午前中の授業を終え、雄英高校の広大な学生食堂は腹を空かせた生徒たちの喧騒と熱気に包まれていた。
クッキングヒーロー・ランチラッシュが腕によりをかけた絶品メニューの数々がカウンターに並び、食欲をそそるスパイスや出汁の香りが巨大なホール全体に充満している。
そんな活気あふれる空間の片隅、窓際の四人掛けのテーブル席で。五条枢は日替わりの特製カツ丼に舌鼓を打ちながら、正面に座るクラスメイトの言葉へオウム返しするように小首を傾げた。
「───なんでヒーローを目指そうと思ったのか?」
「そうそう。よく考えたら、五条には聞いてなかったなって思ってさ」
枢の問い返しに頷いたのは、口元に米粒をつけながら割り箸を振る瀬呂範太だった。
その隣の席では、上鳴電気がハンバーグ定食を咀嚼しながら、向かいに座る枢の顔をジト目で観察している。
相変わらず顔の上半分、特に視界をすっぽりと覆い隠すその出で立ちで器用に箸を使って肉と卵を口に運んでいく枢。
その神業のような食事風景に、上鳴は「よくそれで飯食えんな……」と、純粋な疑問と呆れが入り混じった眼差しを向けていた。
しかし枢は周囲の目を気にも留めず、黄金色に揚がった衣へ染み込んだ出汁の味を堪能しつつ瀬呂の質問へと意識を向ける。
「急にどうしたのさ。また女子連中に聞いてこいって頼まれた?」
「いや、俺らも色々とあったじゃん? USJでの襲撃とか、これからの体育祭とかさ。そんで、みんなどういう気持ちでヒーロー科にいるのかなーって気になって、切島とか峰田とか、クラスの男連中には軒並み聞いて回ってんだよ」
瀬呂は苦笑しながら、これまでのヒアリング調査の結果を思い返す。
「……まぁ、轟には端から相手にされなくて、爆豪には「話しかけんな」って盛大な舌打ち返されたけどな」
「辛辣ー」
クラスの二大巨頭とも言える彼らの塩対応っぷりに、枢は箸を止めて愉快そうに声を上げて笑った。
「んで、そんなガンギマリ連中にバチバチに対抗心燃やされてる五条は実際どうなのよ?」
瀬呂が身を乗り出し、興味津々といった様子で枢の顔を覗き込む。
入試をトップの成績で通過し、戦闘訓練ではクラス全員を子供扱いして打ち倒し、先日のUSJでは単身で絶望的な状況を引っくり返してみせた規格外の存在。
そんな男が、一体どんな崇高な理念や大層な目標を抱いて雄英の門を叩いたのか。瀬呂だけでなく、上鳴も食事の手を止めて期待の眼差しを向けていた。
そんな二人の視線を受け、枢はどんぶりを軽い音と共にテーブルへ置き、アイマスクの下で目を細めて薄く口角を吊り上げた。
「俺の理由の前にさ。二人はどうせ『モテたい』とか『テレビに出て目立ちたい』とか、そういう分かりやすい理由でしょ?」
「「ッ!?」」
悪戯っぽく笑いながら放たれた枢の言葉に、瀬呂と上鳴は図星を突かれたように肩を大きく跳ねさせ、同時に顔を引き攣らせた。
平和の象徴に憧れて、兄のようなヒーローになりたくて。そういった純粋な動機を持つ緑谷や飯田のような生徒もいれば、思春期の男子高校生らしく、名声や異性からの人気といった不純だが等身大な欲求でヒーローを目指す者も当然いる。
「まぁ間違っちゃいねぇけど……」
「じゃあそういうお前はどうなんだよ! さぞかし立派な理由があるんだろうな!?」
痛いところを突かれ、顔を赤くして詰め寄ってくる瀬呂と上鳴。
そんな彼らの反応を面白がりながら、枢はあっけらかんとした、いっそ拍子抜けするほど軽い調子で言葉を返した。
「二人と同じでそんな大した理由じゃないよ。───俺、孤児だからさ。高校卒業したら孤児院出てって、自分で食い扶持稼がないといけないからね。“個性”使って手っ取り早く高給稼げる仕事がしたかったし、それならプロヒーローが適任だなって思っただけ」
