USJ襲撃事件から一夜明けた、木曜日の午前。
未曾有の
主を失った校舎が静寂に包まれる中、厳重なセキュリティに守られた第一会議室だけは、ひどく張り詰めた重苦しい空気に支配されている。
長方形の巨大なテーブルを囲むように着席しているのは、校長である根津をはじめ、オールマイト、プレゼント・マイク、スナイプ、ミッドナイトといった雄英の教師陣。そして、彼らと向き合うようにして、疲労の色を濃く滲ませた警察の人間───塚内直正が立っていた。
「───主犯の二人に逃げられた!?」
静まり返った会議室に、オールマイトの驚愕の声が響き渡る。
彼の落ち窪んだ眼窩の奥。蒼い瞳が見開かれ、信じられないものを見るかのように塚内を凝視していた。
「ああ……」
親友からの言葉に、塚内は悔しげに唇を噛み締め、重々しく頷くことしかできない。
「護送中、何の前触れもなく二人の口から泥のようなものが溢れ出し、そのまま……ね」
「『ワープゲート』の
昨日のUSJでの出来事を思い返しながら、オールマイトは食い下がるように問うた。
現場へ駆けつけた際、黒霧と呼ばれたあの黒紫色の靄の
もう一人の主犯格である、全身に手首を纏った死柄木弔という
警察の特殊護送車に乗せられ、拘束衣と手錠で雁字搦めにされていたはずの彼らが、自力で逃亡を図ることなど物理的に不可能な状態であった。
「その通りだ。だからこそ、まず間違いなく外部からの介入だったと見ている」
塚内は手元の捜査資料に視線を落とし、忌々しそうに言葉を紡ぐ。
「護送車の監視カメラの映像も確認したが、二人とも意識は戻っていなかった。不意に口から黒色のヘドロのようなものが噴き出し、それが彼らの身体を包み込んだかと思うと……次の瞬間には跡形もなく消え失せていたんだ。同乗していた捜査員がすぐ取り押さえようとしたものの、泥には物理的な拘束が一切意味を成さず……本当に、申し訳ない」
「判断を誤った」と、警察としての失態に苦汁を隠せない塚内。
深く頭を下げる旧友の姿に、オールマイトは無念さに奥歯を軋ませた。
意識のない人間の口から泥が溢れ出し、空間を転移させる。そんな未知の“個性”による外部からの強制介入など、現場の捜査員にどう防げというのか。
「(……いや、責められない。そこまで行くと、その場で射殺する以外に防ぐ方法はなかっただろう)」
ヒーロー社会の法の下において、裁判も経ていない被疑者を無抵抗のまま射殺することなど絶対に許されない。
つまり、あの泥が発現した時点で、“個性”の使用を禁じられている警察に彼らを留めておく術は皆無だったのだ。オールマイトは内心でそう結論づけ、仕方なかったと納得してそれ以上の追及を呑み込んだ。
「それで、彼らの素性についてはどこまで分かったんだい?」
重苦しい空気を切り裂くように、白鼠の姿をした雄英校長、根津が鋭い視線を塚内に向けて話を促す。
「それが……現状、全くと言っていいほど手掛かりが掴めていません」
塚内はため息交じりに首を横に振った。
「『死柄木弔』と『黒霧』という名前、そして死柄木の触れた物を粉々にする“個性”や黒霧の『ワープゲート』に関しても、警察のデータベースには一切の該当がありませんでした。無戸籍かつ偽名であることは確定です」
「個性の登録もなしか……。根っからの裏の人間だな」
プレゼント・マイクが腕を組みながら渋面を作る。
現代の超人社会において、自身の“個性”を公的機関に登録しないというのはそれだけで何らかの訳アリだと判断されておかしくない。彼らは社会の影に深く潜み、誰にも認知されないままあの襲撃計画を練り上げていたのだろう。
「加えて、USJで捕らえた他の
有象無象の犯罪者たちを百人近くも束ね、雄英高校の敷地内へと送り込んだ統率力とカリスマ性。
その報告に対し、オールマイトは昨日の保健室での緑谷出久との会話を思い起こしていた。
「……緑谷少年たちの話を聞く限りだと、あの死柄木という男はとてもそんな組織のトップに立つような器の人間には思えなかったが」
数多の凶悪な
「思い通りにいかないと癇癪を起こし、自身の力を誇示するように残酷な振る舞いを見せる。正直、彼のことは幼児的万能感を持った子ども大人のように感じていたよ」
