ブラック教会を退職して、悪魔のインフラになります 作:みそそ
雨の中、泣き崩れるバゼットを静かに見送った後。エミヤは重い足取りで、再びあの崩れかけのボロアパートへと戻っていた。
引き戸を開けると、部屋の中は暗闇に包まれていた。クー・フーリンは先ほどバゼットに腕を振り解かれた姿勢のまま、暗がりの床にポツンと立ち尽くしていた。背中が、ひどく小さく見える。
エミヤは何も言わずに部屋の電気を点け、散らかった部屋の隅から万年床を引きずり出して布団を敷いた。呆然と自失したままのクー・フーリンの肩を押し、無理矢理そこに寝かせる。
それから台所へ向かい、流し台に溜まっていた汚れた皿を、無言で、丁寧に洗い始めた。ただ、静かな水の音だけが冷えた部屋に響いていた。
すべての皿を洗い終え、エミヤが帰宅しようと壁のハンガーから上着を手に取った、その時だった。
「……エミヤ」
布団の中から、クー・フーリンの声が聞こえた。
「もう遅いだろ。雨も降ってて危ねえし、このまま俺の部屋に泊まってもいいぞ」
「いや、帰らせていただくよ」
エミヤが表情を変えずに淡々と断ると、クー・フーリンはゆっくりと身を起こし、濁った赤い瞳でエミヤを真っ直ぐに見つめてきた。
「泊まっていけよ」
いつもより一段と低い、掠れた声だった。
かつて輝かしい光の中で、常に数多の人間に注目され、賞賛され、英雄として生きてきた男。
そんな男にとって、この現代の片隅の、暗くて、寒くて、誰も自分を見ていない孤独な夜は――あまりにも恐ろしいものだったのだ。悪魔の肉体を持っていようとも、その魂に刻まれた孤独の寒さは凌げない。
エミヤは手元の上着を見つめ、小さく溜息をついた。
「……分かった」
エミヤは自らの上着を枕代わりにし、冷たい畳の上にそのまま横たわった。
二人の間に言葉はなかった。ただ、外の窓を叩く激しい雨の音と、お互いの静かな呼吸の音だけが、夜が明けるまで部屋を辛うじて満たしていた。
翌朝、まだ街が薄暗い早朝のこと。
エミヤは静かに身を起こし、足音を忍ばせて玄関へと向かった。布団の中で背を向け、規則正しい寝息を立てているクー・フーリンの背中に向けて、エミヤは届くかどうかも分からないほど小さな声で呟いた。
「では、さらばだ」
ドアが静かに閉まり、ガチャリと鍵がかかる音が響く。
その瞬間、布団の中のクー・フーリンは、ゆっくりと目を開けた。彼は最初から起きていた。エミヤの、まるで今生の別れのような声音の「さらばだ」を、その鋭い耳でしっかりと聞き届けていたのだ。
アパートを出たエミヤは、冷たい朝靄の中を、宛てもなく歩いていた。
彼の脳内では、二つの『正義』が凄まじい勢いで衝突し、天秤を激しく揺らし続けていた。
一つは、社会的正義。悪魔は捕らえるか討伐する対象だ。そうでなければ、善良な国民は安心して生活を送ることができない。悪魔祓いとして、その職務は絶対だ。
しかし、もう一つは、個人の正義。毎日真面目にクレープを焼き、どれだけ傷つきながらもしぶとく生きようとしていたクー・フーリンを、どうしてもそこまで悪い奴だとは思えない。
何より、彼の居場所を奪い、ここまで社会的に追い詰めてバゼットと引き離したのは、他でもない自分自身なのだという、猛烈な自責の念。
普通の人間の精神であれば、「仕事を辞める」か「なあなあで共存する」という妥協点を見出すだろう。しかし、エミヤという男は、あまりにも真面目すぎた。
(社会のルールを曲げることはできない。だが、彼をこれ以上傷つけることも、私のエゴが許さない)
(ならば――この天秤を並行にする方法は、一つしかない)
それは、「己の消滅」。
どちらの正義も裏切らないために、自分という存在そのものを世界から消し去るという、極端極まる狂気の結論だった。彼はどこまでいっても、自分を救うことのできない、正義の殉教者だった。
気づけば、エミヤは街外れにある、立ち入り禁止区域の切り立った崖の前に立っていた。
眼下には、激しい白波を立てて岩肌を噛む、昏い海が広がっている。朝の冷気の中、エミヤは静かに目を閉じ、崖の縁へと一歩、足を向けた――その瞬間だった。
ガシィッ!!!
