ランチラッシュが腕によりをかけた日替わり定食に舌鼓を打ち、その余韻に浸っていた昼下がり。
雄英高校の広大な敷地内、燦々と春の陽光が降り注ぐ中庭から職員室へと続くロータリーを、五条枢は担任の相澤消太と並んで歩いていた。
大食堂で食事を終えた直後、枢は同じクラスの上鳴や切島といった面々から「昨日の戦闘訓練のこと話そうぜ!」と矢継ぎ早に質問攻めに遭っていた。彼らは皆、枢の圧倒的な“個性”と実力への興味で持ちきりだったのだ。
しかし枢は、「ちょっと担任とお茶してくるから」と彼らの熱烈な誘いをあっさりと躱し、昼休みという貴重な休息時間を削ってまで、こうして相澤と連れ立っているのだった。
「───自分で一票入れといて言うのも何だけど……正直、学級委員長が緑谷になるとは思ってなかったですよ」
並んで歩きながら、枢は今日のホームルームで行われたイベントを思い返して苦笑を零した。
あの時、教室は「俺がやる!」「アタシがやる!」と自己主張の塊のようなクラスメイトたちの立候補の嵐で、収拾のつかない大騒ぎとなっていた。そんな中で、最終的に『投票』という民主的な手段で決定することになり、結果として最多の四票を集めた緑谷出久が学級委員長に選ばれたのだ。
「個人的には、それっぽい見た目の飯田とか八百万辺りがなると思ってたけど」
ポケットに手を突っ込み、のんびりとした口調で語る枢。
そんな彼の横顔を、相澤は呆れたような、しかしどこか見透かすような三白眼で横目に見据えていた。
「……本当にお前が言うのかだな」
相澤の脳裏には、クラスの大半が目を血走らせて立候補している中、一人だけ我関せずと窓の外を眺めていた枢の姿が浮かんでいた。
『五条はやらないの?』と何人かの生徒から問いかけられた際も、枢は『放課後とか休日はあんまり時間取れないからさ』と、孤児院の事情も加味しつつひどく退屈そうに受け流していたのだ。
圧倒的な実力と影響力を持ちながら、集団のトップに立って仕切るという面倒事には一切の価値を見出さない。相澤は枢のそのマイペース極まりない精神性に、思わず深いため息を零していた。
「まぁ、時間内に決まったなら誰でもいい。……それより、悪かったな。わざわざ昼休みに時間取らせて」
相澤は歩きながら、少しだけ申し訳なさそうに言葉を続けた。
本来であれば、この面談は『放課後に残れ』と朝のホームルームで告げた通り、授業後に行う予定だった。
しかし、その後になって相澤は、枢が言っていたように児童養護施設という厳格な規則と『門限』の下で生活しているという事実を改めて考慮した。特に現在は、孤児院の所長が倒れるという緊急事態の中、枢は入学初日であるにも関わらず遅刻してまでその対応に追われていたのだ。これ以上、学校の都合で彼の自由時間を削り、施設側に負担をかけるのは教師として合理的ではない。
そう判断した相澤は、「そう長い話でもないから」と面談の予定を放課後から昼休みへと繰り上げ、こうして枢と二人でロータリーを歩いているのであった。
「全然いいですよ。上鳴たちとは、また明日の昼休みにでも話せばいいだけですし」
相澤の謝罪に対し、枢の顔には何の不満も気負いも浮かんでいなかった。言葉通り、本当に一ミリも気にしていないと言わんばかりの表情だ。
普通、高校一年生の学生にとって、昼休みという時間は友人たちと羽を伸ばせる心休まる貴重なひと時であるはずなのに、それを教師の都合で削られてなお、何の未練も見せずに何食わぬ顔で歩く枢。
「(こういう精神的な面の成熟っぷりは、日頃から孤児院で年下の面倒とか見てるのが大きいのかもな……)」
相澤は内心でそんな考えを抱かざるを得なかった。
実力だけでなく、この妙に達観した学生離れした価値観。五条枢という人間は、知れば知るほどに、今まで相澤が受け持ってきたどの生徒たちとも重ならない異質な少年だった。
しかし、相澤はすぐに思考を切り替え、本来の呼び出しの目的である『本題』へと踏み込んだ。
「五条。お前、九月の───いや、早ければ六月の『仮免』、受ける気あるか?」
不意に投げかけられたその言葉。
それを聞いた瞬間、流石の枢も歩みを止め、アイマスクの下でマリンブルーの双眸を大きく見開いていた。
