体育館の空気は、まだ完全には落ち着きを取り戻していなかった。
器具庫を襲った爆発の余韻は館内の至るところに残り、
天井付近には白煙が薄く立ち込めている。
焼けたゴムと火薬が混ざり合った焦げ臭い匂いは鼻を刺し、
その場にいるだけで先ほどの爆発を嫌でも思い出させた。
それ以上に生徒たちの精神を追い詰めていたのは、
この事態がまだ終わっていないという現実だった。
校内には、次の爆弾が残されている。
いつ、どこで、誰が巻き込まれるのかも分からない。
その見えない恐怖が、生徒たちの心を少しずつ削り続けていた。
館内のあちこちからすすり泣く声が聞こえ、
身体の震えを抑えられずにいる生徒も多い。
それでも、器具庫が爆発した直後のような、
全員が我先にと逃げようとする崩壊寸前の混乱には陥っていなかった。
茶柱佐枝、坂上数馬、星之宮知恵ら教師陣が懸命に避難誘導を続け、
平田洋介、軽井沢恵、櫛田桔梗も周囲の生徒たちへ絶えず声をかけている。
そして何より、一之瀬帆波がその場で踏みとどまっていたことが大きかった。
一之瀬の顔色は今も悪い。
白波千尋が北棟三階で感圧式の装置の上に取り残され、
一人きりで恐怖に耐えている。
それを知ってしまった以上、平静でいられるはずがなかった。
親友が今も助けを待っている。
自分だけが安全な体育館にいるという現実に、
心を引き裂かれそうになっていることは容易に想像できた。
それでも一之瀬は、体育館の中央で泣いている一年生の前へしゃがみ込み、
できる限り穏やかな声をかけていた。
「大丈夫。ちゃんと助けに行ってるから。だから今は、ゆっくり深呼吸しよう?」
その声には、まだわずかな震えが残っている。
しかし感情に押し潰されることなく踏みとどまる彼女の姿が、
周囲の生徒たちを辛うじて現実へ引き留めていた。
オレは体育館の出口へ向かう。
そこには龍園翔、高円寺六助、伊吹澪、石崎大地、山田アルベルト、
そして鬼龍院楓花が集まっていた。
全員が、これから危険区域へ向かう側の人間だ。
その後ろから、堀北鈴音も険しい表情で歩いてくる。
「だから来るなと言ったはずだ」
「状況を確認するくらいはさせてもらうわ」
堀北は足を止めずに答えた。
「白波さんは私たち二年生の仲間よ。見捨てるつもりはない」
その目には迷いがなかった。オレはそれ以上止めることをやめた。
その時、背後から低い声が飛んだ。
「待て」
振り返ると、南雲雅が三年生数人へ指示を出した後、
こちらへ歩いてくるところだった。
「北棟三階は今、かなり危険な状態だ。
三階へ続く西階段は崩落していて、
中央通路にも複数の破損箇所がある。煙も回り始めている」
その説明に、鬼龍院が静かに付け加える。
「加えて北棟は停電している。内部の視界も相当悪いだろうな」
龍園はその報告を聞くなり、不敵な笑みを浮かべた。
「最高じゃねぇか」
「アンタ、本当に頭がおかしいわね」
伊吹が心底呆れたように吐き捨てる。
一方の石崎は、話を聞いているうちに明らかに顔色を悪くしていた。
「なぁ、マジで行くんすか……?」
「帰るか?」
龍園が試すように問い返す。
「か、帰れるなら帰りたいっすけど!」
「なら黙って来い」
石崎は頭を抱えた。
そのやり取りを眺めていた高円寺は、悠然と髪を掻き上げる。
「フッフッフ。実に退屈しない朝だねぇ」
「アンタだけ別の世界にいるみたいね」
伊吹が本気で呆れた顔を向けたが、高円寺はどこ吹く風だった。
オレは体育館の外へ目を向ける。
廊下の通常照明はすべて落ち、
赤く点滅する非常灯だけが壁や床を不気味に照らしている。
遠くでは警報音が途切れることなく鳴り続け、
