「呼び出し、ねぇ……」
西の空が赤く燃え上がり、黄昏に染まり始めた雄英高校の廊下。
放課後のチャイムが鳴り終わり、部活動へ向かう者や帰路に就く生徒たちの喧騒が徐々に遠ざかっていく中、五条枢は一人、茜色の陽光が差し込むガラス張りの連絡通路を悠然とした足取りで歩いていた。
窓下に見下ろす広大な敷地では、多くの生徒たちが三々五々連れ立って下校していく姿が見える。その平和な日常風景をアイマスク越しの碧眼でぼんやりと眺めながら、枢は何故自分が未だに校内に残り、人気のない廊下を歩かされているのか───その直接的な要因ともなった、今日の午後の『対人戦闘訓練』での出来事を脳内で静かに反芻していた。
入学二日目にして組まれた、五条枢という一人の
初戦から波乱の幕開けとなったその戦闘訓練の結末は、防衛対象である『核兵器』はおろか、枢自身に傷一つ、いや衣服の乱れ一つ負わせることすら叶わないという、枢側の完勝という形で幕を閉じた。
あれだけの大規模な戦闘、そして圧倒的な戦力差があったにも関わらず、その後の訓練に差し支えが出るほどの重傷を負った生徒は驚くべきことに皆無であった。
それは偏に枢の『六眼』による精密なダメージコントロールの賜物であり、彼らの耐久力や“個性”の質を瞬時に見極め、気絶するギリギリのラインで手刀やデコピンの威力を調整していたからこそ、誰一人として後遺症の残るような怪我を負わずに済んだのだ。
オールマイトから終了の合図が告げられ、気絶していた生徒たちが目を覚ましてモニタールームへと復帰してきた頃には、彼らの身体的なダメージはほぼ完全に引いていた。
ただ一人、訓練の開幕と同時に枢から強烈な引力とカウンターの打撃を鳩尾に撃ち込まれた爆豪勝己だけは腹部を押さえて僅かに顔を顰めていたが……それでも枢を親の仇のように鋭く睨み付けてくる気力は健在であり、枢の手加減と爆豪自身の持ち前のタフネスも相まって、リカバリーガールの世話になるほどの問題は見当たらなかった。
その後、全員がモニタールームに揃ったところで、オールマイトによる戦闘訓練の講評が行われた。
後の生徒たちの訓練が控えていたこともあり、その講評自体は比較的短い時間で済まされたが……彼から語られた言葉は、ヒーローの卵たちの未熟な精神に鋭く突き刺さるものであった。
『───初戦ということで、皆の動きが硬かったことは加味しよう。だが、君たちには咄嗟の判断力が各々決定的に足りていなかった!』
オールマイトは、スクリーンに映し出された八百万が枢に気絶させられた瞬間の映像を指し示した。
『事前の作戦会議までは良かった。だが、想定外の事態───五条少年が前線に出てきた時、君たちは完全に思考を停止してしまった。結果として、全てを仕切っていた八百万少女一人に過剰な負担と責任がのしかかってしまったのは分かっているね?』
戦場において、絶対的な正解など存在しない。想定外のイレギュラーこそが常態である。
オールマイトは厳しい表情のまま、生徒たち一人一人の顔を見渡した。
『もちろん、リーダーの指示に従うことは大切だ。だが、指示を待つだけの駒になってはいけない。今後は個々人が戦況を俯瞰し、自分たちで考え、最適な行動を提案できるようになるのがベストだ』
その言葉を受け、緑谷出久をはじめとする遊撃班の面々はハッとして悔しげに俯いていた。
確かに彼らは、枢が奇襲を仕掛けてきた際、恐怖と混乱に呑まれ、八百万からの次の指示をただ待つだけの案山子と化していた。あの時、誰か一人でも自立した思考で動けていれば、戦局はほんの少しでも変わっていたかもしれない。緑谷はもっと自分に出来ることがあったはずだと、コスチュームの裾を握り締めながら自らの不甲斐なさを深く反省している様子だった。
