夕闇が迫るラインハイトの海岸。
海面は燃えるような朱色に染まり、寄せては返す波の音が、乾いた砂利を鳴らしていた。
フェルンは、海岸に漂着した流木の整理を終え、額の汗をそっと拭った。そのすぐ隣には、いつものように美しく微笑むルークがいる。ルークは手にした水筒からコップに水を注ぎ、それを優しくフェルンに差し出した。
「お疲れ様、フェルン。君が手伝ってくれたおかげで、今日の仕事も早く終わったよ」
「ありがとうございます、ルーク様。あなたのお役に立てるなら、私はどんなことでも……」
受け取ったコップを両手で包み、フェルンは蕩けきった笑みを浮かべる。ルークの琥珀色の瞳に見つめられるだけで、脳髄が甘い熱に侵され、全身の力が抜けていくような幸福感に満たされる。かつてないほどに満ち足りた時間が、そこには流れていた。
だがその時、フェルンの身体が微かに強張った。
手にしたコップが小さく揺れ、水面に細かな波紋が広がる。
驚異的な精度を誇る彼女の魔力探知が、海岸へと続く崖の上の坂道から、静かに、しかし一切の容赦なく近づいてくる「巨大な魔力の揺らぎ」を捉えた。
それは、彼女が誰よりも近くで感じ、見届けてきた、あまりにも馴染み深い魔力。
同時に、最愛のルークとの幸福を脅かす、最大の障壁の魔力だった。
フェルンはコップを砂の上に置くと、淀みのない動作で木製の杖を手に取った。そして、ルークを背後に庇うようにして、その前に毅然と立ちはだかる。
「ルーク様、私の後ろへ。……来ました」
「おや。やはり諦めてくれなかったようだね、君のお師匠様は」
ルークはフェルンの肩にそっと手を置き、悲しげに目を細めた。その一挙手一投足から放たれる不自然なほどの魅力が、フェルンの胸に「ルークを守らなければならない」という狂信的な使命感を激しく燃え立たせる。
「大丈夫です、ルーク様。あなたを傷つける者は、たとえフリーレン様であっても、私が全て排除します」
フェルンの紫色の瞳から完全に理性の光が消え、冷酷な狩人の目が、坂の上へと向けられた。
潮風が吹き抜ける中、夕陽に当てられた二つの影がゆっくりと姿を現した。
片手で赤い杖を静かに携えたフリーレン。
その隣で、巨大な斧を担ぎ、悲痛な決意を顔に浮かべたシュタルク。
二人は坂を下り、海岸へと足を踏み入れる。
フリーレンの白いツインテールが風に揺れ、その頭上の一本のアホ毛は、まっすぐにフェルンを捉えて鋭く立ち上がっている。彼女の薄い翡翠の瞳には、一切の躊躇も、迷いもなかった。
「……フェルン。ずいぶんと幸せそうだね」
フリーレンのフラットな声が、寄せる波の音に混ざって響く。
その右手にある赤い杖の先には、まだ魔力は灯っていない。しかし、彼女が纏う空気は、かつて数多の魔族を塵にしてきた「魔族殺し」そのものの威圧感を放っていた。
「フリーレン様、それ以上近づかないでください」
フェルンは冷たく言い放ち、木製の杖をフリーレンへと向けた。
先端に収束し始める白紫の魔力。それは、フェルンがかつてフリーレンから叩き込まれた、一切の無駄を削ぎ落とした「
「これ以上、ルーク様との平穏を邪魔するなら、私はあなたを敵とみなします」
「フェルン……」
シュタルクが大斧を握り締め、掠れた声を絞り出す。
緊迫した空気が海岸を支配する。
フリーレンは一歩、砂利を踏みしめて前に進み出た。
「言ったはずだよ、シュタルク。あれは『呪い』だ」
フリーレンは杖を静かに構え直した。
「正面から、圧倒する」
夕陽が水平線の彼方へと沈みかけ、波打ち際を血のような赤色に染め上げていた。
潮風が強く吹き荒れ、砂利が擦れ合う音が不気味に響く。
対峙するは、ここまで共に旅をしてきた師と弟子。
「……行きます」
フェルンが静かに呟くと同時に、その木製の杖の先から光が弾けた。
「
フェルンの放つそれは、もはや魔法の詠唱というプロセスを完全に超越していた。呼吸をするように、ただ引き金を引くように、光の弾丸が凄まじい密度で連射される。空気をも引き裂く白紫の光線が、一直線にフリーレンへと迫る。
だが、フリーレンは動じない。
「知っているよ、フェルンの速射は」
フリーレンは赤い杖を軽く一振りした。
彼女の目の前に、瞬時にして強固な六角形の幾何学模様――「防御魔法」が展開される。
激しい衝撃音が鼓膜を揺らし、周囲の砂礫が煙となって舞い上がる。フェルンの放った超高速の連撃は、フリーレンが張った防御魔法の盾に阻まれ、光の粒子となって虚空に霧散した。
「本当に速いね。でも、軌道が素直すぎる」
防御のイメージを維持したまま、フリーレンは淡々と言い放つ。その白いツインテールが、衝撃の余波で激しくなびいていた。
「次は私の番だ」
フリーレンが杖を天に掲げると、彼女の周囲に満ちていた魔力が一気に膨れ上がった。
