体育館には、息をすることさえ躊躇いたくなるほど重苦しい空気が漂っていた。
地下へ向かった綾小路たちからは、まだ何の報告も届いていない。
一方、旧実習棟では、一年生たちが
大型の仕掛けを停止させることに成功したという連絡が入っていた。
本来なら、それは生徒たちへ希望を与える報せだったはずだ。
しかし、校内の至るところでは今も火災警報が鳴り続け、
非常灯が不規則に赤く明滅している。
体育館へ避難している生徒たちは、床へ座り込んだまま互いの身体を寄せ合い、
次の校内放送が鳴らないことを祈るしかなかった。
たとえ一つの危機を乗り越えても、事件そのものが終わったわけではない。
次に何が起こるのか。
どこで新たな異常が見つかるのか。
そして、誰が巻き込まれるのか。
先の見えない恐怖は、生徒たちの精神を少しずつ確実に削っていた。
そんな中、南雲雅は体育館の入口付近に立ち、
各所へ向かわせていた三年生たちから次々と報告を受けていた。
「南棟三階は封鎖を完了しました。
北棟二階に残っている反応は、偽装である可能性が高いです。
旧実習棟方面は七瀬たちが対応を終えています」
矢継ぎ早に入ってくる情報を、南雲は一つずつ整理しながら的確に処理していく。
肉体にも精神にも、既に疲労が蓄積しているはずだった。
それでも南雲は、それを表情へ出さなかった。
三年生全体を動かす立場にある自分が弱さを見せれば、
その不安は部下へ伝わり、やがて体育館全体へ広がってしまう。
この状況では、指揮を執る者が崩れた瞬間、
組織そのものが一気に瓦解する可能性があった。
「次の報告を」
南雲が短く促した直後、
三年生の男子生徒が息を切らしながら体育館へ駆け込んできた。
「生徒会室横の資料保管室で、大型の反応を確認しました!」
その言葉によって、体育館の空気が一変した。
「大型?」
少し離れた場所にいた堀北鈴音が顔を上げる。
南雲も表情を引き締めた。
「規模は分かるか?」
「詳しい規模までは分かりません。
ただし、室内に制限時間を示す表示が出ています」
「残り時間は?」
「確認した時点で、あと十分でした」
報告を聞いた瞬間、堀北は既に立ち上がっていた。
坂柳有栖も杖を手に取り、静かに顔を上げる。
さらに、椎名ひよりも普段の穏やかな表情を消し、真剣な目で南雲を見つめていた。
普段のひよりは本を抱え、周囲を静かに見守っていることが多い。
自分から危険な場所へ進んで入ろうとするような少女ではない。
しかし今は、この状況から目を逸らすつもりなどないことが、
その引き締まった表情から伝わってきた。
「生徒会室の横なら、体育館から最も近い危険地点の一つね」
堀北が言う。
「そこで大きな異常が起きれば、ここにいる生徒たちの避難にも直接影響が出るわ」
南雲は短く頷いた。
「放置はできない。俺も現場へ向かう」
堀北が意外そうに南雲を見る。
「あなた自身が行くの?」
「三年生の統制は、既に各班の責任者へ引き継いである」
南雲はそう言って、手にしていた端末を制服のポケットへしまった。
「それに、あの区画は生徒会が管理している場所だ。
責任者として、俺が確認する必要がある」
すると坂柳が、いつもの穏やかな微笑みを浮かべた。
「では、私も同行いたします」
堀北が僅かに眉を寄せる。
「坂柳さん。あなたは無理をしない方がいいわ」
「お気遣いありがとうございます」
坂柳は落ち着いた声で返した。
「ですが、この状況で使える人間を減らせるほど、私たちに余裕があるとは思えません」
その言葉に続くように、ひよりも小さく手を上げた。
「私も行きます」
堀北が驚いたように目を向ける。
「椎名さんまで?」
ひよりは静かに頷いた。
「仕掛けそのものについて、専門的な知識があるわけではありません。