そして、名指しで指摘を受けた八百万百自身もまた、その秀麗な顔に自責の念を滲ませていた。
『いえ……私の見通しが甘かったのです。想定外の事態に対応しきれず、次の一手を瞬時に導き出せなかった私の未熟さが招いた結果ですわ』
八百万は痛感していた。自身のこれまでに蓄えた数多の知識が、五条枢という圧倒的な暴力を前にした途端に完全にフリーズしてしまっていたことを。
だが、それでも彼女の瞳に絶望はない。今回の敗北というこれ以上ない苦い経験を糧として、次の試合、あるいは今後の実戦では必ずその反省を活かせるようになりたいと、彼女は静かに、しかし力強く意気込んでいた。その姿勢は、間違いなくトップヒーローに成るべき者の器であった。
『そして───轟少年、爆豪少年!』
講評の矛先は、単独行動に走った二人の実力者へも向けられた。
『折角のチームアップによる訓練だというのに、独断専行は味方との不和と陣形の崩壊を招くだけだ! 個の力で打開できない壁にぶつかった時、孤立は即ち死を意味するぞ!』
オールマイトからの厳しい注意。
言わずもがなというべきか、轟も爆豪もその言葉に対して反論することはなかった。二人とも、自らが最も得意とする最大の攻撃を枢に傷一つつけられず完封されたという絶対的な敗北に、思うところがあったのだろう。
ただ無言のままギリッと歯を噛み締め、二人はモニターに映る自分たちの無惨な姿を、そして隣で欠伸を噛み殺している白髪の少年を、煮え滾るような感情を押し殺して見据えるばかりであった。
そうしてピリついた空気の中で最初の講評の時間は終わり、授業は他の生徒たちによる第二回、第三回の戦闘訓練へと移っていった。
事前説明の通り、枢の時のような特別ルールのレイドバトルではなく、くじ引きで決められたペア同士による、屋内でのオーソドックスな二対二の戦闘訓練。
モニタールームから彼らの戦いぶりを観戦していた枢だったが、正直なところ、彼自身の規格外の実力と視座からすれば、それはどこかどんぐりの背比べのようにも見え、これといってその風景に深い関心を抱くことはなかった。
強いて言うのであれば。
「(緑谷に対する爆豪のあの態度……二人は同中って言ってたし、何か訳アリなのかな)」
緑谷出久と麗日お茶子のヒーロー組、対する爆豪勝己と飯田天哉の
その試合中、爆豪が緑谷に対して向けていたのは、単なるライバル心や勝負への闘争心を越えた、私怨すら混じっているかのような異様なまでの執着だった。
訓練の範疇を逸脱しかねないほどの爆豪の猛攻と、それに死に物狂いで食らいついていく緑谷。結果として試合は緑谷・麗日チームの勝利で終わったものの、緑谷は自身の“個性”の反動と爆豪からの攻撃によってボロボロになり、その後の訓練に差し支えが出るほどの重傷を負ってしまっていた。
一体、あの二人の間にどんな因縁があるのか。
少しばかり興味を惹かれた枢は、授業が終わった後にでも直接聞いてみようかとも思ったのだが……当の緑谷は試合終了後すぐに保健室のリカバリーガールの元へ治療に運ばれてしまったため、結局話を聞く機会を得られないまま、何事もなく全日程の戦闘訓練は終了の時刻を迎えたのだった。
そして、その帰り際。
『───五条少年、ちょっといいかい』
各々が戦闘用のコスチュームから通常の学生服に着替え、帰りのホームルームや下校の準備に向かおうとしていた折。
緑谷の様子を見に保健室へ向かおうとしていたであろうオールマイトから、更衣室の前で直接声を掛けられたのだ。
『放課後、君に少し話がある。応接室で待っているよ』
周囲の生徒たちに聞かれないよう、ひどく声を潜めての呼び出し。
