視聴覚室の空気は、異様なほど重く沈んでいた。
停電によって通常の照明はすべて消え、
室内を照らしているのは非常灯の赤い明滅だけだった。
その不規則な光が巨大なスクリーンや並べられた机、
そして床へ縛りつけられるように立たされている二人の少女を、
途切れ途切れに浮かび上がらせている。
山村美紀と佐藤麻耶は、互いに離れた位置で床の一点を踏み続けていた。
二人の足元には黒い装置が固定され、
中央にはそれらを繋ぐように大型の装置が設置されている。
赤いランプは一定の間隔で点滅し、
短い電子音だけが視聴覚室の静寂を不気味に刻んでいた。
山村は小さく震えている。
普段の彼女は、Aクラスの中でも決して目立つ方ではない。
大声を出すことも少なく、いつも坂柳有栖の少し後ろで、
周囲の空気へ溶け込むように静かに立っていた。
そんな山村が今は顔を真っ青にし、
床の一点から足を離せないまま、必死に身体の均衡を保っている。
長時間同じ姿勢を強いられていたためか、
膝は限界に近づき、小刻みに震え続けていた。
一方の佐藤麻耶も、唇を強く噛み締めながら涙を堪えていた。
感情を内側へ閉じ込める山村とは違い、佐藤は恐怖も不安も表情に出やすい。
普段なら明るく友人たちと話している彼女が、
今は助けを求めることさえ躊躇うように、怯えた目でオレたちを見つめている。
「綾小路くん……」
佐藤が掠れた声を漏らした。
「助けて……」
その言葉が、妙に胸へ残った。
佐藤はかつてオレへ好意を寄せていた。
今はもう当時と同じ距離ではないが、極限まで追い詰められた人間は、
最も頼りたい相手の名を無意識に呼ぶことがある。
佐藤にとって、その相手がオレだったのだろう。
「助ける」
オレがそう答えると、佐藤の目にほんの僅かな光が戻った。
しかし、鬼龍院楓花は中央の装置を見つめたまま、すぐに現実を突きつけた。
「簡単ではない」
その一言によって、室内の空気はさらに重くなる。
龍園翔が低く舌打ちした。
「チッ……何がどう繋がってる」
鬼龍院は二人の足元から伸びる線と中央装置、
さらに天井側へ続く別の配線を順番に確認した。
換気口付近にも不自然な線があり、
床だけを見ていれば見落としてしまうような位置へ巧妙に隠されている。
「一つの仕掛けだけではない。
二人の足元、中央、そして天井側まで連動している」
石崎大地が頭を抱えた。
「もう意味分かんねぇよ……!」
「黙ってろ」
龍園が吐き捨てる。
鬼龍院は冷静さを失わず説明を続けた。
「片方だけを解放して終わりではない。
どちらか一方へ大きな変化が起きれば、別の場所も反応する可能性が高い。
二人を助けるなら、ほぼ同じタイミングで動かす必要がある」
その言葉で、視聴覚室が静まり返った。
一秒でも大きくズレれば、何が起こるか分からない。
高円寺六助は腕を組んだまま室内全体を眺め、興味深そうに目を細めた。
「随分と繊細な趣向だねぇ」
龍園が鼻で笑う。
「お前向きじゃねぇのか?」
「もちろん私向きだとも」
高円寺は自信たっぷりに答えたが、すぐに表情を少しだけ引き締めた。
「ただし問題は、仕掛けだけではない。あの二人の身体も、既に限界が近いようだ」
山村の肩がさらに震え、佐藤は涙を堪えながら弱々しく言った。
「ご、ごめん……。もう足の感覚がなくて……」
山村も同じなのだろう。
長時間同じ姿勢を保ち続け、極度の緊張と精神的な疲労に耐えている。
人間の身体は、恐怖だけで永遠に立ち続けられるようにはできていない。
「山村」
オレが呼びかけると、山村はゆっくりと顔を上げた。
「坂柳は無事だ。お前を助けるために動いている」
山村の目に涙が浮かぶ。
「坂柳さん……」
彼女にとって、坂柳有栖の存在は絶対に近いものなのだろう。
その名を聞いただけで、崩れかけていた精神が辛うじて繋ぎ止められた。
その時、天井のスピーカーからノイズが流れ、山内春樹の笑い声が響いた。
『いいねぇ。実にいい』
誰も口を開かなかった。
『AクラスとBクラス。坂柳側と綾小路側。
