実力教室大爆破   作:EXTERMINATION

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第一話 始業の爆音

高度育成高等学校の朝は、いつも不自然なほど整っている。

 

校門から校舎へ続く道には、

前日に雨が降った痕跡を思わせる水溜まりすら残っていない。

植え込みの葉は一本一本まで管理されたような鮮やかな緑を保ち、

舗装された歩道には風に運ばれてきた落ち葉さえ見当たらなかった。

 

普通の学校であれば、朝の校内には多少なりとも雑然とした空気が残っているもの。

遅刻寸前で校門を駆け抜ける生徒がいれば、

急いで身支度を整えたせいで制服を乱している者もいる。

昇降口では中身のない冗談が飛び交い、

それを咎める教師の怒鳴り声が聞こえてくる。

 

だが、この学校では、そうした学生らしい無秩序すら薄い。

 

まるで、最初から余計なものとして排除されているかのようだった。

 

高度育成高等学校。

 

国が誇る教育機関であり、

卒業すれば将来を約束されるとされる生徒たちの学び舎。

その看板の下で、オレたちは今日も普段と変わらない足取りで教室へ向かっていた。

 

少なくとも、その時点では誰も、これから学校で何が起きるのかを知らなかった。

 

「なあ、綾小路。お前、昨日の課題やったか?」

 

教室へ入って自分の席へ向かうと、池寛治がすぐに近寄ってきた。

 

声にはいつも通りの気の抜けた調子があり、

朝から深刻な話を持ちかける雰囲気など微塵もない。

 

「一応は終わらせた」

「マジかよ。俺なんて半分くらい進めたところで、そのまま寝落ちしたわ」

 

池は反省する様子もなく笑った。

 

その隣では、須藤健が呆れたように鼻を鳴らしている。

 

「お前、またかよ。鈴音に怒られても知らねぇぞ」

「いやいや、健にだけは言われたくねぇんだけど?」

「俺は最近、ちゃんと課題もやってんだよ」

「出た出た。堀北効果ってやつ」

「うるせぇ!」

 

須藤の大きな声が教室へ響き、近くにいた何人かの生徒が振り返って笑った。

 

その反応まで含めて、いつも通りの朝だった。

 

軽井沢恵は女子の輪の中心で端末を見せながら、何か楽しそうに話している。

櫛田桔梗は教室の入口付近で、別クラスの女子へ笑顔で手を振っていた。

平田洋介は自分の席へ着き、委員会に関係するものらしい資料へ目を通している。

堀北鈴音は教科書を開き、周囲の雑談など気にせず静かに文字を追っていた。

 

いつもと変わらない。

 

そう断言できるだけの風景が、教室には揃っていた。

 

それでもオレは、席へ着いた瞬間から、ごく僅かな違和感を覚えていた。

 

校舎全体が、妙に静かだった。

 

もちろん、完全な静寂ではない。

廊下からは登校してきた生徒たちの足音が聞こえ、

教室には絶え間なく話し声が流れている。

窓の外からは、朝練をしている運動部の掛け声も届いていた。

 

それでも、何かが足りない。

 

普段であれば意識することすらない、機械の音が薄かった。

 

空調設備が発する低い振動音や、

校内放送のスピーカーから漏れる微かなノイズ。

それらが一斉に停止したわけではないが、

ところどころ不自然に途切れているように感じられた。

 

人の声があるからこそ、その背後にあるはずの音の欠落が目立つ。

 

「どうしたの?」

 

声をかけてきたのは堀北だった。

 

彼女は教科書へ顔を向けたまま、視線だけをこちらへ動かしている。

 

「いや、今日は少し静かだと思っただけだ」

「朝から詩人みたいなことを言うのね」

「そう聞こえたなら、オレの表現力も多少は上がったのかもしれない」

「冗談を言う余裕があるなら、今日の小テストも問題なさそうね」

 

堀北は淡々とそう返し、再び教科書へ視線を落とした。

 