それが、枢が今この夕暮れの廊下を歩いている理由であった。
「……ま、十中八九、二人の“個性”のことについてだろうけどさ」
誰もいない廊下で、枢は呆れたように独り言を零し、小さく肩を竦めた。
今日の訓練の最中、枢は出久の内に秘められた“個性”の正体───いくつもの歪な個性の残滓が混ざり合った『ワン・フォー・オール』の深淵を覗き見し、それがオールマイトの持つ“個性”と同一のものであるように言ってしまった。
モニタールームで監視カメラの映像と音声を確認していたオールマイトならば、枢が緑谷に向けて放ったその言葉を、当然ながら全て聞き取っていたはずである。
平和の象徴と謳われ、名実ともにこの超人社会におけるNo.1ヒーローとしての地位を確固たるものとしているオールマイト。
彼が世間からどれほどの称賛を浴びようとも、その強さの源泉たる“個性”の詳細は未だに公表されていない完全な謎に包まれている。社会の安寧を保つ大黒柱として、その力の秘密が漏れることは、すなわち
「(だからこそ、『六眼』で問答無用に“個性”の正体を暴けてしまう俺の存在は、オールマイトとしても今後のヒーロー活動……いや、自分の後継者育成に重大な差支えが出ると判断したんだろうな)」
あの時、自分の言葉を聞いた緑谷は、この世の終わりのような青褪めた顔をして必死に秘密を守ろうとしていた。オールマイト自身も、これ以上五条枢というイレギュラーを放置しておけば、何かの拍子に世間に秘密が漏洩しかねないと危惧しての、今回の秘密裏の呼び出しなのだろう。
「(……別に、他人の秘密をベラベラ言いふらしたりする趣味はないんだけどね)」
枢は内心で小さく愚痴を零す。
他人のプライバシーを暴き立てて楽しむほど彼は子供ではないし、そもそもそこまで他者に興味もない。前世の記憶を持つ彼にとって、それは単なる情報の一つに過ぎず、彼自身の目的や楽しみに直接寄与しないのであれば、わざわざ波風を立てる必要性は皆無なのだ。
ただ、一つだけ気になることがあるとすれば。
「(あの“個性”の奥底に燻っていた、複数の意思のような残滓……)」
それは、力を受け継ぐという単純な図式だけでは説明のつかない、何か深くて重い因縁や宿命のようなものが
もしかしたら、単なる口止め以外にも、色々と面倒な裏事情があるのかもしれない。
「……まぁ、何でもいいか」
思考を巡らせているうちに、枢の足は目的の場所───重厚な扉が設えられた、来客用の応接室の前へと辿り着いていた。
扉の向こうからは、常人であれば息が詰まるような、平和の象徴特有の圧倒的なプレッシャーが静かに漏れ出している。
枢はアイマスクの位置を軽く指先で直し、少しの緊張も感じさせることのない、いつもの余裕に満ちた笑みを口元に浮かべた。
「失礼しまーす」
ノックもそこそこに、五条枢はNo.1ヒーローが待つ密室の扉を躊躇いなく押し開いた。
☆
「行っちまったな、爆豪」
夕暮れの茜色に染まり始めた雄英高校ヒーロー科、1-A組の教室。
放課後のチャイムが鳴り終わり、大半の生徒たちが部活動や帰宅の途に就く中、教室には未だ十数名の生徒たちが残り、自分たちの机を寄せ合って一つの輪を作っていた。
今日の午後に行われた『対人戦闘訓練』についての、有志による自主的な反省会である。
沈みゆく太陽の光が差し込む窓際で、切島がポツリと呟いたその言葉に。輪になっていた生徒たちは皆、つい先程まで誰かが座っていた空席へと視線を向け、誰もが「仕方ないよ」とでも言わんばかりの、同情と戸惑いが入り混じった複雑な表情を浮かべていた。
彼らの脳裏を過るのは、モニタールームのスクリーン越しに見せつけられた、第二回戦での爆豪勝己と緑谷出久の凄惨な戦いの記録。
