ブラック教会を退職して、悪魔のインフラになります 作:みそそ
「おいおっさん、上がれよ。鍵は開いてるぜ」
『仲良し作戦』の次なるステップとして、エミヤはついにクー・フーリンのプライベート空間に潜入することに成功した。連れてこられたのは、築五十年はとうに超えていそうな、今にも崩れそうな木造ボロアパートの一室だった。
引き戸を開けて中に入った瞬間、エミヤは思わず足を止めた。見知らぬ真面目そうなスーツ姿の女性が、黙々と荷物を段ボールに詰めていたからだ。
「……おや。先客か?」
「ああ、この女は、バゼットだ。気にせずそこらへんに座ってくれ」
当のクー・フーリンはと言えば、エミヤを家に招待した張本人であるにもかかわらず、床に寝転がってスマホを凝視していた。
画面からは「ゴォォォール!」とサッカー大会の騒がしい実況が鳴り響いている。完全に画面の中に魂が吸い込まれていた。
エミヤが居心地の悪さに眉を寄せていると、荷造りをしていた女性――バゼットが、お茶のペットボトルを差し出しながら、至極真面目な顔で挨拶をしてきた。
「初めまして、エミヤさん。お噂はかねがね。彼のクレープ屋の売上を良くしてくれたのは、あなただそうですね。本当にありがとうございます」
「あ、ああ……。私はただ、客として少し意見を言ったまでだが。失礼だが、君は彼の……?」
エミヤが探るように尋ねると、バゼットはふぅ、と重い溜息をついた。
「私は彼に『しつこく付き合ってくれ』と言われ続けていますが、断り続けています。ただの友達です」
「付き合ってくれ、か……。まあ、あの男なら言いそうだな」
「ええ。ですが、勘違いしないでください。彼は私に恋をしているわけではありません」
「ほう?」
バゼットは、スマホの画面に向かって「行けっ! 蹴れ!」と大声を上げているクー・フーリンを一瞥し、淡々と、しかし恐ろしい事実を語り始めた。
「クー・フーリンはとにかく運が悪いのです。昔、クレープの屋台を台風による強風で丸ごと吹き飛ばされた日もありました」
「それは...お気の毒に。」
「はい。他にも、ヤクザの縄張りにそれとは気づかずに屋台を出してしまい、怒り狂うヤクザから『クレープ屋台を引きながら』街中を猛スピードで逃げ切って帰ってきた日もありました」
(何だその生きるレジェンドみたいな不運は……!?)
エミヤの背中に冷や汗が流れる。自分が裏垢で「この店は悪魔の店」とポチポチ書き込んでいた嫌がらせが、急に砂粒のようにちっぽけに思えてきた。
「あの時期の彼は本当に哀れでした。地面に落ちたクレープの、まだギリギリ食べられそうな綺麗な部分だけを泥の中から拾い集め、夜な夜なそれを食べて飢えを凌いでいたのです」
「……っ!」
「私はそれを見て、思わず不憫に思って泣いてしまい、彼を助けたいと部屋に転がり込んだのです……。しかし、当の本人は全く気にしていません。この異次元の運の悪さすら、彼は『スリル』として楽しんで消費しているのです」
バゼットは段ボールのガムテープをピッと引きちぎり、冷徹な結論を告げた。
「つまり彼は、私を『生活の基盤を支えるインフラ』にしたいだけなのです。自分がどれだけ不運で破滅しても、私が稼いで部屋を維持していれば餓死しないという計算です。……男として最悪ですね。だから私は、ちょうど今日、この家を出て行こうと思っていたのです」
バゼットが静かにそう告げた、その瞬間だった。
それまでサッカー中継に夢中になっていたはずのクー・フーリンが、勢いよくスマホを床に投げ捨てた。
ガシャンと虚しい音が響く。彼は青い髪を振り乱し、必死の形相でバゼットの元へ駆け寄ると、その両腕を強く掴んだ。
「待ってくれバゼット、行かないでくれ! 俺を一人にしないでくれ……っ!」
それはあまりにも格好のつかない、剥き出しの悲鳴だった。しかし、バゼットは掴まれた腕を見つめ、至極冷静に、そして残酷なほど誠実に言葉を返した。