しかも、一人は普段あまり目立たなくて、もう一人はそこそこ目立つ。
最高の組み合わせだろ?』
龍園の目が鋭くなる。
『主役じゃない奴ら。でも、ちゃんと生きてる奴ら。
そういう奴らが危ない時って、一番困るんだよな』
山内は笑っていた。
しかしその笑いの奥には、嫉妬や怨念、
そして長く抱え込んできた孤独が滲んでいた。
『なぁ、お前らはちゃんと覚えてるか?山村と佐藤なんて、
普段は陰キャとか陽キャとか、そういう雑な分け方をされてるだけだろ。
それが危ない状況になった瞬間、急に命の価値が出てくる。笑えるよな』
佐藤が苦しそうに顔を歪め、山村も俯いた。
山内は止まらない。
『俺も同じだった。退学するまでは、誰も俺のことなんか本気で見てなかった。
なのに消えるって決まった瞬間だけ、急に空気が変わった。
心配するふり、悲しむふり、止めるふり。全部遅ぇんだよ』
視聴覚室が静まり返る。
山内のやっていることは間違っている。
だが、彼が感じていた疎外感まで完全な嘘だと言い切ることもできない。
それこそが、この学校の最も嫌な部分だった。
『だから選べよ。どっちを先に助ける?坂柳の駒か、佐藤麻耶か』
そこで山内は、再びオレの名を呼んだ。
『綾小路。お前ならどっちを優先する?』
空気が変わる。
山内は最初から、オレを中心に見ている。
龍園が低く言った。
「お前に執着しすぎだろ」
「ああ」
「普通じゃねぇ」
鬼龍院も僅かに眉を寄せる。
「一体どこから見ている……」
その時、佐藤の足元で短い電子音が鳴った。
赤いランプが一瞬だけ強く光り、佐藤が小さく悲鳴を上げる。
「ひっ……!」
呼吸が一気に乱れ、身体の均衡まで崩れ始めていた。
「佐藤」
オレは声を張る。
「呼吸を整えろ」
「で、でも……!」
「今、お前が焦れば本当に終わる」
佐藤の目から涙が零れた。
「怖いよ……!死にたくない……!」
その叫びが、室内の緊張をさらに強くする。
山村も怯えた目で佐藤を見ていた。
佐藤が崩れれば、自分も巻き込まれる可能性がある。
そのことを理解しているからこそ、彼女の恐怖もさらに膨らんでいた。
龍園が低く舌打ちする。
「チッ。先に限界が来るのは佐藤の方か」
鬼龍院も頷く。
「精神的にも肉体的にも、崩れる危険は佐藤の方が高い」
高円寺が佐藤へ目を向ける。
「なら、まずは彼女の身体を支えた方がいいだろうねぇ」
オレは視聴覚室全体を見渡した。
床には椅子や机、音響機材のケース、金属製の収納箱が残されている。
スクリーンの脇には重い台座もあった。
使える物は限られているが、何もないわけではない。
「龍園」
「何だ」
「椅子を使う。完全に動かすんじゃない。まずは佐藤の負担を減らす」
鬼龍院が小さく頷く。
「悪くない」
龍園は近くの椅子へ手を伸ばしたが、
金属が床へ触れた瞬間、中央装置のランプが強く光った。
全員の動きが止まる。
「動くな」
鬼龍院が低く言った。
数秒の静寂の後、ランプは元の状態へ戻る。
石崎の顔から血の気が引いた。
「お、おい……!」
「室内の振動にも反応している」
鬼龍院はそう判断した。
「雑に動けば危険だ」
龍園は舌打ちしながらも、今度は珍しいほど慎重に椅子を床へ置き直した。
その時、山内の放送が再び鳴る。
『慎重だなぁ。でも、お前ら時間って知ってる?』
直後、視聴覚室の壁に埋め込まれていた表示が点灯した。
そこには残り時間を示す数字が浮かんでいる。
【00:14:28】
石崎が絶句した。
「時間制限まであんのかよ!?」
『当然だろ。永遠に悩めたら簡単すぎる。あと十四分だ。頑張れよ』
放送が切れ、赤い数字だけが室内に残った。
時間制限が明確になった瞬間、
佐藤の呼吸は再び速くなり、山村の震えも強くなる。
人間は、ただ恐怖に耐えるだけでも壊れやすい。
そこへ残り時間という数字を突きつけられれば、精神は一気に追い詰められる。
龍園がオレへ視線を向けた。
「綾小路。お前、もう何か考えてんだろ」
「少しはな」
「なら言え」