強靭な、しかしどこか温かい手が、エミヤの細い腕を強烈な力で掴んだ。
「お前、何やってんだよ……!」
背後から響いたのは、息を切らせ、野性の獣のようなスピードで追いついてきたクー・フーリンの声だった。彼はエミヤを崖から力任せに引き戻すと、そのまま地面に組み伏せるようにして、エミヤの顔を覗き込んだ。
「とてもさっきは、これから死にに行くような奴の面には見えなかった。……なぁ、なぜだ!?」
クー・フーリンは本気で驚愕していた。戦場で誇り高く死ぬ戦士ならいくらでも見てきたが、こんな風に、自分の犯した矛盾や罪悪感の重さだけで、さらっと、当たり前のように自分自身を終わらせてしまう人間に、彼は初めて出会ったのだ。
地面に組み敷かれたエミヤは、痛みに小さく眉を潜めながらも、自嘲気味に少しだけ笑った。
「……フッ、笑わせるな。なぜ私を助ける? 君が逃亡する先々で仕事をクビになるのは――すべて、この私の情報操作によるものだ」
エミヤは冷徹に、自身の『醜悪な真実』を吐き出した。
「ネットにいた君の熱烈なアンチの大半……そうだな、およそ8割は私だ。複数のアカウントを駆使し、君を社会的に攻撃していた。何しろ、私はもうこの歳だ。いつまでも若く元気な君に、正面からの戦闘では敵わないからね。……さあ、思い出したか? 君は、裏切りと卑怯で陰湿な人間が何より嫌いで許せないと言っていたな。その手を退けてくれ。最後の仕事の妨害をするな、悪魔」
これでクー・フーリンの手が怒りで離れるのを待った。しかし......
「なんとなく、全部わかってたぜ」
「――なに!?」
「俺を舐めるなよ、エミヤ。わかった上で、お前がこれから俺にどんな面白い罠を仕掛けてくるのか気になって、ずっと泳がせてたんだよ。なのにお前……俺の寝首をかくことすらしないのかよ。ここまで俺の生活をめちゃくちゃに邪魔しておいて、急に消えるのは――卑怯すぎるだろ!なんでそこから飛び降りようとしたか、理由を話せって言ってんだよ!!」
エミヤは絶句した。しかし、すぐにまた歪な真面目さが首をもたげる。
「……簡単に言えば、君と仲良くなりすぎて、殺したくないと思ってしまったんだ。けれど、悪魔狩りはやめられない。私の正義は、教会の定めた法と秩序だ。それを執行し、人々が安心して暮らせる安全を守る優秀な職員になること……それが私の理想なんだよ。だから、今抱えているこの葛藤は、自己の消滅でしか解決できない」
その言葉を聞いた瞬間、クー・フーリンの赤い瞳が、激しい怒りで燃え上がった。彼はエミヤの襟元を強く掴み、低く、地を這うような声で吐き捨てた。
「……ふざけんじゃねえぞ。理想や夢ってなぁ、贅沢ものが持つもんだ。お前がその『理想の殉教者』として綺麗に消えることを高潔だと言い張るのなら――それは、今を生きるので精一杯な俺を、心の底から馬鹿にしてるのと同じなんじゃねえか!?」
「何……?」
「ネットで叩かれようが、居場所を追われようが、俺はなぁ、たんぽぽとつくし食ってでも生きてるんだぞ! 泥水啜ってでも、明日を引っ掴むために這いつくばってんだよ! それを、お前は自分の綺麗な理屈を守るためだけに、勝手に詰んで死のうとしてんじゃねえ!」
強烈な一喝だった。
その言葉は、エミヤの胸の奥にある、頑なで歪んだ天秤を根底から打ち砕いた。
自分が背負っていた罪悪感も、社会的正義というお題目も、クー・フーリンの「ただ泥臭く生き抜く」という圧倒的な生への執着の前には、どれほど独りよがりな傲慢だったか。
エミヤはしばし呆然とクー・フーリンを見つめていたが、やがて、フッ……と観念したように小さく笑った。
「……そうか。全くだ。私は、とんでもない勘違いをしていたらしい」
エミヤは姿勢を正すと、クー・フーリンに向けて、深く、真摯に頭を下げた。
「本当に、すまなかった。私の傲慢を許してくれ、ランサー」
「ハッ、分かればいいんだよ、分かれば」
クー・フーリンは満足そうに鼻を鳴らし、ようやくエミヤの襟元から手を離した。
「さあ行くぞ。バゼットがいなくなって、今日の分のクレープの仕込みがまだ終わってねえんだ。お前のアドバイスで作った新メニューだろ、責任持って手伝え」