白波千尋の嗚咽が、崩れかけた北棟三階の廊下へ小さく響いていた。
感圧式の装置からようやく解放された彼女は、
もう自分の足で立っていることさえできなかった。
床へ膝をつき、両肩を細かく震わせながら、
堰を切ったように涙を流し続けている。
つい先ほどまで、白波は死への恐怖と張り詰めた緊張、
そして誰にも助けを求められない孤独を、たった一人で抱え込んでいたのだ。
心も身体も限界を迎えているのは当然だった。
「……怖かった……」
白波が掠れた声を漏らす。
「本当に……死ぬかと思った……」
伊吹澪は白波の前へしゃがみ込むと、
持っていた水筒を半ば押しつけるように差し出した。
「飲みなさい」
「……ぁ」
「震えすぎ。少し落ち着きなさいよ」
口調こそ相変わらずぶっきらぼうだったが、
余計な慰めを口にしない態度が、かえって白波に奇妙な安心感を与えたらしい。
白波は両手の震えを抑えきれないまま水筒を受け取った。
「ありが……とう……」
伊吹は気まずそうに視線を逸らす。
「別に。水を渡しただけよ」
少し離れた場所では、龍園翔が崩れた壁へ背中を預けながら、
放送の切れた天井スピーカーを睨んでいた。
山内が次に指定した場所は南棟二階であり、
そこには二つの仕掛けが同時に用意されているという。
しかも、片方を救おうとすれば、もう片方が危険に晒される。
龍園はその意味を噛み締めるように低く舌打ちした。
「チッ……面倒なことばっかり仕掛けやがる」
その声音には、普段の愉快そうな響きよりも、静かな怒りが滲んでいた。
石崎大地は話を思い返すだけで不安になったのか、青ざめた顔を龍園へ向ける。
「に、二つ同時って、結局どういう意味なんすかね……」
「そのままの意味だろ」
龍園は苛立たしげに答えた。
「俺たちに、どっちを先に助けるか選ばせる気だ」
鬼龍院楓花は、崩れた窓の向こうへ目を向けていた。
遠くでは今も黒い煙が上がり、校舎の一部が赤い炎に包まれている。
非常ベルは途切れることなく鳴り続け、
普段なら生徒の声で賑わうはずの学校は、完全に災害現場へ変わっていた。
「山内春樹は、少しずつ問題の性質を変えている」
鬼龍院が静かに言う。
オレは彼女へ視線を向けた。
「最初は恐怖そのものを突きつけ、次に選択を要求した。
そして今度は、複数の人間を比較させようとしている」
「比較って、どういうことっすか?」
石崎が聞き返す。
鬼龍院は窓の外を見たまま説明を続けた。
「二つの仕掛けを同時に用意したということは、
救助する順番や優先順位、危険度を測らせるつもりなのだろう」
わずかな間を置いてから、彼女は結論を口にした。
「つまり、どちらを先に助け、誰を切り捨てるのかを選ばせる」
龍園が目を細める。
「ほんと、この学校らしい試験だな」
それは明らかな皮肉だった。
だが、完全に否定することもできない。
高度育成高等学校は、これまで何度も生徒たちへ選択を迫り、
誰かを評価し、時には切り捨てさせてきた。
山内はその学校のルールを、爆発物を使った悪質な試験へ置き換えている。
床へ座り込んでいた白波は、袖で涙を拭いながら顔を上げた。
「みんなは……?」
「体育館にいる」
オレが答えると、白波の表情がほんの少し緩んだ。
「よかった……」
「お前のことを、かなり心配していたぞ」
その言葉を聞いた瞬間、白波の目から再び涙が零れ落ちた。
「ごめん……」
「謝る必要はない」
「でも、私のせいでみんなが……」
「お前だけのせいじゃない」
山内が悪いことは言うまでもない。
だが、それだけで片づけてしまえば、本質を見失う。
この学校が繰り返してきた選別や排除が、
山内をここまで追い込む一因になったことも否定できない。
その事実は、ここにいる誰の胸にも重く残っていた。
その時、乾いた小さな音が廊下へ響いた。