「……え、マジ?」
枢の口から漏れたのは、純粋な驚愕の声だった。
仮免───通称『ヒーロー仮免許取得試験』。
それは毎年六月と九月に全国で実施される、非常に難易度の高い国家資格試験である。この試験に合格して仮免許を取得すれば、プロヒーローの監督下、あるいは緊急時に限って、プロと同等の権利を行使し“個性”を用いた戦闘や救助活動を行うことが法律で許可される。
本来であれば、それは雄英高校の生徒といえども、基礎を徹底的に叩き込まれた来年度の二年生になってからようやく取得を視野に入れるのが一般的なスケジュールだ。
それを入学してまだ三日しか経っていない一年生に、しかも早ければたった二ヶ月後の六月に受けろというのだ。
それは、長い雄英高校の歴史においてもまさに異例の提案であった。
目を丸くして自身を見つめてくる枢に対し、相澤は歩みを止め、ゆっくりと振り返って肩を竦めた。
「大マジだよ。冗談でこんな時間削るか」
相澤の三白眼が、ひどく真剣な光を帯びて枢を真っ直ぐに射抜く。
「いいか、五条。ヒーローとしての心構えや、法律、救助の実践的な活動については、お前であっても俺たちから教えるべき座学は山ほどある。……だが、こと“個性”の扱いと戦闘能力に関しては、正直、現時点でも俺たちからお前に教えられることは余りない」
それは、教育者としての己の無力を痛感する瞬間であり、同時に五条枢という規格外の才能に対する最大限の賛辞でもあった。
昨日の対人戦闘訓練。クラスメイト全員がかりで襲い来る状況を、後の試合に支障をきたさないよう完璧なダメージコントロールで制圧して『完勝』してみせたあの手腕。
空間を支配する『無下限』の“個性”、そして全ての情報を見通す『六眼』、果てにはそれを十全に制御する戦闘センス───すでに一端のプロヒーローを遥かに凌駕する領域に達している彼に、これ以上他の学生と同じ『基礎』の戦闘訓練を積ませたところで、得られる経験値は皆無に等しい。
「お前みたいな奴に、他の生徒と同じペースで無為に時間を過ごさせるのは全く以て合理的じゃないからな」
相澤は教師らしく、だが一人のプロヒーローとして、五条枢という天才にこの過酷な課題を提示した。
この短い期間の間に、特例として仮免の取得を目指してみろ、と。
「ただし、もし六月に受けるとなれば来月には『体育祭』が控えてるし、その後には『職場体験』も入ってくる。授業と並行して試験対策も行う以上、お前のスケジュールは文字通りカツカツになるぞ」
相澤は脅すように低い声で警告する。
体力的な負担はもちろんのこと、精神的な重圧も計り知れない。仮免試験は全国の猛者たちが集う本気の潰し合いだ。いくら戦闘能力に長けていようと、ヒーローとしての総合的な判断力が伴わなければ枢であっても容易に落とされるのは明白。
「それでも……俺たちは、お前なら出来ると踏んでこの提案をしている」
だから、後はお前次第だ。
そう言わんばかりに、相澤は鋭い眼差しで枢の意志を問うた。
沈黙がロータリーを包む。
前代未聞の提案。過酷なスケジュール。のしかかるプレッシャー。
普通の一年生であれば、あまりの重圧に尻込みするか、あるいは不安に顔を歪める場面だろう。
しかし───。
「───くくっ」
五条枢の口から漏れたのは、どこまでも楽しげな、歓喜に満ちた笑い声だった。
プレッシャーなど微塵も感じさせない。まるで退屈な日常に、最高のゲームを与えられた子供のような無邪気さ。
彼はアイマスクの位置を指先で軽く直すと、常と変わらない、否、常以上の絶対的な自信に満ち溢れた不敵な笑みを浮かべて言葉を返した。
「そりゃもちろん───やるに決まってるでしょ」
全く動じた様子もなく、むしろそれを望んでいたかのような即答。
その言葉を聞いた相澤は小さく息を吐き出すと、どこか満足げに、そして深く口角を吊り上げて頷いた。
「なら、来週から本格的に試験に向けた特別カリキュラムを始めていく。……せいぜい覚悟しとけよ」
「望むところ」
相澤の言葉に、枢が俄然やる気を覗かせてニィッと笑みを深めた───その、直後のことだった。
ウウゥゥゥ───!
