「人工臓器、開発成功です」
最上階の社長室。衛宮士郎はギルガメッシュのデスクの前に直立し、感情の一切を削ぎ落とした、硬質な声で報告した。
「実際の患者を用いた適合試験もすべてクリアしました。この技術は、クローンを育成するための莫大な時間、および施設維持にかかる費用が一切不要になる、極めて効率的な医療システムです。クローン臓器の提供に頼るライバル会社より、我が社の方が遥かに迅速に、かつ多くの命を救うことができる。何より、このタイミングで『クローンを解放した人道企業』という
キャスターを救えなかった絶望も、社会への激しい憤怒も、士郎はその胸の奥底に完璧に押し殺していた。これは王を動かすための、徹底して冷徹な数字と利潤の盾だった。
ギルガメッシュは豪華な革椅子に深くふんぞり返り、深紅の瞳を細めて、心底愉快そうに高笑いを響かせた。
「ふはははは! でかしたぞ、フェイカー! まあ、貴様がここにたどり着くことなど、最初から分かっていたがな!」
ギルガメッシュは立ち上がり、巨大なガラス窓へと歩み寄る。その絶対的な『千里眼』は、エミヤがこの報告を持参する未来を、最初からすべて見越していたのだ。
「良いだろう。有象無象の偽善を黙らせ、我が社の覇権を決定づける極上のカードだ。クローンを育てるなどという前時代の不経済なシステムなど、我が手で叩き潰してやる。――褒美だ、貴様を研究部門のトップへ昇進させてやろう」
「……昇進はいりません。今の地位が気に入っていますので」
欲の欠片もないその淡々とした返答に、ギルガメッシュはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「ふん。そう言うと分かっていた。どこまでも覇気のない雑種め。己の取り分すら要求せぬ機械が。……用が済んだならさっさと去れ」
「失礼します」
士郎が一礼し、重厚な扉へ向かって歩き出した時。
扉の脇に微動だにせず控えていた秘書――エルキドゥが、花が綻ぶような美しい微笑みを浮かべて静かに声をかけてきた。
「エミヤ、おめでとう。君の願いが、ようやく一つ叶ったんだね」
その澄んだ声と、どこか人間離れした無垢で、しかし確かな個としての強さを秘めた空気。
士郎は息を呑み、エルキドゥの佇まいに、あの日あの白い施設で出会った若者たちの影を強烈に重ね合わせていた。
神に作られた人形でありながら、確かにそこに独自の魂と尊厳を宿している、あのクローンたちの気配。
「……どうも」
喉の奥でそれだけを絞り出し、士郎は社長室を退出した。
背後で閉まる静かな扉。
直後、ギルガメッシュ率いる巨大企業は一斉にメディアを動かし、これまでの全システムへの手のひらを返し、「クローンは非人道的だ」と大々的に主張し始めた。
衛宮士郎の開発した機械の人工臓器が国を挙げて全面採用され、育成コストが完全に「0」になったことで、法と経済の鎖は暴威の如く崩壊した。
日本中、いや世界中のクローン施設がその機能を停止し、すべてのクローンが「自由な人間」として外の世界へ解放される未来が、ここに確定した。
広大な『影の国』は解体され、すべてのクローンたちは「自由な人間」として外界へ放たれた。法的なドナー制度は完全に消滅し、士郎の人工臓器が世界中の命を救い始めていた。
だが、檻の外に広がっていたのは、キャスターが思い描いていた温かい世界ではなかった。
誰もが肉体の死の恐怖から解放され、いくらでも長生きできるはずなのに、人々はSNSの数字や見栄、地位、くだらない建前と承認欲求のゲームに狂い、互いの精神を執拗に病ませ合っていた。
表面だけを「偽物の光」で着飾り、本音を隠して足を引っ張り合う。それはかつて施設で読まされていた、あの戒めの絵本『アヴァロン・ル・フェ』の醜い妖精たちの世界そのものだった。
(短い命だったからこそ、俺たちは本音を言い合い、高め合い、命を燃やして笑っていた。……あの温かな檻の中にいた時の方が、よっぽど人間らしく笑えていたじゃないか)
自由という名の剥き出しの荒野。その冷たさに打ちのめされ、すっかり元気を失って心を閉ざしかけていたキャスターを、衛宮士郎は何も言わずに自分の家へと引き取った。
ある日の、静かな夕暮れ時。
縁側に力なく座り込み、どんよりと曇った灰色の空を眺めていたキャスターは、和室の奥、台所から聞こえてくる規則正しい包丁の音に、ふと目を向けた。
優しく差し込む茜色の光と、温かい湯気の向こうで、士郎が黙々と夕食の準備をしている。
彼は世界を救う最新医療を開発した男だ。その気になれば大富豪として、いくらでも他人を見下すマウントゲームの頂点に君臨し、世界中から賞賛を浴びることだってできたはずだった。
なのに、この男にはエゴも、承認欲求も、建前も、一切ない。ただ、誰に褒められるでもない日常の家事を、静かに、目の前の誰かのために楽しむように続けている。
その飾らない、徹底して無私な、けれどどこか温かい背中を見つめていたキャスターの赤い瞳が、微かに見開かれた。
(あぁ、そうか……)
キャスターの視界の中で、衛宮士郎の不器用な背中に、かつてあの白い施設で共に生きた仲間たちの姿が、鮮烈に重なり合っていく。
「やり残したことはない」と笑って身代わりとなり、最高の引き際で逝ったランサーの魂が。世界の美しさを教えてくれたスカディ先輩の遺志が。誰かのために命を繋ごうとしていたクローンたちの「本物の光」が、目の前の男の魂と、まったく同じ純粋な形をして、そこで静かに呼吸していた。
「……ぷっ。あっはははは!」
突然、キャスターは腹を抱えて大声で笑い出した。数ヶ月ぶりの、あの白い施設にいた頃とまったく同じ、弾けるような大笑い声だった。
包丁を止め、不思議そうに振り返ったエミヤに、キャスターは縁側から勢いよく身を乗り出して、爛々と輝く赤い瞳で言い放った。
「なんだよエミヤ! 外の世界はどいつもこいつも偽物ばかりで退屈し死にそうだったが……ここに一人、俺たちの仲間が隠れてやがったか!」
「……急に笑い出して何を言っているんだ君は。ほら、早く手を洗ってきなさい。今日の飯は君の好きなハンバーグだ。チョコは食後にしてくれよ」
「おう、今行くわ! 正義の味方さんよ!」
そう言ってバタバタと立ち上がったキャスターは、心の中で、遠い空の向こうにいる相棒へ、届くはずの声をそっと語りかけた。
(外の世界も、そんなに悪いもんじゃねえよ。――ここに、俺たちの仲間がもう一人いたからな、ランサー)
現代社会というクソまみれの荒野の片隅、小さな平穏が満ちる衛宮邸の中で。
かつてクローンと呼ばれた賢者と、かつて機械になろうとした正義の味方は、本当の意味で対等な「友達」になった。
窓の外に広がる夕焼けの光は、あの日、施設の大きな窓から二人で眺めたオレンジ色と、まったく同じ温かさで二人を包み込んでいた。