ラインハイトの蜜月   作:龍改二

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第3話 墓地の無い街

 

ハーブティーの温かい湯気が、木製のテーブルの上で静かに揺れていた。

夜も更け、宿屋の食堂から客の姿が消え去った頃。部屋に戻った三人だけの空間に、窓の外から聞こえる単調な波の音だけが満ちていた。

 

フェルンはベッドの端に腰掛け、膝の上でそっと指先をいじらせていた。いつもなら真っ先にフリーレンの髪を梳かし始める時間だが、今夜の彼女はどこか落ち着きがない。

 

「……フリーレン様、シュタルク様」

 

フェルンは小さく息を吸い、意を決したように顔を上げた。少しだけ耳のあたりが赤くなっている。

 

「明日のことなのですが。ルーク様は便利屋の仕事が非番だそうです

 

「お、なんだ。じゃあ明日はフェルンは休みだな。疲れてるだろ、ゆっくり寝てろよ」

 

シュタルクが斧の手入れ油を拭いながら、気楽な調子で言った。だが、フェルンはさらに頬を硬く強張らせ、不満げに彼を睨みつけた。

 

「バカなのですか、シュタルク様。私は『監視役』です。彼が非番だからといって、一人にするわけにはいきません。ですから、明日も一日中、ルーク様と行動を共にすることになりました」

 

「おう、そうか。監視なら仕方ねえな」

 

「……ルーク様は、それを『デート』とおっしゃっていました」

 

一瞬の静寂。

 

「デッ、デデデ、デートォ!?」

 

シュタルクが飛び上がらんばかりに椅子をガタつかせ、手にした布を落とした。その顔は驚愕と、何か言葉にできない焦燥感で急激に赤くなっていった。

 

「お前、魔族だぞ!? あいつイケメンだけど魔族なんだぞ!? デートって、それお前、絶対に騙されて……いや、あの野郎、そういう邪な気持ちで近づいてるんじゃねえだろうな!? おい、フェルン!」

 

「うるさいですよ、シュタルク様」

 

フェルンはすっと目を細め、氷のように冷ややかな視線をシュタルクに突き刺した。両頬をこれでもかというほど丸く膨らませ、呆れたようにため息をつく。

 

「声が大きいです。ただの監視を勝手にデートと呼んだのはルーク様であって、私は一言もそんなことは言っていません。それに、あなたがそんなに騒ぐ理由がどこにあるのですか? 器が小さいです。ちっさ」

 

「ちっ、ちっさ……!? 俺はただ、フェルンが心配で……!」

 

シュタルクが胸を押さえてガックリと項垂れる。その様子を、ベッドの上のフリーレンは、顎に手を当てたままフラットな目で見つめていた。その頭上の一本のアホ毛が、ふよふよと微かに揺れる。

 

「デートか。いいんじゃない、フェルン」

 

フリーレンはいつものように、起伏のない声で言った。

「人間の街で仕事をしている魔族。その余暇の過ごし方を観察するのも、奴の本性を知るいい手がかりになる。ただ、油断だけはしないでね」

 

「わかっています、フリーレン様。いつでも背後から撃ち抜く準備はできています」

 

フェルンは少しだけ視線を泳がせながら、木製の杖を強く握りしめた。

 

「それよりも」

 

フリーレンはベッドからゆっくりと這い出し、裸足のまま窓辺へと歩いた。

窓枠に両手をかけ、暗い海と、そこに点々と灯る港町の明かりを見つめる。その瞳は、連日の聞き込み調査で得た幾つもの「違和感」を、頭の中で繋ぎ合わせているようだった。

 

「私、さっき気づいたんだよね。この街の様子、やっぱり何かがおかしい」

 

「おかしいって、何がだよ?」

シュタルクが赤くなった顔を引っ込め、真剣な表情になってフリーレンを見た。

 

「この街には、墓地がないんだ」

 

フリーレンの静かな言葉に、フェルンとシュタルクが息を呑んだ。

 

「……え?」

 

「どんなに小さな集落でも、人間が暮らしている場所には必ず死者を受け入れる墓地がある。でも、ラインハイトの街のどこを探しても、お墓がない。これだけ歴史が古くて、何世代も人が暮らしているはずなのに」

 

フリーレンは振り返り、薄い翡翠の瞳で二人を見つめた。エルフの長い耳が、潮風を孕んでわずかに動く。

 