「……ああ。だからこそ、恐ろしいんだ」
塚内が、オールマイトの言葉を引き継ぐように表情を険しくした。
「ただの子ども大人が、あれほど用意周到な襲撃計画を立て雄英のセキュリティを突破できるはずがない。それに加えて、五条くんから教えて貰った君に匹敵するパワーを持つ『脳無』と呼ばれる改造人間の存在……。今回の護送中に泥で逃げられた一件を鑑みても、彼らのバックには我々の想像を超える、それ以上の悪意が潜んでいてもおかしくはない」
見えざる巨悪の存在。
その言葉に、会議室の空気が一段と重く沈み込んだ。ただの暴漢の集まりではなく、明確な意思と圧倒的な技術力を持った『組織』が、雄英を、そして平和の象徴を狙っている。
「用意周到な計画や脳無の製造方法しかり……その辺りについては、今後警察の捜査網を全国規模に拡大して、死柄木たちの再逮捕と背後関係の洗い出しに尽力していくつもりです」
塚内は警察としての決意を口にすると、一度言葉を区切り、真剣な眼差しでオールマイトと根津を見据えた。
「ただ……その上で。今回の事件において、どうしても一つだけ解せない点がある」
「───何故、奴らが五条少年のことを知っていたのか、ということだね」
オールマイトの口から発せられた少年の名前に、会議室の教師たちの間に微かな動揺が走った。
五条枢。雄英高校1-Aに所属する、あらゆる常識を覆す破格の能力を持った白髪の生徒。
昨日、彼がUSJの天蓋を吹き飛ばして駆けつけなければ、相澤や13号、そして生徒たちの誰かが命を落としていてもおかしくなかった。
「平和の象徴の殺害を謳い、USJに現れた
塚内は手元の調書を捲り、該当の箇所を指で示した。
「しかしその反面。彼らは君と同様に当日遅れてやって来る予定だった五条くんの不在については、明らかに確信を持って知っている様子だった。入り口で黒霧と対峙した複数の生徒たちからも、そう証言が取れている」
『オールマイトがいなくとも……五条枢が不在である今のうちに、せめて私の役割だけは確実に果たさせてもらいます』
黒霧がUSJの入り口で、飯田天哉たちを前にして放ったというその言葉。
それは明らかに、五条枢という一人の生徒をオールマイトに次ぐイレギュラーとして事前に認知し、警戒していた証拠であった。
「……確かに、それは妙だね」
塚内の言葉を引き継ぐように根津が椅子から立ち上がり、長い尻尾を揺らしながら周囲の教師陣を見渡す。
「あのUSJ襲撃事件の数日前、マスコミが雄英バリアーを突破して敷地内に雪崩れ込んでくるという騒動があった。その裏で、職員室に保管されていた授業カリキュラムの一部が喪失していたことが判明したね」
根津は黒々とした丸い瞳を細めた。
「私は当初、教師陣がマスコミの対応に追われ校舎を空けている隙を突き、何者かがカリキュラムを奪取したのだろうと考えていた。そして、その情報を元にオールマイトがUSJにいる時間帯を狙い、今回の襲撃が行われたのだと。……だが」
根津の言葉に、オールマイトがハッと顔を上げる。
「USJを襲撃した
枢が授業に遅刻することになったのは、彼が暮らす孤児院の所長が危篤状態に陥ったという、当日の朝に発生した予期せぬアクシデントによるものだ。
それは、事前に奪取したカリキュラムの紙切れからは絶対に得られない情報である。
つまり、
「間一髪で駆け付け、かつ自身の右腕を負傷してまで
根津は冷静に、だが冷酷なまでの論理的思考で言葉を続ける。
「だけど……彼の周囲に目を向ければ、怪しいと言わざるを得ないのもまた事実だ」
「五条少年の周囲、ですか……」
「もちろん、彼が雄英の入試において、実技・筆記共に類稀なる成績を残してトップ入学を果たした逸材としてすでに方々で噂になっている可能性はある。カリキュラムを盗み出したのがもしも
だが、と根津は首を横に振る。
「それは果たして、彼らの最大の目的でもある平和の象徴の殺害───つまり、オールマイトの動向把握を差し置いてまで、優先してやることなのだろうか?」
「……答えは、否、ですね」
オールマイトが苦渋の表情で頷く。