ピシッ、と何かが割れるような音だった。
鬼龍院が即座に顔を上げる。
「動くな」
全員が反射的に足を止めた。
鬼龍院は廊下中央へ視線を落とす。
崩落部分の近くに走っていた細い亀裂が、先ほどよりわずかに広がっている。
「床が沈み始めている」
高円寺六助が興味深そうに目を細めた。
「ほぅ?」
「この人数の重さに耐えられなくなっている可能性がある。
この場に長く留まるのは危険だ」
龍園が再び舌打ちする。
「なら、さっさと移動するぞ」
「白波はどうするの?」
伊吹が問いかけた。
白波の足はまだ細かく震えている。
立ち上がることさえ難しく、とても自力で歩ける状態ではなかった。
すると、高円寺が仕方なさそうに肩を竦める。
「やむを得ない。私が運ぶとしよう」
全員の視線が高円寺へ集まった。
「……お前が?」
龍園が怪訝そうに問い返す。
高円寺は涼しげに微笑んだ。
「困っている子羊を救うことも、美しい者に課された義務だからねぇ」
石崎が小声で呟く。
「何を言ってんだ、この人……」
しかし高円寺は冗談を言っているわけではなかった。
彼は白波の前へ歩み寄ると、その場にしゃがみ込んで背中を向ける。
「乗りたまえ」
「え……?」
「足が限界なのだろう?」
白波は戸惑いながら高円寺の背中を見つめた。
「で、でも……」
「安心したまえ」
高円寺は振り返らずに笑う。
「私はレディをエスコートすることにかけても完璧なのだよ」
その自信は異常なほどだったが、不思議と虚勢には聞こえなかった。
白波はしばらく迷った後、恐る恐る高円寺の背へ腕を回す。
高円寺は彼女の身体を、ほとんど重さを感じていないかのように軽々と背負い上げた。
「随分と軽いねぇ」
「す、すみません……」
「謝る必要はない。君が軽いことは、今の私には都合がいい」
高円寺は白波を背負ったまま歩き出した。
崩れた床や散乱した破片の間を進んでいるにもかかわらず、
その足取りには一切の不安がない。
まるで危険な廊下ではなく、整備された散歩道でも歩いているようだった。
龍園はその後ろ姿を見ながら、改めて目を細める。
「やっぱり化け物だな」
その時、天井のスピーカーから再びノイズが走り、山内春樹の笑い声が流れてきた。
『へぇ。高円寺、お前、そういうこともするんだな』
高円寺は歩みを止めなかった。
白波を背負ったまま、余裕の笑みを浮かべている。
『なんかガッカリだわ。もっと自分のことしか考えない奴だと思ってたのに』
高円寺がそこで初めて口を開いた。
「それは君の勘違いだねぇ」
赤く点滅する非常灯の下で、高円寺は穏やかに笑う。
「私は他人を助けないのではない。
助ける価値がないと判断した者を助けないだけだ」
体育館で同じ発言をすれば、多くの生徒が反発しただろう。
だが今この場では、その言葉に奇妙な説得力があった。
高円寺はさらに続ける。
「そして、少なくとも今の彼女は、恐怖に怯えながらも懸命に生きようとしていた」
白波が驚いたように目を見開く。
高円寺は少しだけ声を落とした。
「醜く足掻きながら、それでも生を諦めない。私はそういう姿を、嫌いではない」
龍園が喉の奥で笑った。
「相変わらず、言ってることが分かるようで分からねぇな」
スピーカーの向こうから、山内の乾いた笑いが返ってくる。
『……ハッ。ほんと、お前ら変な奴ばっかりだな』
その声には、先ほどまでにはなかった苛立ちがわずかに混ざっていた。
オレはその変化を聞き逃さなかった。
山内は、自分の想定から外れることを嫌がっている。
白波が救われ、高円寺が予想外の行動を取ったことで、
彼の中に用意されていた筋書きが僅かに乱れた。
こちらが山内の予測を上回り続ければ、精神的な均衡を崩せる可能性がある。
そう考えた直後、山内が唐突にオレの名を呼んだ。
『あ、綾小路』