「死者はどうしているんだろう。街を出ていく人たちはいるのかな。それとも……」

 

彼女の脳裏に、20年前にこの街に現れ、それからずっと「若く美しいまま」便利屋として慕われている魔族の姿が浮かぶ。街の誰もが彼を愛し、信頼している。その完璧な調和。

 

「明日はそれを聞いてまわろう。ルークの監視はフェルンに任せるよ。私たちにしか見つけられない『歪み』が、この街のどこかにあるはずだ」

 

* * *

 

ラインハイトの朝は、海霧を伴って明けた。

波止場に打ち寄せる静かな波の音が宿の部屋まで響く中、フェルンは鏡の前で何度も髪を整えていた。いつも通りの地味な黒いローブと白いワンピース。それでも、胸元のリボンがわずかに歪んでいるのが気になり、何度も結び直す。

 

「……私は監視に行くのです。不必要な装飾など無意味です」

 

自分に言い聞かせるように呟き、木製の杖をしっかりと握りしめる。

部屋を出る際、まだベッドの中で毛布にくるまっていたフリーレンが、眠たげな目で片手をひらひらと振った。

 

「いってらっしゃい、フェルン。あまり遅くならないでね」

 

「わかっています。フリーレン様も、お昼までには起きてください」

 

そう言い残して宿の玄関を出ると、冷たい朝の空気がフェルンの頬を撫でた。

石畳の坂道の下、朝日に照らされてきらめく海を背景に、一人の男が立っていた。

 

ルークだった。

今日の彼は、いつもの泥に汚れた作業着ではなく、仕立ての良い白いシャツに濃紺の上着を羽織っていた。その端正な顔立ちは、朝の清烈な光を浴びて、彫刻のような神聖さすら帯びている。頭上の2本の角だけが、彼が人ならざる者であることを静かに主張していた。

 

「おはようございます、フェルンさん。今日も一段と素敵ですね」

 

ルークはフェルンが近づくのに気づくと、胸に手を当てて優雅に一礼した。その仕草には、大国の宮廷騎士をも凌ぐほどの気品があった。

 

「……おはようございます、ルーク様。お世辞は結構です。私はあなたの監視のために同行するだけですので」

 

フェルンは努めて冷淡に、いつものように頬を少し膨らませて告げた。しかし、ルークの琥珀色の瞳に見つめられると、どうしても視線が泳いでしまう。

 

「ええ、分かっています。ですが、僕にとっては特別な一日です。さあ、行きましょうか。まずは朝の市場を少し歩きませんか」

 

ルークはそう言うと、自然な動作で自らの右腕を差し出した。

エスコートの誘い。フェルンは一瞬躊躇したが、ここで拒絶するのも「監視」に支障が出ると思い直し、恐る恐るその腕に自らの手を添えた。彼の衣服越しに伝わる、しっかりとした強靭な肉体の温もりに、フェルンの心臓がまた小さく跳ねる。

 

市場は朝の活気に満ちていた。

色とりどりの魚や、内陸から運ばれてきた果物が並ぶ露店の間を歩く。ルークが隣にいるだけで、周囲の空気が華やぐようだった。

 

「おや、ルーク。連れがいるなんて珍しいじゃないか。……ほう、お似合いのカップルだね」

 

果物売りの主人が、冷やかすように声をかけてきた。

彼は、赤く熟したリンゴを二つ、手際よく袋に詰めて差し出す。

 

「これは俺からのサービスだ。可愛いお嬢さんを、しっかり楽しませてあげなよ」

 

「ありがとうございます。大切にいただきますね」

 

ルークは微笑み、代金を支払おうとしたが、主人は頑なにそれを受け取らなかった。ルークが街でどれほど愛されているかが、そのやり取り一つで伝わってくる。

 

「ル、ルーク様。否定してください。私たちはそのような関係では……」

 

フェルンが真っ赤になって小声で抗議するが、ルークはただ優しく微笑むだけだった。

 

「いいじゃないですか。街の人たちが僕たちのことをそう見てくれるのは、僕にとって光栄なことです」

 

その言葉に、フェルンは反論する言葉を失う。

通りを歩くたび、買い出しに来ていた街の若い女性たちが、ルークに寄り添うフェルンを視線で貫かんばかりに見つめていた。羨望と、微かな嫉妬。これほど美しく、紳士的で、誰からも愛される男の隣にいるという事実が、フェルンの心の中に、得も言われぬ甘やかな泥を沈殿させていく。