彼らの目的はあくまでオールマイトの殺害だ。五条枢は確かに厄介な存在だろうが、標的であるオールマイトがどこにいるかも分からない状態で、わざわざ一人の生徒の遅刻情報をピンポイントで把握しているというのはあまりにも不自然すぎる。
その事実が導き出す推論に、周囲の教師陣や塚内から反論の言葉は上がらなかった。
確かに、枢自身は白かもしれない。
しかし、彼は児童養護施設出身という、雄英の厳重なセキュリティ下にある寮生活などとは違い、悪く言ってしまうならいくらでも外部からの抜け道や監視の目を作れてしまう立場の人間である。
枢本人にその意図はなくても、彼を取り巻く施設の職員、出入りする業者、あるいは施設周辺の不特定多数の人間が
そして、そう考えれば。
何故、
オールマイトの動向は雄英のセキュリティに守られているため掴めなかったが、孤児院で暮らす枢の動向だけは、外部から容易に監視、あるいは情報を引き出すことができたから。
「……しかし、塚内くん」
オールマイトが、どこか祈るような声で口を開いた。
「今のところ、五条少年自身は当然として、彼が暮らす施設の職員や他の子どもたちにも、敵と繋がっているような不穏な動きがあったという報告は上がっていないんだろう?」
「これに関しては、まだ事件から一夜明けたばかりだからね。何とも言えないというのが正しいが……そうだね、目立った不審な動きは確認されていない」
子どもを疑いたくないと目を伏せる塚内の言葉を受け、根津はブラックコーヒーの入ったカップを傾け、静かに言葉を続ける。
「もちろん、相手は百にも及ぶ
根津のどこか呆れを孕んだ棘のある言葉がオールマイトに刺さる。
事実であるが故に反論できず、うっと胸を抑えて沈黙するオールマイトを横目に、プレゼント・マイクが重苦しい空気を振り払うように、大げさに肩を竦めながら言葉を発した。
「つってもよぉ、校長。持ち出されたのはあくまで俺たち『教師側』のカリキュラムだぜ? 奴さんたち、水難ゾーンに水中で有利な蛙吹を飛ばしたりと、生徒たちの“個性”までは把握してなかった節もある」
マイクは塚内から聞いた昨日の戦闘の様子を思い起こしながら、頭を掻きむしった。
「その中で幾ら入試トップで有名だっつってもよ、敵側が五条の“個性”だけはヤバいと完璧に理解して対策してましたってのも……いやまぁ、確かにあれだけのインパクトの強い“個性”なら納得もいくけどよ」
何だよ無限って。と呆れ顔でボヤくマイクに、オールマイトも「確かにね」と苦笑を零すしかなかった。
五条枢という存在が、ヒーロー側にとっても、そして
「一先ず、五条少年の周辺については、塚内くんたち警察と連携して引き続き水面下で慎重に調査を進めるとして……」
オールマイトは小さく咳払いを一つし、会議の空気を切り替えるべく、本題に入るように根津へと問いかけた。
「それでは校長。今回の事件を受けて、来月に控えている例の行事───『雄英体育祭』は、どうされるおつもりで?」
オールマイトのその問いに、会議室の空気が再び緊張に包まれる。
USJ襲撃という、学校の運営自体に支障をきたす大事件が起きた直後だ。常識的に考えれば、外部から不特定多数の人間を招き入れる一大イベントなど、延期か中止にするのが妥当な判断である。
しかし。
根津はカップをソーサーへ硬質な音を立てて置き、自身の顔にある小さな傷跡を撫でながら、毅然とした態度で周囲の教師陣を見据えた。
「うん。今回は───」
☆
臨時休校が明け、USJ襲撃事件の傷跡がまだ生々しく残る金曜日の朝。
登校してきた1-Aの生徒たちは、いつものように教室でホームルームの開始を待っていた。しかし、彼らの表情にはどこか緊張感と、これからどうなるのかという僅かな不安な色が浮かんでいる。
そんな中、建付けの悪い引き戸が勢いよく開く音と共に、一人の男が姿を現した。
「おはよう」
「「「相澤先生!!?」」」
教壇に立ったのは、担任の相澤消太であった。
しかし、その姿は普段の気怠げなジャージ姿とは程遠い。顔面から首、そして両腕に至るまで、全身を純白の包帯で雁字搦めに巻かれた、さながら生きたミイラ男のような異様な出で立ちだった。
「先生、無事だったんですね……!」
「プロ根性っていうか、もはや執念を感じるわ……」