焼けた建材と煙の匂いがこちらまで流れ込んでいた。
まるで、災害映画の中へそのまま放り込まれたような光景だった。
「行くぞ」
オレが告げると、龍園が真っ先に歩き出した。
アルベルトと石崎がその後に続き、伊吹も舌打ちをしながら後ろにつく。
高円寺は相変わらず余裕の笑みを浮かべ、鬼龍院も静かに歩を進めた。
堀北だけは体育館の入口で立ち止まる。
「綾小路くん」
「なんだ」
堀北は一瞬だけ言葉を迷った後、普段よりも弱い声で言った。
「……助けてあげて」
短い言葉だった。
だが、その声には隠しきれない感情が滲んでいた。
白波千尋。
一之瀬の親友であり、今も北棟三階で装置の上に立たされている少女。
オレは堀北の目を見て、短く答えた。
「ああ」
それだけ告げて、オレたちは北棟へ向かった。
◯
北棟へ近づくにつれて、周囲の空気は明らかに変わっていった。
焦げた木材と火薬が混ざり合った匂いが次第に強くなり、
廊下の奥からは薄い煙がゆっくりと流れ出している。
遠くで燃え続ける炎の赤い光が窓ガラスへ不気味に反射し、
校舎全体を異様な色に染めていた。
二年Bクラスのある棟では、爆発から時間が経った今も火が燻り続けている。
吹き飛ばされた窓枠はひしゃげ、外壁には黒い焦げ跡が広がっている。
廊下には机や椅子が無造作に散乱し、
割れたガラス片が非常灯の赤い光を受けて鈍く輝いていた。
数十分前まで、ここで生徒たちが何事もなく授業を受けていたとは思えない。
石崎はその惨状を目の当たりにし、引き攣った顔で呟いた。
「マジで映画じゃねぇか……」
龍園は焼け落ちた窓枠を見上げ、面白そうに口角を吊り上げる。
「いい眺めだな」
「どこがよ」
伊吹が即座に返した。
高円寺は煙の流れや床の亀裂、崩れかけた壁を観察しながら歩いていたが、
その足取りには緊張らしい緊張が見られない。
まるで危険な校舎ではなく、景色の良い庭園でも散歩しているような余裕があった。
鬼龍院は壁へ掌を当て、残った熱を確かめる。
「まだ熱が残っている。近くのどこかで燃焼が続いているようだな」
アルベルトが低く頷く。
サングラス越しでも、彼が周囲へ強い警戒を向けていることは分かった。
目的地は北棟三階だ。
そこには白波千尋がいる。
長時間、感圧式の装置の上に立たされたまま、助けを待っている。
残された時間は、今この瞬間にも減り続けていた。
北棟の中へ入ると、状況は外から見た以上に酷かった。
停電によって通常の照明はすべて消え、
赤く点滅する非常灯だけが廊下を断続的に照らしている。
天井付近には煙が溜まり、数メートル先までしか見通せない。
足元には割れたガラスや崩れ落ちた天井材が散乱し、
横倒しになったロッカーが通路の一部を塞いでいる。
一歩踏み出すたびに、靴の裏でガラスや金属が軋む不快な音が響いた。
「うわ……」
石崎は恐る恐る足元を見下ろした。
「これ、マジで崩れそうなんすけど……」
「静かに歩け」
鬼龍院が足を止め、床に走る亀裂を見ながら告げる。
「床材が割れている。複数人の重量が中央へ集中すれば、
床そのものが抜ける可能性がある」
その言葉に、全員の足が止まった。
伊吹が不機嫌そうに眉を寄せる。
「じゃあ、どうやって進むのよ」
鬼龍院は廊下の壁際を指し示した。
「壁に近い部分を一列で進め。中央は避けた方がいい」
龍園が感心したように鼻を鳴らす。
「頼りになるじゃねぇか」
鬼龍院は特に反応を示さず、そのまま先へ進んだ。
オレたちも彼女の足跡をなぞるように、慎重に壁際を歩いていく。
三階へ向かう途中、煙の奥からかすかな泣き声が聞こえた。
女子生徒の声だった。