その時だった。

 

天井に設置されたスピーカーから、ごく短いノイズが鳴った。

 

誰もが聞き流してしまう程度の小さな音だったが、オレは反射的に顔を上げた。

 

次の瞬間、校舎全体を殴りつけるような轟音が響いた。

 

それは単なる音ではなかった。

 

爆発によって生じた衝撃が床や壁を伝い、教室そのものを大きく揺さぶった。

 

窓ガラスが一斉に震え、机の上に置かれていた筆箱や端末が跳ねる。

天井の照明も大きく揺れ、今にも落下するのではないかと

思わせるほど不安定な動きを見せた。

 

数人の女子生徒が悲鳴を上げ、

誰かが勢いよく立ち上がった拍子に椅子を倒した。

 

ほんの数秒前まで雑談に満ちていた教室の空気が、一瞬で凍りつく。

 

「な、何だよ、今の……?」

 

池が呆然と呟く。

 

須藤は反射的に席を立ち、周囲を見回した。

 

「地震か!?」

「違うわ」

 

堀北が窓の外へ目を向ける。

 

その表情から、みるみる血の気が引いていった。

 

オレも彼女の視線を追う。

 

特別棟の一角から、濃い黒煙が立ち上っていた。

 

煙の向こうでは赤い光が揺れ、窓の内側で炎が燃え広がっていることが分かる。

 

地震ではない。

 

誰かが震える声で言った。

 

「爆発だ……」

 

その言葉が教室へ落ちた瞬間、辛うじて保たれていた空気が壊れた。

 

「嘘でしょ?」

「火事なの!?」

「誰か先生を呼んで!」

「ここから出た方がいいんじゃないか!?」

 

生徒たちが一斉に立ち上がり、教室の出口へ向かおうとする。

 

しかし、その動きは天井から響いた別の音によって止められた。

 

校内放送の起動音だった。

 

ノイズ混じりの低い音が流れ、教室にいる全員の視線が天井へ集まる。

 

『おはようございます』

 

スピーカーから聞こえてきたのは、教師でも学校関係者でもない男の声だった。

 

最初は機械によって作られた音声にも聞こえた。

 

だが違う。

 

作り物なのではない。

 

発信者が、自分の感情を意図的に押し殺しているだけだ。

 

『高度育成高等学校の皆さん』

 

教室が静まり返る。

 

『これより、校内各所に設置した27個の爆弾のカウントダウンを開始します』

 

誰も、すぐには反応できなかった。

 

言葉の意味が現実として頭へ届くまでに、数秒の時間が必要だった。

 

校内各所に爆弾がある。

 

その数は27個。

 

既に時間は動き始めている。

 

あまりにも非現実的な言葉が、いつも通りの教室へ一方的に投げ込まれた。

 

『この学校から一人でも脱出を図ろうとする者、警察、消防、自衛隊を含む、

外部機関の介入を確認した場合、すべてを即時起爆します』

 

教室のどこかから、小さく「嫌」と漏らす声が聞こえた。

 

『制限時間は十二時間です。

それまでにすべてを解除できなかった場合、この学校は終わります』

 

男の声には怒りも焦りもない。

 

狂気すら、表面上はほとんど感じられなかった。

 

だからこそ恐ろしい。

 

まるで最初から決められていた手順を、何の感慨もなく読み上げているようだった。

 

『これは冗談ではありません』

 

その言葉を証明するかのように、遠くから二度目の爆発音が響いた。

 

先ほどより規模は小さい。

 

それでも、この脅迫が本物だと理解させるには十分だった。

 

教室の至るところから悲鳴が上がる。

 

「嘘だろ!?本当に爆弾があるのかよ!」

「誰か警察に連絡しろ!」

「携帯が繋がらない!」

「なんで!?圏外になってる!」

「嫌だ……死にたくない……!」

 

恐怖が広がる速度は速い。

 