音声こそ共有されていなかったため、彼らが一体何を話し、何を言い争っていたのか、正確な内容はクラスの誰にも分からなかった。しかし、画面越しにでさえ伝わってくる緑谷への狂気的とも言える異常な執着と、訓練という枠組みを完全に逸脱した殺意すら孕む爆豪の猛攻は、見ている者たちの背筋を凍らせるには十分すぎるほどの迫力だった。
そして何より、周囲を戸惑わせているのは試合後の爆豪の様子である。
緑谷の捨て身の一撃によって建物の大部分を破壊され、麗日の助力もあって結果として『核』を回収されて敗北を喫した爆豪。彼は試合後のオールマイトによる講評の間、どこか心ここにあらずといった虚ろな表情で、ただ無言で俯き続けていた。
一戦目の枢との戦いにおいて開始数秒で沈められた圧倒的な敗北感と、長年『無個性』だと見下していたはずの幼馴染からの強烈な反撃。その二つの出来事が、自尊心の塊のような彼の精神を大きく揺さぶり、許容量を超えた負荷をかけていたのは誰の目にも明らかだった。
「……大丈夫かな、爆豪」
切島が心配そうに眉をひそめると、他の生徒たちも重々しい空気の中で頷き合う。
「今は、気持ちを整理する時間が必要なんだと思う」
そんな中、爆豪と一緒に
彼の表情には、クラスメイトを心配する色と共に、拭いきれない深い自責の念が刻まれていた。
「思えば、訓練開始前から爆豪くんは何かひどく焦っているような、周囲が見えなくなっている様子だった。……同じチームでありながらそれに気づけず、彼の暴走を止められなかった自分が不甲斐ない」
飯田は自身の観察眼の至らなさを悔いるように、深く頭を横に振る。
彼にとって、ヒーローとは尊敬する兄のように仲間と連携し、互いの不足を補い合う存在だ。それにも関わらず、自分は爆豪の異変を察知できず、結果として彼を孤立させ、緑谷に大怪我を負わせる事態を招いてしまった。
「私らもまだ、自分のことで手一杯だったしね……」
「うん。周りを見る余裕なんて全然なかったんだし、仕方ないよ」
芦戸や麗日といった女性陣が、落ち込む飯田を励まそうと優しく声をかける。
入学してまだ二日目。その人の“個性”も性格も完全に把握しきれていないクラスメイト同士で、いきなり完璧な連携や精神的なフォローを求めるのは酷というものだ。
しかし、責任感が人一倍強い飯田は、その励ましを受け取りつつも、己に言い聞かせるように小さく嘆息した。
「慰めは感謝する。だが……ヒーローを目指す者として、常に周囲の状況に気を配ることは必須のスキルだ。気づくべきだったと、反省すべき点は反省しなければならない」
生真面目すぎるほどの彼の姿勢に、教室の空気がさらに一段階重く沈み込む。
「まぁまぁ! それで言うとさ、やっぱり一番最初の五条は別格だったよなぁ……」
このままでは反省会がお通夜のような空気になってしまうと危惧した瀬呂が、パンッと手を叩いて意図的に話題を切り替えた。
彼の口から出た五条という名前に、クラスメイトたちの意識が一気に第一回戦の、あの理不尽極まりない蹂躙劇へと引き戻される。
「いや、本当に……。オールマイトの講評で言われた通り、俺も八百万の指示に従うだけで自分からは何も動けなかった。……手も足も出ないってのは、正にああいうことを言うんだろうなって感じだったわ」
瀬呂は、開始早々に自身の鼻先にワープしてきた枢にデコピン一発で沈められた記憶を思い返し、力なく肩を竦めた。
「つうか、あれはもうズルだろ! 物理攻撃が届かないだけじゃなくて、光も音も効かないってんなら、多分俺の電撃も通じないだろうしよぉ……」
そんな瀬呂に続くように、上鳴が頭を抱えながら本音を吐き出す。