呼吸の合間に漏れるような、小さく途切れ途切れの声だ。
「ぅ……っ……」
石崎が顔を上げる。
「今の……!」
「静かにしろ」
オレは周囲の音を拾うため、石崎を制した。
声は三階の資料室側から聞こえている。
白波千尋だ。
少なくとも、まだ生きている。
三階へ到達したところで、オレたちは再び足を止めることになった。
通路の一部が大きく崩落し、床が完全に抜け落ちている。
開いた穴の向こうには二階の廊下が見え、崩落幅はおよそ三メートル近くあった。
「うわぁ……」
石崎が青ざめる。
「これ、どうやって向こうへ行くんすか……」
普通に考えれば、簡単に越えられる距離ではない。
しかし高円寺は何の迷いもなく前へ出た。
「フッ」
崩落部分を一度見下ろした後、彼は助走すらつけずに軽く地面を蹴った。
その身体は、まるで小さな段差を越えるかのように宙を滑り、向こう側へ静かに着地する。
「は?」
石崎が声を失った。
高円寺は着地の衝撃すら感じさせず、乱れた髪を整える。
「何を呆けているんだい?」
「いやいやいや、普通は無理でしょ!?」
龍園が楽しそうに笑った。
「相変わらず化け物だな」
伊吹でさえ、わずかに引いた表情を見せている。
高円寺は向こう側から手を伸ばした。
「使えそうな物を寄越したまえ」
アルベルトが近くに落ちていた長い鉄パイプを拾い、高円寺へ渡す。
高円寺はそれを崩落部分へ沿わせるように固定し、
完全ではないものの、向こう側へ移るための補助に使える状態を作った。
鬼龍院が小さく頷く。
「なるほど。悪くない」
最初に龍園が鉄パイプへ足をかけ、慎重にバランスを取りながら崩落部分を越えた。
その後をアルベルト、伊吹、オレ、鬼龍院が続く。
最後に残った石崎は、下を見た途端に全身を強張らせた。
「お、落ちる!これ絶対落ちるっすよ!」
「騒ぐな。余計に揺れる」
伊吹に冷たく言われ、石崎は半泣きになりながらも、どうにか向こう側へ渡り切った。
その直後、再び泣き声が聞こえた。
今度は先ほどよりもはっきりしている。
「た、助けてぇ……っ……」
声は震え、呼吸も乱れていた。
一之瀬が体育館で語った言葉を思い出す。
白波は怖がりなんだよ。
確かに、そうなのだろう。
こんな崩れかけた校舎の中で一人きりにされ、動けば危険な装置の上へ立たされている。
そんな状況で平静を保てる人間の方が少ない。
「白波!」
龍園が煙の奥へ向かって声を張った。
「どこだ!」
「こ、こっち……!」
返事は資料室の前から聞こえた。
赤い非常灯が点滅する廊下の先に、白波千尋はいた。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、
床の一角へ右足を置いたまま、一歩も動けずに立っている。
その足元には黒いケース状の装置があり、赤いランプが一定の間隔で点滅していた。
小さな表示には、英語で圧力を示す文字が浮かんでいる。
白波はオレたちの姿を認めた瞬間、安心と恐怖が混ざり合ったような顔になった。
「ぁ……っ……帆波ちゃんは……?」
最初に口から出たのは、自分のことではなく親友の名前だった。
龍園が小さく舌打ちする。
「来たがってたぜ。止めるのに苦労した」
白波の目から、再び大粒の涙が零れた。
「ご、ごめんなさい……私のせいで……」
「まだ喋れるなら、完全に参っちゃいねぇな」
龍園はあえて軽い調子で言った。
しかし白波の身体は限界に近い。
長時間同じ姿勢を保っていたせいか、右足だけでなく全身が細かく震え始めている。
「いつからそこに立っている」
オレが尋ねると、白波は乱れた呼吸の合間に答えた。
