ラインハイトの蜜月   作:龍改二

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第2話 便利屋ルーク

「フェルン、シュタルク。騙されちゃダメだよ」

フリーレンの杖の先が、テーブルの下でかすかに、しかし確実にルークの方向を捉えていた。

「魔族は、どれだけ無垢に見えても、その本質は人間を喰らう獣だ。彼らが流す涙も、語る言葉も、すべては私たちを油断させるための『記号』に過ぎない。……私は、こいつがいつ牙を剥くか、それだけを考えてる」

 

ルークを「同世代の若者」として見始めていたフェルンとシュタルクの身体が、再び強張る。

しかし、周囲の街の活気は変わらず、すぐ隣の通りからは、ルークに手を振る子供たちの笑い声が聞こえていた。

 

チリン、と澄んだ鈴の音が石畳の坂道に響いた。

 

赤い首輪をつけた白猫が、もの凄い速さでテラス席の脇をすり抜けていく。その後ろから、エプロン姿の幼い少女が息を切らせて走ってきた。

 

「待って! サミー、待ってよー!」

 

少女の泣き出しそうな声が潮風に解けていく。

その様子を見たルークは、フリーレンたちに向けていた穏やかな視線をふっと和らげた。彼は懐から革の財布を取り出すと、驚くほど滑らかな手つきで四人分のお茶代には十分すぎる額の銀貨をテーブルに置いた。

 

「失礼。便利屋の仕事が入りました。それでは、楽しい旅を、フリーレンさん」

 

ルークは紳士的に軽く会釈をすると、音もなく立ち上がった。その身のこなしは風のように軽く、瞬時に少女と猫の消えた路地の角へと吸い込まれるように消えていった。

 

残されたのは、温かい湯気を立てる紅茶と、フェルンの手つかずのベリータルト。そして、テーブルの上で鈍く光る数枚の銀貨だけだった。

 

「……行っちゃったな」

 

シュタルクが、ぽかんと口を開けたままルークの去った方向を見つめた。張り詰めていた肩の力が抜け、大きなため息が漏れる。

「なぁ、フリーレン。あいつ、やっぱりどうしても悪い奴には見えないんだけど。代金だって、俺たちの分まで置いていったぞ」

 

「それは、人間社会のルールに則って行動した方が、この街で『便利屋ルーク』として生存するのに都合が良いからだよ」

 

フリーレンは表情を変えず、残り少なくなった冷めかけた紅茶に口をつけた。

カップの縁から覗く彼女の瞳は、どこまでも平坦だ。

「魔族はね、生きるために人間の真似をする。言葉を使い、笑顔を浮かべ、時にはこうしてお金を払う。それは、彼らにとって呼吸をするのと同じ、生存本能なんだ。そこに『善意』や『悪意』という感情は存在しない。あるのはただ、生き残るための最適な選択だけ」

 

「……」

 

フェルンは、自分の前に置かれたタルトをじっと見つめていた。

彼女の指先は、まだ木製の杖の柄を固く握りしめている。頬をわずかに膨らませ、不満とも戸惑いともつかない複雑な感情を宿した目で、去っていった魔族の方向へ視線を移す。

 

「フリーレン様。あの魔族、ルークから感じられる魔力は、本当に小さく、穏やかなものでした。魔力を制限しているのか、あれが全魔力なのか……。とにかく、あれほど完璧に人間社会に溶け込んでいる魔族を、私は他に知りません。本当に……ただ人間と生きたいだけ、ということは、万に一つもないのでしょうか」

 

「ないよ、フェルン。魔族はそういう風にできていない」

 

フリーレンは、残酷なまでに即答した。

彼女は空になったカップを静かに置くと、椅子から立ち上がり、港の広場を見下ろす。

 

「でも、あのルークって魔族が、この街で20年間も無害な『便利屋』を続けてこられた理由は、少し気になるね」

 

エルフの長い耳が海風に揺れる。フリーレンはアホ毛を小さく弾ませながら、ルークの消えた路地へと視線を向けた。

 

* * *

 