一人が泣き始めれば、その隣にいる人間の呼吸まで乱れていく。

一人が出口へ走ろうとすれば、

周囲にいる者も自分だけ取り残されることを恐れて動き出す。

 

教室という狭い空間の中で、恐怖は酸素よりも早く満ちていった。

 

「落ち着きなさい!」

 

堀北が声を張り上げる。

 

だが、混乱した生徒たちへすぐ届くはずもない。

 

「落ち着けるわけないでしょ!?」

 

女子生徒の一人が泣きながら叫ぶ。

その声に煽られるように、別の男子生徒も出口を指差した。

 

「とにかく外へ出よう!ここにいたら危ない!」

 

数人の生徒が一斉に扉へ殺到した。

 

椅子が倒れ、押された机が床を引きずる音を立てる。

 

軽井沢は人の肩にぶつかられて大きくよろめいた。

 

「ちょっと、押さないでよ!」

 

平田は即座に席を離れ、出口の前へ回り込んだ。

 

「みんな、待って!一度止まって!」

 

彼は両手を広げ、人の流れを押し止めようとする。

 

「今は廊下が安全かどうかも分からない。まず状況を確認しよう!」

「でも、学校に爆弾があるんだろ!?」

「この教室にもあるかもしれないじゃん!」

 

その言葉を聞いた瞬間、教室内にいる全員の視線が一斉に動いた。

 

机の下、教卓、ロッカー、掃除用具入れ。

 

つい先ほどまで何の意味も持たなかった物が、突然すべて怪しく見える。

 

誰かがロッカーから飛び退き、別の誰かは恐怖に駆られたまま机を蹴飛ばした。

 

「やめて!」

 

櫛田が鋭く叫ぶ。

 

普段の柔らかな声とは違い、切迫した響きがあった。

 

「何か仕掛けられていたら、変に動かす方が危ないかもしれないよ!」

 

その言葉によって、動きかけていた数人の身体が固まった。

 

櫛田自身の顔色も悪い。

 

それでも周囲を安心させるために笑顔を作ろうとしていたが、

口元は僅かに震えていた。

 

軽井沢も怯えている女子たちの近くへ寄る。

 

「と、とにかく一度座ろう。ね?立ったまま押し合う方が危ないって」

「恵ちゃん……」

「大丈夫。まだ何も決まってないから」

 

大丈夫だという言葉に、根拠はない。

 

軽井沢自身、それを理解しているはずだった。

 

だが根拠のない言葉であっても、

人間が崩れ落ちるまでの時間を僅かに引き延ばすことはできる。

 

今は、それだけでも意味があった。

 

オレは教室全体を見回しながら、現時点で確認できる情報を整理した。

 

爆発は実際に発生している。

 

校内の通信環境は妨害され、個人端末から外部へ連絡することもできない。

放送設備は犯人側に掌握されており、生徒たちの混乱は既に限界へ近づいている。

それにもかかわらず、学校側からは何の指示も出ていない。

 

これが最も不自然だった。

 

通常であれば、爆発が起きた直後に教師や職員が動く。

避難経路を確保し、生徒の安全を確認し、放送設備を使って指示を出すはずだ。

 

だが、今のところ何の反応もない。

この学校の管理体制を考えれば、あまりにも遅すぎる。

教師側も何らかの方法で行動を封じられている可能性が高い。

あるいは、管理設備そのものが犯人によって完全に掌握されているのかもしれない。

 

「綾小路くん」

 

考えていると、堀北が近くへ寄ってきた。

 

「あなた、何か分かることはある?」

「分かることは少ない」

「少ないだけで、何かはあるのね」

「少なくとも、爆発は本物だ。脅すためだけに用意されたものじゃない」

 

堀北は苛立たしげに唇を噛んだ。

 

「それくらいは、外を見れば分かるわ」

「それと、今の段階では教室を出る方が危険かもしれない」

「どうして?」

「犯人が、最初に分かりやすい爆発を見せた理由だ」

 