 

(この人は、本当に魔族なのだろうか……)

 

フェルンは、自分の手を支えるルークの横顔を盗み見ながら、かつてないほどの自己嫌悪と、それに勝る心地よい浮遊感に包まれていた。

 

* * *

 

同じ頃、フリーレンとシュタルクは、港の最果てにある古びた造船所の脇を歩いていた。

潮風に晒されて灰色に退色した木材が積み上がる中、年老いた船大工が一人、小さなカンナで板を削っていた。

 

「死者の弔い、かい?」

 

老人は手を止めず、削り節を吹き飛ばしながら、しわがれた声で言った。

 

「ああ。この街には昔から墓地なんて不景気なもんはないよ。ラインハイトの人間はな、死んだら海に還るんだ。水葬さ」

 

「水葬……」

シュタルクが、背負った大斧の重みを感じるように、少し身を硬くした。

 

「沖合は潮の流れが速くてな。遺体を小舟に載せて、遠くの深海まで運んで沈めるのさ。だが、ここ十数年は、その仕事はすべてルークが引き受けてくれている」

 

「ルークが、一人で?」

フリーレンが一歩前に出て、静かに問いかけた。そのツインテールが海風に揺れる。

 

「そうだ。水葬ってのは骨が折れるし、遺族にとっては辛い儀式だ。それをルークは『僕が代わりに、静かに送ってあげます。それが、この街への恩返しですから』と言って、夜明け前に一人で舟を出して執り行ってくれる。本当にできた奴だよ」

 

船大工はルークを称賛するように何度も頷いた。

 

「それだけじゃない。この街を出ていく奴らも、みんなルークに見送ってもらう。たまに、病気療養のために大きな病院がある街へ引っ越す老人や、新しい職を求めて旅立つ若者がいるだろ。その旅支度も、隣の港町までの舟の手配も、全部ルークが一人でやってくれるんだ」

 

「……その、出ていった人たちから、手紙とかは届くの?」

 

フリーレンの問いは、平坦だが、深淵を覗き込むような暗さを孕んでいた。

船大工は少し首を傾げ、記憶を辿るように眉をひそめた。

 

「手紙? いや……そういえば、届かねえな。まぁ、旅立った奴らはみんな、新しい土地で忙しくしてるんだろう。便りがないのは無事な証拠って言うしな」

 

「そっか」

 

フリーレンはそれ以上何も聞かず、船大工にお礼を言って歩き出した。

 

造船所の影に入った瞬間、シュタルクがたまらずフリーレンの前に回り込んだ。その顔は、恐怖と混乱で青ざめている。

 

「なぁ、フリーレン……あれ、どういうことだ? 街を出た奴らから手紙が来ないって……。それに、水葬された遺体も……」

 

「シュタルク。魔族はね、決して人間と共存できない」

 

フリーレンは足を止め、錆びた錨が沈む海を見つめた。

その瞳は、千年の旅の中で見てきた、数多の「魔族の罠」の残骸を映し出しているようだった。

 

「ルークは20年間、誰も襲っていないように見えた。でも、それは違う。彼は最も効率的で、誰にも怪しまれない『獲物の狩り場』を作ったんだ」

 

フリーレンの脳裏で、すべてが繋がっていく。

 

死者を海へ送るという名目で、新鮮な人間の遺体を独占する。

街を去る者を送るという名目で、誰からも「いなくなった」としか認識されない生きた人間を、舟の上で静かに「処理」する。

ルークが美しく、親切であり続けたのは、街の人々に進んで「死者」と「転出者」を自らに委ねさせるための、完璧な擬態だったのだ。

 

「ルークにとってこのラインハイトは、待っているだけで新鮮な肉が手に入る『生簀(いけす)』なんだよ」

 

ケープから覗くフリーレンの手に、赤い杖が握られる。

その魔力はまだ静かだったが、極めて冷徹な殺意を孕んで、じわじわと高まり始めていた。

 

* * *

 

海を見下ろす高台のベンチで、フェルンとルークは並んで座っていた。

 

手渡された赤いリンゴは、驚くほどに瑞々しく、甘かった。シャキリと心地よい音を立てて果肉を噛み締めるたび、口いっぱいに広がる豊かな果汁が、旅の疲れを優しく解きほぐしていく。

