ラインハイト近傍に生い茂る森林、古い大樹の根元。
張り出した巨木の根が天然の屋根となり、辛うじて激しい雨を遮ってくれている。
フリーレンは、旅のガラクタ収集で手に入れた「湿った薪を一瞬で乾かす魔法」を使い、小さな焚き火を起こした。爆ぜる音と共に、細い煙が木々の隙間へと吸い込まれていく。
「クソッ、冷てえな……」
シュタルクは上半身裸になり、濡れそべった赤髪を乱暴に掻きむしりながら、自分の衣服を力任せに絞った。滴り落ちる雨水が火に触れ、シュッと小さな音を立てる。その額の傷からは、先ほどの投石による血が未だに薄く滲んでいた。
「なあ、フリーレン。どうすりゃいいんだよ……」
シュタルクの声は、寒さだけではない、深い絶望と混乱に震えていた。
焚き火の微かな光が、彼の引き締まった、しかし深く傷ついた背中を照らし出す。
「フェルンの奴、本気で俺たちを殺そうとした。それに、あいつ……あの魔族と、その……キス、してた。あんなの、フェルンじゃない。信じたくねえよ……」
「……あれは『呪い』だよ、シュタルク」
フリーレンは膝を抱え、自身の白いツインテールから滴る雫をぼんやりと見つめながら、起伏のない声で言った。
「人類の魔法技術では原理が解明できていない魔族の魔法、その中でも人間の心身に直接作用するもの。それが、呪い」
フリーレンが淡々と続ける。
「呪いは、魔法使いでは感知できないんだ。それにルークの魔力は、息をするのと同じくらい自然な、極小の定常流。だから私も、フェルン自身も気づけなかった。……私の知る限り、あの呪いは『認識を書き換える』類のものだ。言葉で騙すわけじゃないから、本人がどれだけ冷静でも、脳そのものが『ルークを愛している』と思い込まされている」
「解く方法は……ないのか?」
「一般的には、術者を倒せば呪いは解ける。でも、相手の懐にはフェルンがいる。私の杖はあの部屋に置いたままだし、フェルンの魔法の発動速度は、私よりも速い。杖を持たない私が近づけば、今度こそ一撃で仕留められる」
フリーレンのアホ毛が、力なく下を向いて揺れた。
千年以上生きてきた彼女にとっても、これほど強固で、かつ大切な弟子を人質に取られた状況は、極めて厄介な部類に入った。
「……フリーレン。フェルンは大丈夫なのか? あの魔族……フェルンを喰っちまうんじゃ」
「それはないと思うよ」
フリーレンは膝を抱えたまま、パチパチと爆ぜる火の粉を淡々とした瞳で見つめている。
「今のフェルンには、あの魔族にとって決定的な利用価値があるからね」
「利用価値……?」
「私を倒すための『盾』であり『武器』だよ。フェルンは私の魔法の間合いも癖も、全部知っている。私と戦う上で、これ以上都合のいい道具はない。だから絶対に手を出さない。私が奴を狙う限り、ね」
「道具、かよ……。クソッ……!」
シュタルクは歯を食いしばり、拳を強く握りしめた。絞り出すような声が、雨音に混じる。
「まずは私の杖を取り戻すこと。そして、フェルンを傷つけずにルークを仕留める方法を考えないとね。……街にはもう、私たちの味方は一人もいない」
パチパチと爆ぜる焚き火の音が、静かな森に響く。
冷たい雨は依然として降り続いており、ラインハイトの街は今もなお、美しき魔族の甘い支配の中に眠っていた。
* * *
雨は夜半過ぎに上がり、濡れた森には冷ややかな朝霧が立ち込めていた。
巨木の根元に作られた即席のキャンプでは、小さくなった焚火が白い煙を細く上げながら、微かな熱を保ち続けている。
「……シュタルク、起きて。朝だよ」
フリーレンは膝を抱えた姿勢のまま、横で丸くなって寝息を立てていたシュタルクの肩を、木の枝でつんつんと突いた。彼女の白いツインテールはすっかり乾いていたが、衣服の裾には昨夜の泥汚れが残ったままだ。頭頂部の一本のアホ毛が、湿気を含んで力なくへにょりと曲がっている。