堀北は一瞬考え、すぐに意図を理解したように目を細めた。

 

「生徒を恐怖で動かすためね」

 

「そうだ。全員が一斉に避難しようとすれば、廊下や階段で混乱が起きる。

犯人がそれを想定しているなら、

人が集まる場所に次の仕掛けを用意している可能性もある」

 

「最悪ね」

 

「犯人が本気で、こちらの行動まで計算しているならな」

 

堀北は一度深く息を吸い、教室の前方へ移動した。

 

「全員、聞きなさい!」

 

先ほどよりも強い声だった。

 

混乱の中でも、何人かの生徒が堀北へ顔を向ける。

 

「今、勝手に廊下へ出るのは危険よ。

外の安全が確認できるまで、不用意にこの教室を離れないで」

「でも、ここにいたら危ないかもしれないだろ!」

「だからこそ、まず冷静になりなさい。

何も確認せず、パニックのまま走り出して助かる保証なんてどこにもないわ」

 

堀北の言葉に優しさはない。

相手を安心させるための慰めもない。

だが、今の状況では曖昧な励ましよりも、明確な指示の方が必要だった。

 

平田もすぐに言葉を引き継ぐ。

 

「堀北さんの言う通りだ。まず人数を確認しよう。

それから、怪我をしている人がいないか見て回る。

誰か痛いところがある人はいない?」

 

平田が具体的な行動を示したことで、教室の空気が僅かに整い始める。

 

櫛田は女子生徒たちを一人ずつ確認し、

軽井沢は泣き出しそうな生徒の背中を撫でていた。

 

須藤は教室の扉付近へ立ち、廊下の様子を警戒するように睨んでいる。

 

「くそ……何なんだよ、これ」

 

低く漏らした声には、恐怖よりも強い怒りが混じっていた。

危険を前にすると、恐怖を怒りへ変えて自分を保とうとする。

 

須藤らしい反応だった。

 

その時、校内放送が再び起動した。

 

天井からノイズが流れた瞬間、教室にいる全員の身体が強張った。

 

『ああ、そうだ』

 

男の声には、先ほどまでなかった笑いが僅かに混じっている。

 

『せっかくだから、自己紹介をしておこうと思ってさ』

 

ノイズの後に、短い沈黙が訪れた。

 

そして男は、先ほどとは異なる声色で言った。

 

『久しぶりだな、みんな』

 

音声にかけられていた加工が薄くなったのか、それとも自分から意図的に外したのか。

 

どちらにせよ、その声を聞いた瞬間、教室の空気が止まった。

 

池の顔が見る間に青ざめていく。

 

須藤も目を見開き、軽井沢は小さく息を呑んだ。

堀北の表情も固まっている。

 

オレにも、その声には聞き覚えがあった。

 

忘れるほど昔のことではない。

 

だが、もう二度とこの学校で聞くことはないと思っていた声だった。

 

『山内春樹だよ』

 

誰も動かなかった。

 

かつてこのクラスに所属していた生徒。

実力が足りないと判断され、学校を去った退学者。

もう、この場所には存在しないはずの名前。

 

山内春樹。

 

『当然、覚えてるよな?』

 

山内は笑っていた。

だが、その笑いには明るさも親しみもない。

 

『お前らに切り捨てられた、山内春樹だ』

 

池が掠れた声を漏らす。

 

「春樹……?」

 

信じたくないものを目の前へ突きつけられた人間の声だった。

 

須藤は強く拳を握る。

 

「なんで……あいつが……」

 

放送の向こうで、山内はゆっくりと言葉を続けた。

 

『俺さ、学校を出てからずっと考えてたんだよ』

 

声から笑いが消えていく。

 

『退学って、いったい何なんだろうなって。

この学校じゃ、点数が足りない奴は捨てられる。

使えない奴は切られる。弱い奴は笑われる』

 

山内は僅かに間を置いた。

 