ラインハイトの朝は早い。

霧をはらんだ冷たい潮風が、安宿の木製の窓枠をガタガタと揺らしていた。いつもなら布団から這い出るまでに多大な時間を要するフリーレンが、この日に限っては珍しく、フェルンが淹れたハーブティーを机の前に座ってすすっていた。

 

「フェルン。今日からしばらく、この街に滞在することにするよ」

 

フリーレンは、カップから立ち上る湯気の向こうから、淡々とした声で告げた。その隣では、まだ眠気の取れないシュタルクが、昨日持ち帰ったベリータルトの残りを口に放り込んでいる。

 

「……それは構いませんが、路銀の残りが少なくなっています。それに、あの魔族……ルークの存在を放置しておくのですか? 昨日は何も起きませんでしたが、いつ街の人々を襲うか分かったものではありません」

 

フェルンは手早く荷物の整理をしながら、眉をひそめてフリーレンを振り返った。その表情には、魔族に対する本能的な警戒と、進まない旅への焦燥が入り混じっている。

 

「だからこそだよ」

フリーレンはカップを置き、アホ毛を小さく揺らした。

「フェルン。あなたに、ルークの便利屋の仕事を手伝ってきてもらいたいんだ」

 

「……はい?」

フェルンを動かす手が、ぴたりと止まった。その紫色の瞳が、驚愕と、それ以上の不信感で細められる。

 

「魔族の行動を最も近くで監視できる。それに、便利屋の日雇い仕事なら路銀も稼げる。まさに一石二鳥の完璧な計画だよ、フェルン」

 

「フリーレン様、正気とは思えません。私を魔族の餌にするおつもりですか。それとも昨日の甘いタルトのせいで、頭がどうにかなってしまったのですか」

 

フェルンは即座に両頬を限界まで膨らませ、不満を全身で表現した。その手元にある木製の杖が、抗議を代弁するように床をコツンと叩く。

 

「大丈夫だよ、ルークは今のところ、人間社会のルールに完璧に従っている。フェルンほどの魔法使いなら、不穏な動きがあっても即座に対応できるはずだ。それに……」

フリーレンの瞳が、ふと薄暗い色を帯びた。

「あの魔族がなぜ20年間も人間に擬態し続けられたのか、その本質を探るには、奴の『日常』を見るのが一番いい。私とシュタルクは、その間に街の古い記録や、20年前のことを知る住人たちから話を聞いてくる」

 

「俺も聞き込みに行くのか? 便利屋の方じゃなくて? 街の美味いもん食えるならいいけどよ……」

場にそぐわない緊張感のないシュタルクの発言に、フェルンは氷のような視線を突き刺した。

 

「シュタルク様。あなたのような生半可な戦士をあの魔族の隣に置けば、開始3秒で甘い言葉に乗せられ、荷物持ちの奴隷にされるのがオチです。ですから、私が、仕方なく、行きます」

 

辛辣な言葉を残し、フェルンは強く一息つくと、ローブの襟を正して部屋の扉へと向かった。その背中は、義務感と、師への小さからぬ不満で満ち満ちていた。

 

「いってらっしゃい、フェルン。気をつけてね」

フリーレンの気の抜けた見送りを受けながら、フェルンは宿を後にした。

 

* * *

 

朝の光が石畳を白く照らす広場で、ルークはすでに活動を始めていた。

彼は今日、くたびれた灰色の作業着を身にまとっていたが、それでも周囲の泥臭い景色から浮き立つような美しさを放っていた。台車に積まれた大量の木材を整理していたルークは、自分へ近づく足音に気づくと、手を止めて振り返った。

 

「おや、フェルンさん。おはようございます。こんなに朝早くから、僕に何か用事ですか?」

 

ルークは爽やかに微笑んだ。頭上の2本の角が、朝日を浴びて鈍く黒い光を放っている。

 

「……ルーク様。本日より、あなたの便利屋の仕事をお手伝いさせていただきます。フリーレン様の指示です。それと、路銀を稼ぐためでもあります」

 

フェルンは杖を固く握りしめたまま、極めて硬い表情と声で告げた。その瞳は、ルークの一挙手一投足を見逃すまいと、鋭く張り詰めている。

 

