外界の喧騒から完全に隔絶された、煤けた裏路地のさらに奥深く。
薄暗い間接照明だけが頼りのその空間は、場末の隠れ家めいた静謐さを保っていた。壁際にかかる棚には数え切れないほどの酒瓶が並べられ、アンティーク調の革張りスツールが静かに佇んでいる。
だが、その洒脱な内装とは裏腹に、空間を満たす空気はひどく淀んでいた。息を吸い込むことすら躊躇われるほどの、肺の奥にへばりつくような重苦しい悪意がそこには充満している。
「───それで、首尾はどんな感じなんだよ」
静寂を破ったのは、ひどく掠れた、それでいて子供のような無邪気な高揚感を孕んだ青年の声だった。
スツールに深く腰掛けるその青年は、一見して常軌を逸した風体を晒している。顔面は切断された灰色の『手首』のような装飾品に覆い隠され、指の隙間から僅かに覗く充血した瞳だけが、爛々とした狂気を放っていた。
痩せぎすの体躯を黒い長袖シャツに包み、髪は手入れもされずボサボサに伸び放題。その不気味な出で立ちの青年───死柄木弔は、カウンターの上でトントンと苛立たしげに指先を鳴らしながら、視線の先にいる人物へと言葉を投げた。
「ええ……順調そのものですよ、死柄木弔」
青年の問いに答えたのは、カウンターの内側で静かにグラスを磨いていたバーテンダー然とした男だった。
しかし、彼にもまた『素顔』と呼べるものは存在しない。端正なスーツを身に纏い、首元には金属のプロテクターを装着しているが、そこから上は実体を持たない黒紫色の靄が常に揺らめいており、底知れぬ深淵の中から二つの細い金色の瞳だけが怪しく光を放っている。
男───黒霧は、淀みない動作で磨き終えたグラスを伏せると、カウンターの下から分厚いファイルの束を取り出し、死柄木の前へと恭しく差し出した。
「仲介屋からの紹介から、路地裏でくすぶっている不良に至るまで……凡そ、襲撃に十分な人員は確保いたしました」
黒霧の言葉を受け、死柄木は手渡されたファイルをペラペラと捲りながら、喉の奥で「ハハッ」と乾いた笑いを漏らした。
紙葉に記されているのは、このヒーロー飽和社会において日陰を這いずるように生きる有象無象の名前と顔写真。
小規模な強盗で指名手配されている者、裏稼業の用心棒として糊口を凌ぐ者、あるいはただ自身の“個性”を暴走させたいだけの社会不適合者。罪の大小はあれど、彼らに共通しているのは一つ。ヒーローという眩い光を憎み、泥水を啜らされてきたことへのどす黒いルサンチマンである。
「大体、数は百は下らないでしょう。彼らもまた、鬱憤を晴らすための
黒霧の補足に、死柄木は満足そうに口角を歪めた。
彼ら一人一人の実力は、世間を賑わすプロヒーローからすれば取るに足らないチンピラに過ぎない。だが、それが百を超える群れとなれば話は別だ。単なる暴徒の枠を越え、盤面をかき乱す立派な
「(本命の捨て駒には丁度いい)」
そう結論づけると、死柄木は興味を失ったようにファイルの束を放り投げた。代わりにカウンターの端から引き寄せたのは、無造作に置かれていた今朝の朝刊だ。
一面にデカデカと掲載されているのは、平和の象徴として名高いNo.1ヒーロー───オールマイトの満面の笑み。
見出しには『平和の象徴、雄英高校で教鞭を執る!』と、この超人社会における歴史的ビッグニュースが踊っていた。
「誰も彼もが……オールマイト、オールマイト……」
死柄木の口調が、途端に苛立ちを孕んだ低いものへと変わる。
ガリッ、カリカリッ。無意識に彼が指先で自身の首筋を掻き毟り始めると、パラパラと乾燥した皮膚の粉が零れ始めた。
絶対的なトップヒーローが教職に就くという異例の事態に、世間は大きく浮足立っている。メディアはこぞってこの話題を特集し、街角では人々が「これからのヒーロー社会はさらに安泰だ」「オールマイトの教え子から彼の後継者が生まれるに違いない」と、無責任で希望に満ちた憶測を飛び交わせている。
世の中の人間は皆、この笑顔の男がいつまでも自分たちを守ってくれるのだと、今の平和な日常が永遠に続くのだと盲信しきっていた。
それが、死柄木には虫唾が走るほど不愉快だった。
顔に張り付いた手首の隙間から、新聞のインクで刷られたオールマイトの憎き笑顔を睨み据える。やがて彼の唇には、三日月のようにおぞましく歪んだ笑みが刻まれた。
「……クク。なぁ黒霧、どう思うよ」
首を掻く手をピタリと止め、死柄木は歓喜に打ち震えるような声で囁いた。