『それが実力主義ってやつなんだろ?』

 

誰も言い返せなかった。

 

放送へ言葉を返しても届かないからではない。

 

山内の言葉の中に、この学校が実際に持っている冷たさが含まれていたからだ。

 

能力があれば評価される。

 

だが、その反対に能力が足りなければ、容赦なく切り捨てられる。

 

それは、この学校で誰もが知っている事実だった。

 

『だったらさ』

 

山内の声が低くなる。

 

『今度は、俺がお前らを試してやるよ』

 

教室にいる全員が、スピーカーを見上げたまま動けない。

 

『お前らが本当に優秀なら、生き残って証明してみろ』

 

その瞬間、教室後方のロッカーから規則的な電子音が聞こえてきた。

 

全員の視線が、音の発生源へ集中する。

ロッカーの扉の隙間から、赤い光が漏れていた。

誰かが短い悲鳴を上げる。

 

堀北が確認しようと一歩踏み出しかけたため、オレは手を上げて制した。

 

「触るな」

 

自分でも驚くほど、声が低くなった。

 

教室内が静まり返る。

 

オレは周囲へ目を配りながら、ゆっくりロッカーへ近づいた。

半開きになった扉の奥には、黒い箱型の装置が置かれている。

本体には赤い数字が表示され、残り時間が刻一刻と減っていた。

 

【00:29:41】

 

既に三十分を切っている。

 

表示を目にした生徒の一人が、力を失ったように床へ座り込んだ。

 

「嘘……」

「本当に、ここにあるの……?」

「嫌だ……嫌だ、嫌だ……!」

 

先ほど辛うじて抑えられた恐怖が、再び教室全体へ広がっていく。

今度は、外へ逃げればいいと単純に考えることすらできない。

自分たちが毎日過ごしてきた教室の中に、確かな死が置かれている。

 

全員が、それを理解してしまった。

 

山内の声が、スピーカーから最後に響く。

 

『これが第一問だ』

 

声には、明らかな愉悦が混じっていた。

 

『お前らの教室に置いたものを、時間内に止めてみろ。制限時間は三十分』

 

一度だけ通信が途切れ、短いノイズが流れる。

 

そして山内は、楽しそうに続けた。

 

『失敗したら、最初に消えるのはお前らのクラスだ』

 

そこで放送は切れた。

 

教室に残されたのは、赤い数字と規則的な電子音だけだった。

 

誰も声を出せない。

 

堀北は装置ではなくオレを見ている。

平田は息を呑み、軽井沢の身体は小さく震えていた。

櫛田は、周囲を安心させるための笑顔すら作れなくなっている。

池は放心したようにロッカーの中を見つめ、

須藤は今にも何かを殴りつけそうな怒りを、握り締めた拳の中へ押し込めていた。

 

オレは減っていく赤い数字を見ながら、山内の目的を考えた。

 

退学者である山内春樹が、復讐のために学校へ戻ってきた。

 

制限時間は十二時間。

 

仕掛けの数は27個。

 

学校全域を巻き込んだ、山内なりの最後の特別試験。

 

だが、これは単純に学校を破壊し、生徒たちを消し去るためだけの事件ではない。

 

山内は証明しようとしている。

 

自分を切り捨てたこの学校が、本当に優れた場所なのか。

 

自分を笑い、無価値だと判断した生徒たちが、

本当にそれだけの実力を持っているのか。

 

そして、その最初の解答者として選ばれたのが、

かつて山内と同じ教室にいたオレたちだった。

 

電子音だけが、異様なほど鮮明に教室へ響き続ける。

 

表示は既に、二十八分台へ入っていた。

 

ほんの数十分前まで、ここは何の変哲もない教室だった。

 

眠気に耐えきれず机へ突っ伏している生徒がいて、

小テストを嫌がる声があり、他愛もない雑談と笑い声が飛び交っていた。

 

だが今、笑っている人間は一人もいない。

 