彼が想起しているのは、枢が展開していた『不可侵』と呼ばれる無限の壁。
緑谷と八百万の機転により、質量を持たない光と音による奇襲が実行された時、その場にいる誰もが「これなら!」と希望を見出した。しかし、それすらも枢の肉体に届く前に、虚空で完全に停止させられてしまったのだ。
「確かに……どうすれば、五条の“個性”を破ることが出来たんだろうな」
「毒ガスとか、空気そのものを奪うとか? ……でも、あいつワープも出来るからすぐ逃げられそうだぜ」
自分たちの“個性”が何一つ通じなかったその絶対的な壁を思い出し、生徒たちは腕を組みながら枢の“個性”の攻略法について真剣に思考を巡らせ始めた。
「八百万の言う通り、五条自身への攻撃は最小限にして『核』の確保優先で動けって方針は間違ってなかったと思うけどよ……それを一人で実行した轟も、結局は為す術なく五条にやられちまったんだろ?」
切島の言葉に、周囲の生徒たちも難しそうな顔で頷く。
「そこはオールマイトも言っていたように、俺たちの判断が遅かったのが最大の原因じゃないか? 五条が前線に出てきた時点で、遊撃班も囮になって時間を稼ぎつつ、轟と一緒に全力で『核』の確保に動いていれば結果は違っていたかもしれない」
障子が冷静に敗因を分析してみせる。
「あー、確かに……でもさぁ、入学二日目の初陣で、あのプレッシャーの中で一瞬でそこまで判断して動けっていうのは、流石にハードル高すぎねぇ?」
「実戦ではそんな言い訳は通じんぞ。
上鳴の愚痴に、常闇が厳しい口調でピシャリと釘を刺す。
そんな風に、ようやくヒーロー科の反省会らしい建設的な意見が飛び交い始めた教室の片隅で。
「…………」
ただ一人、この輪の中で一言も言葉を発することなく、俯き続けている少女がいた。
少女の名は葉隠透。第一回戦の終盤、グラウンドβの広場で唯一轟と一緒に行動し、枢と相対した時の光景を最前線で目撃していた生き残りである。
「ケロ。そう言えば透ちゃんは、あの時轟ちゃんと一緒にいたのよね。実際、五条ちゃんと轟ちゃんの力の差はそれほどまでに離れていたのかしら?」
蛙吹が口元に指を当てながら、葉隠へと純粋な疑問を投げかけた。
しかし、普段であれば「うんうん! それがね!」と身振り手振りを交えて騒がしく状況を説明してくれるはずのムードメーカーの彼女は、なぜか今は完全に鳴りを潜めていた。
「う、うん……。全然、相手になってなかった、よ……」
葉隠は蛙吹の言葉に、消え入りそうな声でコクコクと頷くばかり。
周囲の生徒たちには彼女の姿が透明であるためその表情を窺い知ることはできないが……もしも彼女の姿が見えていたならば、今の彼女の顔が茹でダコのように真っ赤に染まり、羞恥で涙目になっていることが一目で分かっただろう。
「(うー……裸見られたなんて、みんなに言えるわけないよぉ……!)」
葉隠は机の下で、ギュッと自分のスカートの裾を握りしめていた。
なぜ自分の姿が丸見えなのか、どういう理屈で視認できているのか、訓練が終わったら枢を捕まえて問い詰めようと思っていたのに、当の本人はオールマイトに呼び出されてどこかへ行ってしまう始末。
消化しきれない羞恥心と混乱のまま教室に戻ってきた彼女の脳裏には、訓練の最後に自分のことを見下ろして「ばっちり(見えてる)」と言い放った、あの白髪の少年の姿が鮮明に焼き付いて離れなかった。
「(見えないことが私のアイデンティティなのに……)」
葉隠にとって、『透明化』という“個性”は単なる能力ではなく、彼女の人生そのものを形作るアイデンティティだ。人前で恥ずかしい姿を晒すことなく、気配を消して行動できるからこそ、彼女はヒーローとしての活動に自信を持てていたのだ。