「もしも……この『平和の象徴』が───俺たち
その言葉は、単なる妄想や叶わぬ願望などではない。
実行可能な『計画』としての、確かな熱と質量を帯びていた。
ヒーロー社会を支える絶対的な大黒柱、オールマイト。その男が地に伏すということは、すなわちこの国を覆い隠している『平和』という薄氷が粉々に砕け散ることを意味する。
人々は拠り所を失って恐怖に喚き、絶望に打ちひしがれ、作り物のような社会の秩序は根底から瓦解するだろう。自分が最も憎むこの忌々しい世界を崩壊させるための、これ以上ない最高の一手だ。
「先生も、こんなすげぇ玩具持ってんならもっと早く言ってくれりゃいいのにな」
死柄木が視線を流した先。
カウンターから少し離れた薄暗いスペースに据えられたソファに、まるで家具の一部であるかのように微動だにせず座っている巨体があった。
それは、一見すると筋骨隆々の大柄な人間に見える。
しかし、肌は夜の闇のようにどす黒く、筋肉は風船のように異常なまでの肥大化を遂げていた。そして何より目を引くのは、その奇怪な頭部。頭蓋骨の上半分が欠損したかのように脳髄が露出し、ドクドクと不気味な脈を打っている。ギョロリと見開かれた虚ろな眼球には、一切の知性や感情の色が宿っていなかった。
生命体としての尊厳を完全に剥奪された、ただ殺戮の命令に従うためだけに造り出された悍ましい肉塊。
対平和の象徴用改造人間───脳無。
死柄木にとっての恩人である『先生』が、彼のために用意してくれた究極の駒であった。
複数の人間の遺体と複数の“個性”を掛け合わせ、ドクターと呼ばれる協力者の狂気的な技術によって造り出されたこの改人は、純粋な肉弾戦においては死柄木自身をも遥かに凌駕し、あのオールマイトにすら完全に匹敵すると称されるほどの無敵のスペックを誇っている。
死柄木は先日、路地裏で自身に絡んできたチンピラたちを相手に、この脳無の『チュートリアル』を済ませていた。
結果は言うまでもない。脳無は死柄木の命令一つで、瞬きの間にチンピラたちの四肢を引きちぎり、薄汚い路地に赤黒い血の雨を降らせて見せた。その圧倒的な破壊力と、いかなるダメージをも無に帰す超再生能力を目の当たりにし、死柄木は一つの確信を得ていた。
「(このチートキャラがいれば、あのオールマイト相手でも楽勝だ。……それに、万が一のための
平和の象徴を殴り殺すための火力も耐久力も、この『玩具』が全て持っている。
ならば、プレイヤーである自分がやるべきことはただ一つ。
オールマイトを取り巻く邪魔なモブどもを排除して彼を孤立させ、この脳無と強制的にタイマンを張らせるイベントを発生させること。
そのために黒霧に集めさせた、百人以上の有象無象の
「それでは、手筈通りに動くのですね」
黒霧が、揺らめく靄の奥から静かに言葉を零した。
「ああ。……最近、先生は
死柄木の言葉には、構ってもらえない子供のような少しばかりの不満と、それ以上に自身の力を誇示したいという自立への渇望が入り混じっていた。
恩師はここのところ、ドクターと共に別の案件にかかりきりになっているようだった。死柄木に詳しいことは知らされていないが、なんでも
意味はよく分からなかったが、先生が忙しいのであれば、その多大な期待に応えるためにも自分が率先してこの息苦しい社会を壊す第一歩を踏み出さなければなるまい。
死柄木はソファに鎮座する脳無を一瞥した後、カウンターの上に置かれたままの新聞紙───オールマイトの笑顔がデカデカと載ったそれに、五本の指を立てて鷲掴みにした。
バサァッ、と。
五指が対象に触れた瞬間、死柄木の“個性”───『崩壊』が発動する。
紙面は瞬く間にひび割れ、灰色の塵と化してカウンターの上から跡形もなく崩れ去っていった。忌々しい笑顔も、平和を謳う見出しも、全てが等しく無に帰していく。
「雄英高校ヒーロー科……。平和の象徴が学生たちに囲まれ、安全圏だと油断しきっているその場所に俺の軍隊をぶち込む」
指の隙間からパラパラと崩れ落ちる塵を眺めながら、死柄木弔は顔を覆う『手』の隙間から、どこまでも深く、暗い憎悪の渦巻く瞳を爛々と輝かせた。
「───ゲームスタートだ」
歪んだ声で紡がれたその一言は、平穏な学園生活を送るヒーローの卵たちへの、そしてこの仮初めの超人社会そのものへの宣戦布告であった。
☆
すっかり陽の落ちてしまった夜の帳の下。閑静な住宅街の脇道を、五条枢は自動販売機で買った炭酸飲料を片手に、のんびりとした足取りで歩いていた。