誰も普段通りに呼吸できず、僅かな物音にさえ身体を強張らせている。

 

恐怖という目に見えない水が、教室の中へ少しずつ流れ込んでいた。

 

そして人間は、その水に一度飲み込まれれば、驚くほど簡単に理性を失う。

 

「う、嘘だよな……?」

 

池が掠れた声で言った。

 

視線はロッカーの中へ固定されたまま動かず、顔は血の気を失っている。

 

須藤も唇を強く噛み締めていた。

 

普段の彼であれば、理解できない事態へ怒鳴り声を上げるか、

力ずくで何かをしようとするだろう。

 

だが今回は違う。

 

目の前にあるものが、本物の死へ繋がっていると理解しているからだ。

 

軽井沢は怯えている女子生徒を落ち着かせようとしていたが、

彼女自身の肩も小刻みに震えている。

 

櫛田も笑顔を作ろうとしていたものの、口元は硬く、声を出せずにいた。

 

平田だけがどうにか自分の呼吸を整え、教室全体の様子を確認しようとしている。

 

「……みんな、まずは落ち着こう」

 

その声も、完全には安定していなかった。

 

無理もない。

 

この場にいる誰も、現実の爆発物を間近で見た経験などない。

しかも、それが自分たちの教室へ置かれている。

冗談でも、映像の中の出来事でもない。

時間内に止められなければ、全員がここで終わる。

 

堀北はロッカーの中を睨んだまま、静かにオレへ問いかけた。

 

「綾小路くん」

「何だ」

「まさか、これを止める方法が分かるの?」

 

その質問を聞いた瞬間、教室中の視線がオレへ集まった。

そこに含まれているのは期待だけではない。

恐怖や絶望、そして何かに縋らなければ自分を保てない者の切実さが混ざっている。

 

だが、オレは首を横に振った。

 

「分からない。こういうものを扱った経験なんて、普通はない」

「だよな……でも、じゃあどうすんだよ!」

 

池の声が裏返る。

今にもパニックへ陥りそうだった。

その時、教室へ低い声が落ちた。

 

「騒ぐな」

 

須藤だった。

 

彼はロッカーを睨みつけたまま、苛立たしげに髪を掻き上げる。

 

「まだ何も起きてねぇだろ」

「で、でも……!」

「ここでギャーギャー騒いだら、時間が増えんのかよ」

 

須藤自身も恐怖している。

それでも、その恐怖を怒りによって押さえ込み、何とか立ち続けていた。

不器用な言い方だったが、その強さが数人の生徒を僅かに落ち着かせる。

 

平田も静かに頷いた。

 

「須藤くんの言う通りだ。今は混乱することが一番危ない」

 

女子生徒の一人が涙を拭う。

しかし、拭っても新しい涙が次々と流れ落ちた。

恐怖は、正しい言葉を聞いたからといって簡単に消えるものではない。

 

表示は無情に減り続けている。

 

【00:27:51】

 

オレはロッカーの正面へ近づいた。

 

堀北も隣へ並ぶ。

 

「触るつもり?」

「まずは外から構造を確認する」

「危険じゃないの?」

「今、この学校に危険じゃないことが残っているか?」

 

堀北は何も言い返さなかった。

 

ロッカーの扉は半開きで、内部には黒いケースと赤いデジタル表示、

複数のコード、簡易的な電子基板が見える。

 

その奥には、見せかけでは済まされないものも組み込まれていた。

 

堀北が小さく呟く。

 

「……本物なのね」

 

少なくとも、外見だけで脅すために用意された偽物ではない。

 

何か一つ判断を誤れば、実際に作動する可能性は十分にある。

 

だが、それ以上に気になる点があった。

 

この装置を、誰が作ったのか。

 

山内一人の知識や技術だけで、学校中へ27もの仕掛けを設置し、

通信や放送設備まで掌握できるとは考えにくい。

 

背後に協力者がいる。

 