「「…………は?」」
大した理由じゃない。本心からそう思っていると言わんばかりに、すまし顔で再び箸を取り、残りのカツ丼を平らげていく枢。
しかし、その言葉を告げられた二人の脳は情報の処理が全く追いついていなかった。
入学初日の個性把握テストや先日の遅刻騒動。相澤の口から語られた「家の事情」や「門限」というキーワードも相俟って、枢が家庭環境に何らかの難、あるいは特殊な事情を抱えているとは二人も薄々察してはいた。
しかし、まさかそれが『孤児』だからであり、施設で育った身寄りのない子供だったなどとは思いもよらず、上鳴と瀬呂は思わず呆然とした表情で固まってしまう。
「え、お前……親とか、は?」
上鳴が踏み込んでいいのか迷うような、遠慮がちに震える声で尋ねた。
「? だから孤児だって。物心つく頃にはとっくに捨てられてたよ」
重苦しい過去の告白などではなく、まるで昨日の夕飯のメニューでも答えるかのような、あまりにも淡々とした返答。
もしかして孤児って言葉の意味わかんない? と。天下の雄英高校に入学しておきながらそこまで頭が弱かったのかと、今度は枢の方が上鳴に対して本気で呆れたような視線を向ける。
その意図に気づいた瀬呂が我に返り、慌てて口端を引き攣らせながら補足を入れた。
「いや、意味が分からないんじゃなくて……上鳴のやつ、お前の境遇が重すぎて理解が追いついてないだけだと思うぜ……」
そんな瀬呂の言葉を聞いて、枢はようやく「あぁ、なるほどね」と納得したように頷いた。
一般的な家庭で育った彼らにとって、『親に捨てられた施設育ち』というプロフィールの人間は、同情や気遣いを向けなければならないデリケートな存在なのだろう。
だが、枢本人にとってはそんな哀れみなど的外れで無用なものだった。
「別に、ホントに気にしてないって」
最後の一口を飲み込むと、枢は二人の気まずそうな空気を払拭するように明るく言葉を続けた。
「むしろ門限以外は特に束縛とかされてないし、案外暮らしやすいもんだよ。メシもちゃんと出るし、孤児院の先生たちも過干渉じゃないしね」
「門限って……あー、だから五条っていつも放課後すぐ家帰ってたのか」
「そそ。そこだけはうるさいんだよねぇ……。ま、こうして学校通うための資金とかお小遣いとかはちゃんとくれるし、生活に不便はしてないけどさ」
枢はそう言いながら立ち上がり、席に着く前に自動販売機で買っておいた紙パックのいちごミルクへ手を伸ばすと、そのまま接着されたストローを剥がし器用に飲み口へと突き刺した。
甘ったるい液体を喉へ流し込みながら、枢は二人に気を遣う様子もなく、背もたれに深く身体を預けてリラックスした姿勢を取る。
「だからランチラッシュの運営してる食堂なんかは大助かりだよ。安くて美味いとか最高じゃない?」
満足そうに笑みを零す枢。
彼のその姿には、己の境遇に対する悲壮感も、親への恨み言も微塵も感じられなかった。
ただ純粋に、自分の力で生きていくための手段としてヒーローという職業を選択し、そのためにこの雄英にいる。彼が纏う迷いのない『強者』然とした佇まいに、瀬呂はどこか圧倒され言葉を失っていた。
「なんか……俺、自分が情けねぇよ」
不意に。
それまで黙り込んでいた上鳴が、手元のハンバーグを突っついていたフォークを置き、地の底から這い出るような深いため息を零した。
「ん?」
「上鳴?」
先程までのノリの良いお調子者の上鳴とは明らかに雰囲気が異なるそのシリアスな声色に、瀬呂だけでなく枢までもが小首を傾げて彼を見つめた。
