実力教室大爆破   作:EXTERMINATION

8 / 10
第八話 中央管理棟へ

視聴覚室には、しばらく誰の声も響かなかった。

 

山村美紀はアルベルトに支えられたまま床へ座り込み、

佐藤麻耶も伊吹澪の腕へ縋りつきながら、肩を震わせて泣いていた。

 

二人とも助かった。それだけは間違いない。

 

しかし、助かったからといって、すぐに恐怖から立ち直れるわけではなかった。

自分の体重が少し移動しただけで、足元の装置が作動するかもしれない。

そんな状況へ長時間置かれていたのだから、足の震えも涙も簡単に止まるはずがない。

 

「……もう、大丈夫なの?」

 

佐藤が掠れた声で尋ねると、

彼女の身体を支えていた伊吹は、いつものぶっきらぼうな口調で答えた。

 

「今すぐ何かが起きる状態ではないわ。

それを大丈夫って言うのかは知らないけど」

「……伊吹さん、そういう言い方をされると余計に怖いよ」

「だったら泣くのをやめなさい」

「そんなの無理だよぉ……」

 

佐藤は泣きながらも、僅かに息を吐いた。

 

完全に恐怖が消えたわけではない。

それでも伊吹と言葉を交わしたことで、

恐怖の中へ沈みきることだけは避けられていた。

 

一方の山村は、まだ声を出せずにいた。

小さく震えながら両手で顔を覆い、自分の呼吸を取り戻そうとしている。

 

アルベルトは何も言わず、その隣に立ち続けていた。

 

慰めの言葉を無理にかけることも、立ち上がるよう急かすこともしない。

ただ傍にいるという選択をしている。

 

今の山村には、それだけで十分なのかもしれなかった。

 

視聴覚室の奥では、龍園翔が放送の切れたスピーカーを睨みつけていた。

 

その顔に笑みはない。

 

苛立ちと警戒、そして山内春樹という相手に対する

興味が複雑に混ざり合った目をしている。

 

「次で終わらせる、ねぇ」

 

龍園は吐き捨てるように呟いた。

 

「追い詰められた奴が、よく口にする台詞だな」

 

鬼龍院楓花は、天井裏から伸びている配線を見上げたまま静かに答える。

 

「だが、油断はできない。

追い詰められて感情が揺らいだ人間ほど、極端な手段を選びやすいからな」

 

高円寺六助は、乱れた髪を指先で整えながら悠然と笑っていた。

 

「人間は追い詰められてこそ、本性を露わにするものだよ。

ただし山内ボーイに関しては、最後まで美しさを見つけられそうにないのが残念だねぇ」

 

少し離れた場所では、石崎大地が床へへたり込んだまま、力なく笑っていた。

 

「いや……もう勘弁してくださいよ。

俺、今日一日だけで一生分は怖い思いしてるんすけど……」

 

龍園は石崎へ顎をしゃくる。

 

「立て」

「えぇ……」

「まだ終わってねぇぞ」

「それは分かってますけどぉ……」

 

石崎は情けない声で文句を漏らしながらも、両手を床へついて立ち上がった。

 

足はまだ震えている。

 

それでも逃げずに立ち上がるのは、ただ龍園の命令へ従っているからだけではない。

この場から一人で逃げ出したところで、

どこにも安全などないことを石崎自身も理解しているからだろう。

 

オレは視聴覚室の入口へ目を向けた。

 

山村と佐藤は、まだ自力で体育館まで戻れる状態ではない。

二人を安全な場所へ移動させるには、誰かの支えが必要だった。

 

「南雲先輩へ連絡できるか?」

 

オレが尋ねると、鬼龍院は首を横へ振った。

 

「通常の通信は、まだ安定していない。

ただし南雲が動かしている三年生なら、廊下の先にいるはずだ」

「私が呼びに行く」

 

伊吹が言うと、龍園が僅かに目を細めた。

 

「一人で行くつもりか?」

「すぐそこよ」

「近くても、途中に別の罠があるかもしれねぇ」

「だったら石崎を連れていく」

「俺!?」

 

突然名前を出された石崎の声が裏返った。

 

伊吹は冷たい目で彼を見る。

 

「何かあったら盾くらいにはなるでしょ」

「扱いがひどくない!?」

 

龍園は二人のやり取りを見て鼻で笑った。

 

