灰灯の墓守は死者の願いを燃やせない 作:灰を拾う旅人
死者が、姉ちゃんの名前を呼んだ。
八年前に消えた人間の名前を。しかも、俺しかいない火葬場で、焼けかけの灰の中から。
『明日、お前はリナを殺す』
「ふざけるな」
火かき棒を取り落とした。鉄が石床を打つ音に驚いて、炉の上で青い火が縮む。怒鳴った相手はもう死んでいる。分かっている。それでも、死者だから何を言っても許されると思うな。
涙が先に出たのも腹が立つ。
泣いたところで姉ちゃんが帰るわけじゃない。八年前から何度も確認した事実だ。目元を袖でこすり、灰灯を炉へ近づける。掌ほどの真鍮ランタンは、入るはずの願火を嫌がるようにかたかた鳴った。
「名前がないから、入りたくないのか」
『明日』
「聞こえてる。だから黙れ」
身元不明の旅人は、日暮れ前に北街道で倒れていた。年は四十前後。白い外套は泥と血で灰色になり、胸には王立葬務院の焼け跡がある。村の子供が見つけた時には息がなく、荷物も灰札も奪われていた。
本来なら白炉へ回す遺体だ。名の分からない死者は、国の火になる。それが決まりで、ありがたいことだと役人は言う。
俺は嫌いだ。
名前も知らない相手の願いを、薪と同じ重さで量れるほど物分かりがよくない。マウラ婆には「泣き虫は墓守に向かない」と言われたが、向いていないなりに八年続いた。村で死んだ人間の名は全部覚えている。よそ者一人を例外にすると、今夜眠れなくなるのは俺だ。
「カイ!」
火葬場の戸が蹴り開けられた。白髪を後ろで束ねたマウラ婆が、杖ではなく薪割り斧を持って入ってくる。
「誰と喧嘩してる」
「死者」
「負けそうかい」
「かなり」
婆さんは炉をのぞき、鼻を鳴らした。願火は普通、青か緑だ。家へ帰りたかった人は土色が混じる。誰かを愛した火は、触ると妙にあったかい。
この火は白かった。
王国の白炉と同じ、影を残さない白。見ているだけで目の奥が乾く。
「何を聞いた」
答えたくなかった。言葉にすれば、予告が明日の形を持つ。けれど黙れば、婆さんが俺の顔からもっと悪い話を作る。
「明日、俺が姉ちゃんを殺すって」
マウラ婆の斧が、ほんの少し下がった。
「リナと呼んだのかい」
「呼んだ。知ってる声じゃない」
「声が違うなら安心、とはいかないねえ」
「姉ちゃんは死んでる。死体も灰も見つかってないけど、八年だ。だから俺には殺せない」
言ってから、胸の奥が勝手に反論した。灰を見ていない。名を呼んで送っていない。俺は一度も、姉ちゃんを死者として扱えていない。
だから困る。
マウラ婆は俺を慰めず、旅人の外套を鉤で寄せた。そういうところは助かる。下手に優しくされると、涙の理由を説明しなければならない。
「名を探すよ。死者の予言なんぞ、まず身元を確かめてから怖がりな」
「怖がってない」
「その袖、濡れてるけどね」
「煙だ」
「便利な煙だこと」
焼け残った外套、靴、歯、指輪。順に調べる。弔い師の学校へ行ったことはないが、死者が隠し物をする場所は生者と変わらない。見つけてほしい物ほど、体へ近い。
右の長靴だけ底が厚い。小刀を入れると、革の間から薄い銅札が出た。
エイル・ノード。王立葬務院、炉脈技師。
「エイル」
名を呼ぶと白い火が跳ねた。炉の中から風が吹き、灰が逆さに舞い上がる。粒の一つ一つが夜空の星みたいに止まり、その間へ道が浮かんだ。
北街道。エンデ村。共同墓地。
墓地の一番古い区画に、白い人影が横たわっている。
『器を、燃やさせるな』
今度の声は予告ではなかった。エイル自身の、息を削るような頼みだ。
「器って、なんだ」
『七つ、鳴らせ』
「待て。姉ちゃんはどこにいる」
問いを重ねる前に、白い火が灰灯へ飛び込んだ。真鍮の蓋が閉まり、炉の灰はただの灰へ戻る。
マウラ婆と目が合った。
「墓地だね」
「墓地だな」
「夜道は転ぶよ」
「斧を持って走る婆さんに言われたくない」
共同墓地までは坂を上って十分だ。外へ出ると、初冬の風が涙の跡へ刺さった。村の家々はもう戸を閉じ、丘の上では小白炉の煙突だけが白く光っている。
エンデの墓地は、死者より生者のほうが迷いやすい。木の墓標が勝手な方向を向き、根が石を押し上げ、道は雨のたび変わる。けれど俺は目を閉じても歩ける。姉ちゃんと鬼ごっこをして、墓穴へ落ち、二人そろってマウラ婆に殴られた場所だ。
「どの墓だ」
灰灯の白い火が、奥の無縁区画へ傾いた。
そこには墓標がなかった。
代わりに、土から白い指が出ていた。
「生きてる!」
駆け寄って土を掘る。指は冷たいが、死者の冷たさではない。土の下に腕、肩、白銀の髪が現れる。若い女だ。白い服を着たまま浅く埋められ、両手を胸の前で縛られている。
首筋に脈があった。
「マウラ婆、縄を!」
「掘るほうが先だよ!」
二人で土をかき出す。女のまぶたが震え、金褐色の目が開いた。息を吸うより先に、彼女の腹が盛大に鳴る。
「……食事が必要です」
「第一声がそれか」
「千二十七名が空腹を訴えています」
手が止まった。
「何人だって?」
「訂正。千二十六名。ひとり、静かになりました」
女は自分の胸へ耳を当てるように首を傾けた。両手首には白い腕輪があり、七つの空所が並んでいる。空所の一つへ、灰灯の火が引かれかけて戻った。
丘の下で馬が鳴いた。
村の門が叩かれる。硬い声が風を上ってきた。
「王立葬務院だ! 逃亡した白炉の器を捜している。全戸を改める!」
女の瞳から色が消えた。怖がっているようには見えない。けれど縛られた手を、土の中へ隠そうとした。
器。
エイルの願いと、追手の言葉がつながる。
「名前は?」
「識別名はノエ。所有者は――」
「所有者は聞いてない。お前の名前だ」
彼女はしばらく俺を見た。視線の奥で、大勢が一度に息をしている気がする。
「ノエです」
「よし。ノエ、立てるか」
「私を引き渡せば、あなたの村は安全です」
「それを決めるのは俺じゃない。お前は戻りたいのか」
答えは遅かった。腕輪がかすかに鳴る。
「分かりません」
「じゃあ、分かるまで隠す」
マウラ婆がため息をついた。反対ではない。反対なら、もう斧の柄が俺の頭へ来ている。
ノエを古い納骨堂へ運ぶ。扉を閉める直前、彼女が俺の鐘舌のペンダントを見た。
「その印を知っています」
「姉ちゃんの物だ」
「リナ・リュゼ」
心臓が一度、墓穴へ落ちた。
「どこで、その名を」
ノエは千人分の声を探すように目を閉じた。
「リナ・リュゼは、王都の暁炉で生きています」