上鳴はテーブルに視線を落としたまま、自身の両手を白くなるほど強く握り締めていた。
「五条にボコボコにされた戦闘訓練でさ、何となくこのままじゃいけねぇって相澤先生から『焦れ』って言われた時にも思ってたんだけどよ……」
上鳴の脳裏に、USJでの絶望的な記憶がフラッシュバックする。
山岳ゾーンに飛ばされた際、自身の“個性”で敵を倒したものの、キャパオーバーで脳がショートし無防備になってしまった自分。そして、そんな状態の自分を人質に取られ
既のところで駆けつけたオールマイトのおかげで事なきを得たが、もしも後少しでもその到着が遅れていたら───
あの
「USJで俺、
自嘲気味に笑う上鳴。
彼は、自分のように何となくではなく、クラスメイトたちが皆、心の中に熱い炎を宿して本気でヒーローを目指していることを知っている。
飯田や切島のような純粋な憧憬。爆豪や轟から浴びせられた冷ややかな態度は酷いものだったが、それでも彼らがこのヒーロー科でトップを目指し、誰よりもストイックに上を睨みつけていることだけは上鳴にも確かに伝わってきていた。
そして、それは目の前の枢も同様である。
飄々として適当に見えるが、孤児という逃げ場のない現実の中で、自身の力一つで生き抜くために誰よりも合理的に、そして本気で強さを研ぎ澄ましている。
「んで、瀬呂だって何だかんだ言っても、今回の体育祭では本気でトップ狙ってんだろ?」
「……まぁな」
瀬呂が真剣な表情で頷く。
「───なら、俺も本気で目指そうと思う」
上鳴は勢いよく顔を上げ、枢のアイマスクへと真っ直ぐに決意の眼差しをぶつけた。
何か周りの空気に流されたみたいで情けないけどよ、と照れ隠しのように前置きしながらも、彼は自身のトレイを手に立ち上がった。
体育祭で優勝を目指すならば、まず間違いなく最大の障壁として立ち塞がるであろう絶対的な存在。
上鳴は、五条枢という強大すぎる同級生へ向けて、どこか緊張と不安に自身の身体を微かに震わせながらも力強い言葉を叩きつけた。
「具体的なことは、まだ何も考えてないけどさ。───勝つぜ、五条」
明確な宣戦布告。
その言葉を受けた枢は、いちごミルクのストローから口を離し。
「……いいね」
自身の前で覚悟を決めた同級生からの挑戦を真っ向から受けて立つように、確かな、そしてどこか嬉しそうな笑みを覗かせた。
その返答を聞き、上鳴は言っちまった……とばかりにふっと表情を緩めると、「食器片付けてくるわ」とトレイを持って足早に食堂の返却口へと歩き出した。
そうして背中を向けて去って行く上鳴の姿を見送りながら、枢は一人残された瀬呂へそっちはどうするの? と言わんばかりに水を向ける。
「あいつ、裏じゃそんなこと思ってたんだな……」
瀬呂は小さく息を吐き出すと、自身も食事を終えたトレイを手に取って立ち上がった。
そして、上鳴と同じように枢を見下ろして不敵な笑みを浮かべる。
「……当然、俺だってそう簡単に負けるつもりはねぇよ、五条」
USJで共に死線を潜り抜けクラスの絆は深まった。だが、こと体育祭という盤面においては、全員が敵同士だ。
「いつまでも舐めてかかってると、足元すくっちまうぜ?」
そう強気な言葉を残し、瀬呂もまた枢の前から去って行った。
賑わう食堂の中、一人テーブルに取り残された枢。
彼は空になったいちごミルクのパックを指先で弄びながら、去っていった二人の背中を『六眼』でぼんやりと眺めていた。
「(……モテたいとか目立ちたいとか、動機なんてなんだっていい。要は、その先で何を成すかでしょ)」
最初は不純な動機だったとしても、彼らは今、明確に『プロヒーロー』という自身の未来に向けて本気で足掻こうとしている。