生徒たちが驚きと労いの声を上げる中、相澤は包帯の隙間から覗く三白眼でぐるりと教室内を見渡し、いつもと変わらぬ淡々とした声で口を開いた。
「俺の安否はどうでもいい。……それより、お前たちの戦いはまだ終わってないぞ」
その言葉に、生徒たちの間に微かな緊張が走る。
まさか、また
「雄英体育祭が迫っている」
「「「めちゃくちゃ学校っぽいの来た!!」」」
USJでの死闘から一転、あまりにも平和的で学生らしい行事の発表に、切島や上鳴たちが机に突っ伏しながらも歓声を上げた。
雄英体育祭。
それは今や日本のビッグイベントの一つとして、かつてのオリンピックに代わるものと言われるほどに、全国を熱狂の渦に引き込む国内最大規模のスポーツの祭典である。
全国から注目が集まるこの祭典で結果を残せば、プロヒーロー事務所からのスカウトの確率が格段に跳ね上がる。ヒーローを目指す彼らにとって、それは絶対に逃すことのできない、自身の未来を切り拓くための最大のショーケースなのだ。
「待ってください、相澤先生!」
しかし、クラス委員長に復帰した飯田天哉が真剣な顔つきで手を挙げた。彼自身の“個性”である『エンジン』は、五条の言う通り細胞の修復が進み、昨日の朝には無事に機能を取り戻していた。
「
「……ま、当然の疑問だ」
相澤は頷き、包帯越しにくぐもった声で答える。
「だが逆に言えば、ここで体育祭を開催することこそが、雄英の危機管理体制は万全であると世間に証明することに繋がる。……だからこそ、例年よりも警備を強化し、厳重な入場検査を敷くことで体育祭は開催の運びとなった」
それに、と相澤は生徒たちを見据える。
「お前たちにとっても体育祭は計三回しかない数少ないチャンスだ。トップヒーローたちがスカウト目的で目にする以上、お前たちの将来のことも考えれば、
その言葉に、生徒たちの目の色が明確に変わった。
恐怖に怯えるのではなく、ヒーローとしての未来を掴み取る。決意を新たにしたクラスメイトたちの熱気が、教室内の温度を数度引き上げる。
「ふぁ……」
そんな中。
熱気に包まれる教室の最後列で、五条枢は豪快な欠伸を一つ零し、ひどく気怠そうに頬杖をついていた。
「おいおい、入試首席様は体育祭なんて欠伸するほど余裕ってか?」
前の席から振り返った瀬呂が、面白がるように軽口を叩く。
「ん? まぁ、余裕ってのは否定しないけど……ただちょっと、最近寝不足でさ」
「いやそこは謙遜して否定しろよ」
瀬呂のツッコミを右から左へ受け流しつつ、枢は窓の外の青空へ目を向けながら、自身の脳裏で何故ここまで眠気を蓄積するに至ったのか、その経緯を思い起こしていた。
「(分かってはいたけど、やっぱり先生が念押しするだけあってスケジュールカツカツだなぁ……。最近は孤児院の方もバタバタしてるし、臨時休校の遅れも取り戻さないとだし)」
六月に行われる仮免取得試験に向けたスケジュール調整。
それこそが、枢を慢性的な睡眠不足に陥らせている最大の要因であった。
相澤の予測では、今年の仮免試験は『救助活動』を主体に評価される可能性が高いという。
ただ
枢には、その辺りの実践的な経験とノウハウが決定的に不足していた。
そのため、その対策として、枢はUSJ襲撃事件の前日まで、相澤や災害救助のスペシャリストである13号の力を借り、朝早くから登校しては救助の基礎や法規の勉強に時間を費やしていたのだ。
しかし、当の指導役である二人がUSJでの戦闘で重傷を負ってしまったこと。さらには、自身の暮らす孤児院の所長が危篤状態に陥り、施設内が多忙を極める状況になってしまったことも重なり、ここ数日は満足に講義を受けることが叶わなくなっていた。
その遅れを取り戻すため、枢は深夜まで仮免の過去の災害救助の映像資料と睨み合って自己学習に励み、さらに今日は始発の電車で雄英にやって来て、まだ傷の癒えないミイラ状態の相澤から特別講義を詰め込まれていたのだ。
そのような経緯から、流石の枢であっても、朝のホームルームの時点にして気を抜けば船を漕いでしまいそうなほどの強烈な眠気に包まれていた。
「つか体育祭か……。普通に五条無双になりそうな気がしなくもねぇよな」
上鳴が、椅子の背もたれに寄りかかりながら天井を仰いでボヤく。
