ラインハイトの蜜月   作:龍改二

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第4話 偽愛の呪い

激しく窓を叩く雨音が、室内の静寂をかえって際立たせていた。

 

急な雨に追われるようにしてたどり着いたルークの家は、港に近い路地の奥にある、ごく普通の木造集合家屋の二階だった。

鍵を開けて入ったその部屋は、魔族の住処というおぞましいイメージからは程遠い、あまりにもありふれた人間の青年の生活空間であった。

 

少し使い込まれた木のテーブル、脱ぎっぱなしで椅子の背に掛けられた作業着、棚に雑然と並べられた食器や生活雑貨。汚くはないが、隅々まで整理整頓されているわけでもない。その適度な雑多さが、かえってそこに息づく「日常」をリアルに伝えていた。魔族が人間のふりをするための無機質な舞台装置などではない。ルークという一人の若者が、確かにここで日々を重ねているのだと、そう思わせるだけの生活感があった。

 

「あちこち散らかっていてすみません。なにぶん、フェルンさんをお招きする予定なんて、今朝の段階では考えてもいなかったので」

 

ルークは濡れた上着を脱いで壁のフックに掛けながら、少し気恥ずかしそうに頬を掻いた。栗色の髪が水分を含んで額に張り付き、その隙間から覗く2本の角が、薄暗い室内で怪しく艶を放っている。しかし、彼の浮かべた照れくさそうな笑みは、そんな異形を完全に忘れさせるほどに、どこまでも無害で魅力的だった。

 

フェルンは入り口近くで立ち尽くしたまま、手にした木製の杖をきゅっと握りしめた。

濡れたローブからぽたぽたと雫が床に垂れる。

 

「……いえ。急にお邪魔してしまったのは私の方ですから。お気になさらないでください」

 

そう言いながらも、フェルンは油断なく部屋の様子に視線を巡らせていた。

不自然な人間の遺留品などがないかを探る。だが、視界に入るのは便利屋の道具袋や、街の子供に貰ったとおぼしき不格好な貝殻の置物だけだった。

 

「まずは身体を温めてください。風邪を引いてしまったら大変だ」

 

ルークは手際よく暖炉に火を入れ、それから調理場のケトルを火にかけた。カチャカチャとスプーンとカップが触れ合う小気味よい音が部屋に響く。

やがて、陶器のカップになみなみと注がれた、湯気を立てる温かい飲み物がフェルンの前に差し出された。昨日の冷たい果実水とは違い、今度は蜂蜜とミルクをたっぷりと加えた、甘いハーブティーだった。

 

「どうぞ、フェルンさん。熱いですから気をつけて」

 

差し出されたカップを包み込むルークの指先は、細く、美しい。

至近距離で手渡される際、フェルンの指先がルークの温かい肌に微かに触れた。フェルンはびくりと肩を揺らし、慌ててカップを両手で受け取った。

 

「……ありがとうございます、ルーク様」

 

カップから立ち上る甘い香りと湯気が、雨で冷え切ったフェルンの顔を包み込む。

一口含むと、濃厚な甘みとハーブの爽やかな香りがじんわりと五臓六腑に染み渡り、強張っていた全身の緊張がほどけていくのが分かった。

 

ルークは自分用の簡素な木製コップを手に、テーブルを挟んでフェルンの向かい側に腰掛けた。

肘をつき、ただ穏やかな眼差しで彼女が飲み物を口にする様子を見守っている。

 

「どうですか? 美味しいですか?」

 

「……はい。とても、甘くて温かいです」

 

フェルンはカップの縁に唇を押し当てたまま、少し俯き加減に呟いた。

ルークのあまりにも自然な優しさ、そして彼が持つ圧倒的な美貌と流麗な所作が、彼女の胸の奥を激しく揺さぶっている。

(この人は本当に、悪い魔族なのでしょうか。フリーレン様の言う通り、ただ人間に擬態しているだけなのでしょうか……)

