甲龍歴417年に発生した大規模魔力災害。
アスラ王国フィットア領の中心都市ロア上空に突如として一条の白い光が現れ、地面に着いた瞬間に膨大な光の奔流がフィットア領全域を飲み込んだ。
その結果、領地内の人工物や樹木はほぼ全て消失し、フィットア領は荒涼とした大草原と化した。
消失から一日後、消えたはずの人々が世界各地に散らばって出現し始めた。
しかし、空中に投げ出された者、迷宮内に出現した者、紛争地帯や魔大陸などの危険な場所に飛ばされた者など、行方が分かっても死亡が確認された者は数多い。当然、生死不明の行方不明者も後を絶たなかった。
後の『天剣』と呼ばれる彼は、空中に投げ出された者に分類される。最悪なことに、転移時の衝撃で意識を失っており、力なく地面に頭から叩きつけられたという。
だが、彼はこの時点で既に剣神流の剣聖に至っており、身体が自動的に頭に闘気を集中させて致命傷を防いだ。
加えて、幸運にもその近くに心優しい人物が一人いたことが、彼の運命の分かれ目となった。
尚、その激しい衝撃により、記憶の大部分を失ってしまったと伝えられている。
甲龍歴417年◯月◯日
今日から日記をつけていこうと思う。
簡潔に言えば、自分自身が何者なのかも見当がつかない。
名前も何をしていたのかも。
気付いたら白いベッドに寝かされ、近くの机には持ち物なのだろう片手長剣が立て掛けられ、壁には軽装が吊るされている。
机の上には、今書いている手帳とペンが置かれていた。
ここはどこなのだろうか。
加えて、頭が痛い。
触った感触から身体に損傷はないことがわかっているのだが。
そもそも、今書いているこの文字はどこの言葉なのか。
辛うじてわかることは、自身のおおよその年齢と性別だ。
ひとまずはベッドで寝転がっておくことにする。動き回るとかえって邪魔になる可能性があるからだ。
目が覚めてから少し経った頃、部屋の扉が開いた。
入ってきたのは翼を持つ綺麗な人だった。
背中には大きな翼を生やし、淡い銀髪、すらりとした体躯。胸部の膨らみから女性だと分かった。
表情は穏やかだった。
身構えると、彼女は軽く微笑みこちらに歩いてくる。
彼女の口から出るのは知らない響きの言葉ばかりでよく分からない。
彼女は僕の様子を見てか、ふーむと唸ったと思えば何かを唱え出した。
それが終わると、突然、彼女の言葉が理解できるようになった。
彼女の名はファデュイさんという。
ここは天大陸と呼ばれる、標高3000メートルもの高さにある平地の一集落だそうだ。
彼女は一人で農作業をしながら暮らしている。
話によると、彼女が畑仕事をしていたところ、突然、僕が空から落ちてきたらしい。
普通なら即死となる高さから頭から地面に激突した僕は大量出血だけで奇跡的に生きていたとか。
それを確認したファデュイさんは急いで家に連れ込み、処置をしてくれたそうだ。
助けてくれた感謝を伝えながら、僕は身振り手振りを交えながら「何も思い出せない」と伝える。
ファデュイさんは困ったような顔をしながら、優しい目をして僕を抱き寄せてくれた。
よく分からないが、抱きしめる腕が震えていたことは分かった。
そこから、気が済むまでここに居て良いと言われたので、お邪魔することにした。
とりあえず、身体を休めて少しでも早く動けるようになろう。
甲龍歴417年◯月◯日
今日からは、ファデュイさんが世界について教えてくれた。
軽く昔から。
なんでも、10万年以上前の世界は7つに分かれていて、それぞれ神が世界を支配していたらしい。
これを太古の神の時代、と呼ぶらしい。
7つの世界と神はそれぞれ、
人の世界、人神。
魔の世界、魔神。
龍の世界、龍神。
獣の世界、獣神。
海の世界、海神。
天の世界、天神。
無の世界、無神。
そこから紆余曲折を経て戦争で大陸が二つに分かれ、真ん中に新しい海ができ、束の間の平和が訪れた。
それから時系列は一気に飛び、4200年〜1000年頃。
中央大陸から魔族が駆逐され、外交などの手段によって魔族を魔大陸に閉じ込めたのだ。
中央大陸は自然豊かで暮らしやすい土地。
魔大陸は魔力溜まりのできやすい不毛な大地。