でも、山内くんの問題には言葉遊びや心理的な誘導が混ざっている気がします」
彼女は少し考えるように目を伏せた後、続けた。
「山内くんは、ただ何かを壊したいだけではありません。
誰かに何かを選ばせ、その選択を見ようとしているように感じます」
坂柳が楽しそうに目を細める。
「良い観察です。私も同じように考えていました」
同行する人間が決まったところで、南雲が結論を下した。
「行くぞ」
制限時間は十分と報告されていた。
しかし、四人が体育館を出る頃には、既に残り九分二十秒を切っていた。
◯
生徒会室の隣にある資料保管室は、
普段なら人の出入りが少ない静かな場所だった。
過去に実施された特別試験の資料や学校行事の記録、
生徒会で使用する会議用の備品などが保管されている。
華やかさとは無縁だが、学校の歴史と
運営に関する情報が集められた重要な部屋だった。
しかし今、その扉は不自然に半開きになっていた。
隙間からは赤い光が漏れ、内部から一定の間隔で電子音が聞こえてくる。
規則正しく繰り返される音によって、
普段は平凡な資料室にすぎない場所が、今では明確な危険区域へ変わっていた。
南雲は扉の前で足を止める。
「入口そのものに何か仕掛けられている可能性がある。迂闊に入るな」
堀北は足元へ視線を落とし、坂柳は壁や扉の周囲を観察した。
ひよりは扉の隙間から慎重に内部を覗き込む。
しばらく確認した後、ひよりが小さな声で言った。
「少なくとも、入口へ入った瞬間に反応するような仕掛けは見当たりません」
坂柳も小さく頷く。
「おそらく、私たちを中へ誘っているのでしょう。
この部屋へ誰かが入らなければ、
山内くんの用意した問題そのものが成立しませんから」
南雲は低く息を吐く。
「なら、入るしかない」
四人は周囲へ注意を払いながら、資料保管室の中へ足を踏み入れた。
室内中央に置かれた大きな机の上には、黒い箱型の装置が設置されている。
本体には赤い数字を表示する画面と複数のランプがあり、
その周囲には異様な数のコードが張り巡らされていた。
色も太さも統一されていない。
赤、青、黄、緑、白、黒、紫、橙。
細いものもあれば太いものもあり、複数が束ねられたものや、
途中で枝分かれしているものまで存在していた。
それらは無秩序に絡まり合っているように見えながら、どこか作為的でもあった。
まるで山内が長く抱え込んできた怒りや怨念が、
そのまま形となって机の上へ這い出してきたような、不気味な外観だった。
中央の表示は、残り時間を示していた。
【08:32】
数字を確認した堀北が、僅かに息を呑む。
「もう八分しかない……」
南雲は装置を見下ろしながら、短く問いかける。
「停止させるための手順は?」
その瞬間、壁へ取り付けられていたモニターが突然点灯した。
画面全体へノイズが走り、その向こうから山内春樹の声が響く。
『おー。今度は堀北か』
堀北の表情が硬くなる。
山内は、部屋にいる人間を一人ずつ確認するように続けた。
『坂柳もいるし、椎名もいる。南雲先輩まで来てんのかよ。
頭のいい奴らが大集合って感じだな』
南雲は冷たい目でモニターを見据える。
「余計な話はいい。俺たちに何をさせるつもりだ?」
『簡単だよ。正しいものを選べばいい』
山内は楽しそうに答えた。
『間違えたら、この場所は終わり。時間がなくなっても同じだ。
でも安心しろよ。ちゃんと考えるためのヒントは置いてある』
そこで山内は、声に悪意のある笑みを含ませた。
『それから、威力がどれくらいか気になるだろ?――天下一品だ』
次の瞬間だった。
校舎の外側。
遥か遠く。
巨大な閃光が夜の窓ガラスへ映り込んだ。
――ドゴオオオオオォォォォンッ!!