 

「美味しいですか?」

 

隣に座るルークが、優しく小首を傾げて覗き込んできた。その切れ長の琥珀色の瞳が、フェルンの咀嚼する様子を愛おしそうに見つめている。

 

「……はい。とても、甘いです」

 

フェルンは少しだけ顔を赤らめ、リンゴで口元を隠すようにして小さく頷いた。

彼の美しい所作や、押し付けがましくないエスコートに触れ続けるうち、胸の奥に灯った微かな熱が消えてくれない。魔族は嘘を吐く生き物。その大原則は百も承知のはずなのに、隣から漂う清潔な石鹸の香りと、穏やかな波の音のせいで、思考がうまくまとまらなかった。

 

その時、急に冷たい風が吹き抜け、周囲の木々がざわざわと騒ぎ立てた。

きらきらと輝いていた海は一瞬にして鉛色へと姿を変え、頭上には驚くほどの速さで重苦しい黒雲が立ち込めていく。ぽつり、とフェルンの額に冷たい雫が落ちた。

 

「おや、天気が崩れてしまいましたね。港町の雨は、一度降り始めると激しい風を伴うことが多いんです」

 

ルークは立ち上がり、空を見上げて困ったように眉を下げた。そして、すぐにフェルンを庇うように自らの上着を少し広げ、雨を遮る影を作る。その至近距離での紳士的な振る舞いに、フェルンは思わず息を呑んだ。

 

「フェルンさん。僕の部屋が、この坂を下りたすぐ近くにあります。雨が止むまで、そこで雨宿りをしませんか?」

 

ルークはそう言うと、いつものように穏やかに、しかしどこか拒絶を許さないほどに魅力的な微笑みをフェルンに向けた。

 

「フェルンさんは僕の『監視役』ですから。雨宿りの間も、僕を一人にするわけにはいきませんよね?」

 

「それは……」

 

フェルンは躊躇した。

魔族の私生活の場。それは監視の対象として最も重要な場所であると同時に、完全に逃げ場を失う、最も危険な密室でもある。

だが、連日の疲れと、彼の完璧な優しさに絆されかけている彼女の心は、「監視のため」という免罪符を都合よく使い、その危険性から目を逸らそうとしていた。

 

「……分かりました。お言葉に甘えさせていただきます。ですが、変な気を起こしたら、すぐに撃ち抜きますから」

 

「ふふ、心得ています。では、こちらへ」

 

ルークの手がそっとフェルンの肩に添えられ、2人は雨が激しくなり始めた石畳の坂道を急ぎ足で下り始めた。

 

* * *

 

激しさを増す雨の中、フリーレンとシュタルクは、先ほどまで二人がいた市場の通りを走り抜けていた。

叩きつけるような雨がフリーレンの白いツインテールを濡らし、ケープを重く湿らせていく。

 

「フリーレン! あいつら、どこに行ったんだよ! 魔力は探知できないのか!?」

 

大雨の音に負けないよう、シュタルクが大声を張り上げる。その顔は、焦燥と恐怖で青ざめていた。

 

「だめだ、雨のせいで魔力の残滓が流されて、大体の方角しかわからない。それに、ルークの魔力の流れは、あのフェルンが気づかないくらいに精密で、不自然なほど静かだ……!」

 

フリーレンは走りながら、鋭い視線で周囲の建物を探る。せめてもう少し接近できれば、フェルンの魔力を見つけられる。その赤い杖を握る手には、かつてないほどの力がこもっていた。

 

「水葬に、旅立ちの手配……。ルークは、この街で『死んだ人間』と『消える人間』を独占している。彼は間違いなく、人間を喰っているんだ。それも、20年間、誰にも気づかれないように完璧なシステムを作って」

 

フリーレンの脳裏に、フェルンの姿がよぎる。

もし、あの完璧な擬態にフェルンの心が完全に絆されてしまっていたら。魔族が最も牙を剥きやすい「一対一の完全な密室」に誘い込まれてしまったら。

 

「シュタルク、急ごう。フェルンが危ない」

 

激しく降りしきる雨はすべての音をかき消し、魔族の牙が潜む夜の帳を、ラインハイトの街へと引き摺り下ろそうとしていた。

 

 

 

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