そう自問するたびに、彼に助けられた時の腕の温もりや、街の人々から向けられていた温かい視線が、フリーレンの冷徹な言葉を打ち消そうとする。

 

フェルンは少し頬を膨らませ、甘いハーブティーの湯気の中に、自らの困惑と絆されかけた心を隠そうとしていた。

 

温かいハーブティーの湯気が、フェルンの強張った輪郭を白くぼやかしていた。

窓の外では雨脚がさらに強まり、叩きつけるような水音が、外界との繋がりを完全に遮断されたかのような錯覚を抱かせる。

 

「ハ、シュッ……」

 

フェルンは小さくくしゃみをした。

急いで袖口で口元を押さえたが、濡れた前髪から冷たい雫がまつ毛に垂れ、身震いする。やはり、潮風に濡れた体は自分が思う以上に冷え切っていた。

 

「おや」

 

対面に座っていたルークが、すぐに立ち上がった。

その動作には一切の無駄がなく、流れるような美しさがあった。彼は部屋の隅にある古びたチェストから、厚手の柔らかそうなブランケットを取り出すと、迷いのない足取りでフェルンのすぐそばへと歩み寄った。

 

「失礼しますね」

 

囁くような声と共に、フェルンの肩にふわりと温かい起毛の感触がかけられる。

それだけでは終わらなかった。ルークはブランケットの両端を整えるようにして、フェルンの華奢な肩を、自らの滑らかな両手でそっと包み込んだのだ。

 

「……っ」

 

フェルンは息を呑み、身体を硬直させた。

あまりの至近距離。見上げれば、ルークの整った顎のライン、そして双眸がすぐ目の前にあった。彼の指先から伝わる体温と、ブランケットから立ち上る、乾いた陽だまりのような温もりが、フェルンの濡れた肌に直接染み込んでいく。

 

――その瞬間、世界が真っ白に弾けた。

 

すさまじい落雷の閃光が窓を青白く焼き、一瞬遅れて、大地を揺るがすような轟音が部屋を震わせた。

 

「きゃっ……!」

 

落雷の衝撃と恐怖に、フェルンは無意識のうちに手に持っていたカップをテーブルに置き、目の前の胸元にしがみついていた。

ルークの白いシャツを、両手で強く、引きちぎらんばかりに握りしめる。

 

「大丈夫ですよ、フェルンさん。ただの雷です。僕はここにいます」

 

ルークの声は、耳元で信じられないほど甘く、深く響いた。

彼はフェルンを拒絶することなく、むしろ愛おしいものを守るように、その背中にそっと腕を回して抱き寄せた。

 

ルークの胸に顔を埋めた瞬間、フェルンの脳裏を支配したのは、これまでに嗅いだことのないほどの「甘美な香り」だった。

 

それは石鹸の清潔な香りの奥に潜む、脳の髄を直接痺れさせるような、極めて濃厚で退廃的な芳香。

かつてフリーレンから教わった、どのハーブの知識にも該当しない。それは生物としての防衛本能を麻痺させ、あらゆる恐怖を至上の快楽へと変換する麻酔のような、「魅了」の芳香であった。

 

(冷たい、はずなのに……どうして、こんなに温かいのでしょう……)

 

フェルンの思考が、急速に泥のように濁っていく。

「この男は魔族だ」「早く離れなければいけない」「杖を手に取らなければ」という魔法使いとしての警告は、甘い香りを吸い込むたびに、遥か彼方へと霧散していった。

 

彼の腕の強さ。

自分を包み込む、確かな鼓動。

20年間、この街で誰からも愛され、街に住む誰一人も傷つけずに生きてきたという、偽りのない「真実」。

 

「フェルンさん。そんなに怯えなくていい」

 

ルークの細い指先が、フェルンの濡れた紫色の髪を優しく梳く。

その一挙手一投足が、彼女の心に絡みついた警戒の糸を、一本ずつ丁寧に解きほぐしていった。

 

「あなたを傷つけるものは、ここには何もありません。ただ、僕に身を委ねてくれればいいんです」

 

「ル、ルーク……さま……」

 

