昼間の緊急特番で、口に含んだコーヒーを派手に吹き出して以来、衛宮士郎の思考は完全に停止していた。
研究所のデスクに向かっても、ディスプレイに並ぶプログラミングのコードは全く頭に入らない。警察やクローン経営組織が総力を挙げて網の目を広げているというのに、あの規格外の猟犬どもは、未だに誰一人としてその影さえ踏ませていないようだった。
(……あいつらは、一体どこにいる。早くしなければ、本当に怪物としてハントされてしまう)
焦燥感だけが胸の奥を焼き焦がす中、士郎は夜の帳が降りた暗い田舎道を、一人で車を走らせていた。研究所からの帰宅途中、ヘッドライトの白い光が切り裂く夜の静寂の中に、あり得ない影が二つ浮かび上がる。
街灯すらない夜道のど真ん中を、昼間のニュースが警告していた通り、ド派手なアロハシャツを着た男たちが並んで堂々と歩いていた。士郎は心臓の鼓動を跳ね上がらせながら、鋭くクラクションを鳴らした。
「おいキャスター、見ろよあの車。強そうでいいな」
「乗せてもらおうぜ、ランサー。歩くのも飽きてきたところだ」
警察から逃げ隠れるという発想すらないのだろう。ランサーが車の真ん前に大の字で立ちはだかり、キャスターが運転席の窓をトントンと叩く。士郎が慌ててウィンドウを下げると、キャスターが赤い瞳を丸くした。
「なんだ、お前か!」
「君たちか……! 詳しい話は後だ、とりあえず乗るんだ!」
士郎のただならぬ気迫に押され、二人は素直に後部座席へと滑り込んだ。「どんな家なんだろうな」「エミヤは金持ちの研究員だからな」と、後部座席でワクワクした子供のように話し合う二人の声を背中に受けながら、士郎は車を急発進させた。
バックミラー越しに、手錠の嵌められた手で楽しげに車内を見回している二人を見据える。
「街は大騒ぎだ。脱走したんだな。……安心しろ、私の家に匿おう」
ランサーとキャスターは顔を見合わせると、同時にニヤリと不敵に笑った。
「話が早くて助かるぜ。外の奴らはどいつもこいつも、俺たちの顔を見た瞬間に悲鳴を上げて逃げ回るからよ。退屈しのぎの鬼ごっこにしちゃ、ちょっとばかし白けてたところだ」
楽しげに笑う二人の横顔を見ながら、士郎はハンドルを握る手に血がにじむほど力を込めた。彼らの知らない残酷なタイムリミットが、その背後に迫っていることを士郎は知っている。
(キャスターがドナーになる日が近い。二人は……死への恐怖から、あの白い檻を逃げ出してきたのだ。彼らを救う方法は、もうこれしかない)
二人を警察や組織の目から、完璧に隠し通すこと。彼らの命のタイムリミットが来る前に、私の手で人工臓器のプロトタイプを完成させること。
そして、この国に人工臓器の使用を急速に認めさせ、クローンによる臓器提供の非人道性を世間に訴え、この歪んだシステムそのものを内側から解体する――。
「シートベルトを締めろ。ここからは時間との戦いだ」
静かに、しかし確かな闘志を宿した声で士郎は言い、夜のハイウェイを加速していった。正義の味方は、彼らの無垢な命を救うための、壮大なロードマップを完全に固めていた。
翌朝、衛宮邸の古い和室に、香ばしいバターとトーストの匂いが立ち込めていた。
士郎が差し出したのは、手際よくフライパンを揺らして作られた黄金色のスクランブルエッグと、厚切りのトースト、そして淹れたてのブラックコーヒーだった。
「うめえ! おいキャスター、これ最高だぞ! 卵がふわふわしてやがる!」
「ほう、あの無味乾燥な配給食とは大違いだな。なかなかやるじゃないか、エミヤ」
ランサーとキャスターは、昨日までの逃亡劇など忘れたかのように目を輝かせ、信じられない勢いで皿を空にしていく。
士郎は彼らの脱ぎ捨てた派手なアロハシャツを洗濯機に放り込み、洗面台の鏡越しに二人の姿を静かに観察していた。
彼らの知能指数は極めて高い。今朝、士郎が徹夜でまとめた
なのに、今の彼らはまるで無邪気な子供そのものだった。見るもの全てを新鮮に感じ、誰にでも気さくに話し、ただ明るく、健やかに振る舞う。
(……まるで、幼少期に置き去りにしてしまった、かつて自分だったはずの何かを見ているようだ)
胸の奥底の、冷え切った
あの日以来、衛宮士郎という人間は、無邪気に世界を楽しむ心を失った。生き残ってしまった罪悪感から、
だが、目の前の二人は違う。死のタイムリミットがすぐ後ろに迫っているというのに、彼らの魂はこれ以上ないほど自由で、純粋で、眩しい。
――羨ましい、と。
士郎は生まれて初めて、他者に対してそんな歪な感情を抱いた。自分の心の歪みが彼らの輝きによって暴かれる恐怖から逃げるように、士郎はすぐに壁に掛けた上着を掴んだ。
「私は研究所に行く。鍵は閉めておくが、絶対に外には出るなよ。誰にも見つかるな」
「おう、気をつけて行けよ、エミヤ!」
「お土産はあの、昨日食べたチョコってやつがいいな!」
背後からかけられる、当たり前の友人や家族のような気のいい声。士郎は振り返らずに、逃げるように玄関のドアを閉めた。胸の奥が、ひどく熱くて痛かった。
一方、士郎が車を走らせる街の、巨大なネットの海では、奇妙な地殻変動が起きつつあった。
SNS上に爆発的な勢いで拡散されていたのは、監視カメラや通りすがりの市民のスマホが捉えた、アロハシャツ姿で笑いながら街を爆走し、万引きしたチョコをパキリと半分に割って分け合う二人の動画だった。
国家レベルの「危険な怪物」として報道されていたはずのクローン。だが、その姿はあまりにも楽しげで、何より見目が良すぎた。
『あの最凶の犯罪者のクローンって聞いたけど、ただのやんちゃな双子にしか見えんのだが』
『あの施設、相当窮屈だったのかね。可哀想に』
『てか顔が良すぎる。真っ白な檻の中に閉じ込めて、パーツとして死ぬのを待つだけとか、そりゃ逃げたくもなるわ』
『クローンの自由を認めるべきじゃないか?』
恐怖の対象だったはずの存在は、現代社会の網の目の狂騒の中で、いつしか「檻から飛び出した無垢な自由の象徴」として、人々の歪な同情を集め始めていた。
彼らの自由を否定する治安重視の派閥と、肯定する人道派の派閥。世界は真っ二つに割れ、巨大な嵐の予感が街を包み込もうとしていた。