夜が明ける頃。
谷中と空本は、舞妓・梶原を連れ、お茶屋へ戻ってきた。
戸が開く音に気づき、一人の女性が飛び出してくる。
「月!」
古市だった。
「師匠……。」
梶原が小さく微笑む。
その姿を見た古市は何も言わず、強く抱きしめた。
「よかった……。」
「本当に、よかった……。」
張り詰めていた糸が切れたように、古市の瞳から涙がこぼれる。
梶原も静かにその肩へ顔を預けた。
その光景を見た谷中と空本は、ようやく胸をなで下ろす。
「間に合ってよかったな。」
「ああ。」
しばらくして落ち着きを取り戻した古市は、二人へ深く頭を下げた。
「ありがとうございました。」
「お二人がいなければ、月は帰って来られませんでした。」
谷中は慌てて首を振る。
「俺たちは何もできませんでした。」
「結局、天山には勝てなかった。」
その言葉に古市の表情が曇る。
「……天山ですね。」
谷中は静かにうなずく。
「あいつはいったい何者なんですか。」
「黒獅子とか、四悪とか言っていました。」
その名を聞いた瞬間。
部屋の空気が重くなった。
古市はゆっくり立ち上がり、窓の外へ目を向ける。
「その名を……知ってしまいましたか。」
静かな声だった。
しかし、その声には隠しきれない恐怖が滲んでいた。
「黒獅子。」
「日本中の裏社会で、その名を知らない者はいないと言われる巨大な組織です。」
二人は息をのむ。
古市は静かに続けた。
「その頂点に立つ四人の幹部。」
「人は彼らを――四悪と呼びます。」
「四悪……。」
空本が小さくつぶやく。
「一人は、悪法・天山。」
「法を武器に戦う男です。」
「一度その法に囚われれば、誰も逆らうことはできないと言われています。」
谷中は昨夜の戦いを思い出す。
身体が動かず、何もできなかった。
まるで、自分自身が天山の決めた”法”に支配されているようだった。
「あれが……悪法。」
古市は静かにうなずく。
「二人目は、悪力・稲村。」
「圧倒的な力だけで、すべてをねじ伏せる男です。」
「三人目は、悪築・谷脇。」
「黒獅子という組織を築き上げた参謀と言われています。」
「表に姿を見せることは少なく、組織全体を動かしているとも聞きます。」
空本は思わず息をのんだ。
「最後の一人は?」
古市は静かに首を横へ振る。
「……誰も知りません。」
「名前も、姿も、能力も。」
「存在だけが語り継がれている四悪です。」
部屋に沈黙が流れる。
谷中は昨夜の戦いを思い返していた。
天山一人に、まったく歯が立たなかった。
そんな相手が、あと三人いる。
しかも、一人は何も分かっていない。
想像するだけで背筋が寒くなった。
「でも……。」
谷中がゆっくり口を開く。
「どうして俺だったんでしょう。」
「天山は俺を知っていました。」
「しかも、桐原のことまで。」
古市は静かにうなずく。
「偶然ではないでしょう。」
「天山は、あなたに会うために現れた。」
「何かを確かめるために。」
谷中は拳を握る。
自分には何があるのか。
なぜ狙われたのか。
答えはまだ見えない。
しかし、一つだけ確かなことがあった。
この旅は、もう”逆ナンされたい”だけの旅ではない。
黒獅子との戦いは、すでに始まっていた。
◇
京都を出発する朝。
梶原は二人へ深く頭を下げた。
「助けていただき、本当にありがとうございました。」
古市も穏やかに微笑む。
「どうか、お気をつけて。」
「また京都へ来てください。」
谷中は笑顔でうなずいた。
「その時は、ゆっくり舞妓を見せてください。」
梶原も優しく笑う。
「はい。必ず。」
二人は京都を後にした。
旅立った時とは違う。
その背中には、新たな覚悟が宿っていた。
◇
京都の町を見下ろす高台。
一人の男が静かに空を見上げていた。
黒い羽織。
一本の杖。
天山は小さく笑う。
「谷中。」
「次は、もっと楽しませてくれ。」
そう呟くと、一枚の札を空へ放つ。
札は夜明けの風に乗り、高く舞い上がる。
やがて男の姿は闇へと溶けるように消えていった。
黒獅子との戦いは――
まだ、始まったばかりだった。