フェルンの瞳から、徐々に焦点が失われていく。

彼女の頬はリンゴのように赤く染まり、その唇からは、ただ熱い吐息だけが漏れていた。

 

魔族が張り巡らせた完璧なクモの巣の中で、哀れな獲物は、自らが喰らわれようとしていることすら自覚できぬまま、その甘美な毒に深く、深く溺れていく。

 

激しい雷鳴が窓を震わせ、薄暗い部屋を青白く一瞬だけ切り裂いた。

二本の角が生えたルークのシルエットが、恐ろしい怪物のように、瞬間的に壁に投影されて消えた。

 

暖炉の火が爆ぜる音と、窓を叩く凄まじい雨音。そのすべてが、今のフェルンにとっては遥か遠くの出来事のように感じられた。

 

視界が、ぐにゃりと歪んでいる。

鼻腔を満たすのは、清潔な石鹸の香りの奥に潜む、脳髄を直接麻痺させるような甘美な芳香。それを取り込むたびに、フェルンの思考力は急速に奪われ、ただ目の前にいる美しい魔族の存在だけが、世界のすべてとして再構築されていく。

 

ルークの細い指先が、フェルンの濡れた頬にそっと触れた。

その触れ方はあまりにも優しく、壊れ物を扱うかのようだった。ルークは、自身の唇がフェルンの唇に触れ合いそうになるほどの距離まで、ゆっくりと顔を近づける。

 

琥珀色の瞳が、熱を帯びたように揺れていた。

 

「フェルンさん、あなたは可憐な人だ。生まれて初めてそう思いました」

 

囁かれた言葉は、フェルンの耳から直接脳の奥底へと融け込んでいく。

その甘い声音は、彼女がこれまで頑なに守ってきた理性の壁を、完全に塵へと変えた。

 

(……ああ、この人は……)

 

フェルンは完全に絡め取られていた。

ぐずぐずに蕩けきった彼女の脳は、もはや正常な判断を下すことなどできない。ルークから向けられる圧倒的な好意、その美しい容姿、そして何より全身を包む甘美な芳香に、彼女の心は完全に屈服していた。

 

これが魔族の罠だという疑念は、とうに消え去っている。

ただ、この温もりに満たされたい。この美しい人に、すべてを委ねたい。

 

フェルンは吸い寄せられるように、自ら、その柔らかい唇をルークの唇へと重ねた。

 

触れ合う熱。

フェルンの瞳から完全に理性の光が失われ、ただ深い恍惚だけがその紫の双眸を満たしていく。

 

そのフェルンの背中に腕を回しながら、ルークの微笑みの角度が、ふっと冷酷なものへと変わった。

彼の琥珀色の瞳の奥に宿ったのは、愛などではなく、冷徹極まりない「獣」の光だった。

 

魔族の名は、「偽愛のルーク」。

 

「言葉を操り人を欺く」それがフリーレンの知る魔族の一般的な生態であり、擬態の手段だった。しかし、ルークが持つ魔法式は、フリーレンの想定を遥かに超越していた。

 

彼が操るのは、ごく微量の魔力だけで常時稼働し続ける「人を魅了する魔法」。

それは魔法の極致に達した魔族の「呪い」であり、人類の魔法技術では未だ解析不可能な精神改変の深淵だった。

 

この呪いは、周囲の人間を時間を掛けて魅了する。

男性であればルークを深く信頼し、女性であれば狂おしいほどの恋に堕ちてしまう。

常時稼働型で魔力の継ぎ目がなく、放出される魔力量も極小であるため、たとえ千年の歳月を生きるエルフであるフリーレンであっても、魔力探知でこれを見破ることは不可能だった。街の人々が彼を狂信的に愛し、何一つ疑問を持たなかったのは、この呪いが20年間、絶え間なく街全体を侵食し続けていたからに他ならない。

 

そして今、ルークの狙いは「捕食」ではなかった。

 

彼の目的はただ一つ。

自らが築き上げたこの安住の地、ラインハイトでの安寧を脅かす、あの忌々しいエルフ――「葬送のフリーレン」の駆除。

 