「わ、分かんない……。資料を探してたら、
急に放送が流れて……床が光って、動くなって言われて……」
言葉を続けるにつれ、白波の呼吸はさらに速くなる。
恐怖に耐え続けたことで、今にもパニックへ陥りそうだった。
鬼龍院は白波の足元を観察し、周囲へ慎重に視線を巡らせた。
「単純なものではないようだな」
龍園が眉を寄せる。
「何か分かるのか?」
「足元の反応だけで終わる構造ではない。周囲にも連動している」
オレも資料室の入口付近へ細い線が伸びていることに気づいた。
白波が足を離した時だけではなく、周辺の何かが動いた場合にも反応する仕掛けがある。
山内は、ただ白波を一か所へ縛り付けただけではなかった。
「マジかよ……」
石崎がさらに顔を青くする。
白波は涙を流しながら、掠れた声を漏らした。
「わ、私……もう無理……。足の感覚がなくなってきて、怖いよぉ……」
伊吹は小さく舌打ちしたが、その目は白波の足元から離れていなかった。
「泣くな。呼吸が乱れたら、立っていられなくなるわよ」
「だ、だって……!」
白波の肩が大きく揺れる。
このまま恐怖へ飲み込まれれば、身体の均衡を崩す可能性がある。
「一之瀬が待っている」
オレが告げると、白波は涙に濡れた顔を上げた。
「……え?」
「お前が戻ってくるまで、体育館で踏みとどまると言っていた。
自分もここへ来ようとしていたくらいだ」
白波の目から、また涙が溢れる。
「帆波ちゃん……」
「だから今は倒れるな。ここで崩れたら、一之瀬が耐えている意味まで失われる」
白波は震える唇を強く噛んだ。
恐怖が消えたわけではない。
それでも、彼女は親友の名を心の支えにするように、もう一度姿勢を保った。
その時、天井のスピーカーからノイズが走った。
続いて、山内春樹の笑い声が流れる。
『おー、着いた着いた』
全員が天井を見上げる。
『どうだ?可哀想だろ?親友が泣きながら、ずっとそこに立ってるんだぜ』
龍園が吐き捨てるように言った。
「趣味が悪ぃな」
山内はそれを聞いて、さらに楽しそうに笑う。
『でもさ、これが実力主義ってやつだろ?
助けられる奴だけ助けて、切る奴は切る。
お前ら、今まで散々そういうことをやってきたじゃん』
誰も答えなかった。
白波は涙を流しながら、小さな声で呟く。
「私……死にたくない……」
その言葉は、崩れかけた校舎の中へ静かに響いた。
赤い非常灯が廊下を断続的に照らし、
白波の顔を赤く染めたかと思えば、次の瞬間には暗闇へ沈める。
その繰り返しが、彼女の命そのものが不安定に明滅しているような錯覚を与えた。
白波は床の一角を踏んだまま、動くことができない。
足元には黒い装置があり、赤いランプが規則的に点滅している。
一歩でも動けば何が起きるか分からない。
その現実が、彼女の身体だけではなく心まで縛り付けていた。
「白波」
オレはできるだけ落ち着いた声で呼びかけた。
「今から助ける」
白波は涙に濡れた目をこちらへ向ける。
「ほ、本当に……?」
「ああ」
白波は唇を噛み、弱々しくも頷いた。
「うん……」
龍園は装置を見下ろしながら舌打ちする。
「面倒なもんを踏ませやがって」
伊吹は資料室の扉や壁、床の状態を順番に確認していた。
「やっぱり足元だけじゃないわね」
「そうだな」
オレが答えると、鬼龍院は資料室入口の近くまで慎重に進み、目を細めた。
「周囲の動きにも反応する仕組みがある。
白波が足を離した時だけではなく、こちらが不用意に触れた場合も危険だろう」
石崎はその言葉を聞いて、困惑したように声を上げた。
「じゃあ、何もできねぇじゃないすか!」
「本当に何もできないなら、わざわざこうして待たせる必要はない」