腹の底を突き上げるような超重低音が学校全体を揺らし、
生徒会室横の資料保管室の窓ガラスが激しく震える。
数秒遅れて、ケヤキモール方向から赤黒い爆炎が空へ噴き上がった。
巨大なガラス壁面が内側から吹き飛び、
無数の破片が火花を反射しながら夜空へ散乱する。
爆風で外壁広告が引き裂かれ、店舗内部の照明が連鎖的に破裂し、
赤い炎がショッピングフロアを一気に飲み込んでいく。
遅れて黒煙が噴き上がり、
燃え上がる火柱が校舎の窓へ不気味な赤色を映し出した。
さらに二次爆発。
ケヤキモール内部のどこかで、
金属構造そのものが悲鳴を上げるような軋みを響かせた。
ギギギギギッ――!!
嫌な音だった。
建物が耐え切れなくなり、内部から崩れ始める直前の音。
次の瞬間、ショッピングフロア中央付近が内側から崩落し、
巨大なガラス天井が轟音と共に一気に落下した。
――ガシャァァァァァンッ!!
無数のガラス片が爆炎を反射しながら夜空へ噴き上がり、
赤黒い火柱の中で火花のように乱舞する。
崩れ落ちた鉄骨が床へ激突するたびに、
鈍く重い衝撃音が連続して響き、ケヤキモール全体が内側から押し潰されていく。
さらに爆風で吹き飛ばされた看板や金属フレームが周囲へ叩きつけられ、
火災によって割れた店舗ガラスが次々と連鎖的に破裂した。
赤い炎は崩落したフロアを這い回るように広がり、
黒煙を噴き上げながらショッピングモール内部を完全に飲み込んでいく。
遅れて、崩壊した構造物の振動が空気を通して学校棟へ伝わってきた。
ゴォンッ……!
低く腹へ響くような衝撃。
資料保管室の床が小さく震え、壁際の棚がガタガタと揺れ、
積み上げられていたファイルが数冊まとめて床へ落下する。
天井照明が不安定に明滅し、
窓ガラスへ映る爆炎の赤色が部屋全体を不気味に染め上げた。
堀北の表情が凍りつく。
南雲も初めて僅かに目を見開き、坂柳の顔からも普段の微笑みが消えていた。
ひよりは息を呑み、無意識のうちに胸元で両手を強く握り締めている。
山内は、実際に行動を起こした。
ただ脅しているだけではない。
自分たちが問題を解かなければ、本当に周囲を破壊するつもりなのだ。
その現実が、今さらのように四人の胸へ重く突き刺さった。
「絶対に止める……!」
堀北が目を鋭くし、モニターを睨みつけた。
その直後、画面に三つの文章が浮かび上がった。
――この学校を動かすものは何か。
――この学校を変えるものは誰か。
――最後に選ぶべきものは、未来である。
ひよりが画面を読みながら、小さく呟く。
「謎かけになっているんですね……」
坂柳は僅かに微笑みを戻した。
「やはり、単純な作業を要求しているわけではないようです」
堀北は残り時間を確認した。
【08:07】
既に考えるための時間も大きく減っている。
南雲が装置の周辺へ手を伸ばしかけたが、堀北がすぐに制止した。
「待って。何も考えずに触れれば、それ自体が反応のきっかけになるかもしれないわ」
坂柳は机の周囲と、複数に分けられた束を慎重に観察する。
「配置には意味がありそうです。
個々の色よりも、どの位置へ分けられているかを見るべきでしょう」
ひよりも資料室全体を見回した。
「この部屋が選ばれたことにも理由があると思います。
ここは過去の資料が置かれている場所です。
それなのに、ヒントには未来という言葉が使われている」
彼女は机の上の束へ視線を戻す。
「過去から未来へ進む順番が、配置へ反映されているのでしょうか」
南雲が目を細める。
「なら、資料の年度や学年ごとに対応している可能性があるな」
坂柳は机の端へ積まれた古いファイルへ目を向けた。
「一年、二年、三年、そして卒業。この四つの段階と対応しているのかもしれません」
堀北が改めて全体を見る。
一見すると無秩序に絡まっているように見えたコードも、
よく確認すれば大きく四つの束へ分けられていた。
左端、中央左、中央右、そして右端。