そのためには、フリーレンが深く信頼し、いつも近くに置いている弟子を、自分の手足となる「尖兵」に仕立て上げるのが最も確実だった。

 

ルークはフェルンを優しく抱きしめながら、その背中を愛おしそうに撫でる。

彼女の心はすでに、ルークの意のままに動く忠実な人形へと作り変えられていた。

 

* * *

 

「ハァ、ハァ……! クソ、ひでえ雨だな!」

 

街の坂道を、シュタルクが雨水を跳ね上げながら猛然と走っていた。

その隣を、濡れたツインテールを振り乱しながら、フリーレンが赤い杖を手に並走する。

 

「シュタルク、急いで。何かがおかしい」

 

フリーレンの表情には、いつもの気の抜けた様子は微塵もなかった。

エルフとしての冷徹な観察眼が、激しい雨のノイズの向こう側に、極めて微小な、しかし確実にラインハイト全体を覆っている「淀み」を捉え始めていた。

 

「おかしいって、何がだよ!?」

 

「魔力探知じゃない。でも、私の直感が言ってる。ルークって魔族は、言葉だけで人間を騙しているんじゃない。……もっと、別の何か。人間が絶対に抗えない『呪い』のようなものが、この街を包んでる」

 

フリーレンは、かつての師であるフランメの言葉や、魔王軍・七崩賢が使っていた、精神に直接干渉する陰惨な魔法の記憶を呼び起こしていた。

 

もし、それがフェルンに牙を剥いているのだとしたら。

すでに「言葉への警戒」など、何の意味もなさない。

 

「フェルン……!」

シュタルクが悲痛な声を上げ、大斧を握る手に力を込める。

 

そのとき、フリーレンの魔力探知が、フェルンの弱々しく揺れる魔力をついに捕らえた。

 

2人の前に、古びた木造集合家屋の影が、大雨のカーテンの向こうからうっすらと姿を現した。あの部屋の薄暗い光の中に、大切な仲間が囚われている。

 

* * *

 

激しい雨音が、世界を狭い密室の中に閉じ込めていた。

 

薄暗い部屋の片隅で、二つの影が重なり合っている。

ルークの冷たい指先がフェルンの華奢な首筋を這い、引き寄せる。重なり合った唇は、単なる親愛の儀式を遥かに超越していた。

 

長い長い、濃厚なキスだった。

互いの体液と体温を貪り合うように、深く、執拗に絡み合う。フェルンの小さな口から洩れる熱い吐息は、ルークの口内へと吸い込まれ、彼女の意思そのものが奪われていく。フェルンの紫色の瞳からは魔法使いとしての鋭さは完全に失われ、ただ蕩けきった恍惚だけが不透明に揺れていた。脳髄を極上の毒で満たされた彼女は、自らルークの首に細い腕を絡め、その温もりに縋り付いていた。

 

その退廃的な静寂を、激しい爆破音が粉々に打ち砕いた。

 

衝撃波と共に木製の扉が内側へと吹き飛び、嵐の冷気と激しい雨風が部屋へと雪崩れ込んでくる。

 

「フェルン!!!!」

 

ずぶ濡れのシュタルクが、雷鳴のような大声を上げて部屋に突入した。大斧を両手で構え、全身の筋肉を強張らせて身構える。しかし、直後に彼の目に飛び込んできた光景に、シュタルクは息を呑み、金縛りにあったようにその場に立ち尽くした。

 

フェルンが、魔族の男と、貪り合うように口づけを交わしている。その衝撃的な構図に、彼の頭は完全に理解を拒絶していた。

 

「……私の、失敗だ」

 

シュタルクの後ろから入ってきたフリーレンが、赤い杖を握りしめ、掠れた声で呟いた。その小さな顔は、かつてないほどの悔恨と、自らへの怒りに満ちていた。

 

フリーレンの瞳は、今になってルークの身体から放出されている「極小の魔力」の正体を完全に看破していた。

 

