ブラック教会を退職して、悪魔のインフラになります 作:みそそ
崖の上での衝突から、数日が経った。
エミヤは肉体的、社会的消滅を選ぶのをやめ、クレープ屋の厨房に立ってクー・フーリンの仕込みを手伝っていた。バゼットを失ったボロアパートの一室で、二人は並んで遅めのまかないを食していた。
その時、クー・フーリンがふと、自身の「一度目の人生」の話を切り出した。
「俺はもともと、アイルランドって国で英雄と呼ばれてたんだわ」
「……英雄、か。今の君のガサツさからは想像もつかないな」
「うるせえよ。だがな、今の現代社会を牛耳ってる一神教の連中によって、俺は『野蛮でしぶとい悪魔』ってことに定義し直されちまった。そしたら、皮肉にもその『しぶとい』っていう認識の強さのせいでよ……まるでギャグ漫画のキャラが次のコマで生き返るみたいに、墓から飛び出して復活しちまったんだ。これが俺の二度目の人生さ。だからな、俺はもともと人間を唆すために生まれた本物の悪魔とは、根っこが違うんだよ」
クー・フーリンが真面目な顔で語ったその事実に、エミヤは目を見開いた。
彼は悪魔などではなかった。ただ現代のルールによって、歪んだ烙印を押されただけの被害者だったのだ。
「……そうか。分かった」
エミヤは立ち上がった。彼を救うため、そして自分の『正義』を全うするために、組織へと赴く決意を固めたのだ。
翌日。
エミヤは聖堂教会の執務室で、上司の言峰綺礼と対峙していた。
「言峰さん。クー・フーリンは元々、アイルランドの英雄だったそうです。私も彼と対話し、社会的な危険性はないと判断しました。したがって、彼を討伐ターゲットから除外していただきたい」
直談判するエミヤを見つめ、言峰は笑みを深めた。
「安全だと判断したのは、君の主観にすぎない。だが、……まあいいだろう」
言峰はそう言って低く笑うと、デスクの引き出しから古い羊皮紙を放り出した。
「では、君が命を懸けて信仰する、この『悪魔祓い』という組織の成り立ちを教えてあげよう。なぜ人は悪魔を嫌うのか。なぜ彼らが悪と定義されたのかをね」
言峰の口から語られたのは、あまりにも醜悪な世界のシステムだった。
「今の社会で甘い汁を吸っている富裕層や貴族たちにとって、かつて英雄と呼ばれた者たちが持つ『既存の社会構造を破壊する暴力と革命のメタファー』は、己の地位を脅かす恐怖そのものだったのだよ。だから彼らは我が教会に命令した。彼らの財産と地位を守るため、反逆のシンボルとなり得る英雄や神々を、すべて『悪魔』として記述し直せ、とね」
「な……知っていて、あなたは黙っていたのか……っ!」
エミヤの全身から血の気が引いた。
彼が三十代後半に差し掛かるまで、毎朝の関節の痛みに耐え、過労で白髪を増やしながら命懸けで執行してきた「教会の法と秩序」。
それが、善良な市民を守るためのものですらなく、ただの
本当の社会的弱者は、居場所を奪われ、ネットでネガキャンされ、泥水を啜って生きることを強いられていた「元・英雄や、神々、王族であった悪魔」たちだった。
長年積み上げてきたアイデンティティが、音を立てて粉々に崩壊していく。その絶望と衝撃に目を見開くエミヤの姿を見て、言峰は骨の髄まで愉悦し、肩を揺らして笑った。
だが、エミヤの中で、絶望は瞬時に激しい「怒り」へと反転した。
「私は……! 安定した暮らしや地位や名誉、金目当てでこの組織に居座っていたのではない! 私の人生を、正義に費やした私の時間を返せ……!!」
魂を絞り出すようなエミヤの叫び。しかし、言峰は平然と笑う。
「私に怒るのは、お門違いというものだよ。システムを作ったのは私ではない。人間社会の構造そのものだ」
確かに、この世界にはただ人を害するだけの本物の悪魔もいる。教会そのものを破壊するような戦いは世界の治安を崩壊させるだけであり、自分一人の力で世界を正すことなどできはしない。
エミヤは天を仰いだ。そして、ハッと気づいたのだ。
(……ああ、そうか。ならば、私がこのクソ組織にしがみつく理由は、もう何一つとして無いじゃないか)
世界を変える戦いは諦める。本当は、ずっと休みたかった。毎朝ぐだぐだ嫌味を言ってくる、この理不尽な上司が許せなかった。
子供たちから憧れられ、社会的に高い地位を確保できる「悪魔祓い」という看板。そんな偽物の栄光よりも、泥水を啜ってでも「たんぽぽとつくし食ってでも生きてやる」と笑っていた、クー・フーリンの生き方の方が――ずっと羨ましかった。
「……認めよう。私は、疲れ果てていたらしい」
エミヤは自らの心の底にあった「本音」を、すべて受け入れた。
彼は懐から、いつでも出せるように常備していた白い封筒を取り出すと、言峰のデスクに真っ直ぐ叩きつけた。
「辞めさせていただきます。有給はすべて消化します。未払い残業代も、独自のルートで全額請求しますので、そのつもりで」
「おや、思い切りのいい引き際だ。劣化していく駒の割には、良い決断だ」
エミヤはもう振り返らなかった。彼の信じていた偽物の正義は打ち壊された。しかしその心は、かつてないほどに深く、穏やかな凪に包まれていた。
数日後。
アイルランドの英雄が営むクレープ屋の厨房に、一本の白いエプロンを身につけたエミヤの姿があった。
「おいエミヤ! 焼き上がりの生地の端がまた破けたんだけど、これどうすりゃいい!?」
「慌てるなクー・フーリン。そんなものは生クリームとイチゴの配置でいくらでも誤魔化せる。それよりお前はレジの計算を間違えるな。昨日も売上が合わなかったぞ」
「へへっ、わりぃわりぃ!」
教会を退職して「無職」になったエミヤ。
彼は今、クー・フーリンの生活を、そして現代のルールにすり潰され、悪魔と定義されている「少数の犠牲者...英雄や神、かつての王様たち」の居場所を、個人として守るための『
世界は変えられない。組織も壊せない。
けれど、自分の手の届く範囲の、この愛すべき、しぶとい悪魔たちの衣食住だけは、私が完璧に管理してやる。
「おい、エミヤ。今日のまかない、何にするよ?」
「そうだな……お前がそこらへんで摘んできたその不恰好なつくしとたんぽぽを、最高の天ぷらにしてやろう」
理不尽な上司も、偽物の正義もない。
二人の歪で、しかし誰よりも自由な「毎日が休日」が、クレープの甘い香りと共に、今日も静かに始まっていく。