その熱量と、少しずつ成長していく同級生たちの精神性に、枢は内心で心地よい高揚感を感じていた。
「体育祭まで大体二週間か……」
枢はパックを潰し、立ち上がって小さく伸びをした。
「もしかしたら、意外と楽しめるかもね」
誰に聞かせるでもなく、自身の唇からこぼれ落ちた独白。
しかし。
その枢の呟きを、食堂の喧騒と人混みに紛れながら、少し離れた場所から鋭利な視線と共に耳にしている者がいた。
アッシュブロンドの髪と、誰よりも凶暴な赤い瞳。
「(……余裕こいてんじゃねぇぞ、クソ目隠し)」
爆豪勝己は、自身の手の中にある割り箸が木の繊維を軋ませる不快な音を立ててへし折れるのも構わず、静かに、しかし爆発しそうなほどの怒りと闘争心を込めて拳を強く握り締めていた。
☆
「相澤先生、ミイラ状態のくせに容赦ないわー……」
すっかり日が落ち、夜の帳が下りた孤児院の廊下。
五条枢は自身の通学鞄へパンパンに詰められた、授業の課題とは別の分厚い紙袋の重みに思わずため息を零していた。
その中身は今日の放課後、担任である相澤消太から「しばらくは俺も13号も手が空かないから、六月の仮免までにこれをやっておけ」と直々に手渡された、災害救助や関連法規に関する膨大な量の問題集の束である。
USJ襲撃による怪我で全身を包帯で巻かれた痛々しい姿でありながらも、生徒への指導───特に、救助に関する知識が圧倒的に不足している枢への課題に関して、相澤は一切の手加減をしてくれなかった。
「あー、しんど」
いくらなんでも量が多すぎる。
内心でボヤきながら、枢は歩き慣れた孤児院の廊下を進み、自分にあてがわれている個室の前に辿り着いた。
まずは食堂へ行って飯を食い、風呂で汗を流してサッパリしてからあの鬼のような問題集と睨めっこしよう。そう段取りを決めながら、枢はドアノブを回して自室の扉を開く。
蝶番の錆びついた微かな摩擦音が、暗がりに響いた。
「……ん?」
部屋の電気をつけるよりも早く。
枢は暗闇の中で、ふと自分に向けられる視線を感じて顔を上げた。
視線の先。窓から差し込む僅かな月明かりに照らされた部屋の片隅、ベッドの上の定位置。
そこには、枕代わりにと自身が与えた柔らかいクッションを大事そうに両腕で抱きしめ、ちょこんと体育座りをしてこちらを見上げている透き通るような白髪と赤い瞳を持つ少女───壊理の姿があった。
「(起こしちゃったかな?)」
時計の針は既に夜の八時を回っている。
普段の彼女であれば、この時間帯は浅い微睡みの中で船を漕いでいる頃合いだ。しかし、今日の壊理は赤い瞳をしっかりと見開いており、扉が開くのをずっと待っていたかのように枢の姿を捉え、微かに肩を揺らしていた。
「ただいま、エリちゃん」
枢は壁のスイッチを押して部屋の明かりをつけると、鞄と問題集の束を適当に机の上へ放り投げ、ベッドに縮こまっている壊理の元へと歩み寄った。
そして彼女の小さな頭に手を乗せて、わしゃわしゃと優しく撫で回す。
「……っ」
壊理は、一瞬だけ僅かに身体を強張らせた。
他者との接触に対する反射的な怯え。しかし、頭を撫でるその掌が誰のものかを認識した途端、彼女の小さな身体からゆっくりと力が抜けていく。
壊理はクッションを抱きしめる力を少しだけ緩めると、されるがままにその手を受け入れ、目を細めて安心しきったように枢の温もりへとすり寄った。
「お、今日は字の練習してたんだ。結構うまく書けてるじゃん」
頭を撫でながら視線を落とした枢は、ベッドの足元、フローリングの床に広げられたままになっている数冊のノートと鉛筆に気がついた。
それは学校へ行く前、「暇ならやっておくといいよ」と手渡していた幼児向けの平仮名やカタカナの学習教材だった。