それは、大気と同化するほど微弱で、呼吸よりも自然に、そして一度の途切れもなく流れ続ける魔力の定常流。精神を、認識を、感情を直接書き換える、人類の魔法技術では解析不可能な「呪い」の極致。

 

魔族は言葉で騙すもの――。

その千年の経験則から生じた先入観が、フリーレンの目を曇らせていた。

この魔族は、最初から言葉など使っていなかったのだ。ただそこに存在し、息をするだけで周囲の人間の心を徐々に支配する、おぞましい魔導装置そのものだった。

 

「言葉じゃ、なかった……。気づけなかった。こんなにも悪趣味で、完璧な精神魔法を操る個体が、七崩賢以外にいたなんて」

 

フリーレンの持つ杖の先から、かつてないほどの濃密な魔力が、バチバチと音を立てて膨れ上がり始める。その冷徹な眼差しは、ルークの心臓を正確に捉えていた。

 

だが、ルークは慌てる風もなく、フェルンからゆっくり唇を離すと、彼女の蕩けきった体を片腕で愛おしそうに抱き寄せた。彼の琥珀色の瞳は、侵入者たちを冷ややかに見据えながらも、その表情には完璧に仕立て上げられた悲劇の主人公のような哀愁が浮かんでいる。

 

ルークはフェルンの濡れた髪にそっと触れ、その耳元で、心底愛しそうに甘く囁いた。

 

「ああフェルン、君のお友達が、僕たちを引き離そうとしているよ。僕たちはこんなにも愛し合っているのに。でも恋は邪魔が多いほど燃え上がる。そうだろ?」

 

フェルンは力なく首を動かし、ルークの胸に顔を埋めたまま、虚ろな瞳でフリーレンとシュタルクを見やった。その手には、いつの間にか木製の杖が握られており、その先端には禍々しい「一般攻撃魔法(ゾルトラーク)」の光が収束しつつあった。

 

激しい雨風が吹き荒れる薄暗い部屋の中、重なり合う2つの影は異様な緊迫感を放っていた。ルークの細い指先に髪を梳かれ、抱き寄せられたフェルンの紫色の瞳からは、完全に理性の光が失われている。

 

「フェルン、だめだよ」

 

フリーレンは赤い杖を構えたまま、押し殺した声で呼びかけた。その白いツインテールが、破壊された扉から吹き込む風に激しく揺れる。

「そいつが使っているのは言葉じゃない。精神を直接書き換える『呪い』だ。そいつは君を愛してなんかいない。ただの魔族だ」

 

「フェルン! 目を覚ませよ!」

シュタルクも身を乗り出し、悲痛な叫びを上げた。

「俺たちだ! 一緒に旅をしてきた、俺とフリーレンだろ!? なんでそんな奴の言うことを……!」

 

しかし、フェルンはピクリとも反応しなかった。

その頬は微かに朱に染まり、焦点の合わない瞳で、ただじっとルークだけを見つめている。彼女の蕩けきった脳には、かつて信頼していた仲間の声など、ただの雑音にしか聞こえなかった。

 

ルークの薄い唇が、フェルンの耳元で再び怪しく動いた。その琥珀色の瞳が、冷酷な愉悦に歪む。

 

「さあ、僕らを邪魔するその二人をやっつけるんだ、フェルン」

 

「……はい、ルーク様」

 

虚ろな、しかし迷いのない声。

フェルンは、ルークを庇うようにその前に立ち塞がった。彼女の持つ木製の杖の先が、迷いなくフリーレンへと向けられる。

 

フリーレンが魔力を練り上げ、防御魔法を展開しようとした、まさにその一瞬。

 

閃光が走った。

 

「しまっ――」

 

フェルンの放った「一般攻撃魔法(ゾルトラーク)」は、目にも留まらぬ超高速の速射だった。

フェルンにとって、ゾルトラークは生まれたときから身近にあり、あって当たり前のもの。構築に思考を要するエルフの魔法とは異なり、呼吸と同調したその発動速度は、千年の魔法使いであるフリーレンの防御のイメージよりも、明確に一段階速かった。