「まぁ、ウチら全員がかりでもボコボコにされたもんね」
「おいおい上鳴、耳郎! やる前から負けること考えるなんて漢らしくねぇぞ!」
「でもよ切島、体育祭の最終種目って例年一対一のバトルトーナメント形式だぜ?」
切島の熱血な言葉に対し、瀬呂は「流石に五条相手にサシはなぁ……」と困ったように頬を掻いた。
あの時の戦闘訓練で何もできずに昏倒させられた記憶。そして、USJ襲撃の後に枢自身の口から語られた『六眼』という相手の“個性”を見透かす驚愕の特異体質の件。
防御も攻撃も規格外な上にこちらの“個性”まで筒抜けとなれば、どう足掻いても正面から勝てるビジョンが思い浮かばないと、瀬呂だけでなく多くの生徒たちが匙を投げている様子だった。
当の枢と言えば、そんなクラスメイトたちのざわめきなどどこ吹く風といった様子で、澄ました顔で窓の外へ視線を向け続けている。
しかしその内心では、意識を飛ばさないように全く別の思考を巡らせていた。
「(体育祭か……。USJ襲撃のこともあるし、流石にエリちゃんとかは呼べそうにないかな)」
枢の脳裏を過ぎったのは、自身が仮免対策で忙しくあまり時間を取ってやれないため、孤児院の自分にあてがわれた部屋の隅でどこか寂しそうに一人遊びに興じている白い髪の少女───壊理の姿だった。
彼女があの夜に枢に連れられ孤児院にやって来てから、早いもので一週間ほどが経過しようとしている。
しかし、未だに壊理は枢以外の人間に心を開く様子はなく、同年代の子供たちが「一緒に遊ぼう」と部屋の外から声をかけても決して扉を開けようとしないのだ。
『枢くん以外の人に触られるのがすごく怖いみたいで……。私たち職員がご飯を持っていっても、ずっと部屋の隅で縮こまっててね……』
どこか困ったように、しかし痛ましそうに自身へ告げてきた所長代理の女性職員の言葉を思い返す。
「(まぁ、虐待されてたってんならすぐに他人を信用しろって方が無理な話でしょ。別に無理してチビたちと関わらせなくても、自分のペースで慣れていってくれればとは思うけど……俺も仮免終わるまでは、あんまり時間取って遊んでやれないのは事実だしなぁ)」
だからこそ、関係者枠として壊理をこの体育祭に連れて来ることができれば、彼女にとっても外の空気を吸う良い気分転換になるのではないか、と枢は密かに考えていたのだ。
オリンピックに代わるほどの舞台である雄英体育祭で学生たちが全力で競い合う熱気ある姿を見れば、彼女の凍りついた心も少しは解けるかもしれないと。
しかし、今回の
相澤が先程告げた通り、体育祭のセキュリティは例年の五倍以上に跳ね上がり、一般人の参加には厳格な身元確認と入場検査といった制限がかけられてしまったのだ。戸籍すら持たない訳アリな子供たちが多く所属する自身の孤児院の背景を思えば、壊理を関係者として潜り込ませることは極めて難しくなってしまった。
「(ホント、あいつらタイミング悪いことしてくれるよなぁ……)」
枢は内心で忌々しそうに、
「(所長代理にお願いして保護者として一緒に来て貰う……ってのも、所長が危篤状態の今の時期じゃ流石に頼みづらいし。よしんば大丈夫だったとしても、留守番してる他のチビたちも「俺も行きたい!」って絶対ついてきたがるだろうからなぁ)」
テレビの中継もあることだし、今年は大人しく孤児院のテレビで観戦して貰うのが一番無難か。
枢が自身の思考の中でそう結論付け、窓の外の青空から視線を教室の中へと戻した、その時だった。
「(……あ)」
視界の端に映った相澤のミイラ姿を見て、枢の脳内にある重大なタスクの抜け漏れが唐突にフラッシュバックした。
「(やば、そういえば選手宣誓の言葉、すっかり忘れてた)」
入学試験をトップの成績で通過したという理由で相澤から先日のホームルームで面倒な役回りを押し付けられていたことを、ここ数日のドタバタですっかり忘却の彼方へと追いやってしまっていたのだ。
数万人もの観客と、全国のテレビ中継のカメラの前に立って行う選手宣誓。
いったい何を言えばいいのやら、と。
欠伸を噛み殺しながら、枢は迫り来る体育祭に向けて、どこまでもマイペースに、そして軽薄に思考を切り替えていくのであった。