もう片方の手には、駅のコンビニで買い込んだ新作スイーツがみっちり詰まったビニール袋がぶら下がっている。
「(帰ってから食べるの楽しみだなー)」
アイマスク越しの視界を流れる等間隔に並んだ街灯のオレンジ色の光をぼんやりと眺めながら。枢は炭酸の刺激で喉を潤しつつ、先程まで応接室で交わしていたオールマイトとの極秘の対話を思い返していた。
『───私の“個性”の名は『ワン・フォー・オール』。君ならもう分かっていると思うが、力をストックし、それを他者へと譲渡する“個性”だ』
夕暮れに染まる応接室で、オールマイトは重々しい口調で自身の力の根源を語り始めた。
曰く、その“個性”は超常黎明期と呼ばれる混沌の時代より、何代にも渡って受け継がれてきた力の結晶であること。そして、その特異な力と、これを執拗に狙い続ける『宿敵』とも言える
当然ながら、『六眼』を通してその力がオールマイトの言う通りの性質を持っていることは枢自身既に看破していた。しかし、それがどのような経緯を辿り、どういった因縁を持ってオールマイト、ひいては緑谷出久の下へと受け継がれてきたのかという歴史的背景までは知る由もなかった。
「(まさか、黎明期から存在する代物だったとはね)」
枢はその事実に純粋な感心を抱き、興味深そうに相槌を打って話を聞いていた。
『緑谷少年との会話、聞かせて貰ったよ。君があの時、あの場で『ワン・フォー・オール』のことを黙っていてくれたことは本当に感謝している』
そのまま一通りの説明を終えたオールマイトは、おもむろに立ち上がると、枢へ向けて勢いよくその頭を深く下げたのだ。
平和の象徴と呼ばれるNo.1ヒーローが、入学して間もない一介の学生に対して見せるにはあまりにも重すぎる誠意。
『だが……改めてこの場で約束してほしいんだ。本当に勝手なお願いになってしまうが、どうかこの“個性”のことはこれからも口外しないで貰えないだろうか』
深い沈黙が、夕闇の迫る応接室を満たした。
頭を下げるオールマイトを見据えながら、枢は何も言わず、ただアイマスクの奥で静かに思考を巡らせていた。
───そして、その沈黙からどれほどの時間が経っただろうか。
重苦しい空気を打ち破ったのは、枢の口から漏れた、呆れたような盛大なため息だった。
『別に、わざわざ頭なんか下げなくたって言いふらしたりしないですよ。そもそも俺、その“個性”の歴史とか因縁とか全く興味ないですし』
『……え?』
『それに、その『宿敵』って奴も、昔オールマイトがボコボコにして倒した後なんでしょ? だったら今更気にする必要もないじゃないですか』
『う、うむ……』
拍子抜けしたように顔を上げたオールマイトに対し、枢は煮え切らないなぁと頭を掻きつつ、心底どうでもよさそうに肩を竦めてみせた。
そのあまりにもドライで、しかし裏表のない枢の態度に、オールマイトも毒気を抜かれたように「一先ずは納得してくれてよかった」と肩の荷を下ろし、再びソファに深く腰を下ろした。
しかし、そんなオールマイトを見て、枢はさらに言葉を続ける。
『あと、別に無理してその状態維持しなくていいですよ。俺の
『ッ! ……ほんっとに、何でもありだな君は』
もはや驚愕を通り越して、逆に感心してしまったのだろう。オールマイトは口元を引き攣らせながら乾いた笑みを零すと、プシュゥゥゥと全身から水蒸気を吹き出しながらマッスルフォームを解除し、痩せ細り、眼窩の窪んだ真の姿───トゥルーフォームを枢の前に露わにした。
『骸骨みたいっすね』
『ぶふっ! 君、それは流石に失礼じゃないか!?』
吐血しながらツッコミを入れるオールマイトに苦笑を返しつつ、枢は「話は終わりですね」と言わんばかりにソファから立ち上がった。
『それに、緑谷以外にも生徒の中に事情を知ってる奴が一人くらいいた方がオールマイトも動きやすいでしょ。何かあったらフォローくらいはしてあげますよ』
そのまま応接室の扉に手を掛ける枢へ、オールマイトは指摘されたばかりの骸骨のような顔に心からの安堵と柔らかな笑みを浮かべた。
『……ありがとう、五条少年。君が雄英に入って来てくれて、本当によかったよ』
その言葉に、枢も口角を上げて笑みを返す。
『
そう言い残し、枢はオールマイトとの対話を切り上げて応接室を後にしたのだった。
「(『ワン・フォー・オール』ねぇ……もっとシンプルな名前にすればいいのに)」