地下室に幽閉され続け、これまで文字の読み書きや一般的な学習というものを一切してこなかった彼女だが、ノートの半分以上は既に、幼いながらも非常に丁寧で一生懸命な字でびっしりと埋め尽くされていた。
「偉い偉い。ちゃんと一人で勉強できたんだね」
枢は、まるで自身の妹の成長を喜ぶ兄のように目を細め、さらに優しく彼女の頭を撫でる。
その言葉と温もりに、壊理はどこか照れくさそうに、真っ白な頬をほんのりと赤く染めて俯いた。
その時だった。
ふと、壊理の小さな鼻が微かに動き、彼女の視線が枢が制服の反対の手に提げているコンビニのレジ袋へと向けられる。
そこから微かに漂ってくるのは、壊理がこの施設に来て初めて口にし、そのあまりの美味しさに瞳を丸くした、あの甘くて優しいシナモンとカスタードの香り。
「あ、気づいた?」
香りの正体に気づき、赤い瞳をパッと輝かせた壊理を見て、枢は思わず苦笑を零した。
「勉強頑張ったご褒美。また一緒に食堂で食べよっか」
枢の誘いに壊理は迷うことなく、小さく、しかし力強く頷いた。
その反応に「よし」と応えつつ、枢は人差し指を口元に立てて悪戯っぽくウインクをする。
「チビたちには内緒ね」
内緒話のような響きに、壊理は自分と枢だけの特別な秘密を共有できたような気がして、抱きしめたクッションに顔を埋めながら再び静かに頷きを返す。
そうして二人は、子供たちが寝静まり始めた孤児院の廊下を、足音を忍ばせながら食堂へと連れ立って歩みを進めていった。
☆
「───そういえば、もうすぐ体育祭があるんだけどさ」
人気のない夜の食堂。
すっかり彼女の大好物となってしまったコンビニのアップルパイを、両手で大事そうに持って小さな口で少しずつ頬張る壊理。その微笑ましい姿を横目に、遅い夕食を取り終えた枢が不意に言葉を切り出した。
枢の視線は、壁に備え付けられた大画面の液晶テレビへ向けられている。
電源は入っていない黒い画面を見つめながら、今日学校で発表された一大イベントについて言及したのだ。
しかし、その言葉を受けた壊理は、パイ生地を咀嚼する口を動かしたまま不思議そうに小首を傾げた。
無理もない。いくら現在の日本において、かつてのオリンピックに代わるほどの圧倒的な注目度と熱狂を集めるイベントと言えど、ずっと地下室に閉じ込められていた彼女がその存在や社会的な意味合いを認知しているはずがないのだから。
体育祭? そう言わんばかりにきょとんと枢を見つめ返す赤い瞳に、枢は「あー……」と頭を掻いた。
「まぁ知らないよね。……うーん、何て言えばいいかな」
世間と隔離されて生きてきた彼女でも分かるようにこの行事を口で説明しようとすると、想像以上に難しいことに枢は気がつく。
『全国にテレビ中継されるプロへのアピールの場』と言っても理解できないだろうし、『同世代が“個性”を使って競い合うお祭り』と言っても、彼女の中の“個性”の認識が虐待の記憶と結びついてしまう危険性がある。
どう言い換えるべきかと思案していた枢の脳裏に、ふと、先日の所長代理の言葉が蘇った。
「同年代の子たちが一緒に遊ぼうって声をかけても自分の部屋から一歩も出ようとしないの。このままじゃ孤立しちゃわないか心配で……」と、壊理の対人関係について深く悩みを吐露していた女性職員の言葉。
それを思い出した枢は軽く手を打つと、いいことを思いついたと言わんばかりに言葉を続けた。
「あのさ、エリちゃん。もう二週間くらいしたらあのテレビに『俺』が映ると思うんだよ」