ルークは一瞬、驚いたように細い眉を上げたが、すぐに合点がいったように楽しげな笑みを浮かべた。

 

「なるほど、監視役というわけですね。構いませんよ。ちょうど今日は、一人では人手が足りない、少し骨の折れる依頼が入っていたところです。あなたの素晴らしい魔法が手伝ってくれるなら、これほど心強いことはありません」

 

ルークは台車から一本の太いロープを取り出し、それを手際よくまとめた。

「では、行きましょうか。まずは港の裏手にある、古い干物倉庫の修繕です。潮風で木材が腐ってしまってね。――ああ、怪我をするといけませんから、僕の後ろを歩いてください」

 

その気遣いすら、魔族としての「擬態」なのだと自分に言い聞かせながら、フェルンは音もなく彼の斜め後ろに従った。

 

一方、同じ頃。

フリーレンとシュタルクは、港町の古い歴史を管理する小さなギルドの資料室や、年老いた船乗りたちが集まる酒場の裏手を歩いていた。

 

「なぁ、フリーレン。20年前のことなんて、そんなに簡単に調べて分かるもんなのか?」

シュタルクは大斧の柄を肩に担ぎ、周囲の美味そうな屋台の匂いに気を取られながら尋ねた。

 

「シュタルクみたいに若い人間なら、20年は遠い時間だ。でも、この街の老人たちにとっては、まだ昨日のことのように覚えている生々しい記憶のはずだよ」

 

フリーレンは一軒の、ひときわ古びた漁具店の前で足を止めた。店の奥には、日焼けした顔に深い皺を刻んだ老人が、網の修繕をしながら退屈そうにパイプをくゆらせている。

 

「ねえ、おじさん」

フリーレンが店に入り、ひらひらと手を振った。

「ちょっと昔の話を聞かせてほしいんだけど。――この街に、ルークがやってきた時のことについて」

 

漁具店の老人は、くたびれたパイプから紫煙を吐き出し、細められた目で遠い海を見つめながら語り始めた。

 

「ルークかい? ああ、覚えているとも。かれこれ20年ほど前だな。この店の裏の細い路地に、ボロきれみたいな外套をまとって座り込んでいたガキがいたんだ。それがルークさ。言葉も話せず、ただ寒さに震えていたな」

 

「20年前、か……」

シュタルクは大斧を背負い直しながら、老人の言葉を反芻するように呟く。

 

「ああ。最初こそ不気味なガキだと思ったが、飯を食わせてやったら、妙に人懐っこくてな。ただ、驚いたのはその成長の早さだ。1年も経たないうちに、あっという間に今の姿になっちまった。それからはずっと、あの若く美しい顔のままだ。頭には角もあるし、ありゃどう見ても魔族の類なんだろうが……」

 

老人は網を繕う手を止め、穏やかな苦笑いを浮かべた。

 

「だがな、あいつは本当にいい奴なんだ。嵐の翌日に真っ先に屋根を直しに来てくれたのもあいつだし、海に落ちたガキを助けてくれたのもあいつだ。魔族だろうがなんだろうが、俺たちにとっては立派な街の仲間さ」

 

通りを少し進んだ先、色鮮やかな花を並べる花屋の婦人も、ルークの名を聞くと嬉しそうに声を弾ませた。

 

「ルークちゃん? ああ、もう20年もこの街の便利屋をしてくれているよ。あの端正な顔立ちを見てごらん。街の若い娘たちはみんなあの子に夢中さ。魔族の角? ははっ、そんなの、あの子の親切さに比べたら些細な個性みたいなものだよ。あの子が人間を襲うなんて、あり得ないね」

 

フリーレンとシュタルクが街のあちこちで集めた証言は、どれも驚くほど一貫していた。

 

街の人々が語る「便利屋ルーク」。

20年前に路地裏に現れた、言葉も話せない物乞いの子どもだったこと。人間の基準からは考えられないほど短期間で、青年の姿へと急成長したこと。その姿になってから、その容姿は全く衰えておらず、20年前と変わらないこと。