その凄まじい魔力量に、背後で控えるシュタルクが思わず息を呑む。
「フェルン、ルーク。まとめていくよ」
フリーレンの背後の空間に、一瞬にして数十、数百という気の遠くなるような数のゾルトラークの魔法陣が同時に展開された。空を覆いつくすほどの白紫の光。それはフェルンだけでなく、その後ろで優雅に佇むルークをも完全に射程に捉えていた。
「フェルン! 危ねえ!!」
シュタルクが思わず叫ぶ。
一斉に掃射される、無数の光線。
全方位から降り注ぐ死の雨に対し、常人であれば巨大なドーム状の防御障壁を張って防ごうとするだろう。しかし、それは魔力の消費が激しく、展開速度も遅れる。
フェルンが取った行動は、フリーレンの期待に応えるものだった。
「……甘いです」
フェルンは蕩けきった瞳の奥で、魔法使いとしての極限の計算を狂いなく遂行していた。
彼女は巨大な障壁を張るのではない。
飛来する無数のゾルトラークの「着弾点」を瞬時に見極め、その最小限の面積だけを防ぐ、極小の防御魔法を同時に無数に展開したのだ。
乾いた音が連続して響き渡る。
フリーレンが放った同時多発的な猛攻の全てが、フェルンの展開した無数の「小さな盾」によって、寸分の狂いもなく完全に弾き返された。
魔力を精密にコントロールし、無駄を極限まで削ぎ落とした防御技術。
それは、フリーレンが旅の中で、そしてかつてハイターが幼い彼女に授けた、血の滲むような修行の結晶そのものだった。
「……さすが僕の恋人だ。ふふっ。素晴らしいね、フェルン」
砂煙の向こう側から、ルークがフェルンの肩を抱き寄せ、その頬にそっと触れた。彼の琥珀色の瞳には、冷酷な勝利の確信が満ちている。
「僕の可愛い魔法使い。あのエルフの攻撃を、傷一つ負わずに防ぎきるなんて君にしかできない。――さあ、その調子であの無粋な余所者たちを、今度こそ完全に消し去ってしまおう」
「はい、ルーク様。あなたの望むままに」
フェルンはルークの指先の温もりに身体を委ね、うっとりとした表情で微笑んだ。その瞳の奥にある理性の光は、未だに深く、甘い闇の底に沈んだままであった。
無数の極小の盾で自身の猛攻を完璧に捌ききった弟子を見つめ、フリーレンの薄い翡翠の瞳が僅かに細められた。頭上の一本のアホ毛が、感心したようにふよふよと揺れる。
「そっか。本当に上手になったね、フェルン。魔力の無駄がまるでない……クヴァールを始末したときよりもずっと。私の知らない間にも、たくさん修行を積んだんだね」
フリーレンの声はどこまでも平坦だったが、その響きには確かな称賛が含まれていた。しかし、赤い杖を握る右手に迷いは一切ない。呪いに侵され、魔族の男に寄り添う弟子の姿を冷徹に見据えたまま、フリーレンは深く息を吸い込んだ。
「でも、魔法使いの戦いは綺麗事だけじゃ決まらない。圧倒的な『魔力量の差』を前にした時、どう対処する?……さあ、『修行』の時間だ」
刹那、海岸の空気が爆発的に膨れ上がった。フリーレンの全身から溢れ出た膨大な魔力が、周囲の砂利を巻き上げて激しく渦巻く。千年以上かけて溜め込まれた質量そのものの魔力。
フリーレンが赤い杖を真っ直ぐに突き出すと同時に、視界のすべてを純白と紫の光で染め上げるほどの、極太の「
魔力量で大きく劣るフェルンがこれを正面から受け止めれば、防御魔法の障壁ごと肉体を消し飛ばされる。それは魔法の絶対的な理だ。回避するしかない。そしてその回避先の空間に手加減した一撃を叩き込めば、戦いは終わる。
誰の目にも勝敗は決したかに見えた。
だが、ルークの呪いによって脳髄を蕩かされながらも、フェルンの魂に刻まれた魔法使いとしての本能は、フリーレンの予測を遥かに超えていた。
「……こうします」
フェルンは虚ろな瞳のまま、木製の杖を鋭く一閃させた。
彼女が展開したのは、光線の質量に対抗するための大きいだけの盾ではなかった。フェルンは自身の前面に、巨大な防御魔法の壁をあえて「斜めに傾けて」出現させたのだ。
正面から受け止めるのではなく、角度をつけて軌道を逸らす。海岸に打ち上がる波のように、あるいは鏡に反射する光のように。エネルギーの方向を受け流すイメージ。
直後、フリーレンの放った極太の光線が、傾いた障壁の表面を激しく抉りながら接触した。凄まじい熱と火花が海岸を包み込み、轟音と共に光の奔流が斜め上方へと跳ね返される。逸らされたゾルトラークは遥か上空の雲へと着弾し、天空に大穴を開けるように雲の一部を霧散させた。
「えっ――」
フリーレンの顔に、初めて明確な驚愕の色が走った。力任せの物量を、技とイメージの機転だけで完璧にいなしてみせたのだ。
その驚きが産んだ、わずか一瞬の隙。フェルンはその機会を逃さなかった。受け流した反動を利用し、すでに木製の杖の先には次の魔力が収束している。
