灰灯の墓守は死者の願いを燃やせない 作:灰を拾う旅人
千人が同時に助けを求めると、声ではなく重さになる。
ノエは両膝をつき、胸を押さえた。白い髪から染め粉が落ちる。願火瓶の光が脈打つたび、その体が別々の方向へ引かれていた。
「ノエ、俺を見ろ」
「見ています」
金色の目は俺を通り越し、死者を見ている。
「この人は娘を捜しています。こちらは家へ帰りたい。あの人は、手を……手がありません。なぜ、私の中に」
言葉の途中で声が変わる。老人、子供、男、女。ノエの喉一つへ、千人が出口を求めて押し寄せている。
俺は彼女の頬を両手で挟んだ。
「名前を言え」
「ない、です。剥がされました」
「お前の名前だ」
ノエの唇が震える。
「……ノエ」
「好きなものは」
「焦げたパン。雨の音。緑色」
「今、一番したいこと」
千の声が答えを奪い合う。やがて細い声が、その底から上がった。
「ここから、出たいです」
これはノエの声だ。
「分かった。出よう。その前に、こいつらの名前を拾う」
どうやって、とガランが聞かなかったのは助かった。俺にも分からない。
名を剥ぐ機械は灰札を細く刻み、壁の管へ捨てている。たどれば廃棄場所があるはずだ。俺はナシュの足が覚えている根道を探した。床のわずかな下り、作業員が荷を避ける時についた壁の傷。工房の奥へ走る。
名剥ぎ機の裏に、灰色の紙くずを圧縮した大袋が積まれていた。
「これを読めばいい」
袋を裂く。数万枚の細片が雪崩れ、床を埋めた。
無理だ。
名と願いはばらばらに切られ、同じ灰色へ混ざっている。一本の瓶へ一人分とは限らない。技能だけ分けられた者、幸福だけ抜かれた者、残りを炉へ送られた者。
それでも、拾った紙片には文字が残っている。
「ラド、鍬を……春まで、畑を」
声に出すと、棚の奥で緑の願火が揺れた。
「メルナ。赤い靴を娘へ」
桃色の瓶が鳴る。
俺は次の紙片を拾った。
「オル・サージ。帰ったら、妻へ謝――」
「カイ、作業員が戻る」
ガランが通路を見た。
もう一枚。もう一人。手を止めたら、今呼んだ者と呼べなかった者を俺が選んだことになる。
「セナ。姉と、海を」
ノエの震えが少しだけ止まる。彼女の中から少女の笑いが抜け、青い瓶へ戻った。
「続けてください」
「続ける」
扉の向こうで足音が増えた。ガランが剣を抜く。ティルは契約書の棚と俺を見比べ、紙片の山へ飛び込んだ。
「こっちは、ヨル。パン屋。息子へ窯を渡す!」
一本の願火が黄色く燃えた。
「読めるじゃないか」
「字くらい読める!」
「なら手を動かせ!」
二人で読む。紙片の端しかない名もある。願いだけのものもある。それでも声にすると、どこかの瓶が返事をした。
扉が開き、緑の前掛けをつけた作業員たちが入ってきた。ガランが剣を横にして止める。
「葬務院特別監査だ。全員、壁際へ」
「灰衣? 監査の予定など――」
「予定を知らせる監査があるか」
堂々と言うと、それらしく聞こえるから腹が立つ。作業員の半分は従ったが、工房長らしい太った男が制御盤へ手を伸ばした。
「侵入者だ! 根炉へ全量を落とせ!」
棚が傾いた。
千本の願火瓶が、壁の管へ吸い込まれようとする。ノエが悲鳴を上げた。彼女の腕から白い光が伸び、瓶を押し戻す。
「ガラン!」
「分かっている」
黒い手甲が工房長の腕をつかんだ。骨の鳴る音。ガランは男を床へ伏せさせ、制御盤から手を外させる。それでも機械は止まらない。
「第二の鐘はどこだ!」
俺が工房長へ怒鳴る。
「そんなものは知らん!」
「嘘つけ。鐘舌でここの扉が開いた!」
「根炉は商会の資産だ! 契約に基づき、すべて正当に買い取った!」
正当。
その言葉で、胸の火が冷えた。
「名前も買ったのか」
「遺族が権利を譲渡した。貧民へ対価も払っている!」
「死んだ本人は、自分の名前を売ったのか」
工房長が黙る。
名剥ぎ機の下から、鐘の低い震えが返ってきた。床へ青い輪が浮かぶ。第二の鐘は機械の土台に埋め込まれている。名を削る刃そのものとして使われていた。