そして街の人々は、彼が「魔族」であることは理解しているが、その美貌とこれまでの多大な貢献ゆえに、誰もそれを問題視していない。

 

これらは昨日、ルーク本人が語った内容と何一つ矛盾していなかった。魔族は呼吸をするように嘘を吐く。しかし、この街の人々の記憶と好意、その20年という歳月を偽造することなど可能なのだろうか。

 

「……矛盾はない、か」

 

夕暮れ時。朱色に染まる港町を見下ろす宿の一室で、フリーレンはベッドの端に腰掛け、小さくアホ毛を揺らしながら呟いた。

 

シュタルクは部屋に入るなり、重い大斧を床に置き、大の字になってベッドに倒れ込んだ。天井を見上げながら深くため息をつく。

 

「なぁ、フリーレン。やっぱりルークはいい奴なんじゃないか? 街の奴ら、あいつを心から信頼してたぜ。魔族だからってだけで、あいつが悪い奴だと決めつけるのは、その……ちょっと違うんじゃないかって、俺は思うんだけど……」

 

「シュタルク」

フリーレンの平坦な声が、部屋の空気をわずかに冷やす。

「魔族はね、人間を騙すために言葉を使う。奴らにとって生存に有利な環境を作るためなら、20年おとなしく便利屋を演じることくらい、なんてことないんだよ」

 

「でもよ、20年だぞ? 人間を食べずに、ただ便利屋として暮らすなんて……そんなこと、悪い魔族にできるのか?」

 

「そこだね」

フリーレンは薄い翡翠の瞳を細め、窓の外で静かに暮れていく街並みを見つめた。

 

「魔族の主食は人間だ。人間を食べずに20年も生きることは、奴らの生物としての本能に反している。本当に、ただの一度も人を食べていないのか。それとも――私たちが気づいていない、もっと狡猾な方法で『捕食』を行っているのか」

 

エルフの千年の記憶が、かつて出会った様々な魔族の「擬態」の形を呼び起こす。言葉を使い、涙を流し、慈悲を乞う。そのすべてが、人間を喰らうための牙を隠す泥に過ぎなかった。

 

「……フェルンは、何か掴めたかな」

 

フリーレンの呟きは、潮風の音にかき消されるように、静かに部屋の中に溶けていった。

 

* * *

 

数刻前。朝の光が、湿った霧を黄金色に染め上げていく頃。

港町ラインハイトの裏手にそびえる古い干物倉庫は、長年の潮風に晒されて随所が腐食していた。波の音が足元で不気味に響く中、フェルンはルークの斜め後ろを、一定の距離を保ちながら歩いていた。

 

木製の杖を胸元で握りしめ、その指先にはいつでも防御魔法を展開できるよう微弱な魔力を込めている。

前を行くルークの背中は、荷台を押すその一挙手一投足にいたるまで、およそ魔族とは思えないほどに均整が取れており、洗練されていた。

 

「ここですよ、フェルンさん。今日はこの建物の、海に面した土台と柱を補強します。潮が満ちる前に終わらせてしまいたいですね」

 

ルークは振り返り、爽やかに微笑んだ。その瞳は濁りのない澄んだ琥珀色で、額の角さえなければ、誰もが足を止めるほどの美青年だった。

 

「……分かりました。指示をしてください。ただし、私は肉体労働は得意ではありません」

 

フェルンは冷淡な声を意識して返した。感情を排し、ただの監視者として振る舞う。それがフリーレンから叩き込まれた、魔族と対峙する際の鉄則だったからだ。

 

「ええ、重いものは僕が運びます。フェルンさんには、僕が柱の補強をしている間、足場を固定する手伝いをお願いしたいんです。魔法使いの力があれば、半日の仕事が1時間に縮まりますから」

 

ルークはそう言うと、手際よく作業用のロープと厚手の当て木を取り出し、梁に足をかけた。その身のこなしは、重力を無視しているかのように軽やかだった。

 

作業が始まってしばらくの間、フェルンは徹底してルークを観察していた。

しかし、不審な点は何一つ見当たらなかった。それどころか、彼の作業効率と、周囲への配慮は完璧という他なかった。

 