オレは返事をせず、黙って続きを待った。
『今、何か考えただろ』
廊下の空気が僅かに変わる。
まただ。
山内の反応は、あまりにも近すぎる。
龍園が低い声を出した。
「おい。やっぱりおかしいぞ」
「ああ」
「監視カメラだけじゃ説明がつかねぇ」
鬼龍院も疑念を隠さずに言う。
「反応速度が異常だ。映像だけでなく、
綾小路の僅かな変化まで捉えているように見える」
高円寺が楽しそうに笑った。
「まるで、山内ボーイが綾小路ボーイの目の前にいるようだねぇ」
その言葉が妙に耳へ残った。
目の前にいる。
近距離から見ている。
山内は、オレの表情や思考の変化を異常なほど正確に把握している。
どこから見ているのか。
なぜ、ここまで細かく読み取れるのか。
疑問は頭の奥へ残り続けたが、今は答えを探している時間ではない。
南棟二階には、次の仕掛けが待っている。
「行くぞ」
オレが告げると、全員が北棟からの脱出を再開した。
◯
北棟を出ると、外気が廊下に充満していた煙を僅かに薄めてくれた。
しかし、外へ出たからといって状況が良くなったわけではない。
校舎の上空には黒煙が立ち込め、
焦げ臭い風がグラウンドを吹き抜けている。
遠くでは複数の建物が燃え続け、
緊急車両の赤色灯が煙の中で不規則に点滅していた。
どこを見ても、ここが学校だったとは思えない。
グラウンドでは、三年生たちが負傷者の搬送を行っていた。
その中心に立ち、南雲雅が次々と指示を飛ばしている。
「そっちの負傷者は医務室へ運べ!
動ける奴は校舎外周の確認に回れ!勝手に単独行動するな!」
普段の南雲が浮かべている余裕めいた笑みは消え、
代わりに大勢を統率する人間の顔が前面に出ていた。
オレたちの姿を見つけると、南雲はすぐに近づいてくる。
「白波は助けたのか」
「ああ」
南雲は高円寺の背にいる白波を確認し、僅かに息を吐いた。
「さすがだな」
しかし安心した表情は一瞬で消え、すぐに顔を険しくする。
「問題は次だ」
「南棟二階か」
「既に何人か三年生を向かわせている。だが、妙な点がある」
「妙?」
南雲は眉を寄せた。
「南棟二階に残っているはずの生徒数と、連絡が取れている人数が一致しない」
龍園が不機嫌そうに舌打ちする。
「どこかに隠れてる奴がいるってことか」
「あるいは、既に山内の仕掛けへ巻き込まれているかだ」
その時、グラウンドの反対側から大きな悲鳴が上がった。
「きゃあああっ!」
全員が声の方角へ振り向く。
校舎二階の窓際に、男子生徒が一人、外へぶら下がっていた。
彼は片手だけで窓枠を掴み、必死に身体を支えている。
真下には硬いコンクリートが広がっていた。
「う、うわあああっ!助けてくれ!」
石崎の顔が一気に青ざめる。
「やべぇって!」
その瞬間、男子生徒の背後にある室内で小さな爆発が起きた。
鈍い音とともに火花と煙が噴き出し、男子生徒が悲鳴を上げる。
「ぎゃあああっ!」
衝撃で窓枠を掴んでいた指が滑り始める。
「落ちるぞ!」
誰かが叫んだ時には、既に一つの影が走り出していた。
高円寺六助だった。
「フッフッフ!」
高円寺は白波を鬼龍院へ預けると、地面を強く蹴った。
その加速は異常だった。
一気に校舎の外壁まで駆け抜け、そのまま壁沿いに伸びた配管へ飛びつく。
周囲の生徒たちが息を呑んだ。
高円寺は腕と脚だけで身体を引き上げ、二階付近まで迷いなく登っていく。
石崎は呆然とその姿を見上げた。
「は……?マジで人間か……?」
男子生徒の手が完全に窓枠から離れた。
身体が宙へ投げ出される。
しかし、落下が始まった直後、高円寺が片腕を伸ばして男子生徒の手首を掴んだ。
「うわあああっ!」
男子生徒の身体が宙吊りになる。
高円寺は片腕だけで一人分の体重を支えていた。
腕の筋肉へ強い負荷がかかっているはずだが、表情は少しも崩れない。