「行け」

「マジっすか……」

 

石崎は半泣きになりながらも、伊吹の後について視聴覚室を出ていった。

 

室内に残ったのは、オレと龍園、高円寺、鬼龍院、アルベルト。

そして山村と佐藤だった。

 

部屋の中には、まだ焦げた臭いが残っている。

 

天井裏に設置されていた小型装置は既に沈黙していたが、

そこに存在するだけで視線を引き寄せた。

 

校内には、あと何個の仕掛けが残っているのか。

 

山内がどこまで学校を掌握し、何を準備しているのか。

事件の全貌は、いまだに見えない。

 

その時、胃の奥へ僅かな重さを感じた。

痛みではない。吐き気とも違う。

身体の内側に、何か小さな異物が残っているような感覚だった。

 

同じ違和感は、朝食後にも一度だけあった。

あの時は気にするほど強くなかったため、単なる体調の変化として処理していた。

 

しかし、今は状況が違う。

山内が見せてきた異常な監視精度。

 

オレに対する執着。

 

どこにいても、すぐ近くから見られているような感覚。

そして、朝から胃の奥へ残り続けている違和感。

それらが、まだ明確な形にはならないまま、頭の中で一つへ繋がりかけていた。

 

「おい」

 

龍園がこちらを見る。

 

「また妙な顔してんぞ」

「そうか」

「山内が見てたら、喜びそうな顔だな」

「それは嬉しくないな」

 

龍園は目を細めた。

 

「お前、何かに気づきかけてんだろ」

「まだ仮説と呼べる段階にも達していない」

「なら、さっさと形にしろ」

「急かされて答えが出るなら、誰も苦労しない」

 

龍園は不機嫌そうに舌打ちした。

 

「チッ。本当に面倒な奴だな」

 

すると高円寺が、楽しそうに会話へ割り込んできた。

 

「綾小路ボーイの思考が鈍るとは珍しいねぇ。もしかして体調不良かい?」

「少し胃が重いだけだ」

 

その言葉を聞いた瞬間、鬼龍院が僅かにこちらへ目を向けた。

 

ほんの一瞬だったが、彼女の観察眼が何かを拾ったことは明らかだった。

 

「胃に違和感があるのか?」

「ああ」

「いつからだ?」

「朝から少しだけ感じている」

 

鬼龍院はすぐには何も言わなかった。

 

しかし、その沈黙が逆に引っかかる。

 

高円寺も微笑んだまま、目だけを細めている。

 

「ほう。それはなかなか興味深いねぇ」

 

龍園が眉を寄せた。

 

「何だよ」

 

鬼龍院は慎重に言葉を選びながら答えた。

 

「山内の監視精度は、校内のカメラだけでは説明できない。

そして綾小路は、朝から胃に違和感を覚えている。

単なる偶然であればいいがな」

 

その言葉によって、部屋の空気が僅かに変化した。

 

佐藤も山村も、怯えた表情でこちらを見ている。

 

「どういうこと……?」

 

佐藤が尋ねたが、鬼龍院は答えなかった。

 

まだ確証がないからだ。

 

それはオレも同じだった。

 

考えすぎである可能性は残っている。

 

だが山内は、オレの表情の変化を読み、視線の動きまで正確に言い当てていた。

 

廊下の死角でも、停電した校舎でも、

煙の立ち込める室内でも、彼の視線はあまりにも近かった。

 

まるで、オレ自身が監視装置になっているかのように。

 

その時、スピーカーからノイズが流れ、再び校内放送が始まった。

 

『何だよ』

 

全員の視線が天井へ集まる。

 

『もう気づいたのか?』

 

その声を聞いた瞬間、心臓の鼓動が僅かに遅くなったように感じた。

 

山内は笑っている。

だが、その奥には隠しきれない動揺があった。

 

『いや、まだか。まだ完全には分かってないみたいだな』

 

龍園の目が鋭くなる。

 

「おい、山内。何を仕込んでやがる」

 

『さぁ?』

 

山内はわざとらしく笑った。

 

『自分で考えろよ。綾小路なら分かるだろ?