突如として、雄英高校の広大な敷地全域を揺るがすような、けたたましく重々しいサイレンの音が鳴り響いた。
「……ん?」
枢が思わず首を傾げたのと同時に。
『セキュリティ3が突破されました。生徒の皆さんは速やかに屋外へ避難してください』という、無機質で切羽詰まった校内アナウンスがスピーカーから響き渡る。
「何事?」
何やら喧騒に包まれ始めた校門の方角へと枢が視線を向ければ。
アイマスクの下の『六眼』がこちらに向かって怒涛のように押し寄せてくる『人の波』を捉え、枢は思わず絶句した。
「うわ……朝のマスコミじゃん。これって不法侵入にならないの?」
そこにいたのは
オールマイトが教師として雄英に赴任したという特大のニュースを受け、今朝の登校時間前から雄英の校門前に陣取り、執拗に生徒や教師にマイクを突きつけていたあの報道陣の群れだった。
彼らは今、完全に理性を失い、まるで餌に群がるハイエナのようにカメラやマイクを振り翳し、校舎に向かって雪崩れ込んできているのだ。
「(雄英バリアーぶっ壊して来たのかよ)」
雄英高校の校門は、学生証や教員の通行証などの正規のIDがなければ絶対に開かない、通称『雄英バリアー』と呼ばれる強固な防壁で守られているはずだ。
それを無理やり突破してまで、オールマイトから一言コメントを貰おうと押し寄せてくる報道陣の姿。
特大のスクープを手に入れるためなら手段を選ばないその姿勢に、流石の枢も「商魂たくましいと言うか、何と言うか……」と、呆れを通り越して感心すら覚えてしまうほどだった。
「チッ……」
隣で舌打ちの音。
見れば、相澤が先程までの柔らかな雰囲気を完全に消し去り、殺気すら帯びた鋭い目で押し寄せるマスコミの波を睨みつけていた。
「はぁ……五条、お前は教室に戻ってろ」
アナウンスは屋外への避難を促しているが、正門からマスコミが押し寄せている以上、下手に屋外へ出るのはかえって面倒なことになると判断し、相澤は首に巻かれた捕縛布を整えながら低い声で告げる。
「仮免に関する書類の諸々は、これを片付けたら教室に持って行ってやる。変に巻き込まれるなよ」
そう言い残すや否や、相澤は黒いジャージの裾を翻し、報道陣の群れに対処すべく凄まじいスピードで校門の方角へと駆け出していってしまった。
「頑張ってー」
嵐のように駆け去っていった担任の後ろ姿に手を振りながら、枢はもう片方の手をポケットに突っ込み、再び小さく肩を竦めた。
「……どこの世界でも、野次馬ってのはホント面倒な生き物だねぇ」
誰もいないロータリーで一人愚痴を零しつつ、枢は相澤から言われた通り、これ以上面倒な騒ぎに巻き込まれる前に教室へと引き返すべく、ゆっくりとその歩みを進めるのであった。
☆
柔らかな春の陽光が、孤児院の年季の入った窓ガラス越しに差し込み、フローリングの床に四角い陽だまりを作っている。
普段であれば、学校に通っていない幼い子供たちが中庭を駆け回り、無邪気なはしゃぎ声が施設全体に響き渡る時間帯。しかし、この部屋───五条枢にあてがわれた個室だけは、外の喧騒から切り離されたかのような静寂に包まれていた。
その部屋の片隅に置かれた、清潔な白いシーツが敷かれたシングルベッド。
そこに、小さな身体を丸め、シーツに顔を埋めるようにして横たわっている一人の少女がいた。昨日、夜の帳の中で枢に手を引かれてこの施設にやってきた、透き通るような白髪と赤い瞳を持つ少女、壊理である。
『ねえ、エリちゃん。一緒に中庭でみんなと遊ばない?』
『新しい絵本があるの! 一緒に読も?』
