第一種目、50メートル走。
つい先程、相澤による『除籍は合理的虚偽』という種明かしによって安堵の空気に包まれていた1-Aの生徒たちは今、再びグラウンドのスタートラインへと引き戻され、張り詰めた沈黙の中で一人の少年の背中を見つめていた。
その信じ難い宣言を放った白髪の同級生───五条枢。
一切の不安も緊張もなく、どこまでも己の力への絶対的な自信で溢れたその横顔を、緑谷出久は少し離れた場所から食い入るように見据えていた。
「(一体、どんな“個性”を使うんだろう……)」
出久の脳内では、すでに猛烈な勢いで思考の歯車が回転し始めていた。
この場にいるクラスメイトたちは、皆それぞれが厳しい入試を勝ち抜いてきたエリートであることは言うまでもない。先程の個性把握テストでも、各々が自身の“個性”を最大限に活かし、常人離れした記録を叩き出していたことからもそれは明白だ。
特に、この50メートル走においては『エンジン』の“個性”を備えた飯田天哉が『3秒04』という圧倒的な記録を残している。これを超えるだけでも至難の業だというのに、彼は総合成績トップである八百万を抜くと言い放ったのだ。
それは並の自信で言えることではない。また、その出で立ち───顔の半分を覆う漆黒のアイマスクを着用したままテストに臨もうとしている異様な姿も相俟って、出久の目にはただの虚勢や無謀なハッタリを口にしているようには到底見えなかった。
「えと、五条くんって言ってたっけ……ほんとに大丈夫なんかな」
じっと固唾を呑んで見守る出久の隣から、不安の滲んだ声音でそう声をかけてきたのは麗日お茶子だった。
彼女の丸い瞳には、自ら退学の危機に飛び込もうとしている見ず知らずのクラスメイトへの純粋な心配の色が浮かんでいる。
お茶子自身、先程のソフトボール投げにおいては自身の『
故に、一つや二つ得意な種目で突出した記録を出した程度では、全種目でアベレージの高い上位層の壁には届かない。その事実を身を以て理解しているからこそ、緊張感の欠片もなく「トップ以外なら除籍でいい」と笑い飛ばした五条の姿が、彼女にはひどく危ういものに映っていた。
「先生も、なんであんなムチャクチャな提案に乗っちゃったんやろ……」
「相澤先生は『見ていれば分かる』と言っていたが……正直なところ、五条くんのあの宣言はあまりにも現実味に欠けていると言わざるを得ないな」
お茶子の懐疑的な呟きに答えるように、腕を組んだ飯田が真剣な面持ちで会話に加わる。彼の眼鏡の奥の瞳もまた、スタートラインに立つ五条の姿を危ぶむように見つめていた。
「八百万さんの“個性”は『創造』だ。自身の体からあらゆる物体を創り出すことができる彼女の力は、今回のテストにおいてあまりにも万能すぎた。……並の“個性”では、彼女の総合記録を塗り替えることなど土台不可能だぞ」
一芸に特化した“個性”ではどうしても不得手な種目が出てくる。八百万百が総合トップに君臨したのは、彼女の持つ『創造』の“個性”があらゆる状況に対して最適解を叩き出せる、高い汎用性を誇っていたからに他ならない。
「飯田くんの言う通りだね……。僕も、八百万さんの記録を超えるのは並みの“個性”じゃ難しいと思う」
だからこそ出久は、不敵な笑みを浮かべる五条枢という同級生が、一体どんな“個性”を持っているのかと思考を巡らせずにはいられなかった。
自分と同じような身体強化系か、あるいは幼馴染のような強力無比な“個性”か……。出久が無意識にブツブツと分析の呟きを漏らし始めた、その時だった。
「お、始まるみたいだぜ───って、おいおい。あいつスタブロ使わねぇのか?」
クラスメイトの一人である切島鋭児郎が、前方を指差しながら素頓狂な声を上げた。
その声にハッとして視線を戻した出久たちの目に飛び込んできたのは、あまりにも信じられない光景だった。
通称、スターティングブロック。
短距離走において、スタート時の爆発的な推進力を生み出すために必要不可欠と言われるその器具は、グラウンドのスタート位置に当然のように設置されていた。