お前はいつも、全部分かってるような顔をしてたんだからさ』

 

オレは何も答えず、山内の声を聞き続けた。

 

『でも、今は違う』

 

彼の声が低くなる。

 

『お前は見られてる。ずっと、ずっとずっと、俺がお前を見てる』

 

佐藤の顔が青ざめ、山村の身体も再び小さく震え始めた。

山内の執着が、声を通して視聴覚室全体へ不気味に染み出してくる。

 

『お前が何を見て、誰を助けて、どんな顔で悩んで、

どんな顔で正解を出すのか。俺は全部見てる』

 

龍園が不快そうに吐き捨てた。

 

「気色悪ぃ野郎だ」

 

『うるせぇよ、龍園。お前は黙ってろ』

 

龍園の口角が僅かに上がった。

だが、それは笑みというよりも、怒りが形となって表れたものだった。

 

『綾小路。最後の問題だ』

 

山内の声が変化した。

 

それまでの歪んだ笑いが薄れ、冷たく硬い響きへ変わる。

その一方で、どこか追い詰められたような焦りも滲んでいた。

 

『中央管理棟の地下設備室。そこにメインがある』

 

視聴覚室の空気が止まる。

メインという言葉が意味するものは、一つしかない。

今回の事件を支えている中核部分だ。

 

『残り時間は四時間。ただし、安心するなよ。

地下設備室まで行く間にも、まだいくつも問題を用意してある』

 

山内は楽しそうに続ける。

 

『教師も、生徒会も、三年も、

全部使ったところで間に合うかどうか分からないけどな』

 

短い笑い声の後、山内はオレの名前を呼んだ。

 

『そして綾小路。お前だけは必ず来い。

来なければ、学校に残ってるものを全部爆破する』

 

白いノイズが混じり、声が僅かに乱れる。

 

『これは学校への復讐だけじゃない。

俺を切った全員への復讐でもある。でも、最後に一番見たいのはお前だ』

 

山内は、一語ずつ刻むように言った。

 

『お前が来い。綾小路清隆』

 

そこで放送は切れた。

 

誰も、すぐには声を出さなかった。

 

龍園がゆっくりと息を吐く。

 

「ようやく、本命が出てきたか」

 

鬼龍院も険しい表情で頷いた。

 

「中央管理棟の地下設備室は、校内インフラの中枢だ。

電力、通信、防災設備、監視系統の多くが集中している。

そこに中核となる装置があるなら、山内は学校全体を巻き込める」

 

高円寺は、この状況でも余裕を失わず微笑んでいた。

 

「なかなか派手な最後の舞台を選んだものだねぇ」

 

オレは無言のまま、頭の中で情報を整理した。

 

中央管理棟の地下設備室。

 

山内は、明確にオレを呼んでいる。

 

今回の事件において、最終的な標的として選ばれているのは綾小路清隆だ。

 

それと同時に、オレの身体へ何かが仕込まれている可能性も高まりつつある。

 

朝食で食べたヨーグルト。

 

その時に感じた僅かな味の違い。

 

胃の奥へ残る異物感。

 

そして、山内の異常なほど近い視線。

 

まだ確定したわけではない。

 

だが、確定するまで待っている時間もなかった。

 

「綾小路」

 

龍園がこちらを見る。

 

「行くんだろ?」

「ああ」

「なら、俺も行く」

「危険だぞ」

 

龍園は、今度こそ静かに口角を吊り上げた。

 

「だから行くんだよ」

 

その目にあったのは、いつもの挑発心だけではない。

 

山内に対する怒りと、この悪趣味な試験を最後まで潰すという意志。

そして、綾小路清隆という存在を利用しながらも、

その結末を自分の目で見届けようとする興味が混ざっていた。

 

「私も同行しよう」

 

鬼龍院が言う。

 

「地下設備室へ向かうなら、設備や建物の構造を読める人間が必要になる」

 

高円寺は両手を広げた。

 

「当然ながら私も同行しよう。

美しい私ほど、最後の舞台に相応しい人間はいないからねぇ」

 

そこへ、石崎と伊吹が視聴覚室へ戻ってきた。

二人の後ろには、南雲が動かしている三年生が数名ついている。

 

伊吹は部屋に漂う空気の変化を察し、眉を寄せた。

 

「また何かあったの?」

 

龍園が答える。

 

「本命の場所が分かった。中央管理棟の地下だ」

 

石崎は露骨に絶望した顔をした。

 