オレは室内をもう一度見回した。
山内の仕掛けは、必ずこちらへ選択を迫る形になっている。
だが、最初から絶対に解けない問題なら、わざわざ試験のような形にする意味がない。
山内は、オレたちが悩み、誰かを選び、誰かを切り捨てる姿を見たいのだ。
つまり、この部屋には突破口がある。
その時、高円寺がスクリーンの側へ歩き、裏側へ手を伸ばした。
「……ほぅ」
彼はそこから細い線を引き出した。
伊吹が眉を寄せる。
「何それ」
「視線を誘導するための偽物だねぇ」
鬼龍院が目を細めた。
「中央へ意識を集めるためか」
オレもようやく構造の意図へ辿り着く。
「違うな」
龍園が聞き返す。
「何がだ」
「これは最初から、二人のどちらかを選ぶ問題じゃない」
全員がこちらを見る。
「山内は、俺たちがどちらかを切り捨てると思い込むように作っている。
比較そのものへ意識を集中させることで、
本当に見るべき場所から目を逸らさせている」
佐藤と山村の顔が強張る。
「じゃあ……二人とも助かるの……?」
佐藤が震える声で尋ねた。
「本命は別にある」
オレがそう答えた直後、山内の放送が鳴った。
今度の声には、はっきりと苛立ちが混じっている。
『……なんで気づくんだよ』
初めて、山内の余裕が明確に崩れた。
これまで彼は、放送と仕掛けと恐怖を使い、すべてを自分の掌の上で転がしていた。
だが今、初めて想定外が生まれた。
龍園が口角を吊り上げる。
「やっと化けの皮が剥がれてきたな」
その目には、獲物の隙を見つけた捕食者のような鋭さがあった。
伊吹が中央装置を睨む。
「じゃあ、あれは全部偽物ってこと?」
「完全な偽物ではない。だが、二人を比べさせるための囮に近い」
鬼龍院も頷く。
「山内は、こちらへ選別をさせたい。AクラスかBクラスか、山村か佐藤か。
どちらを優先するかで揉めさせ、その過程を見たいのだろう」
山村と佐藤は、そこで自分たちが比較対象として配置されたことを理解した。
高円寺はスクリーンの裏を眺めながら、楽しそうに笑う。
「フッフッフ。人間を比べること自体が目的とはねぇ」
龍園が低く言う。
「この学校らしいじゃねぇか」
その皮肉は重かった。
この学校は、常に比較の上に成り立っている。
クラス、点数、能力、価値、そして退学。
山内は、それらを極端な形へ置き換えただけだった。
スピーカーの向こうで、山内が乾いた笑いを漏らす。
『そうだよ。そういう学校だろ、ここ。お前らだってずっとやってきたじゃん。
使える奴、使えない奴、残す奴、切る奴。
それを俺にやったこと、忘れたわけじゃねぇよな?』
龍園は笑わなかった。
ただ、暗い室内を睨みながら小さく舌打ちする。
その時、佐藤の足元のランプが再び強く点滅した。
佐藤の呼吸が乱れ、限界が近づいていることが誰の目にも分かった。
「佐藤。こっちを見ろ」
オレが声をかけると、佐藤は涙に濡れた顔を上げた。
「中央の装置は、見せるための罠に近い。だから今は、まず呼吸を整えろ」
「でも……怖い……」
「分かってる。だが、一之瀬や軽井沢なら何と言う」
佐藤の目が揺れる。
軽井沢。
友人であり、同じクラスで、今も体育館に残っている仲間だ。
佐藤は必死に呼吸を整えようとする。
すると山村が、震えながらも小さな声を出した。
「佐藤さん……一緒に頑張りましょう……」
声は弱かったが、確かに佐藤へ届いた。
佐藤は涙を流しながら、小さく頷いた。
「う、うん……」
鬼龍院は床の影へ目を凝らしていた。
やがて、彼女の声が少し低くなる。
「見つけた」
全員の視線が集まる。
鬼龍院が指差した先には、中央へ繋がっているように見えた線があった。
しかしよく見ると、途中で天井側へ分岐している。
「本命は上だ。中央は視線を集めるための囮で、
本当に二人を繋いでいるのは天井側の仕掛けだろう」
高円寺が笑う。
「なるほど。下ばかり見せて、上を見落とさせるわけか」
石崎が頭を抱える。
「性格悪すぎだろ……!」
『うるせぇな』
山内が吐き捨てた。