あるいは、山内自身が長い時間をかけ、外部で専門的な支援を受けたのかもしれない。

 

「ねぇ……」

 

軽井沢が不安そうに近づいてきた。

 

「このままここに残るの、やっぱり危なくない?」

「外の安全が確認できていない以上、不用意に移動する方が危険だ」

「でも、これが爆発したら……!」

「その前に止めるしかない」

 

軽井沢は言葉を失い、唇を強く結んだ。

 

その直後、廊下から複数の足音が近づいてきた。

 

教室にいる全員が振り向く。

 

扉が勢いよく開き、茶柱佐枝が教室へ飛び込んできた。

 

「お前たち、全員無事か!?」

 

その後ろには真嶋智也もいる。

 

教師の姿を見た瞬間、生徒たちが一斉に声を上げた。

 

「先生!」

「助けてください!」

「これ、どうすればいいんですか!?」

 

しかし、茶柱の表情は険しいままだった。

 

彼女はまず教室内を見回し、

負傷者がいないことを確認した後、ロッカーの中にある装置へ目を向けた。

 

「……本当に置かれているのか」

 

真嶋も正面へ回り込み、低く舌打ちした。

 

「既に校内三か所で爆発が確認されている」

 

その言葉によって、教室の空気がさらに重く沈んだ。

 

ここだけではない。

 

学校全体が、同時に危険へ晒されている。

 

「警察はどうなってるんですか!?」

「外へ連絡できないんですか!?」

 

生徒たちが口々に叫ぶ。

 

だが茶柱は、険しい表情のまま首を横に振った。

 

「通信が妨害されている。教師側も、外部とはまともに連絡を取れていない」

「そんな……」

「現在、全教師へ緊急指示が出ている。

各教室の安全確認と、生徒たちを避難させるための経路確保が最優先だ」

「避難って、どこへ行けばいいんですか!?」

「今、安全区域を確認している。勝手に移動するな」

 

つまり、教師側も状況を完全には把握できていない。

それほどまでに、今回の事件は学校の管理能力を上回っていた。

 

真嶋はロッカーの前へしゃがみ込み、慎重に装置を観察する。

 

「下手に触るな」

「分かっている」

「これは市販品を単純に改造した程度のものじゃないな……」

 

真嶋の表情がさらに険しくなる。

彼は教師の中でも学校設備に詳しく、機械類にもある程度の知識がある。

その真嶋ですら、装置を見た瞬間に判断を下せずにいた。

 

「先生……これ、止められるんですか……?」

 

女子生徒の一人が、泣き出しそうな声で尋ねる。

 

真嶋はすぐには答えなかった。

数秒間、装置を見つめた後、苦しそうに言う。

 

「……今の段階では、分からない」

 

その答えを聞いた瞬間、数人の生徒が力を失うように崩れ落ちた。

 

「そんな……」

「もう終わりじゃねぇか……」

 

絶望が再び教室へ広がっていく。

 

だが、茶柱が鋭い声でそれを押し止めた。

 

「勝手に終わらせるな!」

 

教室が静まり返る。

 

茶柱は、怯えている生徒たちを一人ずつ見回した。

 

「まだ27分ある。教師も動いているし、他のクラスも状況確認を進めている。

誰も諦めていないのに、お前たちだけが先に諦めるな」

 

その言葉には、教師として生徒を守ろうとする強い責任が滲んでいた。

 

普段の茶柱は、生徒へ必要以上に寄り添う教師ではない。

だが今は、自分のクラスを守るために本気で立っている。

 

その時、校内放送から再びノイズが流れた。

 

『いいねぇ』

 

山内の声だった。

 

教室の空気が一瞬にして凍りつく。

 

『ちゃんと絶望してるみたいで、安心したよ』

 

池が顔を歪める。

 

「春樹……!」

 

『寛治』

 

突然名前を呼ばれ、池の身体が大きく震えた。

 

『お前、まだそこにいるんだな』

 