人族は下賤な魔族を魔大陸に押し込めようと、3000年以上掛けてゆっくりじわじわと真綿で首を締めるように魔大陸を封鎖した。
他の種族と連携を取り、二度と大規模な戦争が起こらないようにと。
1000年前——
魔神ラプラスとかいうやべぇ奴が誕生。
なんやかんやありつつ、内乱とか色々で内輪揉めをする魔族たちをまとめ上げ、魔族の国を作り上げた。
そこから紆余曲折を経て、魔神ラプラスは三英傑によって封印される。
とまぁこんな感じ。
端折ったが大体わかったのでいいとする。
ここから分かったのは現在使用されている言語。
・中央大陸で使われている人間語。
・ミリス大陸で使われている獣神語。
・ベガリット大陸で使われている闘神語。
・天大陸で使われている天神語。
・魔大陸で使われている魔神語。
・海全般で使われている海神語。
その話を聞いて、僕は誰かと学んだ断片が脳を駆け巡った。
よく思い出せないが、獣神語、闘神語、魔神語は直感的にできることが分かる。
それを伝えると、ファデュイさんは確認がてら三つを使ってきた。
まぁ、分かった。
発音も読み書きも及第点と言われた。
ファデュイさんは長生きしているようで、この六言語全てできると言う。
うっわ。スゲェ。
とりあえず、今日から天神語を教えてもらうことにした。
出来るなら、同じ土俵で話したいからね。
甲龍歴417年◯月◯日
正確な日付を教えてもらった。
ちなみに、軽い天神語なら話せるようになってきた。
あれから数日が経って、歩くのに支障がなくなった。今日からファデュイさんの農作業の手伝いをする。
甲龍歴417年◯月◯日
数日放置していた片手長剣を握ってみた。
振ってみたのだが不思議なほどにどう扱うべきかが自然と分かる。
長剣を振っていたら、家から木剣と木の槍を持った軽装姿のファデュイさんが出てきた。
どうやら模擬戦をしてくれると言う。
結果として、僕は三大流派を習得していることと、闘気と呼べるものを纏えるのが分かった。
その一つの剣神流に至っては、奥義である光の太刀を習得済みだった。
記憶に靄がかかっているが、誰かに剣聖の階級を頂いたように思う。
ファデュイさんはめっちゃ強かった。
模擬戦によって、誰かの残滓が脳を駆け巡った感覚があったので、記憶を思い出すのにこれが効果的なのかもしれない。
と言うわけでファデュイさんに頼み、朝は農作業、昼は稽古、夜に文字を教えてもらうことにしたのだった。
甲龍歴417年◯月◯日
ファデュイさんに拾われてから一ヶ月が経った。
記憶が戻る兆しは未だなく、時間は過ぎていく。
今日はファデュイさんに連れられ集落の長老のもとを訪ねた。
どうやら、僕がここに転移してきた原因となった現象が風に運ばれて流れてきたらしい。
天大陸から南西の中央大陸。
その領地の一つであるフィットア領という場所で集団転移事件が起こったとか。
それに巻き込まれたのが僕なのではないかと。
ぶっちゃけて言えば、心当たりはない。
フィットア領と言われてもである。
ただ、見当違いというわけでもないのだろう。
故に、フィットア領を目指してみることにする。
甲龍歴417年◯月◯日
フィットア領まで行くことを伝えると、ファデュイさんが護衛として一緒に来てくれることになった。
心強いことこの上ない。
ただ、両親とか親戚から心配されるのではないかと聞くと、既にこの世には居ないから問題ないとの言葉を貰った。
とんだ地雷を踏んでしまう。
僕の表情を察したファデュイさんは無造作にわしゃわしゃと頭を撫でて、「もう昔のことだから気にするな」と言われた。
頭を撫でられたとき、ファデュイさんの目が少し遠くを見ている気がした。
甲龍歴417年◯月◯日
ルートは単純に北から南下していく感じである。
ビヘイリル王国から赤龍山脈を道なりに進み、龍鳴山を上がり、フィットア領へ降りる。
向かう方法は、ファデュイさんに抱きかかえられながら飛んで向かっている。
飛行はとても速いが、これでも速度は落としているそうだ。僕にかかる負荷のことも考えて全速力ではない。