午前中から昼過ぎにかけて、彼女の存在を知った他の子供たちや世話係の職員たちが何度かこの部屋を訪れ、扉越しに優しく声をかけてくれていた。
彼らの声に悪意がないことは子供ながらに分かっていた。しかし、壊理はその度にギュッと身を縮こまらせ、無言で首を横に振ってその誘いを拒絶し続けていた。
彼女にとって、五条枢という絶対的な庇護者がいないこの場所は、まだ未知の恐怖でしかなかったからだ。
だからこそ、彼女は枢が「学校行ってくるよ」と頭を撫でて部屋を出て行ってからずっと、彼が戻ってくるのを待って、この部屋から一歩も外に出ようとはしなかった。
枢の匂いと温もりが微かに残るこのベッドの上が、今の彼女にとって世界で唯一の安全地帯だった。シーツに顔を押し当て、枢が自分のために枕として用意してくれた柔らかいクッションを両腕でギュッと抱きしめる。
静かな部屋の中で、壊理はぼんやりと窓の外の青空を眺めながら、自分がどうして今、こうして見知らぬ天井の下で温かいシーツに包まれているのか───その切っ掛けとなった、ほんの数日前の出来事をゆっくりと想起し始めた。
───死穢八斎會。
世間一般には指定敵団体、すなわち『ヤクザ』と呼ばれる極道組織。その本部の地下深くに建造された、陽の光など一切届かない冷たく無機質な一室。
そこが、壊理にとっての世界の全てだった。
冷たいコンクリートの壁。鼻を突く消毒液と、染み付いた鉄錆のような血の匂い。
そして、部屋の中央に鎮座する、冷たい医療用の手術台。
毎日のように行われる、『実験』という名の解体と蘇生の繰り返し。それが彼女の日常だった。
彼女の内に眠る『巻き戻し』という突然変異の“個性”。それを利用して、人間の“個性”を根本から破壊する薬を精製するため、彼女の身体は文字通り部品として消費され続けていた。
冷たい手術台の上に縛り付けられ、鋭いメスや無慈悲な“個性”によって生きたまま肉体を切り裂かれ、時には血を抜かれることもあった。そして、命が尽きる寸前で───否、命が尽きてもなお、自身の“個性”を暴走させられた果てに元の状態へと強制的に修復される。
数えることすらとうの昔に放棄してしまった。彼女は幾度となく、自身の身体をバラバラに解体され続けてきたのだ。
『……うるさいな。そろそろ慣れろよ、エリ』
激痛と恐怖に悲鳴を上げるたび、常に冷酷な声でそう告げてくる男がいた。
特徴的なペストマスクを被った、短い黒髪の男。死穢八斎會の若頭であり、壊理にとっての最大の恐怖の象徴───オーバーホール。
彼の“個性”である『分解と修復』によって、彼女の身体は幾度となく壊され、そして直されてきた。その過程で味わう痛みは、言葉では表現しきれないほどの文字通りの地獄だった。
もう、嫌だ。
もう、痛いのは嫌だ。
痛みと恐怖だけが渦巻く無限地獄のような環境に、壊理の幼い精神は度々悲鳴を上げていた。
ある日のこと。監視役の組員が一瞬だけ目を離した、本当に針の穴を通すような奇跡的な隙。何度目になるか分からない脱出の試みで、壊理は震える足を必死に動かし、地下の迷宮のような廊下を抜け、息を殺して階段を上り、ついに監視の目を盗んで『地上』へと出ることが叶ったのだ。
しかし、外の世界に出たからといって、彼女に目的地などあるはずもなかった。
ずっと地下室に閉じ込められていた幼い彼女は、ヒーローや警察といった世間一般の人間が窮地に陥った際に頼るべき存在のことすら全く知らなかった。
自分がどこに向かえばいいのかも、誰に助けを求めればいいのかも分からない。