「うぅ……身体中が痛え……。フェルンの奴、マジで容赦なかったな……」
シュタルクは顔をしかめ、泥のついた顔をさすりながらのっそりと上体を起こした。
昨夜、フェルンの放った凄まじい「
「さすがはアイゼンの弟子だね。普通の人間なら、あの速射をまともに喰らったら跡形もなく吹き飛んでる」
フリーレンは淡々と告げると、近くの葉に溜まった雨水を両手ですくい、火を消した。
「シュタルク。あなたに、一つ頼みたいことがあるんだ」
「頼み? なんだよ、嫌な予感しかしないんだけど……」
「ラインハイトの街に潜入して、私の杖を探してきてほしい」
シュタルクは目を丸くし、思わず声を裏返らせた。
「はぁ!? 俺一人でか!? 街の奴らは全員あの魔族の味方だし、見つかったら今度こそ袋叩きだぞ! それに何でフリーレンが行かないんだよ。魔法が使えるフリーレンが行った方が……隠密行動だって得意だろ」
「それはね、だめなんだよ」
フリーレンは立ち上がり、静かにラインハイトの方向を見据えた。
「私も魔力制限は得意だけれども、フェルンは誰よりも近くで、誰よりも長く私の魔力を観察してきた。どれだけ細く、小さく魔力を絞ったとしても、私が街に入った瞬間に、フェルンは私の『魔力の揺らぎ』を本能的に探知する。私が行けば、一瞬で二人に位置がバレるよ」
フリーレンは自分の平らな胸元を軽く叩き、アホ毛を小さく揺らす。
「でも、シュタルクは魔法使いじゃない、戦士だ。体内の魔力は一般人と変わらないし、気配を殺すことに関してはアイゼンからある程度仕込まれているでしょ。それに、あの便利屋の部屋はフェルンのゾルトラークで大穴が空いた。雨風を凌げないし、ルークの性格からして、もうあの部屋は引き払って別の場所に移動しているはず。つまり、今はもぬけの殻だよ」
「……なるほど。確かにあの部屋、今なら誰もいないかもしれない。……フェルンを元に戻すためだもんな。分かった。俺、行ってくるよ」
シュタルクは無理やり納得したように頷くと、背中の壊れかけた大斧の柄に手を当てた。
「うん。気をつけてね、シュタルク。見つかりそうになったら、すぐに逃げるんだよ」
フリーレンの静かな見送りを背に、赤い髪の戦士は、霧の立ち込める森を音もなく滑るように走り去っていった。
* * *
同じ頃、ラインハイトの街の、とある一角。
昨夜の嵐が嘘のように、青空から温かな陽光が石畳の坂道を黄金色に染め上げていた。
潮風が優しく吹き抜ける小綺麗な一軒家。町人の一人が部屋を失ったルークのためにと、貸し与えてくれたのだった。
その明るいキッチンでは、心地よい朝食の香りが漂っていた。
「ルーク様。お茶が入りましたよ」
フェルンは白いエプロンを身にまとい、穏やかな微笑みを浮かべながら、湯気を立てる陶器のカップをテーブルに置いた。
彼女の紫色のロングヘアは美しく整えられ、その肌は内側から発光するような瑞々しさに満ちている。
「ありがとう、フェルン。君の淹れるお茶は、いつも本当に素晴らしいね」
向かい側に座るルークが、極上の笑みを浮かべてカップを受け取った。
その美しい指先がフェルンの手に触れる。かつてなら、びくりと身体を強張らせて赤面していたはずのフェルンは、今や当然のようにその手を重ね合わせ、うっとりとした目で彼を見つめ返した。
「ルーク様にそう言っていただけるのが、私の何よりの幸せです」
フェルンの脳髄は、未だにルークの「呪い」の甘い海に深く沈んでいた。