『お前ら、なんでそんなに冷静なんだよ』
その声には、はっきりと焦りが滲んでいた。
オレはそこで、さらに違和感を覚える。
山内の反応は近すぎる。
こちらの思考へ被せるように言葉を返してくる。
監視カメラだけなら、ここまで正確に内面の変化を読むことは難しい。
誰かを介しているなら反応が早すぎる。
なら、山内はもっと直接的な方法でオレを見ている。
『綾小路。今、また考えただろ』
龍園が低く言った。
「カメラだけじゃねぇ。盗聴器も仕込まれてんじゃねぇか?探してみろ」
オレは制服やズボンなど丁寧に調べてみるが、何も見つからない。
そして内心では、複数の違和感が少しずつ積み重なっていた。
朝の食事で感じた妙な味。
山内の異常な観測精度。
そして、まだ説明できない身体の違和感。
答えには届かないが、何かが確かに引っかかっている。
その時、上階で何かが崩れる音が響き、視聴覚室全体が大きく揺れた。
佐藤が悲鳴を上げ、山村も肩を震わせる。
天井の隙間から白い粉塵が降り注ぎ、遠くからは物が燃える音が聞こえてきた。
鬼龍院が天井を見上げる。
「まずいな。火が回り始めている」
南棟そのものが危険になりつつある。
「時間がない。本命を確認する」
オレが言うと、鬼龍院が頷いた。
「天井裏を見る必要がある」
龍園はスクリーン脇の換気口へ目を向ける。
「そこから配線が通ってるのか」
「おそらく」
位置は高く、普通なら簡単には届かない。
だが、高円寺は楽しそうに笑った。
「仕方ないねぇ」
彼は近くの机を踏み台にして、一気に換気口付近まで跳び上がった。
空中で縁を掴み、そのまま片腕だけで身体を支える。
石崎が声を裏返らせる。
「身体能力どうなってんだよ……!」
龍園ですら、僅かに呆れた顔をしていた。
高円寺は換気口の内部を覗き込み、やがて口角を上げる。
「見つけたよ。本命だ」
換気口の奥には、中央の大型装置よりも小さい機器が隠されていた。
規模は小さいが、そこへ集まっている線の数は明らかに多い。
「二人の足元から来る信号は、ここで一度まとめられている。
中央に見える物より、こちらの方が重要だねぇ」
鬼龍院が目を細める。
「片方だけを動かせば、もう片方へ影響が出る仕組みか」
佐藤の顔が青ざめる。
「じゃ、じゃあ……」
「安心したまえ。まだ終わっていない」
高円寺は余裕を崩さなかった。
放送から山内の苛立った声が響く。
『……なんでそこまで見つけるんだよ』
龍園が口角を吊り上げる。
「余裕がなくなってきたか?」
『うるせぇ』
「図星かよ」
龍園は低く笑った。
しかし、その笑顔はいつもの軽いものではない。
相手の揺らぎを見逃さず、さらに追い詰めようとする捕食者の目だった。
山内は再びオレへ言葉を向けた。
『綾小路。お前、昔からそうだったよな。
全部見抜いて、全部壊して、全部正解を出す。だから嫌いだった』
その声には怒りと嫉妬、そして拭いきれない劣等感が混じっていた。
『お前だけは、ずっと選ぶ側だった。切る側だった。
だから今度は、お前が選ばれる側になれよ』
視聴覚室が静まり返る。
山内の執着は、学校への復讐だけではない。
その中心には、オレがいる。
『お前がどんな顔で壊れるのか、ずっと見たかったんだよ』
違和感がさらに強くなる。
山内は、何度も「見ている」と口にする。
監視している。
観察している。
しかも、異常なほど近い。
どこから、どんな方法で見ているのか。
答えはまだ出ないが、何かがもうすぐ繋がりそうだった。
その時、高円寺が換気口の中から声をかける。
「綾小路ボーイ。どうやらこれは、どちらを助けるかの問題ではなく、
どちらも同時に助けられるかを試しているようだねぇ」
鬼龍院が静かに頷いた。
「つまり、比較する必要自体がない」
龍園が低く笑う。
「選ばせるように見せて、最初から答えは別ってわけか」
オレは中央装置を見据えた。
「山内は、オレたちが誰かを切り捨てる姿を見たかった」
少し間を置き、続ける。
「だが、その前提ごと壊す」
