街において、ルークは紛れもなく「受け入れられた街の一員」なのだ。ここで彼に先制攻撃を仕掛ければ、フリーレンたちは旅の魔法使いどころか、無抵抗な善人を襲う狂人にしか見えなくなる。
「それにね、魔族が言葉を放棄して、別の方法で人間を騙そうとしている。その意図を、私は知りたい」
フリーレンの瞳は冷たく、澄んでいた。それは千年の歳月の中で、数多の魔族の嘘と死を見届けてきた狩人の目だった。
「……勝手にしてください。私はいつでも撃てるようにしておきますから」
フェルンはため息をつき、油断なくルークの背中を睨み据えた。
「ふふ、ではこちらへ。海が一望できる、素晴らしい場所へお連れしましょう」
そんな一行の警戒などどこ吹く風で、ルークは軽やかな足取りで歩き始めた。
* * *
石畳の坂道を登るにつれ、潮風がより一層強く、心地よく吹き抜けていく。ルークは道中、すれ違う魚売りの行商人に「今日はいい魚が入ったね」と声をかけ、道端で遊ぶ子供たちに手品のようにして花を差し出して見せた。その一挙手一投足に、街の人々は親しげな笑顔を返す。
「ここは『海鳥の歌』というカフェです。ここのテラス席から見る海と夕日は、ラインハイトで一番美しいんですよ。名物のベリータルトも、甘酸っぱくて絶品です」
ルークが足を止めて指し示したのは、白い壁に青い屋根の、いかにも小奇麗でおしゃれなカフェだった。テラス席からは、きらきらと輝く真っ青な海と、行き交う白い帆船が見渡せる。
「うわ……めちゃくちゃ美味そうだな、あのタルト……」
シュタルクが思わず、生唾を飲み込んで視線を奪われる。
「シュタルク様。魔族の勧める毒入りかもしれない食べ物に、目を輝かせないでください。バカなのですか」
フェルンの冷たい視線がシュタルクを突き刺す。
「毒なんて入っていませんよ。僕もよくここで、店主の奥さんとお茶を飲みますから」
ルークはそう言って微笑むと、カフェの入り口へと歩み寄り、扉を開けてフリーレンたちを手招きした。
「さあ、旅の疲れを癒してください。お茶くらい、僕に奢らせてほしいな」
男の頭上には、やはり不気味な黒い角が2本、毅然とそびえ立っている。それなのに、彼から漂う空気はどこまでも無害で、心地よい。
フリーレンはアホ毛を小さく揺らしながら、そのカフェの入り口と、ルークの顔を交互に見つめた。
テラス席につくと、潮風が白いパラソルを優しく揺らした。しばらくすると、赤いベリーが艶やかに光るタルトと、湯気を立てる紅茶が運ばれてきた。
目の前で、ルークは慣れた手つきでカップに砂糖を一つ落とし、上品にスプーンを回している。その指先の動き一つをとっても、宮廷の作法を学んだ貴族のように完璧であった。
「僕は、この街で日雇いの便利屋をしています。力仕事から、壊れた家屋の修繕、時には迷子になった猫の捜索まで、何でもやりますよ。お代はその日暮らしができる程度で十分。皆さんが喜んでくれるのが、僕にとっての報酬のようなものですから」
ルークはそう言って、穏やかに微笑んだ。
その表情にも、発せられる言葉にも、嘘を吐く魔族特有の「引っかかり」がまるでない。どれほど耳を澄ませても、どれほど魔力の揺らぎを観察しても、彼はただの「親切で紳士的な隣人」だった。
「……ふーん」
フリーレンは、フォークでベリータルトの端を小さく切り取り、口に運んだ。
もぐもぐと咀嚼しながら、その視線はルークの手元や、彼が話すときの喉の動きに向けられている。千年以上生きてきた彼女の経験則から言えば、魔族が人間の街に溶け込み、かつ実害を出さずに生活するなど、本来あり得ない。魔族にとって言葉は「獲物を欺くための道具」であって、社会を築くためのものではないからだ。
「おい、フリーレン、これ本当に美味いぞ……。いや、じゃなくて、ルーク。お前、本当にそれだけで満足なのか? なんかこう、裏の目的とか……その、人間を油断させて、夜中に襲うとか、そういうのは……」
シュタルクはタルトの美味さに感動しつつも、椅子の端に腰掛け、いつでも飛び退ける姿勢を崩さずに小声で尋ねた。
「まさか。そんなことをしたら、この美味しいお茶もタルトも、二度と味わえなくなってしまいます。僕は今のこの穏やかな暮らしが、とても気に入っているんですよ、シュタルクさん」
「うぐっ……そんな風に言われると、俺がただの疑り深い悪者みたいじゃねえか……」
シュタルクが頭を抱えて唸る。
「シュタルク様、騙されてはいけません」
フェルンは自分のタルトには一切手をつけず、背筋を伸ばしたままルークを冷たく睨み据えていた。
「魔族は呼吸をするように嘘を吐く生き物です。今は無害を装っていても、いつ牙を剥くか分かりません。だいたい、その顔だって、人間に取り入るためにわざと整えているに決まっています。……非常に不愉快です」
「おや、僕の顔がお気に召しませんでしたか?」
ルークは少し困ったように眉を下げた。その仕草すら、絵画のように美しい。