かつて彼女を縛っていた「魔法使いとしての義務」も、「旅の目的」も、今や灰色の霧の彼方に消え去っている。頭の中にあるのは、ただ目の前の美しい男を愛し、彼に仕え、彼と共に生きることだけだった。
その絶対的な支配は、彼女にとって「至上の幸福」として認識されていた。
何の迷いもない、混じり気のない、ぐずぐずに蕩けきった恍惚。
「さあ、今日も便利屋の仕事に行こうか。まずはパン屋のおばさんのところへ、小麦粉の搬入の手伝いだ」
「はい。喜んでお供いたします、ルーク様」
2人が仲睦まじく家を出ると、街の人々は誰もが温かい、祝福に満ちた視線を向けた。
「おや、ルーク、フェルンちゃん。おはよう。今日も仲が良いねぇ」
「本当に絵になる二人だ。ルーク、うちの畑の耕作、明日頼めるかい?」
「ええ、喜んで。明日、フェルンと一緒に伺いますね」
ルークは爽やかに答え、フェルンの腰を引き寄せた。フェルンはルークの胸元に寄り添い、かつてないほどの満ち足りた笑顔を街の人々に返す。
この街において、彼らは非の打ち所がない、公認の「美しいカップル」だった。
その完璧な平和と幸福の裏側で、彼らを繋ぐ「呪い」の極小の魔力流は、絶え間なく、そして確実に、フェルンの魂を完全にルークの人形へと作り変え続けていた。
ラインハイトの朝霧が、陽光が差し込むにつれて急速に薄れていく。
赤い髪の戦士、シュタルクは、師アイゼンに叩き込まれた技術のすべてを使い、路地裏の影から影へと音もなく移動していた。魔法使いではない彼の体から漏れ出る魔力は、一般の町人と何ら変わりはない。フェルンの鋭い魔力探知をもってしても、この「気配を殺す」戦士の身のこなしを察知することはできない。
角を曲がり、大通りを覗き込んだ瞬間、シュタルクの身体は凍りついた。
視界の先、賑わう市場の雑踏の中に、見慣れた紫色のロングヘアがあった。
フェルンだ。その隣には、端正な顔立ちに黒い角を持つ男――ルークが、親しげに並んで歩いている。
「ルーク様、今日の夕食は何にしましょうか。お魚のムニエルなどはいかがですか?」
「いいね。君が作ってくれるものなら、なんだって嬉しいよ」
ルークが優しく微笑み、フェルンの細い肩を抱き寄せる。
フェルンは、普段シュタルクに向ける冷ややかな目や拗ねた表情など微塵も見せず、頬を微かに桜色に染めて、蕩けきった幸福そうな笑みを浮かべていた。ルークの胸元にそっと寄り添うその姿は、完全に恋する少女のそれだった。
(……あんな顔、見たことねえ……)
シュタルクは胸の奥を激しく掻きむしられるようなショックを受け、思わず唇を噛み締めた。
怒りよりも、悲しさと、どうしようもない無力感がこみ上げてくる。あれはフェルンの本当の意思ではない。魔族の「呪い」に脳をぐずぐずに蕩かされているだけなのだと分かっていても、その満ち足りた笑顔は、シュタルクの心に深く冷たい楔を打ち込んだ。
「くそ……、今は、フリーレンの杖だ」
シュタルクは首を振り、雑念を振り払うようにして、昨夜激しく破壊されたルークの部屋へと急いだ。
集合家屋の二階は、悲惨な有様だった。
フェルンの放ったゾルトラークによって外壁は大きく吹き飛び、吹き込んだ雨水で床は濡れている。ルークたちが別の住処へ移ったというのはフリーレンの読み通りで、室内には人影も生活感も残っていなかった。
シュタルクは音を立てないよう注意しながら、崩れた天井の梁や瓦礫を慎重に退けていく。
「あった……!」
湿った衣服や割れた木片の隙間に、見慣れた赤い杖が半ば埋もれていた。
フリーレンが千年以上愛用し、数々の魔族を葬ってきた、あの杖だ。傷一つついていないそれを取り上げ、シュタルクは安堵の息を吐いた。これでフリーレンは戦える。
その時だった。
ギギ、と濡れた階段の板が、不自然に軋む音がした。
(――っ!)