海風が吹き込み、波が足元の柱を洗って飛沫を上げる。

濡れた木の床は滑りやすく、フェルンが魔法で錆びた鉄帯を取り外そうと一歩踏み出した瞬間、不意に足元の腐った踏み板が激しい音を立てて踏み抜けた。

 

「あっ――」

 

身体がバランスを崩し、冷たい海へと投げ出されそうになる。

落下する刹那、視界が急速に回転した。

 

だが、水飛沫が上がるより早く、フェルンの身体は強い力によって引き上げられていた。

 

「危ない」

 

耳元で、低く心地よい声が響く。

気づけば、フェルンはルークの引き締まった胸の中にすっぽりと収まっていた。彼の強靭な腕が、フェルンの腰をしっかりと支えている。勢いよく引き上げた反動で、ルークは自らの背中を古い柱に打ち付けながらも、彼女を完璧にかばっていた。

 

「……っ」

 

あまりの至近距離に、フェルンの心臓が大きく跳ね上がった。

見上げる位置にある彼の顔は、息を呑むほどに端正だった。微かに乱れた栗色の髪から覗く、鋭くも優しい双眸。そして、彼の身体からは、獣のような生臭さなど微塵もせず、ただ乾いた木葉と、清潔な石鹸の香りが漂っていた。

 

「怪我はありませんか? 驚かせてしまってすみません。足元を確認しておくべきでした」

 

ルークはすぐにフェルンをそっと安全な床へと立たせ、自らは一歩引いて、心底申し訳なさそうに眉を下げた。その態度はどこまでも紳士的で、恩着せがましさなど爪の先ほどもなかった。

 

「……いえ。助けていただき、ありがとうございます」

 

フェルンは乱れた髪を整えながら、急いで顔を背けた。

頬が熱くなるのを自覚し、それを隠すように不自然なほど大きく頬を膨らませる。

 

「シュタルク様並みに注意が足りませんでした。……以後、気をつけます」

 

「はは、そうしてください。あなたに怪我をさせたら、あの厳格な魔法使い様にこっぴどく叱られてしまいますからね」

 

ルークは悪戯っぽく笑い、再び何事もなかったかのように作業に戻っていった。

 

作業の合間、ルークは家で淹れてきたであろう安価なハーブティーを、持参した水筒から木製のカップに注いでフェルンに差し出した。

 

「口に合うか分かりませんが、どうぞ。潮風に吹かれていると、身体が芯から冷えますから」

 

「……」

 

フェルンは躊躇した。魔族の差し出す飲み物。毒が入っている可能性は常に考慮すべきだった。

しかし、ルークは彼女の警戒を察したのか、自らのカップから先に嬉しそうに喉を鳴らして飲み干してみせた。

 

「毒は入っていませんよ。僕は、あなたたちと仲良くなりたいだけなんです」

 

フェルンは小さくため息をつき、カップを受け取って口をつけた。

温かいお茶は、驚くほど丁寧に淹れられており、かすかに蜂蜜の甘みが染み渡る。旅の疲れを優しく癒す、極上の味だった。

 

「……美味しいです」

 

「それは良かった。この街の人たちに教えてもらったブレンドなんです。物乞いだった僕に、彼らは多くのことを教えてくれた。だから、僕はその恩を返したい」

 

ルークは遠い港の水平線を見つめながら、静かに語った。

その眼差しに宿る、どこか寂しげで、しかし温かい光。

 

(言葉は、人間を欺くための道具)

(魔族は、人を騙すために言葉を使う)

 

フリーレンの教えが、フェルンの脳裏で何度も警鐘を鳴らす。

目の前の男が語る美しい言葉も、すべては自分たちの油断を誘い、いつかその牙で喉元を食い破るための「擬態」に過ぎないのだ、と。

 

しかし。

彼の手の温もり、背中を打ってまで自分を守った肉体の痛み、そしてこの20年間、街のために尽くしてきたという揺るぎない事実。それらすべてが、頭に響くフリーレンの言葉を頑なな「偏見」であるかのように錯覚させていく。