しかし、今回の戦闘訓練で発覚した、自身の能力を完全に無効化し、服の下のありのままの姿を視認してくる五条枢というイレギュラーの存在は、彼女の人生において最大級の驚愕にして、致命的なアイデンティティの喪失に他ならなかった。
そして、何よりも彼女を悩ませている現実的な問題。
「(……コスチューム、どうにかしないと)」
葉隠のヒーローコスチュームは、水色の手袋とベージュのショートブーツのみ。服を着ていれば『透明化』の“個性”が意味を成さないため、これまでであればこの全裸に手袋と靴だけというスタイルでも何の問題もなかった。
しかし、自分をハッキリと視認できる枢の前では話が別だ。
彼が同じクラスにいる以上、このコスチュームのまま授業を受けるということは、すなわち『常に同級生の男子の前で痴女のような格好を晒し続ける』という、女子高生として絶対に許容できない地獄の環境を意味している。
「(サポート会社に、私の細胞を使った透明になる繊維とか、そういうのを作ってもらえないか相談しなきゃ……!)」
当然ながら、彼女はコスチュームを受け取った初日にして、即座に大規模な仕様変更の打診を企業に提出しなければならなくなってしまったのだ。
「透ちゃん? どうかしたの?」
顔を真っ赤にして*1ぶつぶつと深刻そうに思考の海に沈んでいる葉隠の様子に、蛙吹が不思議そうに首を傾げる。
葉隠が慌てて「ううん! なんでもない!」と誤魔化そうとした、その時だった。
「───つうかお前らさ、五条のあのアイマスクの下って見たことあるか?」
上鳴が、ふと思い出したようにニヤニヤとした笑みを浮かべ、唐突にそんな話題を教室の中心へと放り込んだ。
その言葉に、これまで戦闘訓練の反省という真面目な空気に包まれていた教室の雰囲気が、一瞬にして『高校生の放課後』特有の緩い空気へと切り替わった。
五条枢。
常識外れの強さと、ミステリアスな言動。そして何よりも、彼の顔の半分を常に覆い隠している漆黒のアイマスク。
あんなもので視界を塞いでいて日常生活に支障はないのか。そもそも、なぜあんなものを着けているのか。そして、その下には一体どんな素顔が隠されているのか。
それは、1-Aの生徒たち全員が密かに抱いていた、純粋な好奇心の的であった。
「見たことあるかって……常に着けてるんだから、あるわけないじゃん」
「上鳴くん、もしかして知ってるの?」
芦戸と麗日が、興味津々といった様子で上鳴に身を乗り出す。
上鳴は待ってましたとばかりに胸を張り、自慢げに鼻を鳴らした。
「へへっ、俺さ、今日戦闘訓練の前に更衣室で着替えてる時……たまたまアイマスク外してる瞬間のアイツの素顔、見ちゃったんだよね」
その言葉が投下された瞬間。
「えっ!?」
「本当に!?」
「上鳴マジか!?」
先程まで深刻に悩んでいた葉隠でさえ、全裸を見られた羞恥心を一時的に忘却し、芦戸、麗日、耳郎たち女性陣と共に凄まじい勢いで上鳴の周囲へと殺到した。
ミステリアスな天才同級生の素顔。そんな特大のゴシップを前にして、年頃の女子高生たちが食いつかないはずがなかった。
「ちょ、お前ら圧がすげぇって!」
「いいから! どんな顔だったのか早く教えて教えてー!!」
机に身を乗り出し、目を輝かせて詰め寄る女子たちに囲まれ、上鳴がタジタジになりながらもドヤ顔で語り始めようとする。
夕暮れの教室に響く、緊迫した戦闘訓練の余韻を完全に吹き飛ばすような平和で騒がしい日常の風景。
その頃、話題の中心である枢本人が、呼び出した当人の持つ途方もない秘密についてオールマイトと対峙していることなど、この時の彼らは知る由もなかった。