 

凄まじい衝撃波がフリーレンの右手を直撃する。

防御魔法が形を成すより早く、フリーレンの赤い杖が、無残にもその手から弾き飛ばされて部屋の隅へと転がった。

 

「フリーレン!!」

 

シュタルクが驚愕に目を見開いた瞬間には、すでにフェルンの第二波、第三波が始まっていた。

間髪入れずに放たれる、集中豪雨のようなゾルトラークの連射。

 

「くそっ!!」

 

シュタルクは咄嗟に大斧の腹を前に突き出し、フリーレンの盾となるべく身を挺した。

しかし、フェルンの容赦ない連射は、戦士の屈強な肉体をもってしても支えきれるものではなかった。次々と大斧に叩きつけられる白紫の魔力弾。その凄まじい衝撃圧が、シュタルクの足を床から浮かせ、背後のフリーレンごと後方へと押し流す。

 

激しい破壊音と共に、部屋の壁と窓が内側から吹き飛んだ。

 

「うわああああっ!!」

 

シュタルクの悲鳴と共に、2人の身体は激しい嵐の吹き荒れる屋外へと、瓦礫もろとも叩き出された。

 

土砂降りの雨の中、石畳の路地に激しく転がるシュタルクとフリーレン。

冷たい雨水が体温を奪い、視界を遮る。

フリーレンは泥にまみれながら上体を起こしたが、その手に杖はなかった。シュタルクは大斧を握りしめ、痛みに耐えながら、ぽっかりと大穴の開いた二階の部屋を見上げる。

 

そこには、激しい雨に打たれながら、冷徹な瞳で眼下を見下ろすフェルンと、その肩を抱きながら優雅に微笑むルークの姿があった。

 

激しい雨が、石畳に叩きつけられたシュタルクの背中を容赦なく打ち据える。

 

「がはっ……! くそ、なんて威力だよ……。フェルン、本気で撃ってきやがった……」

 

シュタルクは肩を大きく上下させ、泥と血の混ざった雨水を吐き出した。愛用の大斧は辛うじて手放していなかったが、その強靭な刃には無数の細かな亀裂が走り、凄まじい魔力の衝撃を物語っている。

 

その隣で、フリーレンは音もなく立ち上がった。

衣服は泥に汚れ、白いツインテールは雨を吸って重く肩に垂れ下がっている。その手元には、いつも彼女の魔法を支えていた赤い杖の姿はない。吹き飛ばされた衝撃で、集合家屋の瓦礫のどこかに埋もれてしまったのだ。

 

「……完全に、絡め取られちゃったね」

 

フリーレンは小さく、しかし冷静な声を漏らした。その薄い翡翠の瞳が見上げる先、二階の大きく崩れ去った外壁の向こうには、ルークに優しく肩を抱かれ、虚ろな目でこちらを見下ろす弟子の姿があった。

 

その時、路地の奥からバタバタと無数の足音が近づいてきた。

松明の火が雨に打たれてジュウジュウと音を立て、いくつもの傘の影が、暗い石畳を埋め尽くしていく。騒音と破壊の音を聞きつけた、ラインハイトの町人たちだった。

 

だが、駆けつけた彼らの目に宿っていたのは、魔族に対する恐怖ではなかった。

 

「おい! またあの冒険者たちが暴れているぞ!」

 

「なんてことだ、ルークの部屋が壊されているじゃないか!」

 

集まってきた人々は、泥だらけで立ち尽くすフリーレンとシュタルクを、一様に憎悪と敵意に満ちた目で見つめた。通りすがりの魚売りも、先日ルークに優しく挨拶をしていた婦人も、誰もが異様なほど殺気立っている。

 

「なんて酷いことをするんだ! ルークが何をしたって言うんだ!」

 

「出ていけ! 人殺しの旅人どもめ! この街から出ていけ!」

 