坂柳が穏やかな声で指示を出す。
「まず左端の束を、保管されている年度別資料と照合しましょう」
南雲が即座に古いファイルを開き、
堀北は束へ取り付けられた小さなラベルを確認する。
ひよりは資料に書かれている項目を順番に読み取り、
どの情報がどの束へ対応しているのかを調べていった。
三人の作業は速かった。
残り時間に意識を奪われすぎず、焦りを抑えながら情報を照合し、
必要のない選択肢を除外していく。
【07:32】
南雲が一つの資料を机へ置いた。
「左端は、既に廃止された旧制度に関係している」
坂柳が頷く。
「でしたら、その束は過去として処理すべきでしょう」
堀北は用意されていた鋏を手に取った。
僅かな間だけ、その手が止まる。
一度選択すれば、元には戻せない。
だが、迷ったのはほんの一瞬だった。
堀北が一つのコードを切ると、装置に点灯していたランプの一つが静かに消えた。
何も起こらない。
南雲が短く息を吐く。
「次へ進むぞ」
ひよりは中央左の束と、別の資料を見比べた。
「こちらは、クラス評価に関する記録と対応しています。
ただ、その中に三つだけ一致しないものがあります」
坂柳が分析する。
「対応していないものを残し、素直に一致しているものを処理するべきでしょう」
堀北が眉を寄せる。
「一致している方を選ぶの?」
「山内くんは、選別されたことを憎みながら、こちらには選別を強制しています」
坂柳の声は冷静だった。
「だからこそ、あからさまに特別なものを選ばせるのではなく、
制度へ従ったものを消していく方が、問題の意図には合っています。
彼は分かりやすく怒りを見せていますが、仕掛けの構造は意外に捻っています」
坂柳はモニターを一度見上げた。
「そこに、長く抱えてきた執念があるのでしょう」
ひよりが資料へ書かれた項目を読み上げていく。
「成績、貢献度、協調性、欠席、減点……そして退学」
最後の言葉を聞いた瞬間、堀北の指が僅かに止まった。
退学。
それは、今回の事件の根幹へ触れる言葉だった。
山内が学校を憎むようになった直接的な原因。
そして、彼が自分の価値を否定されたと感じた瞬間でもある。
南雲が低い声で促した。
「迷っている時間はない。進めろ」
堀北は頷き、選んだものを順番に処理していく。
そのたびにランプが一つずつ消えていった。
【05:58】
残り時間は、既に六分を切っている。
しかし、机の上にはまだ多くの選択肢が残されていた。
ひよりの額にも、僅かに汗が滲んでいる。
「右側の束は、生徒会に関する資料と対応しています」
南雲が素早くファイルをめくる。
「歴代の生徒会、制度の変更、特別試験の改定案か」
坂柳が南雲へ目を向けた。
「南雲先輩。この部分は、あなたが最も詳しいでしょう」
南雲は一瞬だけ笑った。
「任せろ」
そこからの南雲の判断は速かった。
生徒会長として蓄積してきた情報量が、他の三人とは明らかに違う。
どの制度がいつ導入され、どの試験がどの時期に変更され、
どの案が現在も有効なのか。
南雲は資料を一度確認するだけで、次々と分類していく。
「これは現行制度。こちらは古い案で、既に廃止されている。
これは検討だけで終わったもの。こっちはまだ実施されていない」
ひよりがその言葉を聞き、考えるように呟く。
「まだ実施されていないものが、未来に対応しているのかもしれません」
坂柳が頷いた。
「では、既に使われているものや過去のものを処理し、未実施の案を残しましょう」
堀北は南雲の分類を信じ、選択を進めていく。
ランプが一つずつ消え、残り時間も同時に減少していった。
【04:11】
室内の温度が、先ほどより上がっているように感じられる。
実際には大きく変化していないのかもしれない。
それでも、時間が減るほど呼吸は浅くなり、空気そのものが重くなっていく。
その時、山内の声が再びモニターから響いた。
『すげぇな。さすがは頭のいい奴らだ』