その時、カフェの横を通る若い女性たちのグループが、テラス席のルークに気づいて色めき立った。彼女たちは頬を染め、熱い視線を送りながら、ルークに向かって手を振る。
「あ、ルークさん! こんにちは! 今日の予定、空いてる? うちの井戸の調子がまた悪くて……」
「こんにちは。夕方には手が空くから、後で見に行くよ」
ルークがひらりと手を振り返すと、女性たちは嬉しそうに黄色い悲鳴を上げ、顔を見合わせながら去っていった。その後からも、別の町人が通りかかるたびに、ルークへ親しげに挨拶を投げかけていく。
彼は完全に、このラインハイトの日常に溶け込んでいた。便利屋としての仕事を通じて、街の人間たちとの間に、強固な「信頼関係」を築き上げている。
「……信じられません」
フェルンは呆れたように小さく息を吐き、頬を膨らませてルークから目をそらした。
フリーレンは紅茶を一口すすり、カップを揺らした。液面に映ったその目は、少しだけ哀愁を帯びているようにも見えた。
「ルーク。お前は、その暮らしを始めてから、どれくらい経つの?」
エルフ特有の、時間に対する淡々とした、しかし本質を突く問いが、ルークに投げかけられた。
ルークは紅茶のカップをそっとソーサーに戻した。磁器の触れ合う繊細な音が、潮風に混じってテラスに響く。
彼は困ったように微笑み、自分の頭上の角を少しだけ恥ずかしそうにさすりながら、穏やかな声音で語り始めた。
「この街で生活して、かれこれ20年ほどになります。僕が物心ついた時には、すでにこのラインハイトの片隅にいたのです。当時は言葉もろくに話せず、みすぼらしい物乞いのような暮らしをしていました。ですが、ここの皆さんはこんな僕を追い出さず、とてもよくしてくださった。服をくれ、食べ物を分け与えてくれ、言葉を教えてくれた。そうして、なんとか今日まで生きてこられたのです」
その言葉には、一切の偽りがないように聞こえた。
事実、魔族の嘘を見破ることに長けたフリーレンの耳をしても、ルークの発言に「声の震え」や「魔力の不自然な変調」は感知されなかった。彼は本当に、自分の記憶にある通りの「真実」を述べている。
しかし、その内容がもたらした衝撃は、フェルンとシュタルクにとってあまりにも大きかった。
「……にじゅう、ねん……?」
フェルンは手元に置かれたままの木製の杖を握る手を、わずかに震わせた。
彼女は自分の耳を疑うようにルークを見つめる。端正な顔立ち、完成された物腰、便利屋として街の大人たちと対等に渡り合うその姿。それらすべてを持ちながら、この男が紡いだ「20年」という歳月。それは、自分たちの年齢とほとんど変わらない時間の長さだった。
「嘘だろ……」
シュタルクが、呆然とした顔でスプーンを落としかけた。
「お前、俺と、フェルンともほとんど同い年ってことかよ? その若さでそんな……いや、20年って俺にとっては、生まれてから今までの全部か……?」
驚愕し、目の前の魔族を「自分たちに近い存在」として認識しそうになる二人。
魔族という絶対的な捕食者を前にして、人間としての「共感」が、彼らの警戒心を急速に鈍らせていく。
「たしかにその通りだよ。人間にとってはね」
冷や水を浴びせるような、冷徹で平坦な声が、二人の動揺を断ち切った。
フリーレンは、最後の一口のベリータルトをゆっくりと飲み込み、ルークを静かに見据えた。その薄い翡翠の瞳には、同情も、驚きも、感傷も、何一つ浮かんでいない。
「でもね、ルーク。20年なんて時間は、エルフの私やお前たち魔族にとっては、ゴミのように一瞬で過ぎ去る短い時間だ」
フリーレンの言葉は、冷たく、そして重い。
エルフとしての千年の歩み、そしてかつて葬ってきた数多の魔族との戦いの中で培われた絶対的な真理。それが彼女の小さな唇から、容赦なく紡ぎ出される。
「魔族は長命だ。数百年を生きる個体なんてざらにいる。そんなお前たちにとって、20年なんて、ほんの数日、あるいは数時間うたた寝をしたのと変わらない。そんな短い時間、人間に『擬態』して親切な隣人を演じることくらい、お前たちの本能にとっては造作もないことのはずだよ」
フリーレンはカップを持ち上げ、冷めかけた紅茶を一口含んだ。
「お前は『物心ついた時には物乞いだった』と言った。生後20年程度というのは、魔族としては生まれたばかりの赤ん坊のようなものだ。……ねえ、ルーク。お前は、人間が家畜を育てる時、最初から酷く扱うと思う? 違うよね。十分に太らせて、信頼関係を築いて、それでも最後に首を刈る。お前のその『20年の親切』は、ただの仕込み期間なんじゃないの?」
その言葉は、ルークがこれまで築き上げてきた「便利屋としての20年」の全てを、一瞬で「捕食のための丹念な前準備」へと定義し直すものだった。
テラス席に、再び張り詰めた沈黙が流れる。
ルークはフリーレンの言葉を静かに聞き届け、その美しい瞳を少しだけ見開いた。だが、怒る風でもなく、悲しむ風でもなく、ただじっとフリーレンを見つめ返している。
「……やはり、厳しい魔法使い様ですね」
ルークは、困ったように、しかしどこか諦めたような笑みを浮かべた。