 

「ルーク様は……」

フェルンは、カップを見つめたまま、絞り出すように声を震わせた。

 

「本当に、この街の人々を愛しているのですか?」

 

ルークは驚いたように目を見開き、それから、これまでで最も柔らかく、美しい笑みを浮かべた。

 

「ええ。命に代えても、守りたいと思っていますよ。彼らは僕のすべてですから」

 

その完璧な美貌から放たれる言葉は、まるで魔法の呪文のように、フェルンの心の最も深い部分へと染み込んでいった。否定しなければならない。これは魔族なのだ。そう強く念じるフェルンの胸の奥で、確固たるはずだった「敵意」が、砂の城のように静かに崩れ始めていた。

 

* * *

 

宿の食堂は、夕食時ということもあり、地元の漁師たちや旅人でそれなりに賑わっていた。

窓の外からは波の音が絶え間なく聞こえ、潮の香りが微かに漂う。

 

丸い木製テーブルの上には、この港町の名物である白身魚のハーブスープと、少し硬めの黒パン、そして温かいジャガイモのソテーが並んでいた。

 

「遅くなりました」

 

扉を開けて入ってきたフェルンは、心なしかいつもより疲れた足取りだった。

席に着くなり、深くため息をついて、少しふくれっ面になる。その手元にある木製の杖を椅子の脇に立てかけ、丁寧にスカートの塵を払った。

 

「おかえり、フェルン。スープ、冷めないうちに注ぎなよ」

 

フリーレンはすでにスプーンを片手に、スープに浮いたハーブをじっと見つめていた。その白いツインテールが、食堂のランプの温かい光を浴びて淡く輝いている。

 

「お、フェルン! お疲れ。……なんか、いつもより疲れてないか? まさか、あの魔族に酷い目にあわされたんじゃ」

 

シュタルクが心配そうに身を乗り出し、黒パンを引きちぎりながら尋ねた。

 

「……いえ。労働はそれなりに大変でしたが、ルーク様は常に私に配慮してくださいました。私が足場を踏み外して落ちそうになった時も、怪我を恐れずに身を挺して助けてくださったほどです。シュタルク様とは大違いの、大変紳士的な方でした」

 

「なんだよそれ! 俺だってフェルンが危ねえ時はいつでも助けるぞ!?」

 

「声が大きいです、シュタルク様。バカなのですか」

 

フェルンは冷たくあしらいつつも、スープを自らの皿に注ぐ手元を少し揺らした。

ルークに抱きとめられた瞬間の、あの乾いた木葉と石鹸の混ざった香りが、不意に鼻腔の奥に蘇る。魔族であるはずの彼の体温。その端正な横顔。

(魔族は、人間を騙すために言葉を使う)

 

師の教えが頭をよぎるが、今日一日、彼のひたむきな働きぶりと優しさに触れ続けた彼女の心は、否応なしに揺らぎ始めていた。

 

「ルーク様……ね。それでフェルン。奴の印象はどうだった? 変わったことはある?」

 

フリーレンがスープを一口すすり、フラットな声で尋ねた。エルフの薄い翡翠の瞳が、フェルンの表情の細かな変化を見逃さずに捉える。

 

「……極めてまっとうな好青年、としか表現のしようがありません」

フェルンはスプーンを握り、少し俯いた。

「便利屋としての仕事ぶりも完璧で、街の人々からも心から信頼されていました。不審な動きも、不自然な魔力の高まりも、ただの一度もありません。フリーレン様……本当に、あのルーク様は、人間を害する意志を持たない魔族なのではないでしょうか」

 

その問いかけに、テーブルを静寂が包み込んだ。

 

「俺たちもさ、街の奴らに話を聞いてきたんだ」

シュタルクが少し気まずそうに、頭の後ろを掻きながら言った。

「20年前に、ただの物乞いの子どもとしてこの街に現れて、すぐに大きくなって、それからはずっとあの顔のまま、便利屋として街を助けてきたんだってさ。おばちゃんたちも、じいさんも、みんな口を揃えてルークを褒めてた。ルークが言ってたことは、全部本当だったんだ」