鬼龍院は淡々と答える。
「これは単なる処刑ではなく、解答を要求する問題として作られている」
坂柳なら同じ見方をしただろう。
山内が白波を殺すことだけを目的にしているなら、
もっと単純な方法はいくらでもある。
だが、山内はそうしない。
必ず選択肢を用意し、こちらがどう答えるかを観察する。
その悪趣味な執着こそ、今の山内春樹を象徴していた。
高円寺は崩れた窓際で腕を組み、白波の様子を眺めながら優雅に笑う。
「実に滑稽だねぇ」
伊吹が睨みつける。
「この状況で、よくそんなことが言えるわね」
「いや、失敬」
高円寺はいつものように髪を掻き上げた。
「ただ、恐怖に怯えきった人間ほど醜く、同時に人間らしい存在もないと思ってね」
白波の顔色がさらに悪くなる。
「高円寺」
オレは短く名前を呼んだ。
「今は黙っていろ」
「フッフッフ。手厳しいねぇ」
高円寺は肩を竦め、それ以上は何も言わなかった。
龍園がオレへ目を向ける。
「それで、どうする」
「白波の足元にかかっている力を保ったまま、本人だけを離す」
「それが簡単にできりゃ、誰も苦労しねぇよ」
「できる可能性はある」
オレは周囲を見回した。
崩れた床、廊下へ散乱した金属板、倒れたロッカー、資料室前に置かれた重いケース。
使える物は限られているが、何もないわけではない。
「アルベルト」
オレが呼ぶと、アルベルトは静かにこちらを見る。
「そこの棚から、平らな金属板を外してくれ」
アルベルトは無言で頷き、倒れた棚の一部を慎重に取り外した。
「石崎は、資料室の前にある重いケースを確認しろ。
ただし、白波の足元へ不用意に近づくな」
「りょ、了解!」
石崎は腰を引きながら、恐る恐る資料室の前へ進む。
その姿を見た伊吹が、呆れたように言った。
「腰が引けすぎ」
「うるせぇ!怖いもんは怖いんだよ!」
二人のやり取りを聞いた白波が、一瞬だけ目を瞬かせた。
恐怖が消えたわけではない。
それでも、完全な沈黙の中で救助を待つより、
いつものような言い争いが聞こえる方が、
彼女にとっては僅かな救いになったのかもしれない。
鬼龍院は白波へ静かに問いかける。
「今、どちらの足へ力をかけている?」
「え……?」
「両足か、それとも片足だけか」
白波は涙を拭いながら、震える声で答えた。
「右足……。右足で踏んでる……。左足は少し浮いてるけど、もう力が入らなくて……」
鬼龍院は白波の姿勢を確認し、頷いた。
「圧力の中心は右側にある。なら、まだ置き換えられる可能性はある」
石崎が資料の入った金属ケースを持って戻ってくる。
「こ、これでいいっすか?」
ケースには十分な重さがある。
ただし、そのまま置けば力が一点へ偏り、不安定になる。
アルベルトが外した金属板と組み合わせれば、
負荷をある程度分散できるかもしれない。
問題は、白波の足を離す瞬間だった。
わずかな変化を装置が検知すれば、すべてが終わる可能性がある。
「俺がやる」
龍園が前へ出る。
「お前は指示を出せ。こういう作業は、力任せに動く奴には向いてない」
オレが答えると、龍園は眉を上げた。
「誰が力任せだって?」
「自覚がないのか」
龍園は楽しそうに笑う。
「なら、誰にやらせるつもりだ?」
その問いに答えるように、高円寺がゆっくりと歩み出た。
「この私だろうね」
全員の視線が高円寺へ集まる。
「君たちは勘違いしているようだが、必要なのは力ではなく均衡だ。
重心、角度、呼吸、筋肉の震えを読み取るなら、
私以上に適した人間はいないだろう」
高円寺の言葉にはいつもの自信が満ちていた。
しかし今回に限って言えば、その判断は間違っていない。