室内の空気が変わった。
山内が仕掛けた比較そのものを否定する。
それが、今のオレたちの答えだった。
山村か佐藤か。
AクラスかBクラスか。
坂柳側か堀北クラスか。
その比較へ引きずり込み、一人を優先した瞬間に、もう一人の恐怖を最大化する。
だが答えは、どちらかを選ぶことではない。
二人を同時に救う。
それだけだった。
「……そんなこと、本当にできるの……?」
佐藤が震える声で尋ねた。
その表情には希望と恐怖が同居している。
助かる可能性が見えたことで、かえって失敗への恐怖が強まっているのだろう。
山村も涙を堪えながらこちらを見ていた。
「坂柳さん……」
彼女はここにいない坂柳の名を呼ぶことで、自分の精神を繋ぎ止めている。
オレは二人へ言った。
「できるかどうかじゃない。やるしかない」
龍園が喉の奥で短く笑う。
「言うじゃねぇか」
だが、その目は笑っていない。
視聴覚室の広さ、床の状態、二人の距離、
火の回り、天井側の仕掛け、そして山内の監視。
龍園はすべてを測っていた。
彼は力任せに暴れるだけの男ではない。
危険を嗅ぎ分ける勘と、相手の隙を見抜く鋭さを持っている。
鬼龍院は天井側を見上げながら役割を整理した。
「二人の負担を同時に減らす者が必要だ。
天井側の反応を見る者も要る。
周囲の揺れを抑え、二人の精神を保つ役も必要になる」
石崎が顔を引き攣らせる。
「俺、何すればいいっすか……?」
龍園が顎をしゃくった。
「黙って重い物を運べ」
「それ、重要なんすか!?」
「重要だ」
鬼龍院が淡々と答える。
石崎は驚いた顔をした後、慌てて頷いた。
「は、はい!」
伊吹は佐藤の側へ移動する。
「佐藤」
「え……?」
「泣きそうになっても、私の顔は見るな」
「え?」
「余計に怖くなるでしょ」
佐藤は一瞬だけ呆気に取られ、その後、僅かに表情を緩めた。
「伊吹さんって、優しいのか冷たいのか分かんないね」
「冷たい方よ」
伊吹は即答した。
だが、その短いやり取りによって佐藤の呼吸は少し落ち着いた。
極限状態では、優しい言葉だけが人を救うとは限らない。
普段通りの皮肉や不器用な会話が、人間を日常へ引き戻すこともある。
山村の側にはアルベルトが立った。
その大柄な身体は、薄暗い視聴覚室の中で壁のように見える。
山村は最初こそ僅かに怯えたが、アルベルトが何も言わず静かに頷くと、
彼女も返すように小さく頷いた。
派手な励ましではない。
それでも、そこには確かな安定感があった。
高円寺は換気口の縁へ片腕でぶら下がったまま、
天井側の仕掛けを観察している。
普通なら数秒で限界になる姿勢だが、
彼は退屈な読書でもしているような顔を崩さない。
「なかなか芸の細かい趣向だねぇ。だが、美しさが足りない」
龍園が下から言う。
「評論してねぇで、使える情報を寄越せ」
「せっかちな男だ」
高円寺は楽しそうに笑った後、
二人の足元から来る反応が天井側で一度まとめられていることを説明した。
つまり、足元だけを誤魔化しても不十分であり、
二人の動きを揃えた上で、天井側の反応も抑える必要がある。
石崎が小声で呟く。
「日本語なのに全然分かんねぇ……」
「理解しなくていい」
龍園が言う。
「言われた通りに動け」
「それはそれで怖ぇっす……」
オレは室内に残された物を確認した。
机や椅子、音響機材のケース、金属製の収納箱、スクリーン脇の重い台座。
二人の負担を同時に減らすためには、左右でほぼ同じタイミングが必要になる。
片方だけが先に軽くなれば、天井側が変化を検知する可能性がある。
だからこそ、二人の動きも、周囲の支えも、すべてを揃えなければならない。
「高円寺。タイミングを読めるか」
「当然」
即答だった。
「私の感覚を疑うのかい?」
「疑っていない」
「ならよろしい。合図は私が出そう」
鬼龍院も頷く。
「私は天井側の反応を見る。異常が出れば止める」
龍園が口を挟む。
「止めて間に合うのか?」
「間に合わせる」
鬼龍院の声には迷いがなかった。