シュタルクが咄嗟に大斧に手をかけ、大穴の影に身を潜めようとした瞬間。
破壊された扉の枠から、一人の少女がすっと部屋に入ってきた。
フェルンだった。
魔力で察知されたわけではない。彼女の手には、ルークに頼まれたお使いの品が入った買い物カゴが握られていた。ただ、以前の部屋に置いてきてしまったルークの便利屋の道具――何かの「忘れ物」を回収するために、偶然立ち寄っただけだった。
しかし、フェルンの紫色の瞳が、瓦礫の中でフリーレンの杖を握りしめているシュタルクを捉えた瞬間、その眼差しは一変した。
温度の消えた、氷のように冷徹な光。
それは、かつて同じ釜の飯を食べ、死線を共にしてきた仲間を見る目ではなかった。ただの「最愛の人を脅かす害獣」を見つめる、冷酷な狩人の目だった。
「最低です」
フェルンはいつもの丁寧な口調のまま、吐き捨てるように言った。
その表情には、激しい軽蔑が宿っている。
「まさか、ルーク様の留守を狙って、こんな泥棒まで働くなんて。そこまで落ちぶれたのですか、シュタルク様。……こそ泥。本当に、救いようのない最低な人です」
「待てよ、フェルン! これはフリーレンの――!」
「言い訳は無用です」
フェルンは買い物カゴを床に置くと、淀みのない動作で木製の杖を構えた。
ルークの呪いに侵された彼女の脳は、シュタルクの言葉を完全に遮断している。
「ルーク様との平穏な暮らしを邪魔する者は、私が排除します」
一瞬の猶予もなかった。
杖の先から放たれた白紫の「
凄まじい轟音と共に、シュタルクのすぐ脇の壁が塵となって吹き飛んだ。
フェルンの速射は健在、いや、以前よりも容赦がなくなっている。構築に一切のブレがない。
「おいおいおいマジかよ!」
シュタルクは戦士としての天性の直感と、極限状態で研ぎ澄まされた身体能力を発揮した。
大斧を背負い、フリーレンの杖を脇に抱えたまま、床を転がるようにして次の一撃を躱す。
シュタルクがいた場所には、間髪入れずに第二撃、第三撃が着弾し、床板を容赦なく粉砕していく。
「逃がしません」
フェルンの目が、冷たく光る。
これ以上の滞在は死を意味していた。シュタルクは防御に回ることもせず、そのまま崩れ落ちた外壁の「大穴」に向かって全力で跳躍した。
「うおあああっ!!」
二階の高さをものともせず、空中で身を翻して石畳の路地へと着地する。膝に凄まじい衝撃が走ったが、アイゼンに鍛え上げられた肉体はそれを吸収した。
背後で、再び放たれたゾルトラークが着地地点の石畳を粉々に爆砕する。
シュタルクは振り返ることもせず、ただひたすらに石畳を蹴り、泥水を撥ね散らしながら、街の外へと繋がる森の闇へと全力で駆け抜けた。
* * *
日が高く登っても、まだ冷気が消え切らない森の奥深く。巨木の根元で、フリーレンは静かに膝を抱えて座っていた。
パチパチと爆ぜる小さな焚き火の煙が、彼女の白いツインテールをかすめて上空へと消えていく。その頭頂部の一本のアホ毛は、主の心境を表すように、所在なさげに小さく揺れていた。
ガサリ、と濡れた草木を分ける音が響く。
「ハァ……、ハァ……! 死ぬかと思った……!」
赤い髪を泥と冷や汗で濡らしたシュタルクが、息を切らせて森の茂みから飛び出してきた。その腕には、しっかりと一本の赤い杖が抱えられている。
「おかえり、シュタルク。無事だったみたいだね」
「無事なもんか! 骨が折れるどころの騒ぎじゃねえぞ!」
シュタルクは、抱えていた赤い杖をフリーレンに手渡すと、その場にへたり込んだ。