異常な身体能力と精密な重心操作を持つ高円寺なら、
この場で最も適任である可能性が高い。
龍園が鼻で笑う。
「失敗したら、お前も一緒に吹っ飛ぶぞ」
高円寺は涼しげに微笑んだ。
「美しい私が、そんな無様な失敗をするはずがない」
石崎は呆れたように小声で呟く。
「マジで何なんだ、この人……」
だが、今はその自信へ賭けるしかなかった。
「白波」
オレは白波へ向き直る。
「今から足元の負荷を別の物へ移す。
こちらが合図を出すまで、絶対に勝手に動くな」
「でも……」
「怖いのは分かる」
白波は涙を浮かべたまま、首を振った。
「分かるわけないよ……」
その言葉はオレを責めるためのものではなく、
限界まで追い詰められた心から漏れた本音だった。
「そうだな。完全には分からない」
白波が僅かに顔を上げる。
「だが、一之瀬ならこう言うはずだ。大丈夫、一人じゃない」
白波の唇が震えた。
「帆波ちゃん……」
親友の名を口にした白波は、涙を流しながらも、小さく頷いた。
「うん……私、頑張る……」
その時、校内放送から再びノイズが流れた。
続いて、山内春樹の声が響く。
『いいねぇ。感動的だなぁ』
全員の動きが止まる。
『友情、信頼、助け合い。そういうものを、俺も昔は信じてたよ』
白波の身体が再び震え始める。
龍園は天井を睨みつけた。
「黙って見てろ」
『見てるさ』
山内は笑っていた。
『ちゃんと見てる』
その言葉に、オレはわずかな違和感を覚えた。
見ている。
それは単なる比喩ではない。
山内は、本当にこちらの動きを把握している。
校内の監視カメラか、事前に設置した小型の機器か、それとも別の手段か。
だが、この北棟三階は停電している。
煙も濃く、通常の監視カメラでは死角も多い。
それにもかかわらず、山内の反応はあまりにも早かった。
『綾小路』
突然、名を呼ばれる。
オレは黙って聞いた。
『今、少し眉を動かしたな』
その一言で、廊下の空気が変わった。
龍園がオレを見る。
伊吹も眉を寄せる。
オレは表情を変えなかったが、内心では違和感が確信へ近づいていた。
山内には、オレの表情まで見えている。
しかも、遠くから大まかに把握しているのではなく、
かなり近い位置から観察しているような精度だった。
『不思議そうな顔をするなよ。お前がそんな顔をするの、初めて見た気がするぜ』
山内は楽しそうに笑う。
『まあいい。続けろよ。白波千尋を助けられるかどうか、最後まで見ててやる』
そこで放送は切れた。
短い沈黙が落ちる。
石崎が震えた声で口を開いた。
「な、なんで綾小路の顔まで分かるんだよ……」
誰も答えられなかった。
龍園だけが、小さく笑う。
「おい綾小路。お前、どこかにカメラでも仕込まれてんじゃねぇか?」
「さあな」
現時点では、まだ断定できない。
しかし山内の監視手段が通常のものではない可能性は高い。
それを考えるのは後だ。
今は、白波を助ける方が先だった。
「始めるぞ」
オレが告げると、高円寺は白波の前へ静かにしゃがみ込んだ。
白波は恐怖で目を閉じかける。
「目を閉じるな」
オレはできるだけ一定の声で言った。
「オレも高円寺も見る必要はない。
廊下の先を見て、呼吸だけを数えろ。ゆっくり三つずつだ」
白波は震えながら頷く。
高円寺が金属板を床へ近づけ、アルベルトがその端を支える。
鬼龍院は白波の足元と金属板の角度を交互に確認した。
「少し右へ動かせ。そこで止めろ。その位置を保て」
龍園は周囲を警戒し、伊吹は資料室側に伸びた細い線の動きを見ている。
石崎は祈るような顔で立ち尽くしていた。
高円寺の手は、普段の大仰な振る舞いからは想像できないほど滑らかに動いていた。