「ルーク様を、傷つけさせはしません……!」
間髪入れずに放たれる、目にも留まらぬ超高速の速射。フリーレンの無防備な胸元へ向けて、白紫の弾丸が吸い込まれるように飛翔する。防御魔法の展開は間に合わない。
「おおおおおっ!!!」
その光線の軌道上に、叫び声を上げながら泥塗れの影が猛然と割り込んだ。
シュタルクだった。彼は大地の砂利を爆発させるような踏み込みでフリーレンの前に立ち塞がると、背負っていた大斧を渾身の力で振り抜いた。
金属が激しく擦れ合うような甲高い狂音が海岸に響き渡る。シュタルクは大斧の腹で、フェルンの放った凶弾をギリギリのところで斜め上へと弾き飛ばした。魔力の衝撃波がシュタルクの肉体を激しく震わせ、彼の両足が砂浜に深くめり込む。
「ハァ、ハァ……! 冷や汗出たぜ……! おいフェルン、マジで容赦ないんだな……!」
シュタルクは口元の血を強引に腕で拭い、大斧を構え直しながら息を荒げた。その背後で、フリーレンは杖を握り直し、再び透き通る魔法使いの目を凝らしてフェルンとルークを見据えた。
シュタルクの足元で、弾かれたゾルトラークの残光がパチパチと音を立てて消えていく。両腕に残る痺れを強引に振り払い、彼は赤髪の間から鋭い眼光をフェルンへと向けた。
魔法使いとの戦いであれば、間合いさえ潰せば戦士の方が圧倒的に相性がいい。どれほど速い魔法であっても、発動する前に懐へ飛び込み、力で取り押さえれば勝機はある。それは師アイゼンから嫌というほど叩き込まれた戦いの鉄則だった。
「フリーレン、任せてくれ! 俺がフェルンを止める!」
地面を爆発させるような踏み込みで、シュタルクは猛然と突っ込んだ。砂利を巻き上げ、低く鋭い姿勢で一直線にフェルンへと肉薄する。
「……近寄らないで」
ルークの胸元から離れたフェルンが、冷酷な声と共に木製の杖を突き出す。刹那、彼女の周囲から視界を埋め尽くすほどの大量のゾルトラークが掃射された。大気を引き裂く白紫の光線が、容赦なくシュタルクの全身を狙って降り注ぐ。
シュタルクは咆哮した。逃げ出したいほどの恐怖を圧し殺し、大斧を凄まじい速度で振り回す。
極限まで高められた戦士の動体視力と身体能力が、光の弾丸を次々と捉えた。金属が激しく衝突する狂音が海岸に連続して鳴り響く。白い光線が斧の刃に当たるたび、火花が彼の顔を青白く照らし、肉体に凄まじい衝撃が蓄積していく。それでも、シュタルクの足は止まらなかった。弾き続け、防ぎ続け、彼は力尽くで光の雨を突破していく。
あと数歩。フェルンの息遣いが聞こえるほどの距離まで肉薄する。
フェルンはうつろな瞳のまま、瞬時に目の前に強固な六角形の防御魔法を展開した。シュタルクは地を割り、全身の体重と筋力をその一撃に載せて大斧を振り下ろす。
「戻ってこい、フェルン!!」
強烈な一撃が、フェルンの防御魔法の障壁に真っ向から突き立てられた。バリバリと空間がきしむ音が響き、障壁に無数の亀裂が入る。あと一押しで破れる、そう確信した瞬間だった。
パキィィィィン――、と。
悲鳴のような金属音が響き渡る。
連日の激戦、そして先ほどからのゾルトラークの猛攻を弾き続けたシュタルクの大斧は、すでに限界を迎えていた。フェルンの魔力の反発力に耐えかね、分厚い鉄の刃がガラスのように粉々に砕け散った。
「あ――」
刃を失った衝撃の隙を突くように、防御魔法の表面から爆発的な魔力の余波が解放される。シュタルクの体は鉄の破片とともに猛烈な勢いで後方へと弾き飛ばされ、砂浜を何度も転がりながら、フリーレンのすぐ隣へと力なく追い返された。
「がはっ……!」
砂まみれになりながら上体を起こしたシュタルクの手元には、無残に砕けた大斧の柄だけが残されていた。長年連れ添った武器の喪失に、彼は呆然と拳を握りしめる。
対峙するフェルンもまた、その場から動くことはなかった。木製の杖を構えたまま、その豊かな胸が激しく上下している。いくら優秀な魔法使いとはいえ、戦士の猛攻を近距離で捌ききった代償は大きく、彼女もまた肩で息をしていた。その紫色の瞳は焦点が合わないまま、ただ冷酷に二人を睨み据え続けている。
背後では、ルークが相変わらず完璧な美貌に薄い笑みを浮かべ、戦況を愉しげに見つめていた。
* * *
砕け散った大斧の鉄片が、朱に染まる波打ち際で沈みゆく夕陽をキラキラと反射する。
シュタルクは砂に塗れ、残された柄だけを握りしめたまま、信じられないというようにフェルンを見つめていた。激しい攻防の末、フェルンの胸は大きく上下し、その肩は荒く揺れている。しかし、その紫色の瞳の奥に宿る冷徹な光は、衰えるどころか、さらに深く暗い色へと変貌していっていた。
ルークの呪いは、自分たちを引き裂こうとする「邪魔者」への敵意を、フェルンの脳内で最悪の形に変質させていた。