「まだ行くんすか……?」

「嫌なら、山村と佐藤を体育館へ運べ」

 

龍園がそう言うと、石崎は僅かに迷った。

 

そして、素直に答えた。

 

「……俺、龍園さんたちについていきます」

「だろうな」

 

伊吹は佐藤へ肩を貸した。

 

「立てる?」

「たぶん……」

「無理だと思ったら、すぐに言いなさい」

 

山村は三年生たちに支えられ、ゆっくりと立ち上がった。

 

「ありがとうございます……」

 

オレたちは視聴覚室を出た。

 

廊下では赤い非常灯が点滅を続け、遠くから警報音が鳴り響いている。

焦げ臭い風が通路を抜け、崩れた天井からは細かな埃が降っていた。

 

学校は、今も少しずつ壊れ続けている。

だが、状況の流れは僅かに変わり始めていた。

 

こちらが問題を突破するたび、山内から余裕が失われている。

 

そしてついに彼は、自分が待つ盤面へオレを呼び込んだ。

 

中央管理棟の地下設備室。

 

そこが最後の舞台になる。

 

オレは歩きながら、胃の奥へ残る重さを意識した。

 

この感覚の中に、山内がオレを見ている仕組みの答えがあるのかもしれない。

 

オレの視界の先でも、校内カメラでもない。

 

もっと近い場所。

 

近すぎる場所から、山内は見ている。

 

まだ仮説を認めるには材料が足りない。

 

だが、それが正しければ、山内はオレの身体の内側からこちらを見ていることになる。

 

 

中央管理棟へ続く廊下は、

それまで通ってきた校舎とは異なる種類の静けさに包まれていた。

 

北棟や南棟には、生徒の悲鳴や教師の怒号、火災報知器の音が残っていた。

しかし、中央管理棟へ近づくにつれて、それらの音は次第に遠ざかっていく。

 

代わりに聞こえてきたのは、低く唸るような機械音だった。

 

非常電源が稼働する音や、換気設備の不規則な振動。

そして、建物のさらに奥深くから響いてくる

金属の軋むような音が、静かな廊下へ重なっている。

 

「ここだけ、空気が違うな」

 

龍園が低く呟いた。

 

普段の余裕を感じさせる笑みは薄れ、

その顔には、危険な縄張りへ足を踏み入れた獣のような鋭い警戒心が表れている。

 

「当然だ」

 

鬼龍院が歩きながら答えた。

 

「中央管理棟は校内設備の中枢だ。

電力や通信、防火、防犯、空調、監視系統が集中している。

言ってしまえば、この学校の心臓部だ。

ここを奪われた時点で、学校側は大きく後手へ回っている」

 

高円寺は煤けた廊下を歩きながらも、

白い制服へ付着した汚れを気にするように袖を払っていた。

 

「心臓部とは実に良い表現だねぇ。

それなら我々は、これから怪物の体内へ足を踏み入れるというわけだ」

「怪物ね」

 

後方を歩いていた伊吹が吐き捨てるように言った。

 

「今の学校は、本当にそんな感じだけど」

 

山村と佐藤を三年生へ引き渡した後、石崎は結局こちらへ戻ってきていた。

 

本人によれば、龍園を残して一人で体育館へ帰るのも怖かったらしい。

 

「いや、でもマジで俺、帰ってもよかったんすよね……?」

「今さら遅ぇ」

 

龍園が短く返す。

 

「ですよねぇ……」

 

石崎は泣きそうな顔をしながらも、足だけは止めなかった。

そんな石崎を見て、伊吹が呆れたように言う。

 

「アンタ、怖がりのくせに逃げないところだけは評価できるわ」

「それ、褒めてる!?」

「半分くらいは」

「せめて全部褒めてくれよ!」

 

二人のやり取りは、普段と変わらないように聞こえる。

 

だが、誰も心から笑ってはいなかった。

 

笑える状況ではない。

 

オレは黙って歩きながら、胃の奥に残る違和感へ意識を向け続けていた。

 

痛みはなく、吐き気とも違う。

 

ただ、身体の内側に小さな異物が留まっているような感覚がある。

 

朝食のヨーグルトには、僅かな味の違いがあった。

 

その時は気に留めなかった。

 

この学校で提供される食事は厳重に管理されている。

そこへ異物が混入しているなど、通常であれば想定する必要はない。

 

