谷中逆ナン物語   作:君脇玲

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3.海と森

長野を旅立ち、滋賀で幼なじみ・河合天音との再会を果たした谷中涼太と空本公平。

 

 二人は次の目的地、石川県・金沢へとやって来ていた。

 

「さて、次は石川か。」

 

 谷中は兼六園の景色を眺めながら、大きく息を吸い込んだ。

 

「やっぱり旅っていいな。」

 

「まだ始まったばかりだけどな。」

 

 空本が笑う。

 

 穏やかな空気の中、二人はゆっくりと園内を歩いていた。

 

 すると、一人の女性が近づいてくる。

 

「すみません。」

 

(来た……!)

 

 谷中は思わず姿勢を正した。

 

「はい!」

 

「この写真、撮っていただけませんか?」

 

「……もちろんです。」

 

 写真を撮り終えると、女性は笑顔で頭を下げ、そのまま去っていった。

 

 谷中は静かに空を見上げる。

 

「逆ナンじゃなかったか……。」

 

 空本は肩を震わせながら笑う。

 

「なんだその勘違い、さすが谷中だな。」

 

「うるさい!」

 

 二人は笑い合い、そのまま街を離れて山道を歩き始めた。

 

 気分転換のつもりだった。

 

 しかし、歩き続けるうちに日が傾き、気付けば見覚えのない森へ迷い込んでいた。

 

「……あれ?」

 

「さっきまで道があったよな。」

 

 谷中がスマートフォンを取り出す。

 

 圏外だった。

 

 静かな森には鳥のさえずりだけが響いている。

 

 その時だった。

 

「こんな時間に人が来るとは珍しい。」

 

 落ち着いた声が聞こえた。

 

 振り返ると、一人の男が立っていた。

 

 日に焼けた肌。

 

 使い込まれた漁具。

 

 どこか潮風の香りをまとった男だった。

 

「俺は円颯太(まどか そうた)。」

 

「漁師をしてる。」

 

 空本が首をかしげる。

 

「漁師なのに……森?」

 

 円は少しだけ照れくさそうに笑った。

 

「会いたい人がいる。」

 

「恋人ですか?」

 

 谷中が尋ねる。

 

 円は照れ笑いを浮かべ、小さくうなずいた。

 

「……まあ、そんなところだ。」

 

 そう言って森の奥を見つめる。

 

「森の巫女――山口紅葉(やまぐち くれは)。」

 

 その名が告げられた瞬間、木々の間を吹き抜けた風が葉を優しく揺らした。

 

「昔から、この森には代々海を鎮める巫女が住んでいると言われている。」

 

「俺は、その言い伝えを信じてる。」

 

 迷いのない瞳だった。

 

 谷中は思わず息をのむ。

 

 その夜。

 

 円に導かれ、三人は森のさらに奥へと進む。

 

 月明かりだけが差し込む静かな泉。

 

 水面は鏡のように澄み渡っていた。

 

 そして、その中央に一人の女性が立っていた。

 

 白い衣。

 

 風に揺れる長い黒髪。

 

 森そのものが人の姿になったような、神秘的な存在。

 

「あなたが……。」

 

 谷中は言葉を失う。

 

 女性は優しく微笑んだ。

 

「私は山口紅葉。」

 

「この森を守る巫女です。」

 

 驚く谷中と空本とは対照的に、円は安心したように微笑んだ。

 

「また会えたな。」

 

 紅葉は静かにうなずく。

 

「ええ……お待ちしていました。」

 

 その短い言葉だけで、二人が長い年月をかけて想い合ってきたことが伝わってきた。

 

 翌朝。

 

 紅葉は珍しく森を離れ、円の漁船へ乗り込んだ。

 

「海へ出るのは久しぶりです。」

 

「今日は波も穏やかだ。」

 

 船はゆっくりと沖へ進んでいく。

 

 森で生きる巫女。

 

 海で生きる漁師。

 

 本来なら交わることのない二人。

 

 それでも、その日だけは同じ風を感じ、同じ景色を眺めていた。

 

「海って……こんなに広いんですね。」

 

 紅葉が目を輝かせる。

 

 円は水平線を見つめながら笑った。

 

「森も同じさ。」

 

「外から見れば全部同じ緑。でも、中に入れば一つとして同じ景色はない。」

 

 紅葉は少し考え、小さく笑う。

 

「似ていますね。」

 

 その笑顔に、円も自然と笑みを浮かべた。

 

 一方、船の後ろでは谷中が腕を組みながらつぶやく。

 

「……俺たち、邪魔じゃない?」

 

 空本は苦笑した。

 

「今さら気付いた?」

 

 二人は顔を見合わせ、思わず笑ってしまう。

 

 夕暮れ。

 

 海は茜色に染まり、静かな波音だけが響いていた。

 

 紅葉がゆっくりと口を開く。

 

「私は森を離れられません。」

 

 円もうなずく。

 

「俺は海を離れられない。」

 

 少しだけ沈黙が流れる。

 

 それでも円は笑った。

 

「だったら、俺が毎日森へ行く。」

 

 紅葉も優しく微笑む。

 

「私は毎日、海が見える丘まで行きます。」

 

 互いに譲れない居場所。

 

 だからこそ、お互いに歩み寄る。

 

 その約束だけで十分だった。

 

 谷中は二人を見つめ、少し照れくさそうに笑う。

 

「恋って……こういうものなのか。」

 

 帰り道。

 

 円と紅葉に別れを告げ、森を歩いていると、不思議なことに見覚えのある山道へ出ていた。

 

 振り返る。

 

 そこにあったはずの深い森は消え、静かな山道だけが続いている。

 

「夢……だったのかな。」

 

 谷中がつぶやいた、その時だった。

 

 ポケットに何かが触れる。

 

 取り出すと、一枚の青々とした木の葉。

 

 そこには、美しい文字が刻まれていた。

 

『海と森は、遠く離れていても、同じ空の下にある。』

 

 そして裏には、小さくもう一文。

 

『また会う日まで。』

 

 谷中はその葉を、大切に胸ポケットへしまった。

 

 石川の海には今日も円の船が浮かび、森の奥では紅葉が静かに微笑んでいるという。

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