「フェルン……っ、頼む、目を覚ましてくれ……!」
シュタルクが悲痛な声を上げ、一歩踏み出そうとしたその瞬間。
フェルンの顔が、怒りと、心底からの嫌悪によって激しく歪んだ。彼女は杖を握る手に一層の力を込め、喉が張り裂けんばかりの声を海岸に響かせた。
「あなたには関係ないでしょ!!」
その絶叫は、激しい潮風を切り裂き、シュタルクの胸を直接突き刺した。
「近寄らないでください……! 不潔な男!! 私の身体を見る品性のない視線も、夜な夜な物陰に隠れて何をしていたのかも、私は全部知っているのです!!」
「え……っ!?」
シュタルクの顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「誰を想像してそんな穢らわしいことをしていたのですか!? 最低です!! 気持ち悪い……! 本当に心の底から嫌悪します!! 死ねばいいのに!!」
一切の容赦のない、人格を粉々に打ち砕くような最悪な罵倒。ルークの精神改変は、フェルンがかつてシュタルクに対して抱いていた微かな嫌悪感や忌避感を最大限に増大させ、純度の高い「汚物」に対するような憎悪へと膨らませていた。
「フェ、フェルン……お前、なんでそんなこと……」
シュタルクは完全に打ちのめされ、柄だけになった斧を握ったまま、膝から砂浜に崩れ落ちた。戦士の頑強な肉体も、この剥き出しの悪意の前には何の防御もなさなかった。
「シュタルク、動揺しちゃダメだ。それはあの子の言葉じゃない」
フリーレンが即座に前に出ながら、防御魔法の障壁をシュタルクの前に展開した。
「フェルン。その言葉は、あなたの本心じゃない。脳が魔族に見せられている、ただの悪い夢だよ」
フリーレンは赤い杖を真っ直ぐに構え、その先端にふつふつと高密度の魔力を滾らせる。
潮騒の音が、まるで張り詰めた糸が切れる合図のように聞こえた。
フェルンは杖を構えたままフリーレンを見据え、その紫色の瞳に激しい憎悪の炎を宿して口を開く。その叫びはシュタルクに対する暴言よりも、さらに深く、魂を抉るような響きを持ってフリーレンへと放たれた。
「……やっと、やっと見つけた幸せなんです。ルーク様と、誰にも邪魔されない、穏やかな場所を……!」
フェルンの唇が、悔しさと怒りに震える。
「せっかく幸せになれたのに……なぜ奪おうとするのですか! 私は南側諸国の戦災孤児です。あなたたち勇者一行が魔王を殺して満足し、そこで旅をやめたから……、魔王軍の残党を放置したから! 私の故郷は滅び、両親も殺されたんです!!」
彼女の叫び声が、夕闇に沈む海岸に反響する。
「ずっと許せなかった。……フリーレン様、あなた昔言いましたよね。『人間の村はすぐになくなる』と。廃墟になった村を見るたび、その言葉が思い出されて殺意さえ湧きました。……誰のせいだと思っているのですか!?」
フェルンの杖から放たれる魔力が、怒りとともに激しく波打つ。
「人間を知るための旅? 笑わせないでください! 私の過去を知ろうともしなかったくせに! 20年という私の人生のすべて……私を襲った悲劇も、絶望も、どうせあなたにとってはゴミみたいなものなのでしょうね! ……千年も生きているあなたにとって、私の一生なんて、ただの瞬きに過ぎないのですから!!」
フェルンの絶叫が止むと、海岸にはただ、寄せては返す波の音だけが戻った。
シュタルクは息を呑み、言葉を失ってフェルンを見つめることしかできない。その言葉の刃は、フリーレンという魔法使いが抱える「孤独」と「時間の差」という最大の弱点を、正確に射抜いていた。
フリーレンは、反論することも、視線を逸らすこともなかった。
彼女は、自身の人生において数多の仲間と別れ、多くの村が滅びるのを見てきた。フェルンとの旅の中で、確かに彼女は「人間の村はすぐになくなる」と口にしたことがある。それはエルフとしての事実であったが、人間であるフェルンにとっては、どれほど残酷な呪いの言葉であったか。
フリーレンはゆっくりと、杖を地面に降ろした。
その瞳は、過去のどの戦闘よりも静かで、深い悲しみに満ちている。
「……フェルン。あなたは、そう思っていたんだね」
フリーレンは一歩前に出た。防御魔法の障壁も張らず、無防備なまま、かつて教え子だった少女の正面に立つ。
「あなたが戦災孤児だということは、知っていた。でも、その時のあなたがどんな絶望の中にいたのか、どんな思いで私と旅をしていたのか……ちゃんと向き合っていなかったのかもしれない」
フリーレンの表情は、どこかあどけなさを残した、師としての柔和なものに戻っていた。
「でも、これだけは言わせて。あなたの人生を、ゴミだと思ったことなんかない。一度たりとも、ないよ」