だが、山内春樹は通常では考えられない手段を使っている。

 

そしてオレは、通常では説明できない監視を受けていた。

 

山内は、オレの視線を読んだ。

 

表情の僅かな変化を言い当てた。

 

停電した北棟でも、煙に包まれた南棟でも、

視聴覚室の暗がりでも、まるでオレのすぐ近くにいるように反応してきた。

 

いや、近くにいるのではない。

 

もっと近い。

 

オレ自身の身体の内側にいる。

 

その仮説が、頭の中で静かに形を作り始めていた。

 

「綾小路」

 

横を歩く龍園が声をかけてくる。

 

「ずっと考え込んでんな」

「ああ」

「例の監視についてか?」

「それもある」

「山内は、お前に何か仕込んでる」

 

龍園は断定するように言った。

 

オレは否定しなかった。

 

「その可能性は高い」

「だったら、どうするつもりだ?」

「まだ確定していない」

「確定してからじゃ遅ぇんじゃねぇのか」

 

龍園の指摘は正しい。

 

だが、今この場でできることは少なかった。

胃の中に存在するかもしれない何かを、すぐに取り出す手段はない。

 

それに、仮にオレが山内から監視されているのだとすれば、その事実は逆に利用できる。

 

山内はオレの反応を見ている。

 

オレが悩み、迷い、答えへ辿り着く姿を楽しんでいる。

 

それならば、山内に見せたいものだけを見せればいい。

 

こちらが見せたくないものは、表へ出さなければいい。

 

そう考えた瞬間、オレは僅かに視線を下げた。

 

『今、何か企んだな』

 

校内放送が鳴った。

山内の声を聞いた石崎が、驚いて肩を跳ねさせる。

 

「うわっ!」

 

龍園の目が鋭くなった。

 

「やっぱり、近すぎるな」

 

『近い?』

 

山内は楽しそうに笑った。

 

『そうだな。俺は近いぞ。誰よりも近い』

 

その言葉に、鬼龍院の表情が僅かに変わる。

 

高円寺も口元へ指を当て、興味深そうにオレを見ていた。

 

『綾小路。お前、気づきかけてるよな』

 

オレは答えなかった。

 

『でも、まだ口にはしない。確証がないからだろ?

本当にお前らしいよ。気持ち悪いくらい慎重だ』

 

龍園が低く吐き捨てる。

 

「気持ち悪ぃのは、お前の方だ」

 

『龍園、お前も来てるんだな』

 

山内の声に笑いが混じる。

 

『いいぜ。お前みたいな奴が最後にどんな顔をするのかも見てみたかった』

 

龍園は笑わなかった。

ただ、廊下に設置されたスピーカーを睨みつける。

 

「会ったら、その口を二度と開けねぇようにしてやる」

 

『やれるなら、やってみろよ』

 

山内の声が低くなる。

 

『中央管理棟の地下へ来い。

ただし、そこへ行くには一つ通らなきゃならない場所がある』

 

通路の先に、分厚い防火扉が見えてきた。

 

普段は閉ざされている管理区域へ続く扉で、

その上部にあるランプは赤く点滅している。

 

『防火隔壁だ。そこを越えれば地下へ続く階段がある。

でも今、その扉はロックされてる』

 

石崎が露骨に顔を引き攣らせた。

 

「ま、また何かあるんすか……?」

 

山内は楽しそうに笑う。

 

『扉の前に爆弾はないから安心しろよ』

 

その言い方が、かえって不気味だった。

 

『ただし、扉の向こうには一人いる』

 

「誰だ」

 

龍園が低い声で聞く。

 

山内は僅かに間を置いてから答えた。

 

『池寛治』

 

廊下の空気が止まった。

 

池寛治は山内と同じ二年Bクラスに所属し、かつて彼と親しくしていた生徒だ。

体育館で山内の声を聞いた時から、池の様子は明らかにおかしかった。

彼は山内に対する罪悪感と恐怖、そして後悔を抱え込んでいた。

 

『寛治は今、防火扉の向こう側で、ロック解除装置へ手を置いてる』

 

山内が笑う。

 

『でもさ、そいつが手を離したら、

地下へ続く隔壁は完全に封鎖される。お前らは地下へ行けなくなる』

 

一度区切り、さらに続けた。

 