「お、お前、何やってんだよ!」

 

池は恐怖を振り払うように叫んだ。

 

「こんなの、もうシャレじゃ済まねぇぞ!」

 

放送の向こうから、乾いた笑い声が聞こえる。

 

『シャレ?』

 

山内の声が僅かに低くなった。

 

『俺が退学になったことは、シャレだったのか?』

 

池は言葉を詰まらせた。

 

『覚えてるよな。あの日、お前らは俺を見捨てた』

 

教室が静まり返る。

 

誰もが、山内が退学になった日のことを思い出していた。

彼が坂柳に利用され、クラスから見放され、学校を去った日の空気を。

 

『坂柳に遊ばれて、クラスから切られて、

そのまま退学になって、学校の外に放り出された』

 

山内の声から、徐々に笑いが消えていく。

 

『それで全部終わりだった』

 

一度、短い沈黙が流れる。

 

『なあ。あまりにも簡単すぎるって思わなかったか?』

 

誰も答えられない。

 

放送越しであるにもかかわらず、山内の言葉が教室全体を押し潰していくようだった。

 

『俺は学校を出てから考えたんだ。

この学校は、結局のところ優秀な奴しか人間として扱わないんじゃないかってさ』

 

「違う!」

 

叫んだのは平田だった。

 

「そんなことは――」

 

『違わねぇよ』

 

山内は即座に遮った。

 

『だったら、どうして俺は切られた?』

 

平田は言葉を失った。

 

反論したくても、完全には否定できない。

 

高度育成高等学校は実力主義を掲げている。

 

それは、能力を示せば高く評価されるという意味であると同時に、

能力が足りなければ切り捨てられるという意味でもあった。

 

『だから、今度は俺が試してやる』

 

山内の声には、歪んだ決意が込められていた。

 

『お前らが本当に優秀なら、最後まで生き残ってみろ』

 

そこで放送が切れた。

 

教室には重い沈黙が残る。

 

池は俯いたまま、震える拳を握り締めている。

 

須藤が低い声で吐き捨てた。

 

「クソが……」

 

その声には明確な怒りがあった。

 

だが同時に、苦しさも混ざっている。

 

山内を完全な他人として切り離せないのだろう。

 

オレは池へ目を向けた。

 

池は、山内と最も近い位置にいた生徒の一人だ。

 

それだけに、今の放送は他の生徒以上に深く突き刺さっている。

 

様子も明らかにおかしかった。

 

その時、教室の外から女子生徒の悲鳴が聞こえてきた。

全員が反射的に扉へ目を向ける。

 

直後、廊下の先で大きな爆発音が響いた。

衝撃が壁を伝い、教室の窓ガラスを再び震わせる。

 

中にいた女子生徒たちから、一斉に悲鳴が上がった。

 

「また爆発したの!?」

 

真嶋は即座に立ち上がり、廊下へ飛び出していく。

茶柱も生徒たちへその場を動かないよう指示を残し、真嶋の後を追った。

堀北は歯を食いしばり、減り続ける表示を睨む。

 

「このまま待っているだけでは、何も変わらないわ」

「そうだな」

 

オレもタイマーへ目を向ける。

 

【00:22:16】

 

残された時間は、既に22分しかない。

 

止める方法が分からないまま、数字だけが一秒ずつ確実に減っていく。

そして、教室の空気も限界へ近づいていた。

 

恐怖と焦燥、そして誰かが何かを隠しているのではないかという疑い。

そうした感情は、時間の経過とともに薄れるどころか、確実に膨れ上がっている。

 

人間は、いつ終わるか分からない恐怖に長く耐えることができない。

特に、自分では何もできず、

ただ時間が減っていくのを待つしかない状況ではなおさらだった。

 

軽井沢が、誰に向けるでもなく小さく呟いた。

 

「……こんなの、無理だよ」

 

その弱々しい一言は、口に出せずにいた教室全体の本音そのものだった。

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