都会の喧騒を離れ、士郎の乗る車は、のどかな田舎道を進んでいた。
だが、目的地に近づくにつれ、のどかだった風景は、異様な圧迫感と冷気によって侵食されていく。
視界を完全に遮るようにそびえ立っていたのは、外界のすべてを拒絶する、分厚く巨大なコンクリートの高壁だった。
見上げるほどのその絶壁には、有刺鉄線と無数の監視カメラが並び、まるで軍事基地か最厳重刑務所のそれだ。
世間の噂通り、ここは野蛮な怪物を閉じ込める檻なのだ――士郎がそう確信しながら、厳重なゲートの前に車を止める。
事前に手配されていた見学許可証と身分証を提示し、網膜スキャンを経て、重厚な電子ロックが重々しく開いた。
しかし、壁の内部へと車を進め、広大な敷地の中心へと差し掛かった瞬間、士郎は思わずブレーキを踏み、呆然とフロントガラスを見つめた。
「……なんだ、これは」
そこにそびえ立っていたのは、おとぎ話の絵本からそのまま飛び出してきたかのような、ポツンと佇む可愛らしい木造の建物だった。
美しい緑の庭園、手入れされた花々。まるで魔法使いと妖精が人目を忍んで隠れ住むような、温かみと優しさに満ちた家。
車を降りて中に入ると、大きな窓からオレンジ色の柔らかな夕日が室内に差し込んでいた。木の床の心地よい匂い、どこか懐かしい静けさ。
士郎は一瞬、自分がかつて過ごした幼少期の衛宮邸の温もりを刺激されるような、強烈なノスタルジーに囚われ、小さく呟いた。
「……まるで、幼稚園の拡大版だな」
だが、そのノスタルジーは、奥へ進んだ士郎の視界によって一瞬で凍りつく戦慄へと変わった。
広々とした談話室や図書室には、揃いの真っ白な服を着た若者たちが大勢いた。
その顔ぶれを見た瞬間、士郎の背筋を冷たい汗が伝う。
図書室で静かに幼い子供に絵本を読み聞かせているのは、かつて国家反逆の爆弾テロを起こして国を震撼させた『モードレッド』と同じ顔だった。
食堂のテーブルを穏やかな手付きで拭き掃除しているのは、かつて政府の要人を冷酷に暗殺した『ランスロット』と同じ顔。
そして、庭で笑っている若者は、あの最凶のマフィアのボス、クー・フーリンの顔をしていた。
本来なら、交わるだけで国がいくつか滅ぶような秩序の破壊者、法律の敵。その危険極まりない遺伝子たち。
なのに、彼らの間に險悪な空気は一切なかった。皆、驚くほどに民度が高く、穏やかで、互いを思いやる平和な会話を交わしている。汚れなき真っ白な服を揺らし、誰かのために微笑み合っている。
(嘘だろ……彼らがクローンなのか? 拷問部屋も、鉄格子もない。こんなに穏やかな彼らが、あの化け物たちのクローンだというのか……)
あまりのギャップに士郎が激しい眩暈を覚えたその時、背後の薄暗がりから、硬質で、しかしどこか艶のある女性の声が響いた。
「珍しいな。バビロニア・コンツェルンの者が、この『影の国』に何の用だ?」
振り返ると、そこにはタイトな管理官の制服に身を包んだ、紫の長髪の美女――スカサハが、すべてを見透かすような冷徹な瞳で立っていた。その双眸には、一切の光が宿っていない。
「私は衛宮士郎。ギルガメッシュ社長の命令で、クー・フーリン・キャスターに会いに来ました。……管理官、ここにいる彼らは、一体」
「見ての通り、外界では秩序の破壊者と呼ばれる遺伝子たちだ」
スカサハは冷徹に、しかしどこか慈しむように、楽しげに笑い合う子供たちを見つめた。
「だが、この檻の中にいる彼らは違う。自らの短い命がいつか他者の
背筋に極寒の戦慄が走り、士郎は自身のポケットの中で拳を強く握りしめた。
ここには野蛮な暴力などない。あるのは、彼らの魂を綺麗に去勢し、社会のために快く消費される歯車として完璧に調教した、
「さあ、案内しよう。お前が会いに来た、この楽園の『賢者』の元へ」
スカサハの静かな歩みに従いながら、士郎は目の前の「真っ白な光」の異常な歪さに、激しい吐き気を堪えていた。
スカサハに促され、士郎は研究室の重い木製の扉を押し開けた。
室内に一歩足を踏み入れた瞬間、外界の静謐な楽園とは異なる、無秩序な熱気が士郎の肌を叩いた。