とはいえ、このままの速度で行けば二週間か、一週間ぐらいで着きそうである。
甲龍歴417年◯月◯日
ビヘイリル王国で小休憩を挟むことになった。
売り買いするのではなく、あくまで箸休めという感じ。
色々と観て回ることにする。
甲龍歴417年◯月◯日
ビヘイリル王国の観光から三日が経ち、赤龍山脈を移動中だ。
現在は飛行はせずに歩きで目的地へ向かっている。
理由は簡単に赤龍に見つからないため。
赤龍山脈はその名の通り、赤龍と呼ばれる強い生物がうじゃうじゃといる場所だ。
赤龍は単体でも強いのに、常に数百匹の群れで行動し、竜の中でも最も危険で獰猛な気性から、縄張りに入ってきた生物を骨すら残さずに食べるという。
ファデュイさんの言う通りなら、逃げるだけなら可能ではあるが戦うとなると負けるとか。
基本的に空を活動拠点としているので、地上に降りて歩くことになったわけだ。
甲龍歴417年◯月◯日
アスラ王国に到着。
そろそろ、フィットア領へは歩けばすぐ着く距離だ。
僕を知っている人間がいるといいのだが。
難民テントにて、僕と同じ髪色と瞳の色をした男が、愛称なのだろうか『レイ』と言いながら抱き締めてきた。
横にいるファデュイさんに目線を向けると、彼女は複雑そうな顔をしながら男に視線を落とすだけだった。
仕方ないので、気が済むまで抱き締められることにした。
大の大人に力いっぱい抱き締められるのは流石に痛かった。
男に抱き締められるのはごめん被りたい。抱き締められるなら女の人の方がいいと思ったのは内緒だ。
男は抱き締めながら『よかった。本当に』とうわ言のようにただただ続けていた。
その声は確かに震えていた。
記憶喪失であることを伝えると、目に見えて動揺しているようだった。男は父親を名乗り、パウロ・グレイラットと名乗った。
場所を移動しながら、軽く現状の把握を行う。
ファデュイさんとパウロさんの自己紹介のあと、まず僕の名前はレイモンド・グレイラットと言うらしい。
次に家族構成。
双子の兄:ルーデウス・グレイラット。
妹:ノルン・グレイラット、アイシャ・グレイラット。
ちなみに、アイシャは腹違いである。
コイツ、マジかと思った。
実の母親の名前はゼニス。
アイシャの母親がリーリャ。
とまぁ、こんな感じ。
そこから、思い出したと言わんばかりにパウロさんは二つの手帳を胸元から取り出して差し出してきた。
受け取り、中を見てみるとこれまでの自分のことが書かれたものだった。
いついつに何があってこうこうこうで……と、まめだなと感心すら覚えるほどだ。
少し、ぱらぱらと流し見してみて、ハッとする。
ここで不思議に思ったのだが、手帳の言葉が中央大陸で浸透している人間語ではないということだ。
パウロさんに聞いてみたが、そもそも読めないと言った。なぜ、僕が読めているのか甚だ疑問である。
ここまで、何か思い出したか?とパウロさんに聞かれたが、残念ながら少しも思い出せないことを伝える。
場所の移動を終え、たどり着いたのは難民テント。
中には、「フィットア領捜索団」と書かれた布が吊るされていた。
中に入ると、冒険者なのか、いかにも腕が立ちそうな人間が数十人いた。
聞くに、パウロさんはフィットア領から転移した行方不明者を探す捜索団を設立し、団長をやっているとか。
そこから、妹の一人であるノルンとはパウロさんと一緒に転移しており、こうして出会えた。
パウロさんの後ろに隠れながらではあったが、少し会話をした。
そのあと、捜索団に加わることにする。
ファデュイさんにその旨を伝えると、一緒に探してくれると言ってくれた。農作業とかは大丈夫なのかと聞いてみたら、村長に頼んでいるからと。
はてさて、明日から忙しくなりそうだ。
ファデュイ・グレード
ステータス
種族:天族
出身:天大陸
年齢:586歳(外見年齢28歳)
性格:穏やか、献身的
戦闘能力:帝級と同等
結婚歴:1回、
出産経験:有り
現在:未亡人
ちなみに、彼女と過ごした一ヶ月間で主人公は仮として『ナターシャ』と呼ばれていました。ナターシャというのは、彼女の子供の名前です。
無職転生の世界について知りたい方はなろう原作でチェック。