しかし、スタートラインに立った五条枢は、その器具を使用する素振りを一切見せなかった。それどころか、彼は満足に走る体勢───クラウチングスタートの姿勢にすら入っておらず、ただ真っ直ぐに直立して右手を軽く前方に掲げて佇んでいるだけだ。
それはこれから50メートルを全力で駆け抜けようとする陸上競技者の姿ではなく、まるで横断歩道でタクシーでも拾おうとしているかのような、完全に弛緩しきった立ち姿であった。
「な、なんだあの構え……走る気あんのか、あいつ?」
「ていうか、本当にあの目隠ししたままやるつもりかよ……前見えてねぇだろアレ」
ざわ、ざわと。
五条の堂々たる、いや、あまりにもふざけた態度に興味を抱いたのか。気づけば出久の周囲には、お茶子や飯田だけでなく1-Aの生徒たちがほぼ勢ぞろいするような形で集まっていた。
少し離れた場所から冷ややかな視線を送る推薦組の轟焦凍や八百万百。そして、チッと舌打ちをしながらも鋭い眼光で五条を睨みつけている爆豪勝己。
彼らを除く面々が皆一様に、あの白髪の少年が一体どんな“個性”を使うのかと固唾を呑んで見守っていた。
『位置について』
記録用のカメラを備えた無骨なロボットから無機質な音声が発せられる。
その言葉を合図に、空気がピンと張り詰める。出久は思わず息を止め、瞬きすら忘れて五条の姿を網膜に焼き付けようとした。
彼が動く瞬間。その“個性”が発動する、最初の一瞬を絶対に見逃すまいと。
『よーい……』
パンッ! と乾いた発砲音がグラウンドに響き渡る。
出久がその音に反応し、五条の足元に視線を集中させた───次の瞬間だった。
「え……?」
五条枢の姿が、スタートラインから消失した。
それは、瞬きの間にも満たない一瞬の出来事。
呆然とする一同の思考を現実に引き戻したのは、ピピッという測定を終えたロボットのシステム音であった。
「───は?」
自分の、あるいは誰かの間の抜けた声が空気に溶ける。
出久が慌ててグラウンドの奥へと視線を走らせると、そこには、すでに50メートル先のゴールラインを悠々と通り過ぎ、何事もなかったかのように立ち止まっている白髪の少年の姿があった。
走った形跡すらない。どころか、息一つ乱してもいない。
まるでスタートラインの空間からゴールラインの空間へと、映像のコマを飛ばすように瞬間移動したかのような、あまりにも埒外の事象。
『0秒24』
グラウンドの静寂を引き裂くように、ロボットの無機質な音声がその記録を無慈悲に宣告した。
「「「は……??」」」
1-Aの生徒全員の口から、今度こそ全く同じ間抜けな声がハモるように重なって響き渡った。
出久はあんぐりと口を開けたまま自分の目と耳を疑った。飯田の『3秒04』という記録すら常軌を逸したスピードだったのに『0秒24』? そんなの人間の動体視力で追えるはずもない。一体何が起こったのか、出久には全く理解できなかった。
そして、それは出久だけではなかった。
隣にいた飯田も眼鏡の奥で限界まで目を見開き、お茶子も両手で口を覆いながら悲鳴のような声を上げている。少し離れた場所で見ていた推薦入学組の八百万や轟でさえ、その端正な顔に明らかな驚愕と困惑を浮かべて目を白黒させていた。
「あいつ……ッ、何しやがった……!?」
幼馴染の爆豪もまた、信じられないものを見るような目で吠えている。
そうして、クラス全体がパニックに陥る中。
ゴールラインの先で、自身の記録を正確に宣告したロボットを興味深そうにしゃがみ込んで眺めている五条枢。その背中を見据えながら、相澤消太が気怠げな足取りで生徒たちの前に進み出る。
その顔には、だから言っただろと言わんばかりの呆れたような表情が張り付いていた。
「五条枢───今年の入試を圧倒的な成績で『首席』で突破した、本物の天才だよ」
その相澤の言葉が放たれた瞬間。
出久を含め1-Aの生徒一同は、雷に打たれたかのようにその場に硬直したまま、己の常識が根底から覆される音を確かに聞いていた。
☆
「(0秒24……まぁ、こんなもんか。でも、まだ発動までにもたついてるから、もっと個性因子の巡りを意識してタイムラグを短縮しないとな)」