その時、山内の放送が再び鳴った。
『作戦会議は終わったか?』
視聴覚室の空気が凍る。
山内の声には、苛立ちが混じっていた。
『お前ら、本当に気に食わねぇな。俺はどっちを選ぶか見たかったんだよ。
山村か佐藤か、AかBか。目立たない奴か、普通に可愛い奴か』
佐藤の顔が歪み、山村も俯く。
『なのに何だよ。どっちも助ける?綺麗事か?』
一之瀬なら、迷わず二人とも助けると言っただろう。
堀北なら、それを可能にする方法を考えた。
坂柳なら、最初から山内の意図を読んだ。
龍園なら、罠の構図ごと潰そうとした。
高円寺なら、自分の美学に従って動いた。
鬼龍院なら、観察によって答えへ辿り着いた。
誰か一人の力ではない。
今この場にいる複数の人間の実力が重なり合い、山内の想定を崩している。
『綾小路。お前、またそうやって正解を出すのかよ』
「正解とは限らない」
『は?』
「やってみるまで分からない」
山内が黙る。
『……お前がそんなこと言うのかよ』
声が僅かに揺れた。
オレは続ける。
「ここにいる全員でやる。オレ一人で出した答えじゃない」
その瞬間、室内にいる全員が僅かにこちらを見た。
山内はしばらく黙った後、吐き捨てるように言った。
『気持ち悪ぃ。今さら仲間ごっこかよ』
「そう見えるなら、それでいい」
山内は返事をしなかった。
だが、苛立っていることは分かる。
彼は、オレが一人ですべてを処理する姿を見たかったのだろう。
孤独な天才。
他人を駒として扱い、必要なら切り捨てる男。
そのオレが、他人の力を前提に動いている。
それが山内には許せないのだ。
「始める」
オレが告げると、全員が一斉に動き始めた。
石崎は重い音響機材のケースを抱え、顔を真っ赤にしながら運ぶ。
「お、重ぇ……!」
「落としたら殺すぞ」
龍園が低く言う。
「怖ぇっすよ!」
「怖がってる暇があったら持て」
石崎は顔を引き攣らせながらも、必死に役目を果たした。
佐藤側には伊吹、山村側にはアルベルトがつく。
鬼龍院は中央から全体の反応を見上げ、高円寺は天井側に残る。
龍園は必要に応じて動ける位置へ立ち、室内の揺れや配置を見ていた。
オレは二人の間へ立つ。
「佐藤」
「は、はい……」
「山村」
「……はい」
「今から負担を移す。合図があるまで、勝手に動くな」
二人は顔を青ざめさせたまま頷いた。
当然だ。
自分の足元で、命が決まる。
高円寺が天井側から声をかける。
「準備はいいかい?」
鬼龍院が答える。
「いつでも」
龍園が低く言った。
「しくじるなよ」
「それは君たちもだ」
【00:09:12】
残り9分。
高円寺は余裕を崩さなかった。
壁の表示では、残り時間が一桁台へ近づいている。
まだ時間があるように見えて、実際にはほとんど余裕がない。
一度大きく失敗すれば、やり直せない可能性が高い。
高円寺がゆっくりと数を数え始める。
その声は穏やかで、室内の緊張と対照的だった。
伊吹が佐藤の足元へ支えを近づけ、アルベルトが山村側の位置を合わせる。
石崎は汗だくになりながらケースを支え、
龍園は机や機材が不用意に動かないよう押さえている。
鬼龍院は天井側の小さな変化を見逃さないよう、視線を固定していた。
佐藤の呼吸が乱れる。
「佐藤。呼吸を止めるな」
「う、うん……」
山村の膝も震えている。
「山村。坂柳は、お前が戻るのを待っている」
山村の目に涙が浮かんだ。
それでも、彼女は踏みとどまる。
少しずつ支えが近づき、ランプの点滅が変化する。
鬼龍院が低く言った。
「止めろ」
全員の動きが止まる。
数秒後、反応が元へ戻る。
「続けていい」
高円寺の声が響く。
佐藤が泣きそうになる。
「無理……」
「無理じゃない」
伊吹が即座に返した。
「今まで耐えたんでしょ。あと少し耐えなさい」
佐藤は歯を食いしばる。
山村も、自分へ言い聞かせるように「大丈夫」と小さく呟いた。
二人の側へ置かれる支えは、ほぼ同時に位置を合わせられていく。
しかし完全ではない。