フリーレンは受け取った杖を愛おしそうに撫で、小さく息を吹きかけて塵を払う。手元に戻った馴染み深い相棒の感触に、彼女の薄い翡翠の瞳が、魔法使いとしての鋭さを微かに取り戻した。
「ありがとう。それで、街の様子はどうだった?」
「……最悪、だよ」
シュタルクは膝に顔を埋め、悔しさとショックを押し殺すように声を震わせた。
「街に入ってすぐ、あいつらを見たんだ。市場を歩いてた。……フェルンの奴、あんなの見たことねえってくらい、幸せそうに笑ってた。あいつにぴったり寄り添って、本当に……普通の、恋人同士みたいにさ」
フリーレンは何も言わず、静かに耳を傾けている。
「それで、あの部屋に行ったら、本当に抜け殻でさ。なんとかフリーレンの杖は見つけたんだけど……そこに、フェルンが入ってきたんだ。ただの偶然、忘れ物を取りに来たみたいで……。俺のこと、冷てえ目で見てさ。『最低』とか『こそ泥』って言いやがった。容赦なく、ゾルトラークをぶっ放してきて……俺、必死で避けて、大穴から飛び降りて逃げてきたんだ」
シュタルクは自身の腕に残る、魔力の衝撃による細かな擦り傷を見つめた。
「なぁ、フリーレン。あいつ、マジで俺たちのこと忘れて、あの魔族と生きていくつもりなのか? 本気で俺を殺そうとしたんだぞ」
「忘れたわけじゃないよ、シュタルク」
フリーレンは立ち上がり、杖をまっすぐ縦に持つと、その先端をぐるりと反転させて地面に向けた。
「フェルンの記憶はそのまま残っている。ただ、ルークの『呪い』によって、彼女の中の優先順位が書き換えられているだけ。ルークを害する者は、たとえ昨日までの仲間であっても『悪』だと、彼女の脳が勝手に判断しているんだ。……手強いね。言葉で説得するのは、もう不可能かもしれない」
彼女の眼差しは、再び冷徹な「魔族殺し」のそれへと戻っていた。
* * *
一方、ラインハイトの新しい住処。
陽光が優しく差し込む明るい部屋で、フェルンはルークの引き締まった胸元に、とろけるような仕草でしなだれかかっていた。
その紫色の瞳には、かつてフリーレンの横を歩いていた時の頑なな警戒心など、微塵も残っていない。ただ目の前の美しい男に全てを委ね、甘やかされた熱に浮かされているだけだった。
「どうしたんだい、フェルン。少し、呼吸が乱れているね」
ルークはフェルンの腰を細い腕で抱き寄せ、その長い髪を愛おしそうに指先で弄んだ。
「……申し訳ありません、ルーク様」
フェルンはルークの白いシャツに顔を埋め、微かに震える声で告げた。
「先ほど、忘れ物を取りに古いお部屋に戻ったのですが……そこに、あのこそ泥が入り込んでいました。フリーレン様の杖を盗んで逃げていったのです」
「おや。あの戦士の青年かい」
「はい。私がすぐに魔法で排除しようとしたのですが、すばしっこく逃げ回られ……仕留めきることができませんでした。ルーク様を脅かす不届き者を、この手で完全に排除できなかったこと、本当にお恥ずかしい限りです」
フェルンは悔しげに眉をひそめ、ルークの胸元をぎゅっと掴んだ。その表情は、愛する人を守れなかった少女の切なさに満ちている。
ルークはくすくすと低く、美しく笑った。
そして、フェルンの顎を細い指先でそっと持ち上げ、彼女の蕩けきった瞳を見つめながら、その額に優しく唇を落とした。
「さすがは僕の恋人。よく追い払ってくれた。えらいね、フェルン」
「ルーク、様……」
「けれど、あのエルフ、やはり簡単には諦めてくれないようだ。僕たちのこの、誰にも邪魔されない幸せな生活を、壊そうとしている」
