灰灯の墓守は死者の願いを燃やせない 作:灰を拾う旅人
姉ちゃんが四百十二人を殺した。
その言葉は、眠っても頭から出ていかなかった。
工房を出た俺たちは、樹都の共同宿へ隠れた。ガランが灰衣時代に使っていた連絡先らしく、主人は片目で俺たちを見ただけで屋根裏を貸した。床は傾き、毛布は干した茸の匂いがする。眠るには十分だった。
十分なはずなのに、目を閉じるたび灰雨の日へ戻る。
八年前、空が白く燃えた。村へ降った灰。みんなに裏切り者の妹と呼ばれた姉ちゃん。俺だけは、姉ちゃんが理由もなく人を殺すはずがないと信じた。
理由があれば、四百十二人を死なせてもいいのか。
答えは出ない。問いを転がし続けると、自分に都合のいい形へ丸くなりそうで怖かった。
「眠れませんか」
隣の毛布からノエの声がした。
「起きてたのか」
「あなたが十二回寝返りました」
「数えるな」
「十一回目までは眠ろうとしました」
暗がりで少し笑いかけ、すぐ胸が痛んだ。まただ。笑ってはいけない気がする。
「四百十二人、全員に家族がいた」
「はい」
「姉ちゃんにも理由があったはずだ」
「はい」
「どっちか否定してくれ」
「できません」
ノエは毛布から起き上がる。窓の隙間から願火瓶の青い光が入り、横顔だけを照らした。
「理由を知ることと、死んだ人を減らすことは違います。リナさんを愛していることと、怒らないことも違うと思います」
「千人のうち誰の言葉だ」
「私です」
迷わなかった。
「たぶん」とつけないノエの言葉を、初めて聞いた気がする。
俺は毛布を鼻まで引き上げた。乾いた茸の匂いが強くなる。
「明日、契約書を公開する」
「話が変わりました」
「今夜は答えが出ない。なら、明日できることをする」
姉ちゃんの真実は追う。でも姉ちゃんのことで頭をいっぱいにして、目の前の名を置き去りにはしない。
「おやすみ、ノエ」
「おやすみなさい、カイ」
十三回目の寝返りで、俺はようやく眠った。
*
翌朝、樹都の中央市場には千人近くが集まっていた。
吊り橋の下へ、緑冠商会から押収された契約書が並べられている。セインは近衛兵を使って隠さず公開した。工房長と商会主は拘束され、願火の売買は調査が終わるまで停止。王家に都合の悪い葬務院認可まで、布で隠さず読み上げさせている。
「あの王子、本当にやるな」
俺が言うと、ガランは腕を組んだ。
「国を守るためなら、王家の面子も燃料にする」
「褒めてるのか」
「警戒している。正しい人間は、間違えた時も止まりにくい」
お前が言うと重い、と返しかけてやめた。ガランが姉ちゃんを逮捕した理由も、まだ聞いていない。
市場では怒号が上がっていた。
「技能だけ売る契約だった!」
「母の名を削るなんて聞いていない!」
「金は使った。今さら返せと言われても無理だ!」
売った遺族にも事情がある。買った者にも、願火の技能で店を続けている者がいる。契約を破棄すれば全部終わる、とはいかない。
俺は中央の台へ上がった。人前で話すのは葬式だけで十分だったが、成り行きで俺が第二の鐘を鳴らしたことまで広まっている。
「静かにしてくれ!」
静かにならない。
ガランが剣を鞘ごと台へ打ちつけた。木が割れそうな音で、ようやく顔がこちらを向く。
「壊すなよ。借り物だぞ」
「話せ」
無茶をする役が逆だ。
「俺はエンデ村の墓守、カイ・リュゼだ。願火の売買を全部悪だと言うつもりはない。冬を越すために売った人もいる。死んだ家族が望んで、技能を継がせた家もある」
何人かが顔を上げる。
「でも、名前まで捨てると知って選んだ人は、ここにどれだけいる」
手は上がらなかった。
「契約をそのまま続ける人も、解いて弔い直す人も、自分で決めてくれ。ただし、死者の名と、願いがどう使われるかを知った上でだ」
「死者に聞けるのか!」
群衆の男が叫ぶ。
「全員は無理だ。声が残っている人もいれば、もう聞こえない人もいる。だから俺だけを正解にするな。生きていた時の言葉を知ってる家族で話してくれ」
また一人で決めそうになる自分へ、先に言った。
最初に台へ来たのは、夢見香の客だった男だ。昨夜、父親の幸福を他人のものと知らず吸っていた。
「グレイ・セルドの瓶を、妻へ返したい。代金は請求しない」
次に、痩せた女が出た。
「夫の鍛冶技能は売ったままにします。あの人が、弟子へ残すと言っていたから。でも名前を戻して、使うたび呼んでほしい」
選択が続く。