フリーレンのその言葉は、魔力を含まない、ただのありのままの真実の声だった。
「あなたが私と旅をして過ごした時間は、私にとっても、何物にも代えがたい大切な時間だ。フェルン。あなたの痛みも、怒りも、そして今のその鋭い想いも、私にとっては……何一つ、ゴミなんかじゃない」
フリーレンの真っ直ぐな視線が、魔族の呪いに曇らされたフェルンの瞳を貫く。
夕闇が海岸を深紫の帳で包み込んでいく。波音が荒々しく砂利を巻き上げ、風がフェルンの長い髪を狂おしいほどにかき乱した。彼女の紫色の瞳からは涙が溢れ出し、ルークを庇うように握りしめられた木製の杖が、激しい震えと共に青白い魔力の奔流を撒き散らしている。
フリーレンが紡いだ「ゴミだと思ったことなんかない」という言葉。それは、不器用ながらも本物の情愛だったのかもしれない。しかし、魔族の呪いによって脳髄の隅々までをぐずぐずに蕩かされ、ルークへの狂信的な愛欲だけを道標とする今のフェルンにとって、その言葉は最も忌まわしい「偽善」として突き刺さった。
フェルンの感情は完全に臨界点を突破した。彼女は杖を激しく振りかざし、自身の魂の底に沈めていた最も暗い拒絶を、狂ったような金切り声でフリーレンへとぶち撒けた。
「私の人生をゴミだと思ったことはないですって!? 嘘です!!」
フェルンは張り裂けんばかりの絶叫を叩きつけた。それはシュタルクへの罵倒とは比べものにならない、彼女の魂の深淵から絞り出された慟哭だった。
「カフェでルーク様とお茶をしたとき、あなたは彼の20年の人生を、『魔族とエルフにとってはゴミみたいな短さだ』と言い放ったじゃないですか!! あの場では20年という同じ時間を明確に否定しておいて、自分が不利になったらそんな綺麗事を言うなんて……! それこそ、あなたが最も軽蔑している『魔族』の言葉遊びと何が違うんですか!!」
海岸を吹き抜ける潮風が、彼女の叫びをどこまでも遠くへと運んでいく。
「自分の命の長さを笠に着て、どんな不幸も災いも、一瞬で過ぎ去る些事だと思っているから……そんなひどい言葉が、平気で口から出るんです!!」
彼女の怒りは、長年フリーレンに抱き続けてきた、しかし決して口に出せなかった根深い不信感の爆発だった。
「あなたみたいな冷酷なエルフには、永遠に! 一生かけてもッ!! 人間を知ることなんてできませんよッ!!!!」
フェルンの肩が大きく上下し、杖の先からは、憎悪に反応するように禍々しい魔力が渦を巻く。
その叫びは、あまりにも的確に、あまりにも冷酷に、千年の旅路でフリーレンが目を背け続けてきた「エルフと人間の埋められない時間差」という呪いを射抜いていた。
フリーレンは、突き刺された。
かつて自分が何気なく放った言葉が、これほどまでに弟子の心を傷つけ、憎しみを育む土壌となっていたことに、彼女は気づいていなかった。フリーレンの薄い翡翠の瞳が、動揺に細かく震える。杖を握る手が、先ほどまでのような確固たる自信を失い、ふらりと頼りなく揺れた。
「……フェルン、私は……」
フリーレンの言葉は、夕闇の風に消える。
フェルンはもう、師の弁解など求めていない。彼女にとっての真実は、ルークという男が与えてくれた「甘い幸福」の中にのみ存在し、そこを侵そうとするフリーレンは、ただの「侵略者」に過ぎなかった。
フェルンの張り裂けんばかりの絶叫が止むと、海岸にはただ、黒く濁った波が砂利を噛む音だけが残された。
激しい潮風がフリーレンの白いケープを乱暴にはためかせ、湿気たツインテールが頬にまとわりつく。普段は意思を持った生き物のように気まぐれに動く頭上のアホ毛は、今は完全に力を失い、額の前に力なく垂れ下がっていた。
シュタルクは砂浜に両膝をついたまま、砕けた斧の柄を握りしめ、血の気の引いた顔でフリーレンを見上げていた。フェルンの言葉は、シュタルクの心を粉々に砕いただけでなく、この旅の絶対的な導き手であった大魔法使いの存在そのものを、根底から揺るがしていた。
フリーレンの薄い翡翠の瞳は、細かく、小さく震え続けた。
赤い杖を握る指先が白くなるほど強張っている。その杖の先端は、定まらない視線と同じように、砂の上で頼りなく揺れていた。
「……魔族と、同じ……」
フリーレンの口から漏れた声は、風にかき消されそうなほどに掠れていた。
フェルンの突きつけた言葉は、フリーレンがヒンメルの死後に始めた「人間を知るための旅」そのものの心臓を、正確に踏みつぶしていた。
あの日、海沿いのカフェで、ルークの20年の人生を「短い」と評した記憶が、鮮明な悪意となってフリーレンの脳裏に蘇る。
エルフにとっての20年は、ほんの少しの足踏みに過ぎない。魔王を討ち果たした後の平和な黄昏の一瞬だ。だからこそ、何の気なしにその言葉が出た。悪気などなかった。ただの事実として口にしたのだ。