50メートル走のゴール地点。自身の記録を宣告したロボットを興味深そうに眺めながら、五条枢の脳内はすでに次なる改善点の洗い出しに入っていた。
クラスメイトたちが信じられないものを見るような目を向け、担任の相澤が「本物の天才」などと大仰な紹介をしている声も聞こえていたが、枢にとっては他人の評価などどうでもよかった。彼が見据えているのは常に、自身の脳内にある『
次なる種目、握力測定。
屋内に移動して配られた電子握力計を手に取った枢は、アイマスク越しの碧眼で手に持つ計器が普通の構造をしていないことを瞬時に把握する。
純粋な肉体の力で競うのであれば、枢の握力は同年代の平均か、それより少し強い程度だ。しかし、これは『個性把握テスト』。己の持つ“個性”をいかに応用するかが問われている。
これなら“個性”使っても壊れる心配はなさそうだ、と胸中で安堵した枢が、ぐぐっと握力計を握る手に力を込めた。
「(引く力ならお任せあれってね)」
握力計の持ち手を握ったまま、枢は計器を対象に『蒼』による引力を極小規模で発生させた。
ギギギッ……! と、握力計の硬質なプラスチックと金属が軋む嫌な音が響き渡り、その持ち手がまるで目に見えない万力に引き寄せられるように強制的に引き絞られていく。
ピピッ、という測定終了の計測音を合図に液晶パネルに表示された数字は───『600kgw』。
「(んー……術式対象をもっと細分化して、計器が壊れないギリギリのラインを攻めればもうちょい上の記録を狙えたな。まだまだ調整が甘い証拠だ)」
六本の腕を持つ大柄な少年───障子目蔵が『540kgw』という記録を出して周囲を驚かせていたのは記憶に新しいが、計測を終えた枢の計器を覗き込んだ上鳴電気が「ろ、ろっぴゃくぅ!?」と素っ頓狂な声を上げたことで、再び1-Aの生徒たちの間に激震が走った。
異形型のパワー特化の“個性”すらも凌駕する、理不尽なまでの圧倒的膂力。しかし、枢の圧巻とも言えるその無双劇はまだまだ始まったばかりであった。
続く第三種目、立ち幅跳び。
砂場の手前に立った枢は、砂場の先にある空間に『蒼』を発生させると、軽い跳躍と同時にその引力で自身の体を引き寄せることで軽々と測定区域を越えて見せた。
トンッ、と。羽のように遥か彼方のグラウンドの芝生の上に着地した枢の測定結果は、『∞』。
第四種目、反復横跳び。
線の間に立った枢は、自身の両サイドの空間に交互に『蒼』の引力を発生させ、それに引っ張られる形で自身を超高速移動させた。
残像すら見せるほどの超反復運動。測定器のセンサーが枢の動きに全くついていけず、火花を散らしてショートし、結果は『測定不能』という前代未聞の記録が宣告された。
そして第五種目、メインイベントであるソフトボール投げ。
円の中に立った枢は渡されたボールをポイっと放ると、そのまま『蒼』を操作して立ち幅跳びの時と同じく測定区域の外まで運んだことで、麗日と同じくこれもまた測定結果は『∞』。
第六種目、上体起こし。第七種目、長座体前屈。
長座体前屈は異形型の“個性”の面々にこそ後れを取ったものの、ここでも枢は『蒼』の微細な引力を駆使し、自身の体を強制的に引っ張り起こし、あるいは限界まで引き寄せることであり得ない回数と数値を叩き出した。
最後の持久走に至っては、50メートル走で見せた空間と座標の圧縮を繰り返すだけであり、疲労すら感じさせないまま悠々とトップで走り抜けた。
全ての種目を終えた時、グラウンドを包んでいたのは、驚愕を通り越して一種の畏怖にも似た完全なる静寂だった。
大半の生徒たちは顎が外れそうなほど口を開け、幽霊でも見るかのように唖然とした表情で枢を見据えている。推薦組の八百万や轟でさえ、その圧倒的すぎる“個性”の前にただ黙り込むしかなかった。
どうして相澤があの時『本物の天才』と評したのか。その理由が、一切の反論の余地もなく、目の前でありありと証明されたからだ。
「───まぁ、妥当な成績だな」
グラウンドの中央で、相澤が手元の端末を操作しながら淡々と告げた。