「騒がしいねぇ」
高円寺は余裕を失わないまま笑った。
「少しは静かにできないのかい?」
そのまま高円寺は、信じられないことに
片腕だけで男子生徒を持ち上げ、窓の方へ押し戻した。
室内にいた三年生たちが慌てて腕を伸ばし、男子生徒を引き上げる。
救助が終わると、グラウンド全体が一瞬静まり返った。
誰もが言葉を失っていた。
高円寺は配管から軽やかに降り、最後は地面へ飛び降りる。
足元から砂埃が舞い上がった。
彼は何事もなかったかのように髪を整える。
「やれやれ。今日は朝から運動量が多いねぇ」
龍園が呆れ半分、感心半分の笑みを浮かべた。
「化け物すぎんだろ」
南雲すら苦笑を隠せなかった。
「お前、本当に何なんだ?」
高円寺は胸を張る。
「完璧な存在さ」
その直後、校内放送が再び鳴った。
山内の声だったが、今度は笑いが少し消えている。
『……ほんと、嫌になるな』
これまで余裕を崩さなかった山内が、初めて感情を露わにした。
『なんでそんなに動けるんだよ、お前ら』
オレはその声を聞きながら考える。
山内は、こちらを見ている。
だが、高円寺を含めた全員の行動までは読み切れていない。
そこには付け入る隙がある。
◯
南棟へ続く渡り廊下は、既に半壊していた。
窓ガラスはほとんど砕け散り、床には大小無数の破片が広がっている。
天井の一部も崩れ落ち、剥き出しになった配線が時折火花を散らしていた。
通常の照明は完全に消え、赤い非常灯だけが不規則に明滅している。
その光が煙の漂う通路を断続的に染め上げ、
まるで校舎全体が巨大な警告灯になったように見えた。
「マジで崩れそうじゃねぇか……」
石崎が顔を引き攣らせる。
その声は紛れもない本音だった。
普通の高校生が、崩落寸前の校舎内を進む経験など持っているはずがない。
床は歩くたびに軋み、壁には大きな亀裂が走り、
次の爆発がいつ起きるかも分からない。
精神を削られない方がおかしい状況だった。
龍園は崩れた壁へ手を触れた直後、熱に気づいて舌打ちする。
「チッ、まだ熱ぃな」
伊吹は煙の奥へ目を凝らした。
「南棟側で、まだ火が燃えてる」
廊下の先、南棟二階へ続く方向では、黒煙が天井近くを覆っていた。
煙の向こうからは炎の赤い光が揺れ、焦げ臭い風がこちらまで流れてくる。
鬼龍院が冷静に状況を判断する。
「急いだ方がいい。火が広がれば、山内の仕掛け以前に退路を失う」
高円寺はそんな状況でも、妙に優雅な足取りで歩いていた。
崩れた床や散乱した破片を、障害物競走のコースでも進むように軽々と避けていく。
「随分と荒れた校舎だねぇ」
石崎が半泣きで声を上げる。
「こんな状況で、なんでそんなに余裕があるんだよ!」
「余裕を失う意味が分からないからだよ」
高円寺は笑う。
「恐怖とは、弱者が自らを縛るために抱く感情だからねぇ」
伊吹が呆れた顔を向けた。
「アンタ、本当に人類なの?」
「美しい存在、と呼んでほしいねぇ」
その時、再び何かが割れるような音がした。
鬼龍院が即座に手を上げる。
「止まれ」
全員が足を止める。
鬼龍院は廊下中央に走ったひび割れを見つめた。
亀裂の隙間からは、下階から上がってきたと思われる薄い煙が漏れている。
「床下が空洞になっている。中央を踏めば抜け落ちる可能性がある」
龍園が目を細める。
「通れるか?」
鬼龍院は床と壁の状態を見比べた後、短く答えた。
「壁際なら可能だろう」
アルベルトが先頭へ出て、慎重に床へ足を置く。
ミシッと軋む音がしたが、床は崩れなかった。
一番体重のあるアルベルトが通過できることを確認し、
他のメンバーも間隔を空けて進み始める。
白波は再び高円寺の背へ乗せられていた。
先ほどより呼吸は落ち着いているものの、完全に回復したわけではない。
顔色は依然として悪く、腕にもほとんど力が入っていなかった。