ただ、「誰でもいいから助けてほしい」「あの冷たい部屋には戻りたくない」と無意識の内に心の底で叫びながら、素足のまま、薄汚れた路地裏の湿ったアスファルトの上を必死に駆け抜けていた。
だが、当然ながら、そんな目的地のない幼い子供の逃走劇が成功するはずもなかった。
入り組んだ路地裏で、ヒーローも警察も、誰も彼女の小さな姿を見つけることはできなかった。
カツ、カツ……。
背後から、ひどく規則正しい、静かで冷徹な足音が近づいてくる。
壊理はその音を聞いた瞬間、心臓が凍りつくような絶望の気配を感じ取った。絶対に聞き間違えるはずのない、あの男の足音。
「エリ」
背後から響いた、抑揚のない低く冷たい声。
その声の主は、特徴的なペストマスクを着用したオーバーホールだった。
路地裏の暗がりの中で、男は逃げ惑って壁際に追い詰められた壊理を、「本当にどうしようもない子供だ」と言わんばかりに、呆れたように嘆息しながら見下ろしていた。
その無慈悲で氷のような視線に捉えられた瞬間、壊理の身体はビクッと大きく跳ねた。
身体の芯、魂の奥底から湧き上がってくるような根源的な恐怖に、全身の震えを止めることができない。彼女の赤い瞳には、ボロボロと大粒の涙が滲み出していた。
また、あの冷たい地下室に連れて行かれる。
また、冷たい台の上に縛り付けられて、身体を切り刻まれる。
もう、痛いのは嫌だ。怖いのは嫌だ。
……誰か、誰か助けて。
声にならない悲痛な叫びを上げながら、迫り来るオーバーホールの手に、壊理はギュッと固く目を瞑り、身体を丸めて最後の抵抗を見せた。
そんな、絶望の淵に立たされた彼女の祈りが、どこかの誰かに届いたのだろうか───
『───もう大丈夫。僕がいる』
ノイズ混じりの、ひどく掠れた声。
それはオーバーホールの声でも、ましてや助けに来てくれた正義の味方の声でもなかった。
壊理の背後に積み上げられていたゴミの山。そこに不法投棄されていた、画面が割れかけた古ぼけたブラウン管テレビ。電源など入っているはずもないその黒い画面の向こう側から、突如として響き渡った異質な言葉だった。
その言葉は、どこか平和の象徴を意図的に模倣したような、それでいて底知れぬ悪意に満ちた、背筋が凍るような不気味な響きを孕んでいた。
廃棄されたテレビから発せられたその声に、壊理が、そして彼女の腕を掴もうと手を伸ばしていたオーバーホールが、あり得ない事象に驚愕して目を見開いた直後だった。
「「ッ!!?」」
ゴボォッ、という不快な水音。
突如として、壊理の小さな口の中から、黒紫色の泥のようなヘドロが大量に溢れ出したのだ。
それは嘔吐物などではない。実体を持たない『空間の歪み』そのものが、彼女の体内から噴き出し、瞬く間に彼女の身体を飲み込もうと周囲に広がっていく。
「エリ!?」
オーバーホールが驚愕に目を見開き、壊理を捕まえようとさらに手を伸ばした瞬間。
彼の眼前に、路地裏の暗闇を切り裂くようにして、突如として
「なんだ、こいつは……!?」
隆起した悍ましい筋肉。頭蓋骨が欠損し剥き出しになった脳髄。そして、その脳髄から生えた左右二対の翼と、後頭部から伸びる蛇のような不気味な尻尾。
オーバーホールから壊理を引き離すようにして出現したそれは、全てを圧倒するような暴力の気配を纏った純白の怪物であった。
突然現れたその得体の知れない怪物から放たれる、規格外のプレッシャー。