そこは、積み上げられた古い魔術書や、ホログラムのデータウィンドウ、そして様々な実験器具が雑多に散らばる混沌とした空間だった。
部屋の中心、無数のコードがのたうち回る研究机の前に、一人の青年が座っている。
「おいキャスター! 何作ってんだよ。槍投げの新記録出たから今すぐ見に来いって!」
部屋の奥から、運動着姿の青年がドタドタと足音を立てて飛び出してきた。ランサーと呼ばれたその青年が、机の前の男の肩を乱暴に揺さぶる。
キャスターは鬱陶しそうにその手を払いのけると、怪しげな緑色の液体が入ったフラスコを掲げ、不敵にニヤリと笑った。
「フン、槍投げなんざ後回しだ。見てみろランサー、食べたら正確に10秒で凄まじい屁が出る美味い食べ物が完成したぞ」
「ぶっ、はははは! お前、繊細なルーンの数式使って何作ってんだよ!」
腹を抱えて爆笑するランサー。そのあまりのくだらなさと、施設全体の緊迫感とのギャップに、士郎は一瞬だけ硬直した。そして、頭を切り替えて静かに声をかけた。
「……失礼する」
刹那、二人はぴたりと笑うのをやめ、揃って入り口を振り返った。
まったく同じ青い髪、まったく同じ鮮烈な赤い瞳。鋭い野生の輝きを秘めた「同じ顔」が、同時に士郎を凝視している。
士郎は背筋に走る奇妙な居心地の悪さを覚えながらも、冷静さを保ってデスクへ歩み寄った。
「バビロニア・コンツェルンから来た、衛宮士郎だ。君の研究について、話を聞きに来た」
キャスターはフラスコを置くと、特に警戒する様子もなく「あぁ、あの成金社長のところの」と、気のいい笑みを浮かべて椅子に深く背を預けた。
士郎の目が、彼の机の上に広げられているデータに留まる。それは、緻密な遺伝子エラーの修復法則だった。士郎が研究所でずっと頭を悩ませていた、人工臓器の開発資料の、最も難解だったミクロの適合パズル。その答えが、ここに完璧な形で転がっている。
「これを、君が一人で組み立てたのか?」
「まさか。これは俺たちの前の世代……『スカディ』って頭のいい先輩が残してくれた理論さ」
キャスターは、明日の天気予報でも話すような軽さで、淡々と言葉を続けた。
「彼女は数ヶ月前、ドナーになって
手元にある資料の端に残された、見覚えのある繊細な筆跡。それが、すでにこの世にいないクローンの遺志であることを知った瞬間、士郎の指先がピクリと跳ね上がった。
「君の順番は……いつなんだ」
「ん? 俺の順番か? もうすぐだよ。だからこのデータは、次の若い奴らに引き継がせるために今まとめてるんだ。そこのランサーも、筋肉のバックアップとしてそろそろお呼びがかかるんじゃねえか?」
「おう、俺の心臓や筋肉がありゃあ、元アスリートの患者も大喜びだろうよ」
ランサーもまた、自分の命が消費される現実を、自慢の肉体を褒められたかのように笑って受け入れている。
「……義務で、やらされているのか」
士郎の声は、かすかに震えていた。だが、キャスターは心底おかしそうに鼻を鳴らした。
「冗談だろ。ただの遊びの延長線だよ。謎を解くのは面白いし、あいつら後輩の笑顔を見るのは退屈しのぎにちょうどいい。義務だの悲壮感だの、そんな無駄なエネルギーを使うだけ損だろ」
強制されて嫌々やらされているのではない。彼らは短い命の檻の中で、誰の悪意も知らず、ただ純粋な善意と知的好奇心だけで、自分たちを解体する社会のための研究を「楽しんで」いた。この満ち足りた消耗品という現実。完成された歪なユートピア。
(こんな残酷な楽園が、あってたまるか――!)
エミヤの心の中で、人工臓器の開発に対するすべての迷い、社会の犯罪率との治安の天秤が、音を立てて粉々に砕け散った。
彼らをこのまま死なせていいはずがない。この無垢な幸福を、社会のエゴのために消費させてなるものか。激しい怒りと濁流のような焦燥感が、士郎の魂を完全に支配した。
「……そうか。データ、助かる」
それだけを何とか絞り出し、士郎は翻るように研究室を後にした。庭で無邪気に遊ぶ幼いモードレッドたちの姿を視界の端に捉えながら、彼は一刻も早く自身の工房へと戻り、命を削ってでも人工臓器を完成させることを誓っていた。
すべては、ギルガメッシュが仕掛けた盤上の思惑通りに。