鬼龍院が僅かなズレを見抜き、伊吹へ調整を指示する。
その最中、山内の声が割り込んだ。
『おいおい、震えてるぞ佐藤。山村も限界じゃん。どっちか先に崩れるんじゃね?』
佐藤の顔が引き攣る。
「聞くな」
オレは言った。
「山内の声は無視しろ」
『無視すんなよ。お前らの命、俺が握ってんだぞ』
龍園が低く吐き捨てる。
「握ってる気になってるだけだろ」
『……うるせぇ』
「焦ってんのか?」
『黙れ』
龍園は鼻で笑った。
「声に出てんぞ」
山内は黙った。
その僅かな沈黙だけで十分だった。
彼の精神も揺らいでいる。
やがて、二人を支える物が安定した位置へ収まる。
鬼龍院が確認する。
「次は、二人を同時に離す」
室内の緊張がさらに強くなる。
ここが最も危険な瞬間だった。
一気に動けば変化が大きすぎる。
少しずつ、ほぼ同じ速度で進めなければならない。
「佐藤、山村。オレの声だけを聞け。焦って動くな」
二人は涙を浮かべながら頷いた。
高円寺の合図に合わせ、二人の足がほんの僅かに浮く。
鬼龍院がすぐに止める。
「そのまま」
二人は呼吸まで止めそうになる。
「息をしろ」
佐藤が震えながら息を吐き、山村も小さく吸い込む。
さらに少しずつ動く。
ランプの点滅が激しくなり、石崎は叫びそうになるのを必死に堪えた。
龍園が目だけで睨み、高円寺は天井側の反応を見続ける。
そして、二人の足が完全に離れた。
数秒が経過する。
何も起こらない。
しかし、天井側の赤い光が突然強くなった。
鬼龍院が声を上げる。
「上だ!」
高円寺は片腕で身体を支えたまま、もう片方の手を伸ばした。
「任せたまえ」
彼は天井側の機器の動きを抑え、反応が広がらないよう瞬時に対応する。
具体的な構造を完全に把握していたわけではない。
だが、その一瞬の判断と異常な身体制御によって、
赤い光は徐々に弱まり、やがて消えた。
電子音も止まる。
視聴覚室が静まり返った。
誰も動けない。
さらに数秒が過ぎても、何も起こらなかった。
佐藤は膝から崩れ落ちる。
「た……助かった……?」
山村もその場へ座り込み、両手で顔を覆った。
声にならない泣き声が漏れる。
伊吹が佐藤を支え、アルベルトが山村を受け止める。
石崎も力が抜けたように床へ座り込んだ。
「し、死ぬかと思った……!」
龍園は深く息を吐く。
「チッ。手間かけさせやがって」
しかし、その声には先ほどまでの鋭さがなかった。
高円寺は換気口から軽々と降り立ち、いつものように髪を整える。
「美しく解決したねぇ」
鬼龍院は静かに言った。
「合格だな」
その時、校内放送が鳴った。
山内の声が聞こえたが、しばらく何も言わなかった。
長い沈黙の後、ようやく低い声が漏れる。
『……つまんねぇ』
それは初めて、はっきりと負け惜しみに聞こえた。
『なんで選ばねぇんだよ。なんで切らねぇんだよ。お前ら、そういう学校の人間だろ』
誰も答えなかった。
山内の声がさらに低くなる。
『綾小路。お前は絶対に切る側だと思ってた。なのに何なんだよ』
オレは静かに答える。
「必要がなかっただけだ」
山内は黙った。
「選ばなくていいなら、選ばない。それだけだ」
沈黙の向こうには怒りがあり、同時に焦りもあった。
やがて山内は低い声で告げる。
『……次で終わらせる。お前らがどれだけ足掻いても、最後は絶対に壊してやる』
そこで放送は切れた。
視聴覚室には、助かった二人の泣き声だけが残った。
だがオレの中では、別の違和感がさらに強くなっていた。
山内の監視。
近すぎる視線。
朝食で感じた妙な味。
そして、さっきから微かに続いている身体の重さ。
まだ答えにはならない。
それでも、確実に何かがそこにあった。
一日一話で三作品を投稿するのは多いですか?
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いいぞ、どんどんやれ
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多い!読みきれない