「大丈夫か」
オレが声をかける。
白波は高円寺の背中へ身体を預けたまま、小さく頷いた。
「うん……」
返事に力がないのは当然だった。
彼女はつい先ほどまで、危険な装置の上で一人きりになっていたのだ。
早く一之瀬の元へ送り届けてあげたかった。
その時、天井のスピーカーからノイズが流れ、山内春樹の声が響いた。
『おーおー。仲良しごっこか?』
龍園が露骨に不機嫌そうな顔をする。
「うるせぇな」
『白波は助けちゃうし、高円寺は相変わらず化け物だし、ほんと嫌になるよ』
山内の声には、以前よりはっきりと焦りが混じり始めていた。
白波の救出も、高円寺の行動も、彼の想定を少しずつ崩している。
『でも、次はそんなに簡単じゃねぇぞ』
オレたちは足を止めずに、放送へ耳を傾ける。
『南棟二階の視聴覚室。そこに二つ用意してある』
石崎が不安そうに呟いた。
「二つ……?」
『しかも今回は、ちゃんと選ばないと無理だ。
助ける順番を間違えたら、どちらかが危険になる』
鬼龍院の目が細くなる。
「連動式か」
『さすが鬼龍院先輩。理解が早いねぇ』
龍園が吐き捨てる。
「性格の悪い仕掛けだな」
『まあいい。早く行けよ。時間がなくなるぞ』
そこで放送は切れた。
赤い非常灯だけが、不気味な間隔で廊下を照らし続けていた。
◯
南棟二階の視聴覚室前へ到着した時、
オレたちはその周辺だけ空気が異なっていることに気づいた。
周囲が静かすぎる。
煙の流れも少なく、遠くで鳴っているはずの爆発音や警報音も、
厚い壁に遮られているように小さかった。
まるで視聴覚室の周辺だけが、
崩壊した校舎から切り離された別の空間になっている。
龍園が低く呟いた。
「嫌な感じがするな」
その顔からは、いつもの不敵な笑みが消えていた。
本当に危険を感じている時の表情だった。
視聴覚室の扉は半開きになっていたが、内部の照明は落ちている。
鬼龍院が入口付近の床へ目を落とす。
「ワイヤーがある」
扉の下から、細い糸のような線が廊下へ伸びていた。
石崎が息を呑む。
「うわっ……!」
伊吹がワイヤーを睨む。
「引っ掛けたら作動する仕掛け?」
「違う」
鬼龍院はその場へしゃがみ込み、線の向きと接続先を確認した。
「これは作動させるためのものではない。こちらの注意を引くために置かれている」
「注意を引く?」
「床や扉へ視線を向けさせるための偽装だ」
その瞬間、高円寺が天井を見上げた。
「本命は上だねぇ」
全員が顔を上げる。
換気口の隙間から、二つの赤いランプが覗いていた。
龍園が目を細める。
「視聴覚室の中だけじゃねぇのか」
鬼龍院は静かに頷く。
「ワイヤーへ注意を向けさせ、
その間に天井側の仕掛けを見落とさせるつもりだったのだろう」
その時、視聴覚室の奥から微かな泣き声が聞こえた。
二人分の女子生徒の声だった。
「た、助けて……」
「動けない……!」
龍園が舌打ちする。
「チッ。本当に二人いるな」
オレは扉の手前まで進み、暗い室内へ目を凝らした。
廊下の赤い非常灯が僅かに差し込み、
床の中央にいる二人の姿を辛うじて浮かび上がらせる。
一人は山村美紀だった。
Aクラスの中でも目立つ存在ではなく、
普段から声が小さく、周囲の空気へ溶け込むように立っている少女だ。
その山村が今は涙を浮かべ、
床の一点から足を離せないまま、必死に姿勢を保っている。
もう一人は佐藤麻耶だった。
堀北クラスに所属し、普段なら明るい表情で友人たちと話していることが多い。
そんな佐藤が、今は顔を真っ青にして、震える唇で助けを求めていた。
「綾小路くん……」
佐藤の声が震える。
「わ、私……動けない……」
ここには軽井沢はいない。
佐藤がその事実を理解しているのか、恐怖で考える余裕すらないのかは分からない。