ルークは琥珀色の瞳を悲しげに細め、フェルンの頬を撫でた。その一挙手一投足から立ち上る不自然なまでの魅力が、再びフェルンの脳髄を甘く蕩かせていく。
「君は、僕のことを守ってくれるよね、フェルン?」
「――はい、ルーク様」
フェルンは夢見るような、しかし狂信的な意志を宿した瞳で微笑んだ。
「あなたを傷つけるものは、たとえ師匠のフリーレン様であっても、私がこの手ですべて排除いたします。私たちの幸せを、誰にも邪魔はさせません」
重なり合う二人の影。
その完璧な甘い檻の中で、哀れな弟子は、かつてない至上の幸福を感じながら、自らの意思を完全に手放していた。
* * *
森の静寂の中、取り戻した赤い杖を愛おしそうに撫でるフリーレン。その指先が表面の滑らかさを確かめるたび、周囲の大気が微かに震え、本来の魔力が澄んだ光となって満ちていく。
対照的に、シュタルクは切り株に腰掛け、頭を抱えていた。全身の筋肉の痛みと、それ以上に傷ついた心が、彼を深く沈み込ませている。
「なぁ、フリーレン。杖を取り戻したのはいい。でも、これからどうするんだ?」
シュタルクが、すがるような目をフリーレンに向けた。
「あいつらは街全体を味方にしてる。フェルンも街のみんなも、説得できるって雰囲気じゃない。まともに戦えばフェルンを傷つけちまうし、かと言って手加減すれば、昨日みたいに俺たちが危ない。……何か、裏をかくような賢い作戦はあるのか?」
フリーレンは、ふふんっと鼻を鳴らすと得意げに答える。
「当然でしょ、私を誰だと思ってるのシュタルク。私ほど賢いお姉さんは、そうはいないよ」
フリーレンは、手元で杖を一度大きく回転させると、まっすぐにラインハイトの街の方向を指し示した。
その瞳には、迷いも、焦りも、一切ない。
「作戦なら、あるよ。分かりやすいやつが」
フリーレンは淡々と言った。
「まっすぐ行って、ぶっ飛ばす」
「はあ!?」
シュタルクは思わず立ち上がり、声を裏返らせた。
「ぶっ飛ばすって、フェルンをか!? おい、正気かよ! あいつのゾルトラークはめちゃくちゃ速いんだぞ! 昨日だって、フリーレンの防御魔法すら間に合わなかったじゃないか!」
「昨日は不意を突かれただけだよ」
フリーレンのツインテールが、森の冷たい風に揺れる。彼女の頭上の一本のアホ毛が、ふっと鋭く立ち上がった。
「私はね、フェルンをナメているんだ。
「ナメてるって……実の弟子だろ!?」
「そう。私の自慢の弟子。だから、あの子の魔法の癖も、限界も、すべて知っている」
フリーレンの声音は、冷徹なまでに論理的だった。
「フェルンのゾルトラークは確かに速い。速射においては、私を凌駕する。でもね、シュタルク。あの子が撃ってくると最初から分かっていれば、対処の方法なんていくらでもあるんだ。魔法使いの戦いにおいて、私とフェルンの間には、まだ埋められない圧倒的な『差』がある」
フリーレンは一歩、街に向かって歩み出す。
その足取りは軽く、しかし一歩ごとに彼女の身体から森が傅くような魔力が迸る。
「正面からフェルンを圧倒して、無力化する。そして、その背後で糸を引いているあの魔族を、直接貫く。――それだけだよ」
その静かな闘志と絶対的な自信に、シュタルクは生唾を呑み込んだ。
目の前にいるのは、普段のズボラで朝起きられない魔法使いではない。かつて魔王を討ち果たし、歴史上で最も多くの魔族を葬ってきた、冷酷無比な魔族殺し。「葬送のフリーレン」の姿だった。