弔い直す者。契約を結び直す者。願火を手元へ戻さず、その場で空へ送る者。売った金を返せず泣く者には、買い手が返金を求めないこともあった。逆に、嘘を知りながら安く買った商人は、市民に囲まれて逃げた。
きれいには終わらない。
それでいい。全員が同じ答えを選ぶ鐘ではない。
名前を取り戻した願火の一部は、セインが用意した仮設炉へ入った。名を剥がさず、遺族が交代で呼びかける。その火は弱いが、根から枝へ広がり、市壁の結界を青く染めた。
「三日よりは延びるのか」
俺がセインへ聞く。
「計算上は九日。市民が呼びかけを続ければ十二日」
「その間に次を作れる?」
「作る。君に心配される筋合いはない」
徹夜したらしく、王子の目の下には薄い影がある。嫌な奴だが、嘘はついていない。
「ありがとう」
「礼を言う前に、君は王国の炉を二つ壊した自覚を持て」
「安全に止めた」
「予告なしにな」
「次は手紙を出す」
「届く前に鳴らす顔をしている」
否定できない。
セインは一枚の通行証を差し出した。樹都から東、水都ラトまでの王路を通れる仮証だ。
「三日間の猶予と言った」
「十二日へ延びただろ」
「私の気が長くなったわけではない。次の鐘で何を変えるか見せろ」
受け取る。王家の印がついている。罠かもしれないが、門で懸賞首の顔を見られるよりましだ。
「姉ちゃんの記録を見せてくれ」
「王都へ来い。公開記録なら自分で読める」
「逃げるな」
「君も、姉の罪から逃げるな」
言い返せなかった。
昼過ぎ、契約書の山からティルが叫んだ。
「あった!」
ユアン・レクの担保契約。母の記憶、弟の記憶、運搬技能。三つに分けられ、それぞれ別の保管先へ移送された記録がある。
「本人は水都ラト、葬務院記憶庫へ移送」
ティルの指が文字をなぞる。
「記憶担保の長期保管対象……なんで人間まで倉庫へ送るんだよ」
記憶を抜きすぎれば、本人が契約内容を忘れる。逃亡防止という名目で、体ごと保管するらしい。
「第三の鐘も水都にある」
ガランが帳面の地図を開いた。
「行き先は同じだ」
ティルが俺の前へ立つ。
「連れてけ」
「嫌だ」
「即答すんな!」
「盗む、嘘をつく、言うことを聞かない。旅へ連れていきたい要素がない」
「道を知ってる!」
「一番から三番へ落ちる道案内は間に合ってる」
ティルは母親の灰札を握った。
「兄貴を助けたい。今度は、俺がやったことも全部話す。殴られても、忘れられてても」
怖いのだろう。兄が自分を覚えていないことより、覚えていて許さないことが。
「自分で話せ。俺は代わりに謝らない」
「分かってる」
「盗んだら置いていく」
「分かった」
「嘘をついたら」
「置いていく」
「俺のパンを笑ったら」
「それは無理だろ」
「置いていく」
ノエが横で小さく肩を揺らした。こいつも笑っている。
「四人目だ」
ガランが言う。
「あんた、自分を仲間へ数えてたのか」
「監視対象の数だ」
「素直じゃねえな、おっさん」
「ティル、今すぐ置いていくぞ」
荷をまとめ、夕方には樹都の東門へ向かった。吊り橋を渡る途中、俺はノエを呼び止める。
王子の取引を断った。それで話を終わらせてはいけない。俺が守ると決め、ノエは黙ってついてくる。それも形を変えた檻になる。
「ノエ。水都へ行けば、またお前の中の声が苦しむかもしれない。王都へ近づけば、暁炉へ戻される危険も増える」
「はい」
「俺から離れたいなら、今でもいい。セインのところへ行く以外にも、樹都へ残れる。願火を名づけ直す人たちは、お前を受け入れると思う」
言うほど胸が冷える。残ってほしい。焦げたパンを食べる顔も、俺より正しい質問も、これから先で見たい。
でも、それは俺の願いだ。
「俺は姉ちゃんを助けるために、お前を値踏みした。次はしないと約束しても、信じろとは言えない。だから、お前が選んでくれ」
ノエは樹都を振り返った。青い瓶の光。名前を読む市民。地上まで伸びた大樹の根。
長い沈黙の間、俺は答えを急かさなかった。
やがてノエは俺のほうへ向く。
「私は、焦げたパンをもう一度食べたいです」
「それなら樹都のパン屋のほうがうまい」
「あなたが焼いたものがいいです」
胸の奥へ、熱いものが広がる。
「味覚がおかしいんじゃないか」
「それを確かめるためにも」
ノエは自分の足で、東門の外へ一歩踏み出した。
「私は、あなたと一緒に行きたいです」
俺は泣いた。
今回は、嬉しいからだと間違えずに分かった。