声には、皮肉と感心が混ざっている。
『でもさ、最後はどうする?』
堀北が顔を上げた。
装置の下部で小さな音が鳴り、新たなカバーがゆっくりと開いていく。
その内部に残されていたのは、四本だけだった。
すべて黒く、太さも同じで、等間隔に並べられている。
それぞれに白いラベルが貼られ、A、B、C、Dと記されていた。
それ以外には、判断材料になりそうな違いが何もない。
ひよりが表情を曇らせる。
「これは……」
坂柳も僅かに目を細めた。
「判断するための情報が足りませんね」
南雲は資料を素早く調べ直す。
「対応する記録は見当たらない」
堀北は、並べられた四つの文字を見つめた。
A、B、C、D。
この学校で、その文字が何を意味するのかは考えるまでもない。
生徒たちを分けるクラス。
学校内での序列。
多くの者が目指す目標。
そして、自分たちが掴もうとしてきた未来。
表示は止まることなく減り続ける。
【02:58】
山内が楽しそうに笑った。
『最後は簡単だろ?AかBかCかD。どれを選ぶ?』
彼は、生徒たちが長く争ってきたものを突きつけるように続けた。
『お前ら、ずっとその四つで競い合ってきたんだろ』
堀北の表情が険しくなる。
坂柳は四つの文字を見たまま、静かに言った。
「これは論理だけで答えを導く問題ではありません」
ひよりも小さく頷く。
「山内くんの感情や、誰に決断させたいのかを考える必要があります。
心理的な問題なのでしょう」
南雲が低い声で言う。
「つまり、最後に山内が見たいのは、選ばれた文字よりも選ぶ人間の方か」
山内が笑う。
『堀北』
呼びかけられた堀北の肩が、僅かに動いた。
『お前が選べよ。Aクラスを目指してるんだろ?
だったらAを選ぶか?それとも、怖くなって他へ逃げるか?』
堀北は答えず、四つの文字を見つめ続ける。
坂柳が静かに警告した。
「堀北さん、慎重に考えてください。
山内くんは、あなたがAクラスを目指していることを利用しようとしています」
ひよりも不安そうに口を開く。
「Aを選ばせたいようにも見えます。
でも、そう思わせて別の答えを選ばせるための誘導かもしれません」
南雲は残り時間を確認する。
「どちらにせよ、考え続ける時間はない」
【01:43】
残された四つから、論理的に一つを選び出すことはできなかった。
坂柳にも、ひよりにも、南雲にも、そして堀北にも、確実な答えは見つけられない。
ならば最後に必要になるのは、知識や推理ではなく意思だった。
堀北は、Aと記された文字を見つめる。
その文字を見ているうちに、これまで過ごしてきた時間が脳裏へ浮かんでいった。
最下位のクラスから始まった高校生活。
兄の背中を追い続けていた頃の自分。
綾小路という理解できない存在との出会い。
須藤の成長。
櫛田との長い対立。
平田や軽井沢、一之瀬をはじめとする多くの生徒との関わり。
何度も味わった敗北と屈辱。
そのたびに、自分の未熟さを知り、少しずつ考え方を変えてきた。
それでも目指し続けてきた場所がある。
Aクラス。
それは、単なるアルファベットの一文字ではない。
堀北鈴音が、自分自身の力で掴み取ろうとしてきた未来そのものだった。
【00:58】
坂柳が穏やかな声で言う。
「堀北さん。答えが分からないのであれば、あえて何も選ばないという考え方もあります」
南雲が即座に否定する。
「だが、それでは時間がなくなる」
ひよりが心配そうに堀北を見る。
「堀北さん……」
堀北は一度目を閉じた。
騒がしい警報音も、山内の声も、減り続ける表示も、
その瞬間だけ遠ざかったように感じられた。
短い時間の中で、彼女は自分が何を恐れ、
何を守り、どこへ進みたいのかを見つめ直した。
そして再び目を開く。
そこには、もう迷いがなかった。
「私は、Aを選ぶ」
坂柳の目が僅かに細くなる。
「理由を聞いても?」
「これが正しいかどうかは分からないわ」
堀北は率直に答えた。