ホログラムで空中に投影された個性把握テストの総合成績表。栄えある第一位に輝いているのは、長座体前屈以外の種目でトップの記録を叩き出した“五条枢”の名前だった。
そこからの順位に変動はなく、二位には依然として八百万百が続き、最下位は緑谷出久となっていたが……すでに除籍は合理的虚偽と明言されているため、彼が悲壮な顔をすることはなかった。
「うーん、やっぱり“個性”を存分に使えるのは気持ちがいいや」
アイマスクの奥で目を細め、枢は雲一つない青空に向かって大きく伸びをしながら満足げな笑みを零した。
孤児院の薄暗い地下室で一人黙々と続ける鍛錬も嫌いではないが、こうして陽の当たる場所で“個性”の使用制限を気にせずに力を振るえる解放感は格別だった。
「五条。お前の分のカリキュラムやら教科書やらの諸々は教室の机に置いてあるから、後でしっかり目を通しておくように」
「了解です」
「よし。それじゃあ、初日の行事はこれで終わりだ。各自着替えて教室に戻ったら解散しろ」
相澤はそれだけ言い含めると、相変わらず気怠げな足取りでさっさと一人で校舎の方へと帰っていってしまった。
初日の嵐のような行事が終わり、グラウンドには枢含む1-Aの生徒たちだけが残された。
「(帰りの荷物増えるの面倒だなぁ……置いて帰ったりしたら流石に怒られるか?)」
そんな風に枢が胸中でブツブツと愚痴を溢していた、その時のことだった。
「おい、五条!」
背後から唐突に声が掛かる。
振り返ると、そこには今まで畏怖と驚愕で無言を貫いていたクラスメイトたちが、ゾロゾロと枢の周りに駆け寄ってきているところだった。
「長座体前屈以外トップってお前ほんとすげぇな!? てか、あのワープみたいなやつマジで何!? あ……俺、上鳴電気な。よろしく!」
「私、芦戸三奈! ねぇねぇ、五条ってどんな“個性”なの!? あと、なんで目隠ししてるの!?」
「蛙吹梅雨よ、梅雨ちゃんと呼んで……ケロ。私も五条ちゃんの“個性”、すごく気になってたわ」
金髪の少年が興奮気味に話しかけてきたり、ピンク色の肌と触角を持った少女が目をキラキラさせて詰め寄ってきたり、カエルのような特徴を持つ少女が首を傾げて問いかけてきたり。さらにはそれに続くように、緑谷や麗日、飯田といった面々も、恐る恐るではあるが興味津々といった様子で枢の周りに集まってきている。
その光景に、枢は思わず目をパチクリとさせた。
孤児院の周りの人間もそうだったが、枢はその人間離れした容姿と生まれ持った圧倒的な“個性”の異質さから、同年代の子供たちからは常に『得体の知れない怪物』として遠巻きに見られるか、恐れられるのが常だった。
だが、彼らは違う。
日本中から、超人社会の平和を守る『ヒーロー』を目指して集まってきた、雄英高校の生徒たち。
彼らは枢の規格外の力に驚愕し、圧倒されはしたものの、決して彼を怪物として恐れたり、偏見の目で見たりはしていなかった。ただ純粋に『凄い個性を持った同級生』として自然に接してきているのだ。
「(……なるほど。これが、ヒーロー科ってやつか)」
少しだけ虚を突かれた枢だったが、すぐにふっと口元を緩め、アイマスクの奥で静かにその碧眼を細めた。
「(ま、悪い気はしないかな)」
前世の記憶があるが故に、基本的には遠巻きに見守るスタンスに努めるつもりであったが……今世では恵まれなかった、同じ目線で語り合える他者との交流。それは彼にとって決して不快なものではなかった。
「ていうかさ、家の用事で遅刻したって言ってたけど、そっちは大丈夫だったの?」
「あ、オイラも気になってた。遅延とか事故とか起こってなかったもんな」
次々と浴びせられる質問攻めに、枢は片手を上げてひらひらと振る。
「ストップストップ。取り敢えず教室行こうよ、質問とかは移動しながら答えるからさ」
呆れたような、しかしどこか楽しげな声音でそう返し、枢はクラスメイトたちの輪に混ざって歩き出す。
退屈とは無縁の、騒がしくなりそうな三年間。五条枢の雄英高校での生活が、本格的に幕を開けようとしていた。
書いてて思ったけど蒼の汎用性が高すぎる……。