「私は、世間から拒絶され、傷ついてもなお健気に街で頑張っているあなたの姿が、まるで迷子の犬のように見えたのです。だから保護欲で側にいました。あなたのような見目のいい男性から好意を向けられて、気分が高揚したのも事実です。……しかし、私はあなたへの恋愛感情は湧きませんでした」
(あなたはもう、一人ではありません。エミヤさんというビジネスパートナーができたのですから。……私よりも彼の方が、あなたの生活の役に立つでしょう。)
ピシリ、と何かがひび割れる気配がした。クー・フーリンの赤い瞳が大きく見開かれ、呆然とその場に固まる。バゼットは彼の力を失った手をゆっくりと振り解き、最後の手向けと言わんばかりに、決定的な現実を突きつけた。
「すみません。世間から『悪魔』と定義されているあなたとこれからずっと一緒にいて、安定した暮らしが得られるビジョンが……今の私には、どうしても持てないのです」
ガムテープで留められた段ボールを抱え、バゼットは一度も振り返ることなく、ボロアパートのドアを開けて出て行った。
残されたのは、世界から完全に切り捨てられたような顔をして立ち尽くす悪魔だった。
(……とんでもない修羅場に遭遇してしまった)
ミカン箱の上で、エミヤは完全に息を潜めていた。
寝首をかくために潜入したターゲットの、最も見られたくないであろう「失恋とインフラ喪失の瞬間」を特等席で観劇させられてしまったのだ。気まずさの極みだった。
エミヤはそっと立ち上がり、呆然と自失しているクー・フーリンの肩に一瞬だけ手を置いたが、彼はピクリとも動かない。
「……すまない、少し席を外す」
それだけ言い残し、エミヤは玄関に立てかけられていた一本のビニール傘をひったくるように掴み、アパートを飛び出した。
外は、いつの間にか激しい夜の雨が降っていた。
「バゼットさん!」
錆びた鉄階段を駆け下り、街灯の下を急ぎ足で歩く背中を追いかける。エミヤは息を切らせながら彼女に追いつき、自分の分の傘もないまま、彼女の頭上にビニール傘を差し掛けた。
「これを持っていきなさい。風邪を引く」
「エミヤ、さん……」
傘の持ち手を押し付けられたバゼットが、ゆっくりと顔を上げる。
彼女は、大粒の雨に打たれながら、ボロボロと涙を流して泣いていた。
クー・フーリンの前ではあれほど冷徹で、理性的で、完璧な大人としての別れを演じてみせた彼女が、夜の闇に紛れて、子供のように声を殺して泣いていたのだ。
「すびません……。私だって、彼を見捨てたくなんて、なかった……。でも、悪魔と人間が、この現代で普通に幸せになるなんて、そんなこと……っ」
雨の音に混じる、彼女の嗚咽。
エミヤは何も言わず、ただ彼女が泣き止むまで、雨の中でじっと寄り添うことしかできなかった。
濡れた前髪の隙間から、エミヤの脳裏に、先ほどアパートの部屋で全てを失った顔をしていたクー・フーリンの残像が過る。
現代社会という見えない檻。教会の強力なルール。それらが、彼から居場所だけでなく、ただ側にいてくれた大切な人間までをも、じわじわと奪い去っていく。
(……誰が彼をここまで追い詰めた?)
エミヤの胸の奥に、冷たい刃が突き刺さる。
他でもない、ネットの裏で手を汚し、彼の鳶職を奪い、クレープ屋を炎上させ、彼を「現代社会では生きていけない悪魔」に仕仕立て上げたのは――自分自身だ。
言峰のパワハラへの腹いせ、定時退社のための業務効率化。そんなくだらない理由で自分が仕掛けた『情報戦』が、巡り巡って、目の前で泣いているこの実直な女性の未来と、あの悪魔の心を粉々にすり潰したのだ。
「……私は、なんてことをしてしまったんだ」
夜の雨の中、エミヤは自らの『正義』のあまりの陰湿さと罪深さに、激しい嫌悪と後悔を抱き始めていた。クー・フーリンに同情し、引き金を引けなくなるどころではない。
エミヤは今、自分が犯した罪の重さに、完全に弓を引く資格を失いつつあった。