口々に罵声を浴びせかけ、シュタルクに向かって石を投げつける者すら現れた。

ガツン、と鈍い音がして、シュタルクの額から一筋の血が流れる。しかし、彼は痛みよりも、その場を支配する異常な空気への恐怖に身体を震わせていた。

 

「おい……嘘だろ、みんな……」

シュタルクは血を拭うことも忘れ、呆然と周囲の町人たちを見回した。

「あいつは魔族なんだぞ!? そこのフェルンだって、あいつに操られて……!」

 

「黙れ! ルークを侮辱するな!」

怒号がシュタルクの声をかき消す。

 

フリーレンは静かに、その様子を観察していた。

町人たちの瞳の奥、細かく震える光彩。それは自らの意思で怒っているのではない。彼らの精神の最も深い部分に植え付けられた「ルークを全肯定する」という呪いの術式が、防衛反応として彼らを突き動かしているのだ。

 

「……これが魔族の『呪い』だ」

フリーレンの平坦な声が、雨の音に混ざる。

「言葉なら、嘘を暴けば解ける。でもこれは、最初から対話なんて求めていない。この街の人たちにとって、ルークは自分自身の命よりも大切な存在に書き換えられているんだよ」

 

町人たちの怒号が響き渡る中、壊れた二階のベランダから、ルークが優雅に、哀れみの混ざった視線を投げかけてきた。その美貌は、嵐の暗闇の中で恐ろしいほど際立っている。

 

「手荒な真似をしてすみません、フリーレンさん。ですが、僕とフェルンの愛を邪魔する者は、誰であっても排除しなければならない」

 

ルークはフェルンの腰を強く抱き寄せ、その白い首筋に自らの唇を寄せて囁いた。

 

「さあ、フェルン。あの人たちを、この街から完全に追い出してしまおう。僕たちの静かな暮らしを守るために」

 

「……はい、ルーク様。あなたの望むままに」

 

フェルンは力なく、しかし狂信的な響きを帯びた声で答えた。

彼女の持つ木製の杖の先が、再び冷酷にフリーレンへと向けられる。その周囲の空気が、高密度の魔力の収束によって歪み始めていた。

 

フリーレンには杖がない。シュタルクの肉体も、先ほどの連撃で限界に近い。

激しい雨の中、周囲を取り囲む狂信的な町人たちの包囲網が、じわじわと2人への距離を詰めていく。

 

雨のカーテンが激しく石畳を叩き、松明の赤い光が不規則に揺れる。

 

「人殺しども! 出ていけ!」

「ルークを傷つけるな!」

 

狂乱した町人たちが泥を撥ね散らしながら迫る。手にした鍬や棍棒、そして容赦なく投げつけられる石。その背後、崩れた二階の窓からは、フェルンが冷徹な人形のような目で、再び木製の杖をこちらに向けていた。先端に収束する白紫の魔力。それは、かつてフリーレンが彼女に教え込んだ、一点の曇りもない洗練された殺人魔法であった。

 

「……シュタルク、退くよ」

 

フリーレンは平坦な、しかし有無を言わせぬ声で言った。

赤い杖を失った今、この場でフェルンの超高速の速射に対抗するのは極めて困難だ。ましてや、ルークの精神支配下にある無辜の町人たちを傷つけるわけにはいかない。

 

「えっ!? でも、フェルンが――」

 

「このままじゃ二人とも死ぬ。走って」

 

フリーレンはシュタルクのボロボロになった衣服の襟元を掴むと、身体強化の魔力を足裏に集中させ、一気に背後の暗い路地へと飛び退いた。直後、彼らがいた石畳を、フェルンのゾルトラークが激しく穿ち、轟音と共に瓦礫を四方に撒き散らす。

 

狂信的な追手たちの怒号を背に浴びながら、二人は激しい暴風雨の中をひたすら駆け抜けた。

ラインハイトの防壁を飛び越え、鬱蒼と生い茂る近隣の暗い森へと逃げ込む。追跡者の松明の光が雨の中に消え去るまで、彼らは足を止めなかった。

 

 

 

 

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