 

「そうだね」

 

フリーレンは静かに黒パンを千切り、スープに浸した。

 

「でもね、二人とも。それはやっぱりおかしいんだよ」

 

フリーレンの平坦な語り口には、千年の歴史を生き抜いてきた者だけが持つ、絶対的な冷徹さが宿っていた。

 

「魔族の主食は人間だ。奴らにとって、人間を食べることは、私たちがパンを食べるのと同じ生理欲求なんだよ。20年間、人間社会に溶け込んで生活していたとしても、その間、奴は何を食べていたの? 街の家畜? それとも、ただのスープやパンだけで、本能を無視してきたと思う?」

 

「それは……」

フェルンは言葉を詰まらせた。

 

「魔族は、言葉を使って人を欺く。どれだけ美しく、どれだけ親切であっても、それは奴らの生存本能に基づく『擬態』だ。20年という歳月は、人間にとっては一生の中の大きな一部だけど、魔族にとってはほんの短い準備期間に過ぎない」

 

フリーレンは千切ったパンを口に運び、ゆっくりと咀嚼してから、真っ直ぐにフェルンを見つめた。

 

「奴が本当に人を食べていないのか、それとも、この街の誰も気づかない方法で、すでに誰かを『喰って』いるのか。私はそれを突き止めたい。……フェルン、明日もルークの仕事を手伝って。奴が何を食べて、どうやって生きているのか、その本質を暴くんだ」

 

フェルンは、温かいスープを見つめたまま、小さく頬を膨らませた。

頭ではフリーレンの言うことが正しいと理解している。しかし、今日自分を助けてくれたあの美しい魔族の温もりを、どうしてもただの「捕食者の擬態」だとは思いきれずにいた。

 

* * *

 

それから数日の間、フェルンは毎日朝からルークの便利屋仕事を手伝い、その背中を至近距離で監視し続けた。

 

仕事の内容は多岐にわたった。潮風で建て付けの悪くなった大扉の削り出し、高台の畑への重い肥料の搬入、そして時には暴風で流されてきた流木の撤去。肉体労働の経験が乏しいフェルンにとって、それは決して楽な日々ではなかった。

 

しかし、そのすべての瞬間において、ルークは完璧な相棒であり続けた。

 

「フェルンさん、そこは足元が不安定です。僕の足跡を踏んで歩いてください」

 

急な坂道で荷台が揺れた時、彼は素早くフェルンの背後に回り込み、その華奢な肩を綺麗な手でそっと支えた。重い丸太を持ち上げる際も、フェルンが魔法を放つタイミングを計るまでもなく、自らの怪力で平然と持ち上げ、彼女に一切の負担をかけさせなかった。

 

仕事中の彼の姿は、泥に汚れながらも息を呑むほど美しかった。

額から流れる汗を拭う細い指先、乱れた栗色の髪から覗く琥珀色の双眸。そして何より、街の人々に向ける屈託のない、しかしどこか気品に満ちた微笑み。

 

「ルーク様、その……あちらの女性たちが、先ほどからずっとこちらを見ています」

 

ある日、木陰で短い休息を取っていた際、フェルンは少し頬を膨らませて告げた。

通りの向こうから、若い娘たちが何度もルークを盗み見ては、楽しげに囁き合っている。

 

「おや、そうでしょうか。僕はただ、こうしてフェルンさんと美味しいお茶を飲めれば、それで十分満足なのですが」

 

ルークはそう言って、フェルンのために持参した冷たい果実水を優しく差し出した。その美しい顔に、一点の曇りもない好意が浮かんでいる。

 

「……っ。無駄に人を惑わすような台詞を言うのはやめてください。シュタルク様並みに無自覚で不愉快です」

 

フェルンは慌てて果実水を受け取り、顔を背けて一気に飲み干した。

心臓が不自然に早く鼓動を打っている。

(これは監視です。私は、この魔族のボロを暴くためにここにいるのです)

 