しかし、人間であるフェルンにとっては違った。
20年という時間は、彼女が故郷も家族も失い、ハイターに救われ、魔法を学び、フリーレンと出会い、今日まで歩んできた人生のすべてだった。フリーレンが「短い」と切り捨てたその時間は、フェルンにとっては、これまでに流したすべての涙と、積み重ねた努力の結晶そのものだったのだ。
(ああ、私は、また間違えたんだ)
ヒンメルの葬儀の時、彼のことを何も知ろうとしなかったと泣いた、あの時から何も変わっていない。
自分は命の長さを笠に着て、人間の不幸や絶望を「どうせすぐに過ぎ去るもの」として軽視していたのではないか。フェルンが戦災孤児として味わった地獄のような孤独も、故郷を失った悲しみも、エルフの膨大な時間というフィルターを通して、ひどく薄めて見ていたのではないか。
人間を知るための旅。
その美名の下で、一番近くにいる弟子の本質すら見ようとしていなかったという突きつけ。それは、百の魔法を叩き込まれるよりも深く、フリーレンの精神を摩耗させていった。
「フェルン、私は……。私は、あなたの人生を……」
言葉が続かない。魔法はイメージの世界だ。
今のフリーレンの頭の中にあるのは、フェルンを圧倒する戦闘のイメージではない。己の冷酷さと独善に対する、深い自己嫌悪と困惑のイメージだった。魔力が、彼女の動揺に呼応するように霧散し、赤い杖の輝きが急速に失われていく。
「そうさ。その通りだよ、愛するフェルン」
フリーレンの絶望を見届け、背後のルークが朗々と笑い声を上げた。
彼は一歩前へ出ると、息を切らせて涙を流すフェルンの腰を、背後から優しく抱きすくめた。彼の琥珀色の瞳は、完全に勝利を確信した獣の光を放っている。
フェルンの瞳に宿る悲痛な憎しみ、師弟の絆が砕け散る音。それら全てが、彼にとっては何よりの美酒であった。
「聞いたかい、フリーレン。これが君が育てた弟子の『本音』だ。彼女は今、君を拒絶したんだよ。……さあ、どうする? 冷酷なエルフらしく、自分の弟子をゴミのように葬り去るのかい? いや、弟子のことを本当に思いやるのなら、このまま無様に散って消えるべきだ。君の存在そのものが、彼女にとっては残酷な呪いなのだから」
ルークはフェルンの耳元に唇を寄せ、甘く、深く囁きかける。
「さあ、フェルン。その冷酷なエルフに、引導を渡してあげるんだ。僕たちの愛の深さを、思い知らせてやろう」
「……はい、ルーク様」
ルークの体温と甘美な芳香が脳髄に注ぎ込まれるたび、フェルンの瞳の涙は乾き、代わりに絶対的な狂信の光が宿っていく。彼女の木製の杖の先が、完全に無防備となったフリーレンの胸元へと、狂いなく照準を合わせた。
「フリーレン様……さようなら」
黒く濁った波が砂利を噛む音だけが、不気味に響いている。
フェルンの放った言葉の刃は、フリーレンの胸の奥深く、これまで目を背け続けてきたエルフとしての孤独の核心を正確に抉り取っていた。赤い杖を握るフリーレンの指先は小刻みに震え、薄い翡翠の瞳からは魔法使いとしての確固たる光が失われかけていた。額の前に力なく垂れ下がった一本のアホ毛が、彼女の絶望をそのまま表している。
(私は、何も変わっていない。ヒンメルの時と同じように、何も見ようとしていなかった)
底のない自己嫌悪の沼に沈みかけたその時、フリーレンの脳裏に、かつて共に旅をした勇者の姿が鮮明に蘇った。
それは、いつかの夕暮れ、何の変哲もない街の広場で交わした会話だった。ヒンメルの穏やかな笑顔と、彼から贈られた鏡蓮華の指輪の輝き。その花言葉は「久遠の愛情」。
『フリーレン。君にとっては、僕たちの人生はほんの一瞬の輝きに過ぎないかもしれない。時間感覚のズレはどうしようもないことだ。でもね、たとえ一瞬であっても、僕たちが君と共に生きて、君の心に何かを残せたなら、僕たちの生きた時間は決して無駄じゃない。だから、これから先も迷わずに歩んでほしい。君が人間を知ろうとしてくれること、それ自体が僕たちの救いなんだから』
「……ヒンメル」
フリーレンの口から、小さく、いつものフラットな呟きが漏れた。
その瞬間、彼女の頭上の一本のアホ毛が、ふっと鋭く上を向いて立ち上がった。震えていた指先が止まり、薄い翡翠の瞳の奥に、かつて魔王を討ち果たした「葬送のフリーレン」の絶対的な意思が静かに灯る。
「……ヒンメルの言う通りだ。私は間違えるし、人間のことはまだよく分からない。でもね、フェルン。あなたの20年の人生を、そんな魔族に捧げさせたりは、絶対にしない。……あなたを、連れ戻すよ」
フリーレンは視線を足元の砂浜へと落とした。そこには、先ほどの激戦で粉々に砕け散った、シュタルクの大斧の破片が散らばっている。シュタルクは柄だけを握りしめ、茫然と砂浜に膝をついていた。