枢は壁のテレビを指差し、そして壊理の赤い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「そしたら俺の部屋に一人でいるんじゃなくて……施設の他のチビたちや先生たちと一緒に、この食堂でそれを見ててほしいんだよね」
「……?」
枢の提案に、壊理の表情へ微かな不安の色が過った。
「うちの孤児院の一大イベントで、毎年みんなでテレビの前に集まってワイワイ応援するんだけど……絶対エリちゃんでも楽しめると思うからさ」
そう告げる枢の真意を、壊理は正確には理解できなかった。
『体育祭』が何なのか。なぜみんなでテレビを見るのか。
しかし、彼女の小さな頭の中でたった一つだけ確実に理解できたことがあった。
───もう少ししたら、あの黒い画面にこの人が映る。
枢が学校へ行っていて自分の傍にいない時間は、壊理にとって何よりも不安で孤独な時間だ。
だが、もしあのテレビの中に枢が現れるのなら。枢がいない間でも、彼の姿を見て安心することができるのなら。
他の知らない子供たちと一緒にいるのは、まだすごく怖い。
でも、この人がそうしてほしいと言うのなら頑張ってみようかな、と。
壊理は食べかけのアップルパイを持ったまま不安そうに瞳を揺らしながらも、決意を込めるように静かに首を縦に振った。
「そっか。ありがとね、エリちゃん」
彼女の健気な承諾に、枢は安堵の笑みを浮かべて再びその頭を優しく撫でた。
「(これがチビたちと仲良くなる切っ掛けになってくれたらって思うけど……ま、それが成功するかどうかは俺の見せ方次第か)」
枢は空になった食器を片付けながら内心で思考を巡らせる。
雄英体育祭。
そこにおいて『優勝』という結果を飾ること自体は、自身の実力を以てすれば別段難しい話ではない。
どんな競技が来ようが誰が相手になろうが、“個性”を駆使すればそれこそ一瞬で全てを蹂躙して終わらせることだって出来るだろう。
しかし。
それでは駄目なのだと、枢は冷静に状況を俯瞰していた。
ただ圧倒的な力で他を寄せ付けず、瞬殺して終わるだけの試合。
それは見ている側からすれば明らかな出来レースであり、何の感情の揺さぶりもカタルシスも生まれない非常につまらないショーになってしまう。
優勝は、あくまで大前提の通過点。
その上で、テレビの向こうで自分を見ているであろう壊理たちを楽しませるためにはどうすればいいか。
枢の脳裏に、今日の昼休みの出来事が蘇る。
食堂で自身の境遇を告白した際、自らの無力さを悔やみ「本気で目指す」「勝つぜ」と明確な挑戦状を叩きつけてきた上鳴電気。それに同調し「簡単に負けるつもりはねぇ」と不敵に笑った瀬呂範太。
さらに、今日の放課後。
ホームルームが終わるや否や、1-Aの教室の扉の前に群がってきた他クラスの生徒たち。
USJ襲撃を生き延びたA組の連中がどれほどのものか、偵察と威嚇を兼ねて集まってきた彼ら。その中で、普通科の紫色の髪をした生徒がA組全体へ向けて宣戦布告を叩きつけた。
それに噛み付いた爆豪勝己のバチバチとした敵意と、クラス内に蔓延した「やってやる」という闘争心の炎。
あの時、枢は教室の最後列で帰宅の準備をしながらその光景を眺めていたが、彼ら全員の瞳に宿っていたのは本気でトップを獲るという強い野心と熱意だった。
「(そっちがその気なら、こっちも存分に利用させて貰おうか)」
暗い食堂の片隅。
アップルパイを食べる壊理の横で、五条枢のアイマスクの下の碧眼が、強者としての余裕と悪戯を企むエンターテイナーとしての愉悦に光る。
来るべき雄英体育祭。それは、ただの学生の競技大会などではない。
最強の理不尽が主役を務める前代未聞の独壇場となることを予感させながら、枢は誰にも見えぬところで不敵な笑みを零すのであった。