何度も心の中で呪文のように唱える。だが、その完璧な優しさと、言葉を放棄したかのような誠実な働きぶりを前にして、彼女の頑なな防壁は、砂が水に溶けるように少しずつ形を失いつつあった。

 

その日の作業がすべて終わり、夕闇がラインハイトの街を紫色のベールで包み込み始めた頃。

道具を台車に片付け終えたルークが、ふと足を止め、頭上の2本の角を軽く指で撫でながらフェルンを振り返った。その表情には、悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。

 

「フェルンさん。実は、明日は一日、便利屋の仕事が非番なんです」

 

「非番、ですか」

フェルンはいつものように、木製の杖を胸元で抱え直しながら耳を傾けた。

 

「ええ。ですが、フェルンさんは僕の『監視役』ですから。仕事が休みだからといって、僕を一人にするわけにはいきませんよね? 明日も一緒に過ごしていただけるでしょうか」

 

ルークは一歩、フェルンとの距離を詰めた。

潮風にのって、彼の纏う清潔な石鹸の香りがフェルンの鼻腔をくすぐる。

 

「……それは、当然です。私はフリーレン様にルーク様の監視を命じられています。あなたが不穏な動きをしないよう、一日中つきまとわせていただきます」

 

フェルンは精一杯の冷徹な声を意識して胸を張った。

しかし、ルークはくすくすと喉を鳴らして微笑み、彼女の顔を覗き込んだ。

 

「ふふっ。一日中一緒、ですか。それは……デートですね」

 

「デ、」

フェルンの頭の中で、何かが真っ白に弾けた。

 

「な、何を言っているのですか、この魔族は……! バカなのですか!? 監視です、ただの業務命令による監視です! 怒りますよ!」

 

「はい、楽しみにしていますね。では、明日の朝、宿の前でお待ちしています」

 

完璧な一礼を残し、ルークは暮れゆく街の坂道を軽やかな足取りで下っていった。

残されたフェルンは、自分の顔がリンゴのように赤くなっているのを自覚し、両手で頬を押さえたまま、しばらくその場から動くことができなかった。

 

同じ頃、宿の一室では、別の頭痛の種がフリーレンとシュタルクを悩ませていた。

 

「うーん……やっぱり、何もないね」

 

フリーレンは、ベッドの上にだらしなく寝転がりながら、近くの古書店で手に入れた「ラインハイト街史」の分厚い頁をパラパラとめくっていた。足元のアホ毛が、退屈そうに左右に揺れている。

 

「何もないって、ひとつも不審な記録はなかったのかよ、フリーレン」

 

床に座り込み、大斧の刃を磨いていたシュタルクが顔を上げた。ここ数日、二人は街のギルド、古い教会、果ては数代前の街長の遺族にまで聞き込みを行っていた。

 

「20年前から今まで、この街で不審な行方不明者や、未解決の殺人事件が起きた形跡は一切ない。ルークが現れてからの20年間、この街の人口動態は驚くほど安定しているんだ。魔族が日常的に人間を捕食していたら、必ずどこかで不自然な『歪み』が生じるはずなんだけど……それが全くない」

 

フリーレンは本を閉じ、天井をじっと見つめた。

 

「魔族は、人間を食べる。それは絶対の摂理だ。それなのに、ルークはこの街で誰も喰っていない。……あるいは、私たちの知らない『捕食』の形があるのか」

 

「なぁ、フリーレン。もうそれって、あいつが本当に『人を襲わない特別な魔族』だってことじゃないのか?」

シュタルクは少し頼りない声で言った。

「飯を食わない生き物だっているだろ。ほら、魔導書に出てくるような不思議な生き物みたいにさ。あいつ、便利屋として本当にみんなに愛されてるんだ。これ以上疑うの、なんだか悪い気がしてさ……」

 

「……」

 

フリーレンは何も答えず、ただ静かに窓の外の闇を見つめた。

人間の「時間」と「感情」の隙間に滑り込み、完璧に溶け込んでいる魔族、ルーク。

その完璧さこそが、エルフの魔法使いに、言葉にできないほど不気味な寒気を抱かせ続けていた。

 

 

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