『超パワー』とか『継承』とかさ、と。そんな下らないことを考えながら炭酸飲料を飲み切った枢は、“個性”を使って空き缶を限界まで圧縮し、数メートル先の道端のゴミ箱へとノールックで正確に放り込んだ。カラン、と小気味良い音が夜の静寂に響き渡る。
「(てか、いつもなら修練場で“個性”の調整して風呂にでも入ってる時間帯か)」
門限こそまだ過ぎていないが、かなりギリギリの時間帯だ。所長が不在とはいえ、帰ったら施設の職員から小言の一つや二つは言われちゃうかもなぁと、枢は少しだけ面倒くさそうに思考した。
「───ん?」
そんな枢の視界の先。
見慣れた孤児院の古びた鉄門の前に、見慣れぬ人影が一つ、ポツンと佇んでいるのが見えた。
枢が足音を殺して近づいていくと、それはまだ幼い子供だった。
ボロボロの服を着て、胸の前で両手をギュッと握りしめ、まるで世界そのものに怯えるように身を縮めている少女。腰近くまで無造作に伸びた髪の色は、奇しくも枢自身と同じような透き通る白髪だ。そして、不安に揺れる赤いつぶらな瞳と、額の右側に生えた黄土色の小さな角が特徴的だった。
「(あんな子、施設にいたっけ……いや、いないな)」
孤児院の子供たちの顔は全て把握している。即座に内心で結論を出した枢だったが、次の瞬間、アイマスクの下の『六眼』がその少女の内に眠る“個性”の情報を捉え、僅かに驚嘆で見開かれた。
「(……へぇ)」
それは、一見しただけでは分からない、極めて異質な個性因子の波長。
『六眼』が解析したその力の正体は、物理法則はおろか、不可逆であるはずの時間の概念すらも強制的に逆行させる───『事象の巻き戻し』とも呼べる、神の領域に足を踏み入れたような突然変異の力。
その小さな体には到底不釣り合いな、特異かつ強大すぎる“個性”が彼女の奥底で眠っていたのだ。
「(こりゃまた……とんでもないモノ持ってるね、この子)」
何らかの事情があってここに辿り着いたのか、それとも単なる迷子なのかは分からない。だが、流石にこの夜更けの時間帯に、これほど危険で強力な“個性”を持った子供を野放しにしておくわけにもいかない。
枢は頭の隅で渦巻き始めた思考を一旦横に追いやり、少女へとゆっくり近づくと、目線を合わせるようにしてしゃがみ込んだ。
「ねぇ、君。うちのチビたちのお友達?」
なるべく優しく声をかけた……つもりだった。
しかし、そんな枢の声にビクッと肩を大きく跳ねさせた少女は、しゃがんだとはいえ自分よりも遥かに長身の男から発せられる圧倒的な強者の威圧感に気圧されたのか。あるいは、夜の暗がりの中で、顔の半分を真っ黒なアイマスクで隠した不審者に声をかけられたことに本能的な危機感を覚えたのか。
彼女は返答する余裕もなく、まるで捕食者を前にした小動物のように、ぷるぷると全身を震わせ始めてしまった。
「(あちゃー……泣かせちゃったかな)」
枢はポリポリと頭を掻いた。その時、自身の指先がアイマスクに触れたことで、ハッと気がつく。
「(そりゃ、こんな夜道で目隠ししてる奴に話しかけられたら普通に怖いか)」
自身の出で立ちの不審さに苦笑を浮かべながら、枢は「ごめんごめん」と呟き、顔を覆っていた漆黒のアイマスクをゆっくりと外した。
そして、その下に隠されていた───まるで宝石を閉じ込めたかのように深く澄み渡ったマリンブルーの瞳で、改めて少女を真っ直ぐに見据えた。
「あ……」
その特異で美しい碧眼を見た瞬間。
少女は目を真ん丸に見開き、先程までの恐怖はどこへやら……どこか魅入られるように、吸い込まれるようにして枢の『六眼』をジッと見つめ返していた。
心を奪われたかのように静かになった少女の反応に、枢はふっと口元を緩めた。
「(取り敢えず、ここで立ち話してたら俺が補導されちゃいそうだし───)」
内心で肩を竦めながら、枢は持っていたコンビニの袋を少しだけ持ち上げて見せた。
「───中に入りなよ。ちょうど甘いものも買って来たところだからさ」
ついておいで。
そう優しく促し、ゆっくりと腰を上げた枢の姿に、少女は何か思うところがあったのだろう。
まだその赤い瞳に微かな不安を滲ませてはいたものの、彼女はコクリと小さく頷くと、枢の大きな背中に続いて、孤児院の鉄門を共にくぐっていくのだった。
質問が来ていたのでご参考までに。
Q:主人公の髪型って原作開始時のトンガリヘアーみたいな感じ?
A:高専在学時の髪型に原作開始時のアイマスク付けてる感じです。