まるで危険な装置ではなく、繊細な楽器でも扱っているような慎重さだった。
金属板が白波の足元へゆっくりと差し込まれる。
白波の呼吸が再び乱れた。
「無理……無理だよ……」
「白波」
オレは彼女の意識をこちらへ戻す。
「一之瀬が待っている」
その一言で、白波は涙を零しながらも、必死に姿勢を保った。
高円寺が小さく笑う。
「よろしい。美しくはないが、悪くない根性だ」
鬼龍院が状況を確認する。
「負荷は半分ほど移った。次へ進め」
アルベルトが金属ケースを金属板の上へゆっくりと置いていく。
急がず、慎重に、白波の右足へかかっていた負荷を少しずつ移していく。
白波の膝は大きく震えていた。
「もう少しだ」
オレは言う。
「あと少しだけ耐えろ」
その時、足元の赤いランプが急に点滅を速めた。
短い警告音が鳴り、石崎が思わず声を上げる。
「や、やばいっすよ!」
「黙れ」
龍園の低い声が飛ぶ。
高円寺の手は止まらない。
警告音に惑わされることなく、一定の速度で金属板の角度を調整し続けている。
白波の右足が、ごく僅かに床から浮いた。
彼女は息を止める。
鬼龍院が即座に制した。
「まだ完全には離すな。その位置を保て」
赤いランプはさらに激しく点滅している。
廊下全体が張り詰めた空気に包まれた。
高円寺が指先だけで金属板の角度を修正し、アルベルトが全体の重さを支える。
やがて白波の右足が、完全に床から離れた。
誰も声を出さない。
数秒間、何も起こらなかった。
石崎が恐る恐る口を開く。
「や……やったのか……?」
その瞬間、資料室側に伸びていた細い線が微かに動いた。
伊吹が鋭く叫ぶ。
「まだ終わってない!」
オレは即座に白波の腕を掴み、龍園も反対側から彼女を引き寄せる。
「引け!」
白波の身体を装置から遠ざけた直後、資料室の扉が内側から勢いよく弾けた。
衝撃音とともに煙が噴き出し、廊下へ白い煙が一気に広がる。
大きな爆発ではなかった。
しかし、白波がその場に残っていれば巻き込まれていた可能性は高い。
白波はオレと龍園の間で膝から崩れ落ちた。
「た、助かった……?」
彼女は状況を理解できないまま、呆然と呟く。
そして次の瞬間、張り詰めていた感情が一気に崩れた。
「うぁ……っ……!怖かった……!怖かったよぉ……!」
白波は声を上げて泣き出した。
伊吹は戸惑いながらも、倒れそうになった彼女の身体を支える。
「泣くのは後にしなさい。ここも安全じゃないんだから」
言葉は厳しかったが、その声には僅かな優しさが混じっていた。
やがて、再び校内放送が鳴る。
『へぇ。成功したのか』
山内の声には、わずかな苛立ちが混じっていた。
『つまんねぇな』
龍園は口角を吊り上げる。
「見てたんだろ?残念だったな」
山内はその挑発には答えなかった。
しかし、少し間を置いた後、先ほどまでとは違う冷たい声で告げる。
『じゃあ、次だ』
全員が表情を引き締めた。
『南棟二階。今度は二つ同時だ。片方を助ければ、もう片方が危なくなる』
山内は愉快そうに続ける。
『選べよ』
そこで放送は切れた。
白波は伊吹に支えられながら、今も泣き続けている。
オレは赤く点滅する非常灯の向こうにある天井を見上げた。
山内は見ている。
しかも、遠くからではなく、近すぎるほど近い場所から。
だが、その位置も方法もまだ分からない。
なぜオレの表情まで読み取れるのかも、現時点では説明がつかなかった。
その答えは依然として見えないまま、煙の向こうへ隠されていた。
一日一話で三作品を投稿するのは多いですか?
-
いいぞ、どんどんやれ
-
多い!読みきれない