それは極道組織の若頭として数多の修羅場を潜り抜けてきたオーバーホールでさえ、一瞬だけ防衛本能が働き、警戒して足を止めてしまうほどの絶対的な力の塊だった。
互いに驚愕と警戒を露わにする中、廃棄されたテレビの画面がチカチカと明滅し、そこに白い文字で『SOUND ONLY』という文字が浮かび上がった。
そして、画面の向こうの闇の中から、再びあの悪寒を感じさせる声が告げられた。
『身を委ねるんだ。君はただ、目を閉じているだけでいい』
壊理の心の隙間。恐怖で空いたその穴に、ぬるりと滑り込んでくるような甘く恐ろしい声。
何が起きているのか、この泥が何なのか、目の前の白い怪物が誰なのか、幼い壊理には全く理解できなかった。
しかし、それでも。
この泥に飲み込まれれば、あの冷酷な男から、あの痛くて苦しい地獄の地下室から逃れられるのなら構わない。例えそれが悪魔の誘いであろうと何であろうと、彼女はそれにすがるしかなかった。
画面の向こうの言葉に従うように、壊理はゆっくりと目を閉じた。
黒紫色の泥が彼女の小さな身体を完全に包み込み、視界が真っ黒に染まっていく。遠くでオーバーホールが舌打ちをする音と、白い怪物が唸り声を上げる音が微かに聞こえたのを最後に、彼女の意識はフワリと泥の中へと沈んでいった。
───そして。
何度目かの泥の冷たい異物感が消え、再び足の裏に固い地面の感触を覚えた時。
恐る恐る目を開けた彼女の視界に広がっていたのは、見慣れぬ閑静な住宅街といつの間にか夜になっていた周囲の景色、そして古びた孤児院の鉄門だった。
自分がどうやってここまで来たのか、あのテレビの向こうの声の主が一体何者だったのか、そしてなぜ自分をこの場所に転送したのか。その全てが謎のまま、彼女はただ夜の暗がりに一人ぼっちで放り出されていた。
再びやってきた孤独と不安に、彼女が身体を震わせて縮こまっていた、その時だった。
『ねぇ、君。うちのチビたちのお友達?』
夜の闇の中で、優しく声をかけてくれた長身の少年。
そうして彼女は、五条枢という存在と運命的な出会いを果たしたのだった。
「(……まだ、かな)」
ベッドの上で身を縮こまらせながら、壊理は回想から意識を現実へと戻した。
あの陽だまりのように温かくて、絶対に自分を傷つけないと本能で理解できた少年の帰りを待ち続けながら。彼女の脳裏に浮かぶのは、彼が自身を安心させるためにアイマスクを外して見せてくれた、あの宝石のような特異な瞳。
初めて死穢八斎會の地下室から逃げ出し、路地裏で世界を見上げた時に目にした、あの何処までも高く広がる蒼穹。
五条枢の『六眼』は、その初めて見た空と同じくらい、どこまでも蒼く、美しく、そして彼方まで澄み渡っていた。
「(また、みたいな……)」
あの蒼い瞳に見つめられている間だけは、光の届かないあの地下室での地獄の記憶を、身体に刻まれた痛みを、壊理は完全に忘れることができる気がした。
ギュッと、枢の匂いが残るクッションを強く抱きしめる。
窓から差し込む陽だまりの暖かさと、シーツの柔らかな感触に包まれながら、壊理は早くこの部屋の主が帰ってこないかと思いを馳せ、静かに瞼を閉じた。
次に目を開けた時には、あの安心する温もりと、蒼く澄んだ瞳が自分を出迎えてくれることを祈りながら、彼女の意識は浅い微睡みの中へと落ちていくのだった。
自分なりに調べたんですけど、仮免の詳細は六月と九月に開催されるってこと以外は特に出てこなかったのでちょいちょい捏造してます。
あと、書き溜めが無くなってしまったので毎日投稿はこれで終わりです。
なるべくテンポ良く更新できるように頑張ります。