『それに、寛治の足元にも小さいのを置いてある』

 

石崎が掠れた声を漏らした。

 

「マジかよ……」

 

『助けたいなら急げよ。でも急ぎすぎたら、

寛治が驚いて手を離すかもしれないけどな。あいつ、臆病だから』

 

そこで山内の声が、一瞬だけ冷たくなった。

 

『俺が最後に電話した時も、出なかったくらいだし』

 

放送が切れ、廊下には低い機械音だけが残された。

 

龍園が舌打ちする。

 

「今度は、池の罪悪感を使うつもりか」

 

鬼龍院が静かに頷く。

 

「山内春樹は、人間関係そのものを爆弾へ変えている。

白波と一之瀬、山村と坂柳、佐藤と綾小路たち。そして今度は、池と山内だ」

 

高円寺は薄く笑った。

 

「人間関係というものは、実に扱いやすい火薬らしいねぇ」

 

オレは防火扉を見つめた。

 

分厚い扉の向こうには、池がいる。

 

おそらく彼は、恐怖だけではなく、山内に対する罪悪感によって震えている。

 

「綾小路」

 

伊吹が尋ねる。

 

「池は、持ちこたえられると思う?」

「分からない」

「正直ね」

「根拠のない嘘を言っても意味がない」

 

龍園が前へ出た。

 

「なら、急ぐぞ」

「待て」

 

オレが止めると、龍園が振り返る。

 

「山内の話が本当なら、池は既に極限状態だ。

大声や強い物音で驚かせれば、反射的に手を離す可能性がある」

「だったら、どうする」

「まず声をかけて落ち着かせる」

「誰がやる?」

 

全員が一瞬だけ黙った。

 

この場にいる中で、池を落ち着かせられる人間は誰か。

 

平田も一之瀬も体育館に残っている。

軽井沢や櫛田、堀北も避難者の統制へ回っていた。

 

「オレが話す」

 

龍園が目を細めた。

 

「お前が?」

「池はオレを全面的に信用しているわけじゃない。

だが、今の状況なら、情報を聞ける相手だとは認識している。

それに、山内はオレに話させたいはずだ」

 

鬼龍院が小さく頷く。

 

「山内の監視を利用するのか」

「ああ。見られているなら、こちらも見せるものを選ぶ」

 

龍園の口角が僅かに上がった。

 

「いいじゃねぇか。ようやく反撃らしくなってきたな」

 

オレたちは慎重に防火扉へ近づいた。

扉の中央には、小さな耐火窓が設けられている。

その向こう側に、赤い非常灯へ照らされた池寛治の姿があった。

顔は青ざめ、右手を壁面の解除装置へ押し当てている。

その足元には、黒い小型装置が置かれていた。

 

池は全身を震わせていた。

 

目を見開き、汗を頬へ流しながら、必死に右手を押しつけている。

 

こちらの姿へ気づいた瞬間、池の表情が大きく歪んだ。

 

「綾小路……」

 

扉越しに、掠れた声が僅かに届く。

 

「た、助けてくれ……」

「動くな」

 

オレは、できる限り静かな声で告げた。

 

「分かってる!」

 

池は叫びかけ、慌てて口を押さえた。

 

「ご、ごめん……分かってるけど、手が震えて……

足も動かなくて……もう無理かもしんねぇ……」

 

池の声は完全に崩れている。

恐怖へ飲み込まれかけていた。

その奥には、さらに別の感情もある。

 

「春樹が……」

 

池は泣きそうな顔で言った。

 

「春樹がずっと俺に話しかけてくるんだよ。

お前が悪いって……俺が電話に出なかったからだって……

俺が見捨てたからこうなったんだって……」

 

言葉を続けるほど、池の呼吸が乱れていく。

過呼吸に近い状態だった。

 

「池」

 

オレは声を低くした。

 

「オレを見ろ」

 

池がゆっくりと顔を上げる。

 

「手は離すな。そのまま、オレの呼吸へ合わせろ。まず息を吸え」

 

池は震えながら息を吸い込んだ。

 

「次に吐け」

 

言われた通り、ゆっくりと息を吐く。

 

「もう一度だ」

 

オレは急かさず、一定の間隔で指示を続けた。

 

池の呼吸は、少しずつ落ち着きを取り戻していく。

 