「山内くんの罠である可能性もある。
でも、彼が私に選ばせたいと思っているのなら、私はその選択から逃げない」
堀北は鋏を手に取る。
「私は、Aクラスを目指してきた自分の未来から逃げたくない」
【00:20】
山内がモニターの向こうで笑った。
『いいねぇ。そういうの、嫌いじゃないぜ』
南雲も僅かに口角を上げる。
「面白い女だな」
坂柳は静かに微笑んだ。
「ええ。その選択がどこへ繋がるのか、見届けましょう」
ひよりは胸元で両手を握り締める。
「お願いします……」
残り時間は、あと十秒となった。
堀北はAと記されたコードへ鋏を当てる。
表示が一秒ずつ減るたび、電子音の間隔が短くなり、
室内の緊張も限界へ近づいていった。
汗が頬を伝う。
南雲は、異常が起きた時に備えて扉側へ視線を向けている。
坂柳は装置の変化を見逃さないよう、一点を見つめていた。
ひよりは祈るように息を止める。
残り時間が僅かになった瞬間、堀北はAの文字を真っ直ぐ見据えた。
それは目標であり、彼女が選び取ろうとしている未来だった。
堀北の指に力が入る。
乾いた音が室内へ響いた。
一瞬、世界そのものが止まったように感じられた。
先ほどまで鳴り続けていた電子音が消え、赤いランプも同時に消灯する。
黒い装置は完全に沈黙した。
誰もすぐには動けなかった。
数秒が過ぎても、何も起こらない。
ひよりがようやく小さく息を吐いた。
「……止まりました」
南雲も張り詰めていた息を大きく吐き出す。
「正解だったか」
坂柳は、静かな微笑みを浮かべた。
「いいえ。これは正解を偶然選び当てたというよりも、自分の未来を選んだのでしょう」
堀北は鋏を下ろした。
手のひらには汗が滲んでいたが、その背筋は真っ直ぐに伸びている。
モニターから、再び山内の声が聞こえた。
『……へぇ。本当にAを選んだんだな』
堀北は画面を見つめる。
「ええ。私はAクラスへ行く」
声には、先ほどまでの迷いはない。
「あなたがどんな問題を用意しても、
どんな仕掛けで私を試しても、その意思だけは変わらないわ」
しばらく、モニターの向こうから返事はなかった。
やがて山内が、小さく自嘲するように笑う。
『……そういうところだよ』
その声には、これまでのような単純な嘲りだけではなく、
寂しさに近い感情も混ざっていた。
『お前らが眩しく見えたから、俺は余計にムカついてたのかもしれねぇな』
そこで通信が切れた。
資料保管室には、沈黙した黒い装置と、警報音の遠い残響だけが残った。
南雲は堀北へ目を向ける。
「堀北」
「はい」
「今の判断は悪くなかった」
堀北は僅かに頭を下げる。
「ありがとうございます」
坂柳は杖をつき、ゆっくりと扉の方へ歩き出した。
「ですが、事件そのものが終わったわけではありません」
「分かっているわ」
堀北は停止した装置から視線を外し、開かれた扉の向こうを見る。
遠くでは、今も警報音が鳴り続けている。
綾小路たちは地下へ向かい、一年生たちは旧実習棟で危険へ立ち向かっている。
教師たちは、生徒たちを守るために校内を走り回っている。
一之瀬は体育館に残り、不安に押し潰されそうな生徒たちを支えている。
そして堀北は、今この場所でAを選んだ。
それは何かを切り捨てるための選択ではない。
自分が目指してきたものを、これからも諦めずに掴み取るための決断だった。
堀北鈴音は、張り詰めていた息を静かに吐き出した。
この先にどれほど困難な未来が待っていたとしても、
自分の進む道は自分の意思で選ぶ。
その覚悟だけは、誰にも奪わせないために。
一日一話で三作品を投稿するのは多いですか?
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いいぞ、どんどんやれ
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多い!読みきれない