鐘舌を差せば鳴らせる。けれど第一の鐘は、鍵を回しただけでは鳴らなかった。約束を結び直す必要がある。
俺は紙片を見る。数万。俺とティルが一日中読んでも終わらない。
全部を俺が読まなければならない気がした。俺だけが死者の声を聞ける。俺が始めた。途中で人へ渡せば、助けられない者から逃げることになる。
「次を」
ノエが苦しそうに言う。
手元の文字がにじむ。名前を一つ拾う間に、三本の瓶が管へ引かれている。間に合わない。
分かっているのに、紙片を離せない。
姉ちゃんを一人で探して八年。村の死者をマウラと二人で送り、マウラが死んでからは、その願いまで一人で背負おうとした。
誰かに任せるのは、捨てることではない。
村で教わったばかりだ。
「ティル、地上へ行け」
「逃げろって?」
「人を呼べ。市場で家族の願火を売った人、買った人、誰でもいい。自分たちで名前を読めって伝えろ」
「衛兵も来るぞ」
「そいつらにも読ませろ」
俺は工房長を見た。
「作業員もだ。あんたたちが剥いだ名前だ。戻すのを手伝え」
「命令に従っただけだ。我々に責任は――」
「責任の話は後でする。今は助けろ!」
声が工房へ響く。怖がっていた若い作業員が、足元の紙片を拾った。
「……レオナ・ミズ。夫へ、薬を飲み忘れないで」
白い火が一本、棚へ戻った。
別の女も読む。壁際にいた者たちが、少しずつ屈んだ。
ティルは警戒柵の消えた通路を駆ける。ガランは制御盤を押さえ、俺はノエのそばで名を読む。
やがて地上から、怒鳴り声と足音が降りてきた。
「ミナの願火はどこ!」
「父の瓶を返せ!」
「契約書には名を捨てるなど書いてなかったぞ!」
市場の人々だ。衛兵もいる。ティルは何を言ったのか、夢見香の天幕まで連れてきたらしい。客だった男が、まだ甘い煙の匂いをさせて紙片を拾う。
一人では読めなかった名前が、十人、百人の口へ渡っていく。
工房の騒音が、人の声に負けた。
俺は名剥ぎ機の土台へ鐘舌を差し込む。
「俺はカイ・リュゼ。墓守だ。死者の名は、燃料の印じゃない。遺族の持ち物でも、商会の商品でもない」
じゃあ誰のものか。
答えはずっと簡単だった。
「生きて、呼ばれて、選んだ本人のものだ。俺たちは勝手に剥がさない。覚えられないなら記録する。一人で読めないなら、みんなで読む」
鐘舌を回す。
「だから返せ。名前の鐘!」
青い光が根炉を駆け上がった。
鐘の音は、耳より先に胸を打った。名剥ぎ機の刃が砕け、管の中で願火が逆流する。刻まれた灰札が灰になり、その灰が一つずつ持ち主の火へまとわりついた。
全部ではない。名が完全に失われた者もいる。混ざりすぎて戻れない声もある。
それでも、千の声の中から名前が上がる。
『エナ』
『バルド』
『ソマ』
ノエの体を引いていた白い糸がほどけた。腕輪の二つ目の空所に、青い光が灯る。
彼女は床へ手をつき、大きく息を吸った。
「静かに、なりました」
「消えたのか」
「いいえ。自分の名前で泣いています」
それなら、今はいい。
俺はその場へ尻をついた。指が震え、紙片をうまく拾えない。花冠の手触りが消えたことを思い出し、今度は止めずに泣いた。
ノエが隣へ座る。何も言わず、俺の手を握った。
「終わった気になるな」
ガランが言った。
根の階段から、金属の靴音がそろって降りてくる。市場の衛兵とは違う。銀の外套をまとった近衛兵が工房を囲んだ。
その中央を、若い男が歩いてくる。
深い青の髪。白い軍装。二十代半ばにしか見えないが、胸には王家の七星章がある。
男は砕けた名剥ぎ機と、泣く人々と、ノエを順に見た。最後に俺の前で止まる。
「カイ・リュゼだな」
逃げ道は近衛兵に塞がれている。ガランは剣を構えたまま、男へ頭を下げなかった。
「第一王子セイン殿下だ」
「紹介は不要だ、ガラン。君が命令を三つ破った報告も届いている」
王子は俺へ視線を戻す。
「墓守。君の姉、リナ・リュゼに会わせよう」
心臓が跳ねた。
「その代わり、白炉の器を私へ渡してほしい」
セインはノエを物の名で呼んだ。
けれど俺の頭へ最初に浮かんだのは、怒りではなかった。
姉ちゃんに会える、だった。