ただ、泣き出しそうな顔でオレたちを見つめていた。
山村も小さく声を漏らす。
「坂柳さん……」
その名前を聞いた瞬間、鬼龍院が僅かに目を細めた。
坂柳有栖も今はこの場におらず、体育館へ残っている。
しかし山村にとって、坂柳は何が起きても動じない冷静さの象徴だったのだろう。
その坂柳がいない状況で、山村は一人きりで恐怖に耐えていた。
視聴覚室の中央には、大型の装置が設置されていた。
山村と佐藤の足元から伸びる細い線は、どちらも中央の装置へ接続されている。
片方を動かせば、もう片方が危険になる。
一人を先に助けようとすれば、もう一人へ残された時間が減少する。
その配置は、まるで山内がこちらへ問いかけているようだった。
Aクラスと堀北クラスのどちらを優先するのか。
普段は目立たない山村と、明るく交友関係の広い佐藤のどちらを先に救うのか。
坂柳のクラスメイトか、オレたちのクラスメイトか。
龍園はその構図を理解し、低く舌打ちした。
「チッ……今度はクラス同士を比べさせる気かよ」
鬼龍院が静かに頷く。
「そうだろうな。感情や所属によって救助の優先順位を乱させるための配置だ」
高円寺は不快そうに肩を竦める。
「実に醜い趣向だねぇ」
その言葉を聞いた佐藤が、さらに身体を震わせた。
「助けて……お願い……。私、死にたくない……」
山村も涙を浮かべながら、震える声で訴えた。
「わ、私も……まだ、死にたくありません……」
山村の声はあまりにも弱く、視聴覚室の暗がりへ消えてしまいそうだった。
それでも、その言葉は確かにオレたちへ届いた。
龍園は笑わなかった。
二人の足元と中央の装置を見比べ、低く呟く。
「……趣味が悪ぃな」
オレも同感だった。
これは単なる装置の解除ではない。
人間の価値を比較させ、誰を先に救うか選ばせるための問題だった。
山村と佐藤は互いに離れた場所で床の一点を踏み続け、
その足元には黒いケースと赤いランプが配置されている。
さらに二人の中央には、それらと接続された大型の装置が置かれていた。
鬼龍院が全体の構造を見て、静かに呟く。
「片方だけを動かせば、中央の仕掛けが反応する。
二人をほぼ同時に解放する必要があるようだな」
石崎が頭を抱えた。
「そんなの無理ゲーじゃねぇっすか!」
龍園は視聴覚室の広さを確認するように周囲へ目を走らせる。
「しかも部屋が狭ぇ。大勢で入れば、別の仕掛けへ触れる可能性もある」
「人数は絞った方がいいだろうな」
鬼龍院が同意する。
高円寺は二人の足元ではなく、視聴覚室全体をゆっくりと見回していた。
やがてスクリーンの方へ視線を向け、僅かに笑う。
「……ほぅ」
その声とほぼ同時に、オレも異物へ気づいた。
室内正面には、黒い大型スクリーンが下ろされている。
その中央部分に、不自然な小さな穴が開いていた。
穴の奥には丸いレンズがあり、赤い光が微かに点滅している。
監視用のカメラだった。
「見つけたか」
龍園が低く言う。
高円寺は余裕の笑みを浮かべた。
「随分と堂々と設置したものだねぇ」
鬼龍院もレンズを見据える。
「少なくとも、この部屋の様子を確認するための監視装置だろう」
龍園はスクリーンの中央へ向けて声を張った。
「おい、山内。聞こえてんだろ」
校内放送から返事はなかった。
しかし、カメラの赤いランプだけは一定の間隔で静かに点滅している。
その光は、画面の向こうにいる誰かが
今もオレたちを見つめ続けていることを、無言のまま示しているようだった。
一日一話で三作品を投稿するのは多いですか?
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いいぞ、どんどんやれ
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多い!読みきれない