「シュタルク、その斧をこっちに向けて」
「え? フリーレン、何言ってるんだよ。斧はもう粉々で――」
「いいから」
フリーレンは赤い杖を砂の上の破片へと向けた。彼女の脳裏に浮かぶのは、戦闘のイメージではない。これまで旅の途中で集めてきた、数々の「くだらない魔法」の記憶だ。
「これはね、前に北側諸国の農村で貰った、『壊れた農具を直す魔法』だよ」
「農具じゃねえよ! 戦士の武器だぞ!?」
「イメージの問題だよ。金属と木材でできた、土を耕したり木を切ったりする道具。本質は同じ」
フリーレンが魔力を込めると、杖の先から温かな緑色の光が溢れ出した。その光が砂浜中に散らばった破片を包み込んだ瞬間、バラバラになっていた鉄片が磁石に吸い寄せられるように激しく組み合わさり、シュタルクが握る柄へと融解するように結合していった。
一瞬の魔法の光が収まると、そこには以前よりも鈍い銀色の輝きを放つ、完璧に修復された大斧が鎮座していた。ほんの少しだけ、心なしか鍬のような実用的な曲線が混ざっている気もするが、戦士の武器としての強度は完全に元通り、いや、それ以上になっていた。
「ま、マジかよ……! 直っちまった……!」
シュタルクは信じられないといった様子で、大斧の重みを確かめた。
「シュタルク、頼みがある」
フリーレンは前方のフェルンとルークを見据えたまま、起伏のない声で言った。
「フェルンのゾルトラークの連射を、少しの間だけでいいから、あなたの力で全て引き受けて。……3秒でいい」
「3秒……! 分かった、やってやるさ! 俺はアイゼンの弟子だ!!」
「うん、頼りにしてるよ、戦士シュタルク」
シュタルクが雄叫びを上げ、修復された大斧を構えて砂利を爆発させるように飛び出した。
「邪魔をするなと言っているのです!!」
フェルンの紫色の瞳が怒りに燃え、木製の杖から集中豪雨のようなゾルトラークの速射が放たれる。大気を引き裂く白紫の光線がシュタルクを襲うが、彼は新生した大斧を文字通り盾とし、戦士の意地と圧倒的な頑強さでその猛攻を真っ向から受け止めた。ガンガンと金属の衝突音が海岸に響き渡り、シュタルクの肉体が衝撃で血飛沫を散らす。
「1……」
フリーレンはその隙に、自身の赤い杖の先に魔力を集中させていた。
展開するのは、通常のゾルトラーク。だが、その術式はこれまでにないほどに、針の先ほどの極限へと「圧縮」されていた。
「2……」
フェルンの防御魔法は美しい。深く傾斜を付けて軌道を逸らす技も見事だ。
ならば、魔力を限界まで収束させた超高密度の一撃を。理屈は要らない。技術を力で捻じ伏せるイメージ。千年の魔力が、その一点のためだけに結集する。
「3」
フェルンがシュタルクの突破に意識を取られた、そのわずかな瞬間の隙。
フリーレンの杖の先から、一本の極細の光線が放たれた。それはかつて魔族の賢者が創り出し、人間が研究と解析を重ね、そして自分自身が研ぎ澄ましてきた、「
フェルンが咄嗟に防御魔法を展開する。その歳に似つかわしくないほどに研鑽された魔力が、五重、六重もの堅牢な扉となって道を閉ざす。それは一様に深く傾斜が付けられた、あらゆる光を拒絶する鏡の障壁。
パリン、と乾いた音が鳴る。
そして即座に折り重なり、何枚もの窓ガラスを同時に叩き割ったような魔力の悲鳴となって、空間を引き裂いた。
圧縮された光の矢が、少女が閉ざした何重もの扉を、薄氷を割るように容易く貫通する。
「な……っ」
ルークの琥珀色の瞳が、驚愕に見開かれた。
完璧にフェルンの精神を支配し、盾にしていたはずだった。
しかし、フリーレンの一撃はフェルンの髪一筋すら傷つけることなく、その背後に隠れていた魔族の心臓だけを正確に消し飛ばしていた。
「まさか……この僕が、人間を完璧に飼い慣らして……こんな、冷酷なエルフに……」
ルークの胸にぽっかりと開いた穴から、黒い灰のような魔力が溢れ出す。彼の端正な美貌がひび割れ、ラインハイトの街を20年間利用し続けてきた凶悪な魔族は、血の一滴すら残さずに、霧散するようにして夕闇の海岸へと消滅していった。
バサリ、とフェルンの木製の杖が砂浜に落ちた。
「ルーク……様……?」
フェルンはうつろな瞳のまま、自分の後ろを振り返った。だが、そこには先ほどまで自分を抱きしめてくれていた、愛しい恋人の姿はどこにもない。ただ、潮風が虚しく吹き抜けるだけだった。
魔族「偽愛のルーク」。精神に直接作用するその「呪い」は、術者が消滅したからといって、一瞬で跡形もなく消え去るような生易しいものではなかった。人類には原理の解明できない魔族の魔法。フェルンの脳髄には、未だにルークから注ぎ込まれた甘美な毒の残滓と、彼を狂信的に愛していた偽りの記憶が、生々しく焼き付いたまま残っていた。