しかし、その途中で山内の声が放送へ割り込んだ。

 

『優しいなぁ、綾小路』

 

山内は嘲るように笑う。

 

『でもさ、寛治は俺を見捨てたんだよ』

 

池の表情が再び歪んだ。

 

「やめろ……」

 

『最後に電話した時、出なかったよな。メッセージも返さなかった。親友だったのにな』

 

「やめろって……!」

 

池の右手が大きく震え、解除装置から僅かに浮きかける。

 

「池」

 

オレは先ほどより強く呼びかけた。

 

「山内を見るな。オレを見ろ」

「で、でも……!」

「今、お前が手を離せば、山内が望んでいる通りになる」

 

池の動きが止まった。

 

「山内は、お前に罪を背負わせようとしている。お前が手を離したから失敗した。

お前が逃げたせいで、オレたちが地下へ行けなくなった。そういう形へ持ち込みたいんだ」

 

池の目が大きく揺れる。

 

「……春樹が、そんなことを?」

「ああ。だから手を離すな。それが今、お前にできることだ」

 

池は泣きそうな顔のまま、歯を食いしばった。

 

「俺……春樹に謝りたかったんだ。でも怖かった。

退学した奴と関わったら、自分まで落ちるような気がして……

電話も無視して、メッセージも返せなかった。俺、最低だよな……」

 

その言葉は、山内に向けたものではない。

 

池が、自分自身へ下している罰だった。

 

だがオレは、安易に否定しなかった。

 

ここで簡単に最低ではないと言えば、

それは池の後悔から目を逸らさせるだけの嘘になる。

 

「最低かどうかは、後で考えろ」

 

オレは池を見つめたまま続ける。

 

「今は生き残れ。生き残ってから、山内と向き合うしかない」

 

池の目から涙が零れた。

 

「……俺に、そんなことできるのかよ」

「もうやっている」

「え……?」

「お前は今も、手を離していない」

 

池は自分の右手へ視線を向けた。

 

腕は震え続けている。

 

それでも、掌は解除装置へ押しつけられたままだった。

 

「……そうか」

 

池は涙を流しながら、僅かに笑った。

 

「俺、まだ離してねぇんだな……」

 

その瞬間、山内の声から笑いが消えた。

 

『何だよ、それ』

 

声には明確な苛立ちが混じっている。

 

『今さら踏ん張ってんじゃねぇよ。お前はいつも逃げる側だっただろ、寛治』

 

池の表情が再び歪む。

それでも今度は、手を離さなかった。

 

「……うるせぇ」

 

小さな声だった。

だが、扉越しでも確かに聞こえた。

 

「うるせぇよ、春樹……」

 

池は震えながら、涙を流しながら、それでも右手へ力を込め続けた。

 

「俺は……今は逃げねぇ……!」

 

その言葉が廊下へ響いた瞬間、

防火扉の上部にあるロックランプが赤から緑へ変わった。

 

重い機械音が鳴り、固定されていた防火扉がゆっくりと開いていく。

 

力を使い果たした池は、その場へ崩れ落ちた。

 

龍園が素早く扉の向こうへ入り、池の身体を掴んで安全な側へ引き寄せる。

 

「手間かけさせんな」

 

龍園は低い声で言った。

 

だが、池を扱う手つきは必要以上に乱暴ではなかった。

 

池は床へ座り込み、肩を震わせながら呟く。

 

「ごめん……ごめん、春樹……」

 

しばらくの間、放送は沈黙していた。

 

やがてスピーカーから聞こえてきた山内の声は、先ほどまで以上に冷たかった。

 

『……つまんねぇ』

 

山内は、押し殺した怒りを滲ませる。

 

『なんで、誰も切られねぇんだよ』

 

その言葉を最後に、放送は切れた。

 

開かれた防火扉の先には、地下へ続く階段が口を開けている。

 

暗く、深い階段だった。

 

学校の心臓部へ続く道が、オレたちの前に現れていた。

 

オレは胃の奥に残る違和感を意識しながら、地下へ向けて一歩を踏み出した。

 

山内は近い。

 

そして次は、こちらから山内へ近づいていく。

 

すべてを終わらせるための場所へ。

一日一話で三作品を投稿するのは多いですか?

  • いいぞ、どんどんやれ
  • 多い!読みきれない
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。