最愛の存在が、目の前で永遠に失われたという事実だけが、彼女の精神に襲いかかる。
「ルーク様……! ルーク様、どこですか……!? 嫌……嫌です……!」
フェルンは砂浜に両膝をつき、狂ったように砂をかき集めた。爪に砂利が挟まり、血が滲むのも構わずに、ルークが消えた場所の空気を両手で虚しく掴もうとする。
「ルーク様ァーーーッ!!!!」
引き裂かれるようなフェルンの慟哭が、夜の帳が下りる海岸にこだました。
彼女の豊かな胸が激しく波打ち、紫色の瞳から大粒の涙が次々と溢れ出て、朱く染まった砂を濡らしていく。恋人を失った絶望と、脳を支配する呪いの残熱に引き裂かれながら、かつての優秀な魔法使いは、ただの傷ついた少女のように、激しい波音の中で声を上げて咽び泣き続けた。
* * *
夜の帳が完全に下りた海岸に、波の音だけが冷たく響き渡る。
ルークの消え去った砂浜で、フェルンは狂ったように砂をかきむしり、嗚咽を漏らしていた。大粒の涙が彼女のふっくらとした頬を濡らし、地面を赤黒く染めていく。その紫色の瞳は完全に混濁しており、正気と狂気の狭間で激しく明滅していた。
「フェルン……!」
たまらずシュタルクが、修復された大斧を握りしめたまま、彼女の元へ駆け寄ろうと足を踏み出す。
「待って、シュタルク。近づいちゃだめだ」
フリーレンが赤い杖を水平に差し出し、シュタルクの身体を制した。彼女の白いツインテールは潮風に激しく煽られ、頭上の一本のアホ毛は痛々しいほどに低く垂れ下がっている。その瞳は、フェルンの体内で起きている恐ろしい現象を捉えていた。
「いま、フェルンの脳内にあるルークの『呪い』が、急激に崩壊している。その術式の破片と、彼女自身の本当の想いが激しく衝突して、錯乱状態に陥っているんだ。今のあの子は、何をするか分からない」
フリーレンの静かな警告と呼応するように、伏し目がちだったフェルンが、ゆっくりと顔を上げた。
その顔は、涙と砂にまみれ、鬼気迫るほどの復讐の怒りに満ちていた。彼女の細い指先が、再び地面に落ちていた木製の杖を拾い上げる。その先端から、怨嗟に染まった漆黒の魔力がバチバチと不規則に火花を散らした。
フェルンの濁った双眸が、真っ直ぐにフリーレンを射抜く。
そして、彼女の喉から、魂の底を削り出すような最後の呪詛が、絶叫となって解き放たれた。
「なんで……なんで殺したの!! 私はあの方を、愛していたのに!! 人殺し……!!」
激しい慟哭。それはラインハイトの海鳴りさえもかき消すほどの音量だった。
「エルフと魔族の、一体何が違うというのですか!? 長生きで、魔法が得意で、人の言葉を巧みに話して……! そうやって、私の大切なものを、すべて奪っていく……!!」
フェルンは杖を両手で狂おしく握りしめ、フリーレンに向けて突き出した。その周囲の空間が、彼女の全魔力と感情の暴走によって、見たこともないほど禍々しく歪んでいく。
「私たち人間からすれば、あなたも魔族も、どちらも同じ化け物です……!! 絶対に許さない……! 死んでくださいッ!…… 死ねええええええッ!!!!」
刹那、爆発的な漆黒の光線が放たれた。
それはフェルンがこれまでの人生で放ったどの魔法よりも巨大で、荒々しく、殺意に満ちた「
奔流となって迫る死の光を前にして、フリーレンは動かなかった。
防御魔法を展開することも、横へ跳んで回避することもしない。ただ、弟子のぶつけてきた絶望と憎悪のすべてを、その身で受け止めるかのように、薄い翡翠の瞳を見開いて真っ直ぐに光線を見据えていた。
轟音が海岸を震わせる。
黒い魔力の奔流はフリーレンの頭を掠め、背後の崖を派手に爆砕した。そしてその超高密度の殺意の光は、彼女の左側の白いツインテールを、根元から無残にも焼き飛ばしていった。
「フリーレン!!」
シュタルクの悲鳴が響く。
至近距離で受けたゾルトラークの凄まじい余波と、爆風の衝撃圧が、無防備だったフリーレンの小さな身体を容赦なく打ち据えていた。バランスを崩したフリーレンの身体は、木の葉のように後方へと激しく吹き飛ばされる。
何度も砂浜を転がり、崖の残骸に背中を強く打ち付けたフリーレンは、赤い杖を手放し、そのままゆっくりと瞳を閉じた。その額からは一筋の血が流れ落ち、深い夜の闇へと突き落とされるように、意識を失った。
「あ……」
フェルンも限界だった。
すべての魔力を吐き出し、精神の許容量を超えた少女は、杖を手放すと同時に、糸の切れた人形のように砂浜へと崩れ落ちた。そのままぴくりとも動かなくなり、彼女もまた、深い失神状態へと沈んでいく。
吹き荒れていた魔力の嵐が、嘘のようにピタリと止む。
月光に照らされた海岸に残されたのは、修復された大斧を握りしめ、気絶した二人を前にして、呆然と立ち尽くすシュタルク一人だけだった。